散水 (2)

文字数 2,184文字

 床に水を打つ。ひしゃくで、少しずつ撒いていく。
 みんな眠っている。赤褐色の土壁に守られて。簡素な寝台の上に横たわって。夏眠のための白い衣をそれぞれまとって。大人も子どもも。
 白は、アイシャたちの濃い肌色と黒髪に、よく似合う。

 毎年選ばれる不寝番は二人で、起きているあいだじゅう、やっぱり白を着る。
 休んでいる人たちと心を合わせるためだ。
 もちろん科学的に考えたらそんなのは意味なくて、何色を着たって同じだ。でも、アイシャひとりおしゃれしても、ほめてくれる人はいない。レイが白しか着ないのだから、アイシャも白以外着る気にはならない。
 それに白い服は洗濯もかんたんだ。漬けておいても、染め色がとけだす心配はない。

 先生には白がよく似合う。
 先生と言うとまた、たしなめられるかもしれない。昨日も言われた。
「いまは先生と生徒じゃないからね。わたしは司書で、きみは助手。それだけ。
 だからふつうにレイと呼びなさい」
 呼びなさい、というのがすでに先生口調だったのに自分で気づいて、あ、という顔をして笑っていた。アイシャも笑った。

 寝室の床は、木質のブロックを埋めこみ、敷きつめてできている。壁より暗く固い褐色で、湿らせたところはその暗みが増す。
 清潔に保たれているかどうかもチェックする。
 
 最後から二番めの部屋に打ち水をしているとき、気配を感じて顔を上げると、レイが入ってくるところだった。
「ご苦労さま。ありがとう」
「もうすぐ終わります」
「変わったことはなかった?」
「えーと」

「六号室のマリクが、ちょっと動いてました」
「そう」
「大丈夫かな」
「子どもはよく動くよ」
 マリクは四歳だ。

「顔に涙のあとがあって」アイシャは報告する。
「そう」
「怖い夢を見たんでしょうか」
「そうかもしれない」
「拭いてあげてもいいですか。起こしちゃうかな」
 夏眠中にむりやり起こすと、脳と心臓に負担がかかる。体への接触は細心の注意が必要だ。

 レイは少し考えて、「スポンジに水をふくませて」と言った。「そっと拭いてあげて。たぶん起きない」
「わかりました。あの……」
「うん?」
「怖い夢を見ないように、六号室の空調ポプリに少し、センサを足してあげていいですか」
「葉のほう、実のほう?」
「実のほう」
 センサは乾燥させて使う。鎮静作用がある。実のほうが効果が高い。
 
「気もちはわかるけど」おだやかに諭された。「あまり一喜一憂しないほうがいい」
「はい」
「六号室の他の人たちは?」
「変わりありません」
「それなら様子を見よう。たぶん大丈夫。子どもだから。起きたらたぶん何も憶えていない」
「ほんと?」
 顔を見上げると、面白そうに口を引きむすんでいる。笑いをこらえているのだ。

「アイシャもあの歳のころは、夢を見て泣いていたよ。でも、起きたら何も憶えていなかった」

 かっと頬に血がのぼり、アイシャは唇を噛んだ。「いつの話ですかそれ」
「忘れないよ。わたしが初めて不寝番に選ばれた年だから」
 レイは歴代最年少の十三歳で選ばれて以来、何度も志願しては不寝番をつとめている。

 変わり者だ、と言う人もある。目ざめていればそのぶん早く「老いる」からだ。
 夏眠中は代謝がひじょうに低く保たれ、人はかすかな呼吸だけで生き、飲食も排泄もしない。つまり、ほとんど歳をとらない。だから喜んで眠りにつき、不寝番をいやがって逃げまわる人のほうが圧倒的に多い。
「起きて涼しいあいだに人生楽しめば、それでいいじゃない。なんでわざわざ?」
「偉いよねえ。ありがたいけど」
 アイシャが志願すると言ったとき、生みの親まで心配して止めに入ったくらいだ。そうじゃない、夏じゅう図書室の本が読みほうだいなんだから、こんな贅沢はないんだと言ってもなかなか信じてもらえなかった。
 それに――

「レイは無理。あの人は本にしか興味がないから」
 いじわるくささやいたヨイアの声がよみがえる。
 ヨイアがどんなになめらかなふとももを見せつけても、レイはふりむきもしない。何年か前にレイといっしょに不寝番に志願して、ヨイアだけ落とされた。あれ以来ヨイアは髪と肌のお手入れに没頭するようになって、ふだんの夜もあてつけのようにたっぷり寝て、起きて本を読むなんてばかみたいと言いふらしている。もちろん夏眠のときは真っ先に入室する。
 ばかはあんたでしょ、とアイシャは心の中でこっそりつぶやく。
 1年369日のうち、300日も仮死状態なんて。どんな美肌がキープできるか知らないけど、わたしには耐えられない。
 わたしも、変わり者なんだ。

「お昼はどうする?」部屋を出ていきながらレイが言っている。
「ソギの花の浅漬けがあります」
「いいね」
「それと、アロエのお刺身はどうかなって」
「いいね。刺身はわたしがこしらえよう。正午でいい?」
「はい。それまで先生は、あ」
「先生じゃないから」笑っている。「いつもどおり司書室にいるよ。何かあったら呼んで。アイシャもいつもどおり?」
「閲覧室に行きます」膝をついて床の具合をたしかめつつ、アイシャは答える。「これ終わったら」
「わかった」

 出ていきかけていたのに戻ってきて、アイシャの前に立った。高い背をかがめる。アイシャが見上げると、額にレイの親指がふれた。
「ありがとう。いつも」

 大人が子どもをほめるときのしぐさだとわかっていても、
 アイシャは喜びのあまり、胸が痛くなる。
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