散水 (9)
文字数 1,961文字
「感謝しているのはわたしのほうだ」レイは静かに言った。「正直、つらかった。ずっと。聞く気のない子たちに向かって話をするのは。
きみたちが心の中でわたしを馬鹿にするのは、べつにいい。
馬鹿にしながら、聞いたふりだけはして、わたしをだませたと思いこんで得意になっているらしいのが哀しかった。そのまま大人になっていくのが」
「『きみたち』って、わたしはちがいます」
「ごめん、もちろんちがう」
「きみがいてくれなかったら、アイシャ。正直、わたしは、壊れていたと思う」
「どうしてこんなことになってしまったんだろうと思う。
わたしもきみくらいのときは、学ぶのが楽しくてしかたなかった。
大好きな先生がいてね。当時すでにご高齢で、まもなく亡くなったけれど」
「知ってます。コーヤ師ですよね」
伝説の名教授だ。頭脳明晰、博覧強記なうえに、誰からも慕われる人格者だったという。
「あのときは、新しいことを一つ学ぶたびに、そのぶん自分が豊かになる気がしていた。
それこそ『頭の中が広く』なっていくような気がして……
星にまで、手がとどきそうな気がした」
ふっと笑う。
「いつからだろう。知れば知るほど、苦しみだけが増えていくようになったのは。
この世界の事実は……
あまりに、苛酷で。
耳をふさいで目を閉じて、眠ってしまえばいいと思うのに、眠れない。頭痛がするたびに飛び起きて、残された時間があとどれだけあるのだろうと、焦る」
「いま転写している資料は」アイシャもささやき声になる。「そんなにきつい内容のものなんですか」
「ううん。その逆」
「逆?」
「あまりにも、多くの」血のにじむような声だ。
「美しいものが。
失われてしまっていて。
とりかえしがつかない」
「どうしてホモ・サピエンスたちは、すべての資料を録音で残してくれなかったんだろう。きみも見た、アイシャ? あの、盤面に細かく刻まれたとほうもない量のひっかき傷のあと。あれは」
「数字ですか、やっぱり」
「数字だけじゃない」
「じゃ何のしるし?」
「言語らしいんだ」
「言語」アイシャは呆然とくりかえした。「ことば」
「そう」
「わたしたちがいま、こうして交わしていることば? あの傷あとにふれたら音声が再生されるわけではないんですよね?」
「ちがう」
「じゃどういうしくみ? 平らな面に刻んだ傷と、こういう声や音と、何の関係が?」
「わからない。まだ」
「まだわからないけど、たしかなのは。
あの中には、まちがいなく、膨大な量の知識が蓄積されていて――」
ホモ・サピエンスたちは知っていた。原始人類のうちで、かれらだけが。自分たちがどこから来て、どこへ行こうとしているのか。世界はいつ始まり、いつ終わろうとしているのか。
わたしたちの存在を知っていた。わたしたちに伝えようとしてくれていた。
なぜ、自分たちが滅びなければならなかったか。
わたしたちがその轍を踏まないためには、どうしたらいいのか。
「〈文字〉と呼んでいたらしい。あのひっかき傷のことを、かれらは」
「文字」アイシャはくりかえした。口の中で、未知の味がした。
「レイ。まさかあなたは、あれを、一人で解読しようとしている?」
日が落ち、気温が落ちてきた。
おたがいの肌がいつのまにか冷えきっていることに、アイシャは気づく。
「帰りませんか。あまり寒くなると、危ないから」
「そうだね」
二人で立って歩きだす。しばらく無言で歩く。
きゅうにレイが立ち止まった。
「アイシャはほんとにお見通しだね。何でも」
ふりむくと、息が白くくもっている。
まわりの空気が冷たいのと、レイの息が熱いのと、両方だ。
「わたしはもう、耐えられなくなったんだ。これ以上の孤独には。きみは未成年だし、わたしの教え子だし、大切な人だから、大切にしたいとずっと思ってきた。いまも思っている。本当なら、『きみを守る』とか『幸せにする』とか、そういうことを約束しなければいけないんだと思う。それができない。こんな、いつ何の天敵に襲われていのちを落とすかもしれない世界の中で、そういう無責任な約束は。だいたい何がきみの幸せなのかわからない。わたしといっしょにいないほうがきみの幸せかもしれない。きみはいま何か大きな考え違いをしていてその夢がそのうち醒めるのかもしれない。そんな日を迎えるくらいなら、いまのままのつきあいのほうがいい。理性ではそうわかっているんだ。わかっているのに」
「よかったです」アイシャは言った。「先生の理性が、思ったほど強くなくて」
「先生じゃないったら」
「レイ。もういい。もうわかった」
「わたしを助けてくれる? 手伝ってくれる?」
「手伝います」
「手伝わなくてもいい。わたしのそばに」
「います。だから、もう黙って」
