散水 (3)

文字数 2,028文字

 午前中の仕事を終えて、アイシャは図書室に行く。
 いつも読書に夢中になって、のどがからからになるまで気づかない。頬がほてって苦しくなりだしてから、しまったと思う。不寝番が熱中症で倒れるわけにはいかない。
 ソギの花で香りづけした水を素焼きのコップに汲んで、持っていくことにする。

 本当はちょっと甘い物も食べたい。働いたからおなかすいたんだもん。朝のおやつ。
 ピタヤの実を一切れだけ、いただいた。閲覧室で食べたかったけれど、汁で本をよごすといけないから、台所で食べてしまった。濃いピンクの果皮。慎重にとげをよけて切り分け、黒い粒つぶのたっぷり入った真っ白い果肉をスプーンですくって食べる。甘くておいしい。

 食べ終わって片づけて、ひしゃく一杯の水で手を洗ってから、閲覧室に行った。
 床に少し打ち水をする。イグサで編んだまるい座布団を、気もちよくほの暗い円形の部屋のまんまん中に置く。他に誰もいないのだからいいのだ。
 安座して深呼吸し、さて。
 ああ、至福の時間。
 あらかじめ棚から取ってきておいた本をひざに乗せ、ティアラを手にする。

 ティアラは、革ひもを編んで輪にしたつくりで、額の中央にひし形の銅の台座が来るようにかぶり、セットする。〈第三の目〉と言われる松果体の上だ。ちゃんと当たるよう、位置を調整する。
 みがいた銅の朱をおびた色。いつ見てもきれい、とアイシャは思う。(たくみ)のわざだ。
 でも、本は――

 この世に本ほど美しい物体はない、とアイシャは思う。

 包んでいる布をそっと開く。
 本には、とがっているものが多いから、気をつけなくてはならない。

 材料は黒曜石。
 ねらいをつけて叩くと薄くはがれて、本には最適だ。
 一つとして同じ本はないのだから、サイズにばらつきがあるのは当然だけど、長さはだいたい親指くらい。厚みは指先の、肉の薄いところくらい。

 淡い光を受けて、アイシャの手の中できらめいている。
 こんな石片――ううん、宝石の中に、あれだけの磁気情報がつまっているなんてすごすぎる。

 音声だけのタイプと、映像と音声両方のタイプがある。これは後者だ。
 アイシャが最近はまっているジャンルは二つあって、一つは〈木〉だ。
 ゼロ番、総記のコーナーから借りてきた。事典なのだからゼロ番台。当然だ。アイシャはいつもちゃんと戻すのに、ときどき9番の「フィクション」のコーナーに置くやつがいる。まったく頭にくる。わざとなんだから。
 かつてこの地上に木が実在したことを信じないなんて、どうかしている。ちゃんと化石だってあるのに。

 チウリやルディロみたいにいつもアイシャの後ろでくすくす笑って、レイの授業もばかにしてよそ見や居眠りや落書きばかりしている悪ガキたちだけなら、まだいい。許せないのは大人だ。「見たことがないものを信じられるか」なんて平気で言う。そういう大人にかぎって夏は寝て、年に60日しか起きてない。ばかなのだ。
 わたしは信じる、とアイシャは思う。信じて、知って、考えて、賢くなるんだ。あんなだめな大人たちみたいにはならない。ぜったい。

 黒曜石のチップを額にセットして、両目を閉じる。
 ふわりと、部屋のすみに置いた乾燥ハーブの香りがただよってくる。
 ざわっ……
 ここにはない、架空の音があふれ出す。耳をとおらず骨伝導で、じかに脳に流れこんでくる。同時に映像もひらめく。閉じた目の奥にひろがる緑、緑、緑。あざやかな、涼やかな、ずしりと重くまとわりつくような。
 鼻孔に感じているのはもういつものセンサの匂いではなくて、もっとみずみずしい、それでいてむせるような、これが〈フィトンチッド〉の再現香? アイシャが知っている木材は、サボテンが木質化して枯死した根もとを切り取ったもので、だからあんなふうに茶色い樹皮は死のあらわれにしか見えないのに、あの固い皮の下でそんなに豊かな樹液が枝のすみずみまでほとばしっていたというの?
 一年や二年ではなくて、〈樹齢〉何百年ものたくましい木たちが実在したって、本当?
 もし本当なら――
 どうして、一本もなくなってしまったの?

 これは熱帯雨林です、と静かなナレーションが告げている。熱帯。熱帯のほかには何があるんだったっけ。温帯湿潤、寒冷。何がどれだった? 頭を働かそうとしても、つぎつぎとそそぎこまれてくる音の奔流に圧倒されて何も考えられない。
 何の楽器? 誰の演奏?
〈聞こえますか 鳥たちのさえずりが〉
 鳥――そうか。
〈小さなサイズの有翼の生物が存在したと考えられています 彼らは 私たち人間と同じく 音声でコミュニケーションをとるのに()けていました〉
 小さなって、どれくらい?
〈私たちの知るゲイラとはちがって 人間を捕食せず 植物の実 花 葉 虫 魚などを食べていたようです〉

 極彩色や漆黒の羽のはてしないはためき。
 歓びを意味することだけはわかる異生物たちの熱烈なおしゃべり。

 アイシャはただ、恍惚と、仮想(バーチャル)の雨林の奥深くに身を沈める。
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