ペトロの場合

文字数 1,368文字

 考えてみれば俺は本当に先生の奇跡に立ち合わせて貰うことが多かった。いつでも目の前でそれは起きた。一番心に残っているのはベトサイダの町での出来事だろうか。先生は生まれながら目の見えない人をお癒しになった。
 あの時ユダが訊いたんだ。
 「先生、この者の目が見えないのは誰が罪を犯したからですか? 本人ですか、それとも両親ですか?」
 ユダはさすがに頭がキレると思ったさ。俺は盲目と罪とを結びつけることすらしなかった。ただ目の前にいる人を憐れみの目で見ることしかできなかった。先生はユダにこう答えた。
 「本人でも、両親でもない。神の業がこの人に現れる為なのだよ」
 俺は胸が弾んだ。今から先生の奇跡を見ることができる、先生はこれから不思議な業を行なおうとしていると思ったからだ。
 先生は足元の土を拾ってご自身の唾で練り始めた。俺はその手元から目をそらすことができなかった。先生の唾で練った土。何て清いのだろう。あの土のほんの欠片でも貰うことができたら、ほんの一粒でも手にすることができたら、俺は間違い無く口に放り込んだに違いない。俺はたちまち清められることだろう。
 先生は盲人の両目に清い粘土を塗り付けなさった。そして町外れの池まで行って洗い流すように言ったんだ。
 俺は少し驚いた。というか、こりゃまた随分難題を出しなさったと思ったんだ。いくら盲目とはいえ、顔に泥を塗りたくられた状態で、そうそう町を横切れるものじゃない。みっともないじゃねえか。町中の物笑いになっちまう。その上先生は
 「誰にしてもらったかは言ってはいけないよ」
 とまで命じなすったんだぜ。盲人はあっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら歩いて行くんだ。何の言い訳もできないで。
 俺は一番弟子としてここは手を貸すべきなのかと思った。盲人が哀れに思えたからだ。すぐ後ろを歩いて、笑う奴らに睨みをきかせるべきかと思った。
 だけどさ、すぐにそんな考えは浅はかだって気づいたよ。何故って盲人の顔が、素晴らしく嬉しそうだったからなんだ。泥だらけでよう、みっともないのによう、輝いてやがるんだよ。ありゃあ、自分の身にこれから何が起こるのか分かってたのかもしれないな。目が見えない分、心の目が開かれていたんだろうな。
 きっと救い主に会えるのを待っていたんだ、人生の全てをかけて。そうでなきゃ、あんな風に信じられるもんじゃない。
 あの人は、よろよろしてはいたけれどしっかりした足取りで池に向かったよ。思った通り町人が指差して笑っていたけれど、全く動じていなかった。むしろ誇らしげだった。俺はその背中をしばらく見ていた。
 結局、すぐに町を後にしたから、奇跡の結果を見届けることはできなかった。後から風の噂で聞いたんだ。ベトサイダの盲人の目が開かれた、どうしてだかは分からない、誰がそうしたのかも分からない、という噂を。
 俺はあの日のことが忘れられない。奇跡っていうのはさ、目撃したから感動するってもんじゃない。いやむしろ、目で見たことは忘れてしまう。でも心で見たことは忘れない。あの日俺が見たのは、そういう奇跡だった。
 俺は自分の不信心を恥じた。心から恥じた。そしてますます先生に従って行きたいと思ったんだ。先生ならきっと、俺の盲た心を開いてくれると思ったんだ。
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