散水 (11)

文字数 2,616文字

 同じ部屋で寝ちゃだめですか? とおねだりしたら、叱られた。押し問答の末に、二人とも貞操帯をつけて寝ることにした。べつに鍵付きの金属製などではなく、布をきっちり巻くだけだ。
 きゅうくつだけど、しょうがない。

 さっきから横になっているだけで、目が冴えてぜんぜん眠れない。
 レイはまぶたを閉じている。そーっと髪の毛をつまんでみても、ぴくりともしない。
 鼻をちょんちょんとつついたら、さすがにくすっと笑った。
「なあんだ。起きてる」
「そんなにいじられたら眠れない」

「あのね」
「うん?」
「わたしはこの夏、ずっと起きてるから」アイシャは指を折って数えた。「ざっくり言って、三百わる六十で、人の五倍は年取ったことになりませんか」
「だとしたら?」
「十四たす五で、十九歳ってカウントしてもらってもよくない?」

 レイが吹きだしてくるりと背を向けたので、アイシャは起き上がった。
「ひどい。まじめに言ってるのに」レイの肩を揺さぶる。
「そんなこと言ったら」とレイ。「わたしは不寝番これで四度めだから、四かける五で二十、二十四たす二十で、四十四歳になってしまうよ」
「あーそれ、わたし的にはぜんぜんありです」
「何言ってる」

 ひとしきり笑いあってから、アイシャは言った。
「その若さで不寝番四度めってすごいですよね。ほんと尊敬する」
「『その若さ』って」レイがおかしそうに笑う。「まあ、すごくはないけど、わたしには合ってるみたいだ」
「つらかったことはないんですか?」
「うーん、いままでは、大きな事故もなくて来たし」
「それ偶然や幸運じゃなくて、ちゃんと防いでくれたからでしょ」
「まあ、うん」ちょっと誇らしげな顔になっている。「そうだけど」

「一度、夏眠が明ける前に赤ちゃんが生まれちゃって」とレイ。「あのときはびっくりした」
「えー! それ誰?」
「アッシ」
「そうかアッシ〈早生まれ〉だ。だからいまでもあんなおっちょこちょいなんだ」
「それ言わないの」
 春の結婚シーズンに受胎が起こった場合、胎児はひと夏をかけておだやかに成長する。夏眠を終えると母体のホルモンバランスが変化して、分娩のスイッチが入るのだが、なかなか〈初雨〉が降らずに夏が長引く年もある。そうすると夏眠室で出産が始まってしまう。
 幸いその年のレイの相方がずっと年上で、助産の経験者で、落ちついて取り上げてくれたので事なきを得たのだそうだ。

 ちなみに、赤ん坊はとても小さく生まれる。両手に乗るくらい。
 そして、生まれた翌日にははいはいを始め、十日後には立って歩きだす。

「あとは、苦労と言えば」とレイ。「相方と気まずくなってしまうと、本当に気まずい」
「そんなことあったの?」
「あった」
「誰?」
「言わない」
「あーわかった。知ってる」ディオンだ。まちがいない。おととしの結婚祭の直前、物陰で、例のこまり顔で突っ立っているレイにディオンが大きな肩をふるわせて泣きながらさかんに何か言っていた。あれだな。
「なんで知ってるの」
「先生の、じゃなかった、あなたのことならたいてい知ってる」
「まいったな」

「それでも、やりがいがある? 不寝番」
「アイシャ、もう寝ようね」
「眠くない。それでもやりがいがあるでしょ? 夏じゅう図書室にこもれるし」
「そうだね」きゅうにレイは夢見るような目つきになった。「もちろんそれもあるけど」
「あるけど、何?」

 レイの腕がのびてきて、アイシャを引き寄せたので、アイシャの心拍数ははね上がった。
「アイシャにも早く聞かせたい」唇をアイシャの髪にうずめるようにしてつぶやいている。
「何?」

水琴(すいきん)

 ああ、とアイシャも小さくつぶやく。水琴のことも少しなら知っている。「そんなに素晴らしい?」
「素晴らしいよ」
「生で聞くと、どんな感じ?」
 録音されたものなら聞いてみた。たしかにきれいだけど、正直、たいして感動できなかった。ようするに〈初雨〉の(したた)りの反響にすぎない。ぽちゃぽちゃ言ってるだけ。何がそんなにすごいんだろう。

「ことばでは説明できない」
 レイのおだやかな声がささやく。耳もとで。
「この世のものとは思えない。時間が――空間も――とにかく、じっさいに聞いた人にしか、あれはわからない」
「そうなんだ」もの悲しくなって、アイシャはつぶやいた。「早く聞きたいな」
「早く聞かせたいよ」

「あれを聞くためなら、余命なんて削られても惜しくない。
 アイシャも、聞けばきっとそう思うよ」

「そのためには、健康で、無事故で、夏明けを迎えないとね」
「はい」
「だからもう寝ようね」
「やだ」
「もう」こまっている。「わたしは眠いんだ。寝かせてくれないかな」

「アイシャ?
 あれ?」

「寝たの?」

 黙って、寝たふりをしていた。
 なんだかきゅうに、涙が出そうになったのだ。

 やっぱり、わたしなんかの知らない部分が、この人にはたくさんある。わたしの知らないことをたくさん知っている。追いつきたいと思うけど、どこまで行っても追いつけないのかもしれない。このへだたりは埋められないのかもしれない。
 いま、この人はわたしの腕の中にいて、わたしはこの人の腕の中にいて、わたしたちは同じものを聞いて、同じものを見て、同じように感じている。この幸せの先に何があるんだろう? もっととほうもない幸せかもしれないし、苦痛かもしれないし、両方かもしれない。怖い。
 この人にかんしては、わたしの予感はたいてい当たる。
 それでも――

 どうか無事に、この夏を終えられますように。
 どうかそのときまで、この人の気もちが変わりませんように。
 どうか。

「ジョロキア」とつぶやくと、レイはびっくりしている。アイシャが寝入ったと思いこんでいたらしい。
「健康で夏明けを迎えたいなら、ジョロキアはひかえてください」
 若い師は笑いだした。
「わかった」
「笑いごとじゃないですから」そう言いつつ、アイシャもくすりと笑う。
「香辛料はからだにいいんだよ?」
「限度ってものがあります」
「わかったわかった。ひかえます」
「一日に小さじ半分までね」
「少な! もうちょっといいでしょう?」
「小さじ9分の5まで」
「もう一声」
「だめ」
 きゅうに本物の眠気におそわれて、とろりとしながらアイシャは思う。そうだ、スポンジを作るんだった。明日やっておこう。それと、イグサも裂いて水に漬けておく。それと――それと――

 誰もいない地底湖の浅い水には、まだ、満天の星が沈んでいる。


(〈その1 散水〉了)

(〈その2〉へつづく)
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