散水 (4)

文字数 2,644文字

 何杯、入れるつもりだろう。
 レイを横目で見つつ、はらはらするアイシャだ。

 さっきからレイは、自分の器に、チリパウダーをスプーンですくっては落としている。
 真っ赤な粉がどんどんたまって、小山のようになっている。

 見かねてアイシャは声をかけた。
「先生」
 レイの手が止まる。
「それ、かけすぎじゃないですか?」
 いくらレイが辛いもの好きだと言っても、ジョロキアだ。あの量をいちどに食べたらかくじつに内臓が焼かれる。
 レイは目を落として、しばらく器の中を見つめていたが、「大丈夫」と小声で言ってなかみを山盛りのジョロキアごとかき混ぜようとした。

「だめ!!」

 円座をけとばすとアイシャはかけよって、レイの手から器をうばいとった。
 この人は、落ちついているようでいて、ときどきこういううわの空をやるから目が離せない。

「大丈夫じゃないよ」仁王立ちになってアイシャは言う。「わたしが半分食べます」
「アイシャは辛いの苦手でしょう」
「得意になりました」
「いつから」
「いま。とにかくこれは」腰を下ろし、赤い粉のいちばん上のところだけすくって壺にもどした。その下の濡れてしまった部分はアイシャ自身の器にとり分ける。
「はい」ぐいと器をつき返す。
「ありがとう」
 レイはおとなしく受けとり、チリまみれの具をトルティーヤに巻きはじめた。

 そのまましばらく、二人とも無言で食事をつづける。

 有頂天になってわれを忘れがちなアイシャとは反対に、レイがこんなふうにぼうっとしているのは、たいてい沈んでいるときだ。
 心配なのはそこで、ジョロキアそのものではない。アイシャの口はひりひりするが、胸のなかはもっとひりひりしている。
(また録音がうまくいかなかったんですか?)
 司書のおもな仕事は録音だ。古文書から解読した情報を読みあげて、本に転写していく。図書館におさめられているのは、そうした歴代の司書たちによって吹きこまれた貴重な黒曜石チップの数々だ。

 ことレイにかんしては、アイシャの予測はたいてい当たる。
 質問したくはあるけれど、答えが「イエス」だろうなとわかっていることを訊いてどうするよとも思う。

 ためらっていたら、逆に質問された。
「アイシャは今朝は、何を読んでいたの?」
「ああ、えーと」かるくせきばらいして、「木の話です。熱帯雨林」
「ええ?」
 レイはこまって、てれた表情を浮かべる。自分がいまこんな可愛い顔してるとはぜったいわかってないなこの人、とアイシャは思う。
「あれはまだ下手くそだから」とレイ。「あんまり聞かないでほしいんだけど」
「いつの録音でしたっけ」
「五年前」
 知ってる。知ってるけど訊いてみた。「とても良いと思いますよ? 内容も面白いし、すごくわかりやすいです」
「本当?」
「はい」
 先生の声きれいだし。ていうか、若いし! 五年前って十九だよね?

 この流れに勇気を得て、アイシャは尋ねてみた。「新作は何ですか?」
「うん?」
「いま録音してるの」
「ああ」ふっとさびしげな顔に戻ってしまった。「うん。壺の……焼きかた」
「え、壺?」
「そう」
 意外だった。そんな初心者むけの、とっくに転写終わってるはずだけど。「あっちの続きはまだですか? 楽しみに待ってるんですけど」
「続き? 木の話?」
「それもですけど」

 アイシャは息を吸いこんで、思いきって言った。
「巨人族のほう」

 また、しばらく、沈黙が落ちる。

「実用書を出せって圧がかかってることは知ってます」静寂にたえられなくて、アイシャはいっきにしゃべった。「どうせ村長とか、親の会の人たちでしょ。だけど壺の焼きかたなんて、わざわざ本にする必要あるんですか? あと良い夏眠のとりかたとか、もっと良い夏眠のとりかたとか、もっともっと良い夏眠のとりかたとか。そんなのやってみればわかることだし、やってみなければわからないことだし、おんなじような本何冊も出したって意味ないじゃないですか」まあ先生の声だったらいくら聴いてても飽きないけどね! って言えないけど!「そうじゃなくて。いくら夏が長いって言っても時間はかぎられてるんだから、先生にはもっと重要な本を録音してもらいたいです。録音って、内容が理解できてない人が吹きこんだやつは、聞いても意味わからないんですよ。難しい話を吹きこめるの、はっきり言ってうちの村だと先生だけだと思うんです。だから先生が――」
「アイシャ」
「はい」
「先生っていうのやめて。はずかしいから。
 もう先生じゃないし」

「ごめんなさい。だけど春になったら」いやな予感がする。アイシャの胸はしめつけられるけれど、止められない。「夏が終わって春になったら、また先生ですよね? また授業してくださるんですよね?」

 もう教師は辞めるって、言わないですよね?
 どこか他所へ行ってしまうなんて、言わないですよね?
 ――訊けない。
 ことレイにかんしては、アイシャの予測はたいてい当たるのだ。

 レイが微笑んで、口を開きかけた。思わず「言わないで」と口走った自分の声が大きすぎて、アイシャはかっと顔に血がのぼった。
「アイシャにはかなわないね」静かな声だ。
「何が?」
「お見通しだから」
「何が?」
 答えがわかっている質問を、どうしてしてしまうんだろう。

「親の会の意見として、村長から言われたんだ。
『事実だと確定していないことを子どもたちに教えないでくれ』って」

「事実って――」
 この村のなかの、洞窟(セノーテ)を中心にはりめぐらされた居住区のなかの、こんな限られた空間のなかで体験できる、誰もが知っていること。それが大人たちの言う〈事実〉。
 それ以外の、

を教えてもらわなければ、学校になんの意味があるんだろう?
 生きていることになんの意味が?

「もともと教師には向いていないから、わたしは」レイの声が静かに言っている。「人にものを教えるのは得意じゃないし、そもそも人前で話すのははずかしい」
「そんなに話をするの上手なのに?」そんなに声、きれいなのに?
「そんなこと言ってくれるの、アイシャだけだよ」
「そんなことない。アンドゥもワレリも楽しみにしてる」
「ありがとう」
 くやしい。なさけない。腹が立つ。「たとえ教師を辞めても、先生はいつまでもわたしの先生ですから」
「ありがとう」

「とりあえず食べて」静かに言っている。「片づけてしまおうか。ね」
 何が「ね」だ。村長にひとこと言われたくらいで、わたしたちを捨てようとしてるくせに。

 涙がこぼれそうになってうつむくと、トルティーヤが半分、乾きかけていた。
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