「アイシャ」
「しっ」
唇って、こんなに柔らかいんだな。
驚いている自分がいる。
きみたちが心の中でわたしを馬鹿にするのは、べつにいい。
馬鹿にしながら、聞いたふりだけはして、わたしをだませたと思いこんで得意になっているらしいのが哀しかった。そのまま大人になっていくのが」
「『きみたち』って、わたしはちがいます」
「ごめん、もちろんちがう」
「きみがいてくれなかったら、アイシャ。正直、わたしは、壊れていたと思う」
「どうしてこんなことになってしまったんだろうと思う。
わたしもきみくらいのときは、学ぶのが楽しくてしかたなかった。
大好きな先生がいてね。当時すでにご高齢で、まもなく亡くなったけれど」
「知ってます。コーヤ師ですよね」
伝説の名教授だ。頭脳明晰、博覧強記なうえに、誰からも慕われる人格者だったという。
「あのときは、新しいことを一つ学ぶたびに、そのぶん自分が豊かになる気がしていた。
それこそ『頭の中が広く』なっていくような気がして……
星にまで、手がとどきそうな気がした」
ふっと笑う。
「いつからだろう。知れば知るほど、苦しみだけが増えていくようになったのは。
この世界の事実は……
あまりに、苛酷で。
耳をふさいで目を閉じて、眠ってしまえばいいと思うのに、眠れない。頭痛がするたびに飛び起きて、残された時間があとどれだけあるのだろうと、焦る」
「いま転写している資料は」アイシャもささやき声になる。「そんなにきつい内容のものなんですか」
「ううん。その逆」
「逆?」
「あまりにも、多くの」血のにじむような声だ。
「美しいものが。
失われてしまっていて。
とりかえしがつかない」
「どうしてホモ・サピエンスたちは、すべての資料を録音で残してくれなかったんだろう。きみも見た、アイシャ? あの、盤面に細かく刻まれたとほうもない量のひっかき傷のあと。あれは」
「数字ですか、やっぱり」
「数字だけじゃない」
「じゃ何のしるし?」
「言語らしいんだ」
「言語」アイシャは呆然とくりかえした。「ことば」
「そう」
「わたしたちがいま、こうして交わしていることば? あの傷あとにふれたら音声が再生されるわけではないんですよね?」
「ちがう」
「じゃどういうしくみ? 平らな面に刻んだ傷と、こういう声や音と、何の関係が?」
「わからない。まだ」
「まだわからないけど、たしかなのは。
あの中には、まちがいなく、膨大な量の知識が蓄積されていて――」
ホモ・サピエンスたちは知っていた。原始人類のうちで、かれらだけが。自分たちがどこから来て、どこへ行こうとしているのか。世界はいつ始まり、いつ終わろうとしているのか。
わたしたちの存在を知っていた。わたしたちに伝えようとしてくれていた。
なぜ、自分たちが滅びなければならなかったか。
わたしたちがその轍を踏まないためには、どうしたらいいのか。
「〈文字〉と呼んでいたらしい。あのひっかき傷のことを、かれらは」
「文字」アイシャはくりかえした。口の中で、未知の味がした。
「レイ。まさかあなたは、あれを、一人で解読しようとしている?」
日が落ち、気温が落ちてきた。
おたがいの肌がいつのまにか冷えきっていることに、アイシャは気づく。
「帰りませんか。あまり寒くなると、危ないから」
「そうだね」
二人で立って歩きだす。しばらく無言で歩く。
きゅうにレイが立ち止まった。
「アイシャはほんとにお見通しだね。何でも」
ふりむくと、息が白くくもっている。
まわりの空気が冷たいのと、レイの息が熱いのと、両方だ。
「わたしはもう、耐えられなくなったんだ。これ以上の孤独には。きみは未成年だし、わたしの教え子だし、大切な人だから、大切にしたいとずっと思ってきた。いまも思っている。本当なら、『きみを守る』とか『幸せにする』とか、そういうことを約束しなければいけないんだと思う。それができない。こんな、いつ何の天敵に襲われていのちを落とすかもしれない世界の中で、そういう無責任な約束は。だいたい何がきみの幸せなのかわからない。わたしといっしょにいないほうがきみの幸せかもしれない。きみはいま何か大きな考え違いをしていてその夢がそのうち醒めるのかもしれない。そんな日を迎えるくらいなら、いまのままのつきあいのほうがいい。理性ではそうわかっているんだ。わかっているのに」
「よかったです」アイシャは言った。「先生の理性が、思ったほど強くなくて」
「先生じゃないったら」
「レイ。もういい。もうわかった」
「わたしを助けてくれる? 手伝ってくれる?」
「手伝います」
「手伝わなくてもいい。わたしのそばに」
「います。だから、もう黙って」
「アイシャ」
「しっ」
唇って、こんなに柔らかいんだな。
驚いている自分がいる。