ペトロの場合

文字数 1,265文字

 初めてあのお方の奇跡を目にしたのは、ガリラヤの海だった。俺とアンデレは一晩中漁に出ていて、一匹の魚も捕れずヘトヘトになって戻ってきたんだ。岸にようやく上がったところに先生が来て
 「もう一度出てごらん」
 と言いなさった。俺は腰が抜けそうになったよ。
 「先生、あたなは大工の家のお子さんだそうですね。だからまあ、分からないのかもしれませんけれど、漁ってやつは気紛れでね、捕れない時にはいくら網を放りこんだところで無駄なんでさあ。一晩やってみてダメだったんですから、もう今日は勘弁して下さいよ」
 でも先生は諦めなかった。
 「いいからもう一度出てごらん。騙されたと思って、網を下ろしてごらん」
 静かだけれど有無を言わせぬ口調でおっしゃった。
 実は先生には恩義があったんだ。前の日に女房のお袋さんの病気を癒してもらった。だから無碍に断ることは出来ないと思った。
 よっしゃ、俺も男だ。
 「お言葉ですからねえ、やってみましょうか」
 そう言ってもう一度漁に出た。体は鉛のように重かった。本当は一刻でも早く家に帰って眠りたかったよ。
 ところがどうだろう。網を降ろすか降ろさないかのうちに、次々と魚が入ってくるんだ。たちまち網ははちきれそうになった。大量は尽きることなく続いた。何度も何度も網を降ろした。近くに浮かんでいた仲間達もみんな呼んだ。どの船も魚で沈みそうになった。長い漁師生活でこんなことは初めてだった。
 陸に上がると先生はまだそこにいなさった。そのお姿を見た時、俺の膝が震え出した。まともに立っていることができないくらいだった。俺は心の底から恥ずかしかったんだ。
 ―― あたなは大工の家のお子さんだそうですね。だからまあ、分からないのかもしれませんけれど……。
 愚かなことを言っちまったもんだ。あのお方は間違い無く神の子だ。そのお方をつかまえて、何て失礼なことを言っちまったんだろう。俺は立ってられないくらい恥ずかしかったんだ。
 「先生、お願いです。俺から離れて下さい。俺は本当に罪深い者なんです」
 湖畔の砂利にひれ伏した。先生はそれでも俺のそばから動かなかった。恐る恐る顔を上げると、先生は目を大きく見開かれた。まるで吸い込まれそうな眼差しだったよ。それからゆっくりと口を開きなさったんだ。
 「私についてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」
 不思議な言葉だった。てのひらにはまだ、恐ろしい程の網の重さが残っている。
 ―― 人間をとる漁師って何だろう。
 俺は無学でバカな人間だけれど、あのお方が特別な存在だということだけは分かる。
 貧しさや苦しみや差別のない、平和に満ちた楽園がきっといつかこの世に現れる。いにしえの聖書の教えを諳んじて今日まで来た。ずっと求めていたものが、このお方によって実現されるかもしれない。いや、間違い無い、このお方こそ間違いなく、待ち望んでいた奇跡を成し遂げる救い主なんだ。
 俺は全てを置いて先生に従う覚悟ができた。弟のアンデレと一緒に弟子になったんだ。
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