ペトロの場合

文字数 3,469文字

 食事が終わると先生は
 「祈りに行こう」
 とオリーブ山に向かった。これはいつもの習慣だ。先生は俺達十一人を園の下に待たせると
 「誘惑に陥らないように祈りなさい」
 と言い残し、一人ゲッセマネの園に入っていかれた。俺達はしばらく祈っていた。これから先のことについてだ。どうぞ天上の楽園が一日も早くできますようにと、先生を中心とした聖なる王国が一日も早くできますようにと、必死になって祈った。でもさすがに体がヘトヘトだった。エルサレムに入ってからこっち、精神の高ぶりもあったし、入れ替わり立ち代り、色々な人が訪ねて来るので、俺達も相手をしなければならなかったり、気苦労も多かったんだ。
 それでついウトウトとしちまった。先生の祈りは途方もなく長くて、待ってるだけでも精一杯なんだ。他のやつらも一人また一人と地面に横になって鼾をかきはじめた。俺もアンデレの隣りに身を横たえた。まるで誰かが瞼を押えているのではないかと思うぐらい、重くて重くて、一旦閉じたらもう二度と開けなくなっちまった。

 「立ちなさい。さあ、行こう」
 先生の声がして飛び起きた。先生はすぐそばに立っていた。髪の毛も首筋も、まるで雨に打たれたかのように汗でびっしょりだった。
 「見てごらん。私を裏切る者が来たよ」
 先生が目を向けた先には、カヤパと兵隊とイスカリオテのユダがいた。俺は一瞬目の前の光景が信じられなかった。ユダはいったい全体どうしてあんなやつらと一緒にいるんだろう。
 「おい、あいつ、捕らえられたのか」
 そばにいたアンデレに小声で問い掛けた。アンデレは真っ青な顔をしたまま、首を横に振った。ユダは何事かカヤパの耳元で囁くと、まっすぐ俺達に向かって進んできた。
 奴は先生の前に立つと
 「先生、こんばんは」
 と言って、その頬に接吻をした。先生はまんじりとも動かなかった。
 どう考えてもやつらは先生をとっ捕まえに来たんだ。確かに間違いなくそうであるのに、俺は一瞬そうではないような気がした。俺のところからは、先生の背中しか見えない。でもユダの顔は見えた。あいつは化け物でも見たように目を開くと、口を少し開けて何かを言おうとした。青かった顔が白くなった。開ききった目はすがるような色を帯びたが、すぐに先生から反らしてしまった。
 ユダが先生の元を離れるのと、兵士が先生の腕を掴むのとほぼ同時だった。俺は頭に血が上った。
 「この野郎、何しやがるんだ」
 気がついたら剣で兵士に切りかかっていた。
 今夜先生は、俺達が武器を持つことを許してくれたんだ。
 「財布のある者は持って行きなさい。袋も持ちなさい。剣の無い者は服を売ってでも買いなさい」
 俺は先生に言った。
 「先生、剣ならここにあります」
 こっそり持っていたんだ。それまでは先生は俺達が武器を持つことを決して許して下さらなかった。でも俺は先生に万が一のことがあるといけないから、隠れて持っていた。先生は少し苦笑いを浮かべてから「それで良い」 と肯かれた。
 
 兵士は先生とほぼ重なる形で立っていたので、刺しかかるのは無理だった。俺は両手に鞘を握りしめ頭上高く振りかざすと、力いっぱい振り下ろした。兵士は素早く避けたが、切っ先がこめかみに当たり、そのまま片耳を根本から切り落とした。傷口からは血が吹き出し、兵士は断末魔の悲鳴と共に地面に倒れ込み、悶絶した。
 先生はゆっくりしゃがむと、落ちた耳を拾った。そして倒れている兵士の元に行き、傷口にその肉片を当てられた。目を閉じ、傷口を両手で包み込むようにして祈り始めた。手の中から小さな光りがさして、あれほど流れていた血がたちまち止まった。苦悶に歪んでいた兵士の顔が穏やかになっていく。ゆっくり目が開いた。先生が手を離すと、切り落ちたはずの耳は何事もなかったようにくっついていた。
 別の兵隊が先生の腕を掴み縄をかけた。先生は引きずられるようにして俺達の元から離れて行った。大勢の兵士達に取り囲まれ先生の姿が見えなくなってしまう、と。
 思わず俺は駆け出した。先生の後を夢中で追ったんだ。

