来訪 (7)

文字数 1,578文字

 戻ってきたアイシャの顔を見て、レイは淡く笑った。なんでこの状況で笑えるんだろう? と言うより、
「なんですぐ言ってくれないんですか」
 ついきつい口調になってしまうアイシャだ。

「わたしも動転していて」レイは苦笑している。「あの棚を見て、頭の中が真っ白になってしまって。落ちつこうと思っていろいろしてた」
「いろいろって?」
「遺言の録音──」
「だからいまそれやる??」
「だよね」苦笑している。

「感染してなければ、何もする必要はないし」とレイ。「してたら、発症して劇症化する前に、アイシャに引き継いでおきたいことがいろいろあるなと思った」
「その二択おかしい」とアイシャ。「とにかく発症しないように手を打つの最優先でしょう」
「うん、いま気がついた」
「いま?」
 この人の淡白な見た目にだまされちゃいけなかった、とアイシャは猛省する。顔に出ないだけで、めちゃくちゃパニクってたんじゃないか。
 わたしのシャンプーしてくれてる場合じゃないって!

 ワクチンさえあれば、かりに感染しても、くりかえし投与することで発症を防げる。
 合図を送ってきてくれた隣の村。いまごろワクチンを作っていないだろうか。
 もし作っていて、足りていたら、行って分けてもらえば――
 もし、たら、れば。すべて仮定だ。隣村が死傷者であふれている可能性もゼロではない。救援を求める合図がないのは救援が不要だからだろうとは思うが、誰も合図を打ち上げにいける状態にないのだとしたら。

 隣村までは片道、徒歩で一昼夜だ。
 どちらが行くかでもめる。
 もちろんレイ本人が行ったほうが早いのだが、酷暑と極寒の過酷な道だ。体力の急激な消耗はまちがいなく発症の引き金となる。
「わたしが行きます」とアイシャ。
「だめ」とレイ。「ギメイがまだいるかも。きみには免疫がない」

 そう言うあいだも苦しそうなので、「横になったら」と言うと「これは体調が悪いだけ」と言いはる。予想外にめんどくさい人だった。
「とにかくわたしが行きます」手早く荷物をまとめながら断固として言うアイシャだ。「レイは寝てて」
「だめ」引きとめるレイも必死だ。「道わかるの? わたしはわかる。アイシャはそんな遠出したことないじゃないか」
 それを言われると返す言葉がない。
「わたし方向感覚は良いので」顔をそむけたまま、アイシャは袋を背負った。中には最小限の食べ物飲み物と防寒具。「とにかく行ってきます。往復する体力がなかったら、向こうから誰か来てもらうように頼むから」日よけの笠に手をのばす。
「だめ」その笠を奪われた。「わたしが感染してなかったら、行く必要はないんだ。そんな危険な目にきみを遭わせられない」
「してたらの話をしてるんです」
「してたとしても」
「何言ってるの」

 アイシャの肩をつかんでいた手をきゅうに放して、顔を覆っている。
 こんなレイは初めて見る。

「この、恐怖、というのさえなければ」しぼり出すように言っている。「もっと冷静に判断できるのだと思う。きみが一人で行くところを想像するだけで耐えられない」
「帰ってくるから」
「自分が一人で待つところも」
「帰ってくるから。帰ってくるまで――」
 言いながら思う。わたしの目にもいま、この人の目と同じ色が浮かんでいる。きっと。

 もし、まにあわなかったら。
 一人で、苦しみながら死ぬのだったら。

 置いて行けない。

 傷口から体内に侵入したウイルスは、神経を上向性に進み、脳に達すると脳神経の機能を侵して発症を引きおこす。
 初期症状は発熱、頭痛、嘔吐。ついで筋肉の緊張、痙攣(けいれん)、幻覚などが起こる。
 やがて昏睡状態におちいり、呼吸麻痺を起こして死に至る。
 発症すると死亡率はほぼ百パーセントだ。

 患者は神経が極度に過敏になり、わずかな光や風の刺激にも苦しむ。
 意識じたいは明瞭なため、症状に対するはげしい恐怖をともなう。

 救いはない。
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