ペトロの場合

文字数 1,500文字

 なぜロバだったんだろう。
 エルサレムに入城された時のことを考えると、本当に俺は不思議なんだ。
 先生は
 「この先につながれている子ロバがいるからつれておいで」
 と弟子の一人に命じられた。俺は半信半疑でいたけれど、奴は本当に子ロバを一匹連れてきた。
 「さあ行こう」
 先生は満足そうに微笑まれた。さすがの俺も慌てたよ。だってみっともないじゃないか。エルサレムでは人々が先生を待ってるんだ。シュロの葉を手に待ち構えているんだ。先生の姿を見たら、歓声が上がるだろう。数え切れない人で埋め尽くされた道を先生は凱旋される。
 その時の乗り物がロバだって?
 馬ではなくて?
 ロバ?
 しかも子ロバ?
 悪い冗談ですよ、先生。おやめなさい、みっともないです。恥をかきますよ。
 止めようとした正にその時、ロバがよ、俺の方を見たんだ。
 ロバの目っていうのは、どうしてあんなに悲しげなんだろう。潤んだ目で俺を見やがったんだ。だから喉元まで出かけた声が引っ込んじまった。
 先生はやさしくロバの首をなぜると、ゆっくりとその背にまたがりなさった。ロバは少しよろめいたけど、すぐに重さになれて進み始めた。ゆっくり、ゆっくり。
 先生はまるで波の上に浮かぶみたいに、揺れてなすった。
 その時、俺は一瞬、幻を見た気がしたんだ。笑わないでくれよな。俺さ、あの惨めな子ロバと自分が重なって見えたんだ。
 魚を漁ることしか能のない、無学な俺は、ファリサイ人や学者達の目から見れば、惨めで汚い子ロバ同然さ。
 弟子達の中で見ても、頭の良い奴や立派な仕事を持っていた奴がいくらでもいる。体を使うこと以外能のない俺は、時々自分が惨めで情けなくて、
 「本当に、先生のお弟子でいていいんだろうか」
 って悩むこともあったんだ。

 あの日ガリラヤの湖畔で、どうして先生が俺に目をとめてくれたのか、今の今でも分からない。でも確かに先生はこの「俺」に目をとめて下さった。名前を呼んで下さった。「ペトロ」とあだ名までつけてくれて、一緒に行こうと言って下さったんだ。
 人生に夢も希望も無くて、それでも「何か」に焦がれてやまなかった俺を選んでくれた。今日、あの子ロバを選んだように。先生はこの俺を選んで下さった。
 そうなんだよな。先生の目っていうのは、時々不思議な物の見方をする。俺達には想像もできないような千里眼で、人の心の奥底を、物事の本質を、あっという間に見ぬいてしまう。そして
 「見るということは、こういうことだよ」
 と示して下さるんだ。
 なあ先生、やっぱり俺はロバだな。馬じゃねえ、ロバだ。でも俺はロバで良かったと思うよ。ロバだから先生に目をかけて貰えたんだ。
 それにしても、あのエルサレムの歓声は忘れられない。数え切れないほどの群衆で道路が埋め尽くされたんだ。みんな口々に叫んでいた。
 「ホサナ! ホサナ!」
 「ダビデの子に栄光あれ!」
 俺は感動で天に向かって叫びたい心境だった。いや、実際叫んじまったよ。目からは涙が溢れた。
 この日をずっと待っていたんだ。この日の為に旅をしてきたんだ。多くの人々に会って、彼らの悲しみや苦しみを背負いながら旅を続けてきたのはこの為だったんだ。
 今から先生が特別大きな奇跡を起こされる。これからはもう、苦しみも悩みもない。死も滅びもない。天国がこの地に建設される。幸せだけで世界が包まれる。先生がそれをなされるんだ。
 先生こそ真実の王だ。救い主だ。

 俺は男泣きに泣いた。胸は希望と誇らしさではちきれそうだった。先生についてきて、良かったと心から思っていたんだ。
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