散水 (1)
文字数 1,428文字
水を撒 くのが好きだ。だから、水を汲むのも苦にならない。
長いスロープを降りていく。
はだしの足裏で傾斜をしっかりととらえながら降りていく。ひんやり、心地よい。足裏も、ときどき壁にふれてみる指先も。壁の紅い縞をアイシャはそっとなぞってみる。
美しいと思う。いつ見ても。
立ちどまって洞窟の全体を見まわす。
みごとな縞と、曲面。
まるで大きな大きな壺だ。アイシャがかかえているこの素焼きの壺の、一千万倍も大きな。紅から柔らかなクリーム色、そして白へ、ランダムにかさねられた地層の色。
白は石灰岩。鉄分がまじると赤みが加わるのだと、授業で習った。
(授業)
いまは夏休みだから、ここには誰もいない。天窓からさんさんと降りそそぐ光の柱と、縞の土壁。息をのむようなこの光景を目にしているのは、アイシャひとりだ。
(ひとりじめ)
足がしぜんと小走りになる。
いそぐ必要はないのに、坂をかるく駆け下る。嬉しくてたまらないから。
膝のまわりで服のすそがはたはたして、短くなったのかな、と思う。背がのびたかな。夏休みに入ってから。それも嬉しい。もっとのびないかな。早く大人になりたい。
(早く)
嬉しくて、走る。
十四歳の夏休みはこの一度しかなくて、それをアイシャはひとりだけ選ばれて、こうして目ざめて過ごしている。ラッキーなんかじゃない。だってわたしはがんばった。チウリやルディロにからかわれても――「そんなに勉強してどうすんの? 意味不明」――毎日の課題をかならずこなして、ときには徹夜して――「ずっと起きてるなんて老けるだけなのに?」――老けてもいい、目にくまができたっていい、だって夢中だから――「そんなに気に入られたい、先生に?」――なんとでも言えばいい。あの瞬間、先生が微笑んで、わたしの額にそっと親指でふれ、
「よくできたね」
そう言ってくれるあの瞬間のためなら、わたしは。
(寿命をぜんぶ返上したっていい)
洞窟 の底に着いた。
水は浅くなっているけれど、まだじゅうぶん残っている。乾季の終わりまではきっと持つ。村人みんな、百四十二人の分は、こうしてアイシャが汲みにくる水瓶一杯で一日足りる。その水をみんなの眠る部屋の床にひしゃくで撒いていくのが、毎朝のアイシャの仕事だ。
夏眠のあいだ、ほどよい湿度が保たれるよう、気をくばる。脱水状態になっていないかひとりひとり見て回り、チェックする。危うそうな人がいたら報告する。
かと言って湿度を上げすぎると、スイッチが入ってみんな起きてしまうから、ほんとに気をつけなくてはならない。
静かな水は、不純物が沈んで透きとおっている。
水面近くをそっと汲む。天窓からさす光ごと汲みとっているような気もちになる。光の来る頂を、はるかな頭上を見あげる。
抜擢されたんだ、わたしは。誇りを胸いっぱいに吸いこむ。
この夏じゅう、ひとりじめ。
この光景と――
先生を。
何か、叫びたい。
本当はあの人の名前を言いたいのだけど、それは大切すぎて、できない。
ただ小さく、あ、と口に出してみる。あたりがあまりに静かだから、そんな小さな声さえ水面をわたるようにふるわせて、さざなみを立てたように思う。
浅い水底に若葉がゆれている。この時期だけあらわれる水草だ。
(もっと)
もっと生えればいい。もっと光ればいい、何もかも。
水瓶を置いて立ちあがり、胸いっぱいに息を吸いこんで、アイシャは叫ぶ。
言葉にならない歓喜がセノーテの頂へと昇っていく。
夏だ。
長いスロープを降りていく。
はだしの足裏で傾斜をしっかりととらえながら降りていく。ひんやり、心地よい。足裏も、ときどき壁にふれてみる指先も。壁の紅い縞をアイシャはそっとなぞってみる。
美しいと思う。いつ見ても。
立ちどまって洞窟の全体を見まわす。
みごとな縞と、曲面。
まるで大きな大きな壺だ。アイシャがかかえているこの素焼きの壺の、一千万倍も大きな。紅から柔らかなクリーム色、そして白へ、ランダムにかさねられた地層の色。
白は石灰岩。鉄分がまじると赤みが加わるのだと、授業で習った。
(授業)
いまは夏休みだから、ここには誰もいない。天窓からさんさんと降りそそぐ光の柱と、縞の土壁。息をのむようなこの光景を目にしているのは、アイシャひとりだ。
(ひとりじめ)
足がしぜんと小走りになる。
いそぐ必要はないのに、坂をかるく駆け下る。嬉しくてたまらないから。
膝のまわりで服のすそがはたはたして、短くなったのかな、と思う。背がのびたかな。夏休みに入ってから。それも嬉しい。もっとのびないかな。早く大人になりたい。
(早く)
嬉しくて、走る。
十四歳の夏休みはこの一度しかなくて、それをアイシャはひとりだけ選ばれて、こうして目ざめて過ごしている。ラッキーなんかじゃない。だってわたしはがんばった。チウリやルディロにからかわれても――「そんなに勉強してどうすんの? 意味不明」――毎日の課題をかならずこなして、ときには徹夜して――「ずっと起きてるなんて老けるだけなのに?」――老けてもいい、目にくまができたっていい、だって夢中だから――「そんなに気に入られたい、先生に?」――なんとでも言えばいい。あの瞬間、先生が微笑んで、わたしの額にそっと親指でふれ、
「よくできたね」
そう言ってくれるあの瞬間のためなら、わたしは。
(寿命をぜんぶ返上したっていい)
水は浅くなっているけれど、まだじゅうぶん残っている。乾季の終わりまではきっと持つ。村人みんな、百四十二人の分は、こうしてアイシャが汲みにくる水瓶一杯で一日足りる。その水をみんなの眠る部屋の床にひしゃくで撒いていくのが、毎朝のアイシャの仕事だ。
夏眠のあいだ、ほどよい湿度が保たれるよう、気をくばる。脱水状態になっていないかひとりひとり見て回り、チェックする。危うそうな人がいたら報告する。
かと言って湿度を上げすぎると、スイッチが入ってみんな起きてしまうから、ほんとに気をつけなくてはならない。
静かな水は、不純物が沈んで透きとおっている。
水面近くをそっと汲む。天窓からさす光ごと汲みとっているような気もちになる。光の来る頂を、はるかな頭上を見あげる。
抜擢されたんだ、わたしは。誇りを胸いっぱいに吸いこむ。
この夏じゅう、ひとりじめ。
この光景と――
先生を。
何か、叫びたい。
本当はあの人の名前を言いたいのだけど、それは大切すぎて、できない。
ただ小さく、あ、と口に出してみる。あたりがあまりに静かだから、そんな小さな声さえ水面をわたるようにふるわせて、さざなみを立てたように思う。
浅い水底に若葉がゆれている。この時期だけあらわれる水草だ。
(もっと)
もっと生えればいい。もっと光ればいい、何もかも。
水瓶を置いて立ちあがり、胸いっぱいに息を吸いこんで、アイシャは叫ぶ。
言葉にならない歓喜がセノーテの頂へと昇っていく。
夏だ。