 「先生!」
 声を限りに叫んだけれど、先生は振りかえらなかった。白いお衣だけが、兵士達の鎧の間から時折見えるだけだった。
 「先生……」
 俺はずっと離れてついていった。他の弟子達がどうなったか分からない。俺の目には先生の白いお衣しか見えなかった。あれを見失ってはいけない、何としてでも見失ってはいけない。その一心で後をつけたんだ。

 先生はカヤパの屋敷に連れ込まれた。俺もこっそり中に忍びこんだ。庭の中央には大きな焚き火が焚かれていて、既に人々が集まってきていた。夜明け前の大騒ぎに、皆目が覚めてしまったのだろう。そして兵隊達が捕らえたのが、あのイエス・キリストと知って、ことの成行きを見守りにカヤパの庭に集まってきているのだ。
 「やっぱりな怪しいと思ったぜ」
 「神の子だなんて言って、あれは全部嘘だったんだな」
 「俺達をペテンにかけて、献金をぶんどる気だったんだぜ」
 「それだけじゃないよ。皇帝を非難して、先生達を相手に散々偉そうなことを言ったんだ。ありゃあ、背信の罪だ」
 「でも祭司長様はさすがだ。見過ごされなかったのだな」
 「あいつは処刑されるな」
 「ああ、間違い無いさ」
 俺は火を囲む人々の輪の中に身を置いて、やつらの陰口を聞いていた。本当は一緒にいるのもいやだった。でも離れて立っていると目立つんだ。だから仕方なく輪に入った。それに明け方の冷え込みは厳しかった。
 体中の震えが止まらない。どんなに火に近づいても手をかざしても、歯の根が合わず音を立てる。腰にも膝にも力が入らない。座り込んで膝を抱えて、両腕の中に顔をすっぽり埋めると、頭の中には最後に見た先生のお衣が白く浮かび上がる。
 怖くて、怖くてたまらなかった。先生は極悪人にされている。このまま放っておいたら、本当に処刑されちまう。何とかしないといけない。
 そう思いながら、俺はさっき耳を切り落とした兵士のことを考える。カヤパは俺を見ていた。それにユダが「あれはペトロだ」とちくるかもしれねえ。先生の裁判が終わったら、次は俺のところに兵達が来るかもしれない。
 でも先生は御業をもって耳を癒されたから、俺はお咎めなしかもしれない。いや、待てよ。有罪者の弟子は皆有罪だ。耳を切り落とそうが、落とさなかろうが、関係なく有罪だ。逮捕の手が伸びてくるに違いない。
 頭が痛くなってきた。俺は顔をあげると、焚き火をじっと見た。瞳が焼けるように熱い。不甲斐ない俺のせいで、腕に縄をかけられ引きずられて行った先生。目を閉じても、あのお姿が浮かんでくる。
 炎よ、俺の瞳の中から、あの悲しい景色を燃やしてしまってくれ。
 その時、背後から女の声がした。
 「ちょっとこの人、イエスと一緒にいたんじゃない?」
 「何言ってんだ。知らねえよ」
 俺は夢中で声を張り上げた。心臓が激しく打った。目が回って女の顔をまともに見ることもできない程だった。
 少し呼吸が落ちついてきたら、今度は別の男が
 「お前、やっぱりあの連中の仲間だろう」
 と言ってきやがった。
 「いや、違う。そうじゃない」
 今度は幾分落ちついて否定することができた。
 夜明けが近づいてきたので、そろそろこの庭を出ようかと考えていると、また別の男が近づいてきて
 「確かにお前、あの男と一緒にいたよな。大体お前の言葉はガリラヤ訛があるじゃないか」
 とわざと周りに聞こえるような声で言った。言葉のことまで言われて、俺はもうダメだと思った。極力訛を出さないように気をつけながら
 「あなたの言っていることが分かりませんねえ」
 と言った。その時だった。鶏が鳴いたんだ。朝焼けを受けて、高らかに時を知らせた。
 俺は我に返った。先生が昨夜おっしゃったことを思い出した。俺が今日、鶏が鳴く前に、三度先生のことを裏切るという、悲しい予言のことを。
 俺はカヤパの庭を飛び出した。涙が溢れて止まらない。何も見えない、何も聞こえない。先生の声だけが頭の中をグルグル回っている。先生の眼差しだけが脳裏に浮かぶ。
 先生、先生、俺はやっちまった。あなたを知らないと言っちまった。あなたの為なら命も捨てると誓ったのに、すっかり忘れてあなたを裏切っちまった。俺は、あなたを知らないと言いました。三度も。あなたを裏切りました。
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