ユダの場合

文字数 1,814文字

 マリヤが高価な香油を持ってきました。そしてあの人の足を洗い始めました。長旅の疲れで誰の足もみな棒のようになっていました。香りの良い温かい油に足を浸すと骨の芯から疲れが抜けていくのです。
 私はそっとあの男の様子を伺いました。壷から漂ってくる芳ばしさは、相当高価な油であることの証しです。私はよもやあの男はそれを受けはしないだろうと思っていました。しかし受けたのです。私の目の前で。
 マリヤが足を洗っている間中、あの男は俗人並みの表情を浮かべていました。いったい何に満足しているのか。群集に歓迎されたエルサレムへの入城か。威張り腐っているファリサイ派や律法学者を頭ごなしに叱責したことか。美しい娼婦に涙で足を洗われたことか。それとも、高価な油を惜しげもなく捧げられているという今のこの状況にか。
 私はたまらず物を申しました。さすがに先生には言えませんでしたので、マリヤに向かって言いました。
 「なんてもったいないことをするのだ。この油を売れば、三百デナリにはなったはずなのに」
 マリヤは私の剣幕に仰け反り目を見開きました。言われるまで全く気づかなかったという表情です。なんて愚かな……。ところがあの男は、女を庇うかのようにこう言いました。
 「いいのだよ。この女は私の葬りのためにこうしてくれているんだからね」
 私は耳を疑いました。今「葬り」と言ったのですか? あなたは「死」を意識して、今を生きているというのですか?
 ふざけるのもいい加減にしろ。エルサレムに入ってから重ねてきた傍若無人な振る舞いの根拠がそれか。死も覚悟の上で好き勝手をしたというのか。もしそうだとするのなら、お前は私達弟子をどう思っているのか。
 楽園を築くというお前の言葉を信じて、故郷を、職業を、暮らしを棄てて長い旅路を共に来たのだ。どれほどの苦労をしたか、お前に分かるか。どれほどの葛藤があったかお前に分かるか。誇大な夢を披露して、高尚な思想をばら撒いて、私達をその野望に巻き込んで、今更「葬り」とは何だ?
 私は何だか悲しくてたまらなくなりました。先生のことが全く分からなくなってしまったのです。きっとあの男はとことん自身に甘いのだ。そして会計番として奔走してきたこの私の苦労など、欠片も思いやろうとはしないのだと、心底悟ったのです。
 そうなったらもう私は、あの男と同じ部屋にいることすら耐えられなくなりました。
 先生、あなたは変わってしまわれた。いや、そうではない。前からそういうお方だったのに、私が見ぬけずにいただけかもしれない。けれど確かに初めて会った時、私の心に燃えたものがあった。あれは真実でした。
 葛藤は惨めさを生むだけでした。私は部屋を飛び出しました。
 町をさ迷ううちに、あの男を殺そうという計画が持ち上がっていることを知りました。先生、あなたはやはりやりすぎたのです。多くの有識者が「このままではいけない」と焦りの気持ちを強めているようでした。先生はきっとそのことを耳にして、殆ど諦めの境地で「葬り」などと言ったのかもしれませんね。
 ―― 死んでもいいのですか?
  ふと問いたくなりました。
 ―― そうなってもあなたは後悔しないのですか?

 志半ばにして、己の心の弱さから挫折してしまう例はいくらでもある。あの人がその程度の器であったとしても仕方がないのかもしれない。けれど私は確かめたくなってきたのです。最後の最後にもう一度。確かに一度は私の魂に触れて揺さぶったあのイエス・キリストというお方の真価を。神の子の真実の力を。

 気がついたら祭司長カヤパの元に向かっていました。彼は私が訪ねて行ったことに面食らっているようでした。
 「あの男をあなた達に引き渡せば、幾らくれますか?」
 正直値段なんてどうでもいいことでした。金銭の話しを前面に出したのは、私の真意をやつらに知られたくなかったからにすぎません。それに単純に、金銭に置き換えたあの人の価値を知りたい気もしました。
 「銀貨三十枚をあげよう」
 カヤパは答えました。
 先生、聞きましたか。銀貨三十ですって。あなたの値段はやつらにとってはたった銀貨三十ですって。随分、安く見られたものですね。
 その価値が正しいか正しくないか、よもや私には分かりません。けれどやはり残念ですよ。私はせめてあなたには「銀」ではなく「金」であって欲しかったのです。
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