散水 (5)

文字数 2,942文字

 食べ終わった器を拭く。サボテンの皮で。
 夏のあいだ手に入る新鮮な食材は、基本的にサボテンの類だ。ありとあらゆる種類があるけれど、サボテンはサボテン。
 とげを取って皮をむき、その皮は乾燥させて、こうして汚れ拭きに使う。拭いたのをもう一度乾かして、今度は焚きつけにする。
 屋根裏の乾燥室にサボテンの皮を持って上がるときは気をつけなくてはならない。室温が四十度を超えていることもあるから、長居は禁物だ。

「夕方、ノパルを採りにいかない?」レイがそっと話しかけてきた。「トゥヤも」
 ごきげんをとられているのが見え見えで面白くない。
 なのに、胸が躍る。
 くやしいから返事してやらない。
「行きたくないか」うつむいて言っている。「じゃあ、留守番し――」
「行きます」

 日中の最高気温は平均して五十度。それが深夜には氷点下に落ちる。
 外出は、日の出と日の入り前後の貴重な数時間にすませなくてはならない。

 村のなかは、つまり建物のなかは、日中は二十五度前後、夜間は十五度前後に保たれている。燃料が貴重だから夜は睡眠に当てるけれど(睡眠と夏眠は違う。不寝番だって夜はふつうに寝る)、酷暑のころは午睡をとることもある。
 夕方出かけるまでどうするつもりだろうと思って、アイシャはレイの部屋をのぞいてみた。いちおう自分は枕をかかえて、いまから昼寝するけどいいですかアピールのスタイルだ。

 レイは円座に座って、壁に向かっていた。
 結跏(けっか)趺坐(ふざ)
 あきらかに寝そうにはないが、とてもじゃないけど声をかけられる雰囲気でもない。

 そろりそろりと後ずさりして、戸口を離れようとしたとき、声がした。
「アイシャ?」
(ぜんぜん集中してないし!)
 この人の聖者っぽい見かけに、これで何度だまされたことだろう。

「昼寝、するの?」アイシャの枕から顔へ、もの問いたげな視線が移ってきた。
(チャンス)
 レイがこういう顔をするときは、たいてい話がしたいときだ。ふだんは無口なのに話しだすと止まらなくなる。よどみなくというのではないが、かみしめるように、自分に言い聞かせるように、つぎつぎと湧いてくるらしい考えを語って聞かせてくれる。アイシャはただあいづちを打つだけでいい。
「寝ようと思ったけど、寝れそうにないので」枕を片手にぶらさげて、ずいずいと部屋へ入った。「質問してもいいですか」
「どうぞ。何の?」
「さっきの続き」

 レイの正面の床に枕を置き、アイシャはごろりと横になった。
 にこっと笑ってみせると、相手も笑顔になる。

「どこまで話してたかな」とレイが言う。
「ああ。じゃあね、聞いてください」アイシャは寝返りを打った。「腹立つんですよー。〈木〉関係の本がね、しょっちゅう900番台に置かれてるんです。ぜったいわざとです、あれ。見つけしだいゼロ番台に戻してますけど。〈巨人族〉関係のもです」
「そう」
「あいつらには『仮説』って概念がわからないんです」大人ぶってアイシャは言ってみた。「証拠があるかないかが、ノンフィクションとフィクションの分かれ目だと思ってる。ばかですよね」
「ばかばか言わないの」
「ごめんなさい。でも嫌なんです。見たものしか信じないなんて言ってたら、頭の中がものすごくせまくなっちゃうじゃないですか」
「頭の中がせまくなる、か」笑っている。
「『頭の中は世界より広い』って言った人がいたんですよね。教えてくれたでしょ。あの言葉、好きなんです」
「好き?」
「はい。大好きです。希望が持てるから」
「希望ね」

 希望、とレイは、初めて口にする食べ物のようにくりかえした。
 それから目を上げて「そうだね」と微笑んだ。

 これ以上どうしていいかわからないから、アイシャは黙ってレイの顔を見守る。

「馬は、実在した」
 レイの話はいつもとうとつに始まる。アイシャは聞き耳を立てる。
「馬は実在したけど、天馬は実在しなかった。この違い、憶えてる?」
「はい。たぶん」
 横になったまま体の向きをずらして、聴く体勢をととのえる。ここで起きあがってきちんと座りなおしたりすると、レイが話す気をなくしてしまうから要注意だ。

「解剖学的に言って」ゆっくり、かみしめるように話すレイだ。「馬の背中に翼は生えない。人間の背中に生えないのと同じだ。なぜだか憶えてる?」
「哺乳類は四肢だから」
「待って、話が早すぎる」笑っている。「そう、脊椎動物のうち魚類をのぞく動物群は基本的に四本足だ。基本的にというのは、イルカやクジラのように後ろ足がくっついて尾びれに進化したものもいるし、ヘビのように足が退化して消えたものもいるから。でもとにかく、哺乳類や爬虫類が持てる足の数は最多で四本。そして翼は、前足の変化したものだから――」
「馬が翼を持ったら、かわりに前足を失うはず」
「そう」
「人間が翼を持ったら、かわりに腕を失うはず」
「そう。にもかかわらず、天馬や天使の文献や図像が残されているのは」

「ホモ・サピエンスたちが」
 誰にも聞かれていないとわかっていても、アイシャはささやき声になった。
「空想する能力を、持っていたからですよね」
「そうとしか思えない」

「ホモ・ハビリス。ホモ・エレクトゥス。さまざまな原始人類が存在したけれど、
 ありもしない生き物の絵を描いたのは、ホモ・サピエンスだけだ。
 だから彼らの残してくれた資料に当たるときは、気をつけないといけない。
 どれが架空のものでどれがそうでないか、よく見きわめないと。
 そして――」

「そして?」

「ごめん。少し、しゃべりすぎた」
 レイはこんなふうに、ふっと火が消えたように微笑むことがよくある。
 本当に消えてしまってもう続きを話してくれないときもあるし、まだ消えかけているだけのときもある。そういうときは待つにかぎる。がまんづよく。
 それでもなかなか口を開こうとしないので、今度はそっと火をかきたててみる。
「紙のことなんですけど」
「紙?」
「ええ。〈紙〉というものを持ってたんですよね、ホモ・サピエンスたちは」
「うん」
「どんなものだったんですか?」

「木を……切って、細かく砕いて」ふたたび話しだしてくれたけれど、声がひどく哀しそうだ。「溶かして柔らかくして、薄くのばして、乾かしたものだったらしい」
「細かく砕いてって、樹皮をですか」
「いや、木質のほう」
「そうなんだ」
 なんて贅沢な! 想像しただけで息が止まりそうになる。
「何に使ってたんですか?」
「絵を描いたり」
「絵を? 壁にじゃなくて?」
「壁にも描いたけど、紙にも」
「どうして?」
「よくわからないけど、持ち運ぶ必要があったらしい」
「どうして持ち運ぶ必要があったんですか?」
「わからない」
「もしかして」思わず身を起こした。「借りっぱなしで返さない、みたいなこと?」
「ああ……なるほど。そうかもね。するどい」
 ほめられてアイシャは嬉しい。てれかくしにもう一度横になって、目をつぶるけれど、ぜんぜん眠くない。

「紙って、どんな手ざわりだったんでしょうね」アイシャはつぶやく。「どんな匂い?」
「そうだね」
「どんな色?」
「『紙のように白い』と文献にあるから、白かったんじゃないかな」
「白い? 木は、白くないのに?」
「うーん」

 しばらく二人で黙りこんだ。
 ホモ・サピエンスについては、わからないことばかりだ。
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