ペトロの場合

文字数 1,665文字


 女達が騒ぎ出したのは、それから三日目のことだった。墓参りに行ったら先生の墓が空っぽになってるって言いやがるんだ。
 「悪い冗談はやめろ」
 俺は女達を怒鳴りつけた。その時だった。入り口からひょっこり先生が顔を出したんだ。
 俺は息を飲んだ。俺だけじゃない。その場にいた全員が息を飲んだ。
 先生にそっくりのその男は、涼しい顔をして部屋の中央に進むと
 「みんなの上に、平和があるように」
 慈愛に満ちた口調で言った。正に先生そのものだった。
 トマスが突然立ち上がって叫んだ。
 「俺は信じないぞ! 先生は死んだんだ!」
 目に涙をいっぱい溜めていやがる。
 「俺は、絶対に信じないぞ」
 自分に言い聞かすように呟きながら、それでもトマスは一歩一歩、先生にそっくりな男のそばに近づいて行った。
 「本当に先生なら、手に釘の跡があるはずだ。足にもあるはずだ。わき腹にはとどめを刺された時の、槍の穴があるはずだ。その中にこの指を入れてみなければ、絶対に信じないぞ」
 男はゆったりとした微笑を浮かべると
 「指を当ててごらん」
 といって、てのひらを開いて差し出した。トマスは震える指で傷口に触れた。目から涙が幾筋も落ちる。
 「足にも触れてごらん。わき腹にも指を入れてごらん」
 トマスは全てを確かめると、床にひれ伏した。先生はかがんでトマスの背に手を当てられると
 「信じない者ではなく、信じる者になるんだよ」
 と言われた。
 その光景を見ているうちに、俺の膝が震え出しやがった。先生は、裏切り者の俺を断罪するのだろうか。十字架の刑から守ってあげられなかった俺を、三度も裏切ってしまった俺を、今から断罪されるのだろうか。
 ―― 先生、裁いて下さい。あなたの手にかかって死ねるなら本望です。
 俺はその瞬間を待って頭を垂れた。俯いた目に先生の足先が見えた。
 「ヨハネの子シモン、この人達以上に私を愛しているかい?」
 先生は俺の本名を呼んで下さった。
 「はい。先生、俺があなたを愛していることは、誰よりあながたご存知です」
 「私の小羊を飼いなさい」
 先生は静かに言われた。俺が肯くと先生はすぐにまた
 「ヨハネの子シモン、私を愛しているかい?」
 と同じ質問を繰り返された。
 「はい。先生、俺があなたを愛していることは、誰よりあなたがご存知です」
 俺も同じ答えを返した。
 「私の羊の世話をしなさい」
 さっきは小羊を飼えと言ったけれど、今度は羊の世話をしろと言う。先生、意味が分からないぜ。どう違うんだい。
 俺の戸惑いをよそに、先生はまた質問をされた。
 「ヨハネの子シモン、私を愛しているかい?」
 急に悲しくなった。三回も尋ねられるなんて、俺は本当によっぽど信頼が無いんだ。
 「先生。あなたは何もかもご存知です。俺がどんなにあなたを愛してるか、聞くまでもなくご存知でしょう」
 先生は大きく肯かれると
 「私の羊を飼いなさい」
 と言われた。
 「いいかい? 私に従っておいで」
 俺さあ、その時ようやく分かったんだよ。なぜ先生が三度も同じ質問をされたのかってことを。何の事は無い。俺がカヤパの庭で、三回先生を裏切っちまったからなんだよな。だから先生はわざわざ三回も、同じ質問をして下さったんだ。俺の裏切りを、一つ一つ赦す為に。
 先生、あなたが俺にくれた名前は『ペトロ(岩)』です。俺はその名前とは正反対の弱い人間です。だけど先生がそばにいて下さったら、きっと岩になれるでしょう。先生、裏切り者の俺のそばにいて下さい。俺が裏切るたびに今日のように赦して下さい。そしていつか俺を、裏切ることのない岩のような者にして下さい。
 俺を救うも裁くも、あなたの好きにして下さい。

 シモン・ペトロ。お前は裏切り者の長として、これから先未来永劫、イエス・キリストの赦しと慈愛を伝える者となるがいい。
 お前はその為に生まれてきたんだ。
 
 先生、こんな俺ですけど、これからもよろしくお願い致します。



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