ユダの場合

文字数 3,100文字

 再訪した私を、カヤパは笑顔で受け入れました。けれどそれはすでに「祭司長」の顔ではなく、邪魔者を排除する為に敵にまで媚びを売ろうとする俗人の笑顔でした。
 私は一目で偽物と分かる男に、先生を売り渡していいものか一瞬躊躇しました。いっそピラト様の元に直訴した方が良かったのではないかと思いました。でも、それ
は微々たる違いに過ぎないと思い直しました。
 「で、あの男は今夜どこにいるのだね」
 カヤパが猫なで声で言いました。
 「先生は食事の後、オリーブ山に祈りに行かれます。弟子達も連れて行きます。ゲッセマネの園で見張っていれば、やってくるでしょう」
 「では今から向かおう」
 「待って下さい」
 私はふと考えを変えて、カヤパを制しました。
 「祭司長様、願わくば朝まで待って頂く事はできませんでしょうか」
 「……何故?」
 カヤパの瞳が怪しく光りました。私が怖気づいたと思ったのでしょうか。それとも時間を稼いで、企みを先生の元に告げようとしていると勘違いしたのかもしれません。今更になって気が変わったのかもしれない、と。浅はかなことよ。この期に及んで気が変わるのなら、最初からこんな企みなどしない。
 「先生に祈りを献げて欲しいのです。できれば最後まで」
 「待ってやることに、どんな価値があるのだ?」
 「先生はいつも祈りに大変な時間をかけ、体力を使います。祈り終わると倒れ込むように椅子に深く腰掛け、しばらくは口もきけなくなる程です。ですから、今夜も祈りの後に捕らえれば、大した抵抗もなく速やかに事が運ぶと思ったものですから」
 「ふむ」
 カヤパは大きく肯くと
 「それは名案だ。……で、イエスの祈りは長いのか」
 「はい。大抵朝方まで」
 「では、夜明け前に向かうことにしよう。こちらもその方が都合が良い。いくら罪人とはいえ、一週間前のお祭り騒ぎを思えば、一目を忍ぶに越したことはないからな」
 カヤパはロバの背に乗って華々しく入城したあの人の姿を思い出したらしく、眉間に皺を寄せると忌々しげに舌打ちをしました。
 かくして、案内人の私も屋敷で待機することになりました。兵隊達も中庭で待機しています。
 カヤパに言ったことは嘘です。全くの出任せでした。
今すぐの逮捕を引き止めた本当の理由は、先生には万全の体制で捕らえられて欲しかったからなのです。
 いつものように祈りを献げ、いつも言っている「天の父」と親密に交わり、力が満ちている状態でなければ、奇跡も起こしにくいと思ったからです。とにかく先生が万全の状態でなければ、私の思惑そのものが狂ってしまいます。
 私はやはりあの人の奇跡を期待しているのです。今すぐにでも向かおうとしたカヤパを止めた時、自分で自分に驚いたくらいなのです。イエスが奇跡を起こしたら、それはそのまま私の破滅につながります。でも、肉体が滅びることよりも、この魂を揺さぶったあの男がペテン師だったと知ることの方が、私は何倍も恐ろしいのです。
 あの男は奇跡を起こすだろうか。窮地に陥ったあの男の為に天が二つに割れ、そこから御使いの群れが現れ、高らかにラッパが鳴り響く。天から父なる神の声がする。
 「イエス・キリストは私の息子である」
 と。先生からは後光がさして、地響きと共にピラトの城が砕け散る。バベルの塔が一瞬で砕かれたように。ソドムとゴモラが滅ぼされたように。それは一瞬にして起こる。
 ピラトもヘロデもカヤパも律法学者もファリサイ派の面々も、皆消滅する。先生は天使達と共に天に上り、群集は大地にひれ伏す。天も地も光に包まれて、そこに大きな神の城が現れる。
 兼ねてから望んでいたように、ペトロは大臣になるやもしれない。マルタとマリアも城で働くようになるだろう。ベロニカも呼ばれるかもしれない。ヨハネやヤコブも役職につくだろう。かつての十二使徒は十一使徒となってお城で栄華を極める。私は「裏切り者」の誹りを受けて貶められる。
 けれどこのたった一人の使徒がいたから、誰よりも先生の力を信じて、先生を王にしたいと願ったユダがいたから、それらの奇跡が起きたのだと、きっといつか誰かが気づくはずなのだ。種を蒔いたのは誰なのか、ということに。
 私は微笑んで死にたい。例えこの体が引き裂かれようとも、満足な表情を浮かべて死にたい。その為には先生、どうしてもあなたには奇跡を起こして貰わないと困るのです。
 先生、今宵充分お祈り下さい。ゲッセマネの園で。私は何としてでもあなたの祈りの時間をお守りします。カヤパなどに手出しをさせてなるものか。
 充分力を蓄えて、私にかかってきなさい。受けとめて差し上げましょう。
 時が来て私達はオリーブ山へ向かいました。ゲッセマネの園の前に先生は立っていました。まるで私達が行くのを予期していたように、十一人の弟子達を従えてこちらを向いていました。
 私はまずカヤパの耳元で、告発の手順を確認しました。
 「私が接吻するのがその人です。捕まえて下さい」
 カヤパは先生から目を反らさず肯きました。まるでネズミを狙う猫のような目です。この男は先生をいたぶりたくて堪らないのだと思いました。
 ペトロがマヌケ面でこちらを見ています。愚かな男よ。一番弟子を気取っていたが、お前の大切な先生の身にこれから何が起ころうとしているのか、未だお前は分かっていないのだろう。
 私は先生に向かってまっすぐ足を進めました。一歩、二歩、三歩……。
 あの人の正面に立ち、まっすぐその顔を見ました。先生は静かな眼差しで私をご覧になりました。
 「先生……」
 呼びかけると、先生は口元を綻ばせました。
 「……こんばんは」
 唇を近づけると、微かに顔を動かし、その頬を私の前に差し出しました。手に触れた先生の衣はじっとりと湿っておりました。まるで大量の汗を流したようでした。唇の先に触れた頬は、驚くほど冷たくそして乾いておりました。
 その時です。私の中に先生の思いが流れこんできました。唇でもてのひらでも、鼻でもなく目でもありません。魂が先生の思いを感じ取ったのです。
 ―― 先生、あなたは……。
 私は先生の瞳の奥を凝視しました。
 ―― あなたは、まだ私を愛しておられるのですか?
 先生は心の声に反応するように、一回だけ瞬きしました。頭の天辺から足の先に向かって血の気が引いていくのを感じました。よもや一時でも先生を見ていることができなくなりました。
 兵士の一人が背後から現れると、先生に縄をかけようと腕を伸ばしました。その時です。ペトロが剣を振りかざして突っ込んできました。奴が振り下ろした剣の先が兵士の耳を落としました。
 先生はゆっくりしゃがむと、落ちた耳を拾いました。そして倒れている兵士の元に行き、傷口にその肉片を当てられました。目を閉じ、傷口を両手で包み込むようにして祈り始めました。すると手の中から小さな光りがさして、あれほど流れていた血がたちまち止まったのです。苦悶に歪んでいた兵士の顔が穏やかになり、ゆっくり目が開きました。そして先生が手を離すと、切り落ちたはずの耳は何事もなかったようにくっついていたのです。
 ―― これが先生の、最後の奇跡に違いない。
 私は直感しました。先生は多分、皇帝の前で何の弁明もしないおつもりなのです。
 別の兵隊が先生の腕を掴み縄をかけました。そしてそのまま引きずられるように、どんどん私から遠ざかって行きます。
 思わず私は背を向けました。一刻も早く、先生から離れたいと思ったのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み