第10話

文字数 13,091文字

 ガチャ・・・。
 仙台市民病院の一室は、冷たい空気に覆われていた。
「何しに来たんだ?」
 僕を見るなり、ヨウスケが言った。
「何しにって、別に・・・、お見舞いだよ。」
 病室にはアリサが言うように、野球部の三年生がみんな来ていた。その中心にいるシンジは、眠ったまま微動だにしない。まだ、意識は回復していないようだ。
「何がお見舞いだよ。今まで全然顔出してなかったくせに。そもそも、誰のせいで、シンジがこうなったと思っているんだよ。」
 ヨウスケの殺気だった声が病院中に響いた。僕も思わずカッとなる。
「俺のせいだと言うのか。お前らが部活から追い出したくせに。」
「バカ言ってんじゃねえ。お前が勝手にサボったんだろう。『今日は虫歯が痛いから行きません』とか嘘ついてよ。バレてないとでも思ったのか。」
「テメェ・・・!」
「ちょっと、二人ともやめてよ!」
 アリサが間にはいってくれたので、一触即発の危機は免れた。
「二人ともこんなところでケンカするなんて、サイテー。ヨウスケもせっかくマサトが来てくれたんだから、素直に感謝すればいいじゃない。マサトだって、これまでのこと謝れば。そうして、またやり直せばいいじゃない。」
「アリサがそこまで言うのなら・・・。」
 僕はそう言おうとした。だが、ヨウスケがかぶせるように言ってきた。
「なんで俺たちがマサトに感謝なんかしなきゃなんないんだよ。別にあんなヤツ、来てもらわなくていいよ。だって、もう野球部じゃないんだろ。」
「いや、それは・・・。」
「ほら、やっぱり。やめた人間が来る場所じゃねえよ。」
 冷たい目線が僕を見つめている。ヨウスケだけじゃない。ケータローもヒロキもトモキもスギヤンも。みんなこんなに冷たい目をするのか。
「わかったよ・・・。」
 病室を出ようとした。
「ちょっと待ってよ。本当にそれでいいの?本当に部活やめちゃうの。明日の試合はどうなるの?」
「どうなるも何も、塚田が投げるんだろう。もしかしたら、シンジが投げれるようになるかもしれないし。」
「そんなわけないじゃん!!」
 僕やヨウスケの今まで口論が吹き飛ぶような大きな声だった。
「シンジはまだ意識が戻ってないんだよ。あたし、すごく心配。シンジはこのまま死んじゃうんじゃないかって。仮に起きることができたとしても、あたしが試合には出さない。だって、無理だよ。それにあたしシンジが死んじゃうのが嫌なの。だから、みんなには仲良くしてもらいたいのに。それなのに、どうしてみんなケンカばかりするの。仲良くしてよ。シンジは今までみんなのために頑張ってきたんだよ。」
「・・・。」
 しんと静まり返った病室で、アリサのすすり泣く声だけが響いた。
 僕はなんて身勝手な考えだったのだろう。シンジがどんな気持ちで決勝まで投げてきたのか、どんな気持ちで仲間たちが共に戦ってきたのか、そして、どんな気持ちでアリサがそれを見守ってきたのか。本来なら、僕もチームの一部だったのに。
 もしかしたら、シンジは自分の体の異変に気づいていたのかもしれない。責任感一つで体を酷使して、限界を超えてしまったんじゃないか。
「出てって。」
 目を赤く腫らしたアリサが言った。
「ねえ、出てってば!」
 みんなぞろぞろと病室を出ていった。
「来てくれてありがとう。でも、もういいよ。あなたも出ていって。」
 帰り際に、もう一度シンジを振り返った。アリサと二人っきりになったシンジは、気のせいか寝顔が穏やかに見えた。もしかしたら、このまま眠り続けて、一生目覚めないんじゃないか。
 そしたら、俺はどうしたらしい。そしたら、俺はどうしたらいい。
 僕は左手をぐっと握りしめた。

 決勝戦の宮城球場は、6月の仙台とは思えないくらい蒸し暑かった。
 宮城野中対青葉台中。2年連続での同じカードであり、奥山とは3度目の対戦となる。
「厳しい戦いにはなる。こういうときこそ、チームが一つになれ!」
 試合前のエンジンで、鈴木先生がそう言葉を掛けた。エンジンの輪にシンジはいない。容態は安定しているが、まだ目を覚ましていないという。
「ねえ、マサトは来ていないの?」
 スタンドからアリサが声を掛けた。
「知らねえよ、あんなやつ。」
 ヨウスケの返事は冷たかった。
「おかしいなあ。さっきマサトの家に電話したら、お母さんが出て、野球の準備をして家を出たって。」
「電話ってどうやって?」
「ピッチを使ったの。」
「ああ、携帯電話。すげーな、初めて見たぞ。」
 試合は宮城野中の攻撃で始まった。
「ストライーク!」
 先頭はトモキ。ど真ん中のストレートを、のけぞるように見逃した。
「奥山はさらにでかくなっているな・・・。」
 ベンチでケータローがつぶやいた。2年前に初めて対戦した時は、長身だが細身で、華奢な印象がした。だが、この2年間で相当鍛えたのだろう。太ももも胸板もパンパンに膨れ上がり、ユニフォームがはちきれんばかりだった。身長もさらに伸び、190近くはあるように見えた。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 だが、一番変わっていたのは、球の威力だった。シンジの速球で速い球は見慣れているはずの宮中打線も、奥山の速球は異次元だった。
 ダンッ!!
 キャッチャーミットで受け取るたびに、重低音が球場中に響いた。
「ヤベーな・・・。」
 思わず弱気な言葉が口をついてくる。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 一番のトモキから、シンジの代わりに三番に入ったヨウスケまで、全くバッティングをさせてもらえないまま、一回の攻撃が終わった。
 塚田のピッチングは対象的だった。先頭にいきなりツーベースを許す苦しい立ち上がり。その後は、バックの好プレーもありなんとかゼロで乗り切ったものの、2回以降もランナーを出し続け、いつ得点されてもおかしくない状態だった。
「も〜、見てるこっちがヒヤヒヤしちゃう。一点取られたらおしまいなのに。こんなときにマサトは何にしてるの。」
 スタンドで見ているアリサは気が気じゃなかった。これまでは、僅差の試合でもシンジが投げているという安心感があった。だが、今見ているのは、昨日までとはまるで別のチームだ。
「ちょっと、何やってんの、アリサ?また、マサトの家に電話するの?あんな弱虫、ほっときなよ。」
「ううん、シンジにかけるの。」
「やめたほうがいいって。無理して、試合に来ちゃうかもしれないじゃん。」
「わかっている。でも、居ても立っても居られないの。」
 プルルル、プルルル・・・。
「だめ、留守電になっちゃった。」

 何しにここに来たんだろう・・・。
 シンジと二人きりの病室は、ガランとして、とても広く感じた。昨日、ヨウスケたちと言い合ったときには、あんなに息苦しかったのに。
「やっぱり、試合には行けなかったよ・・・。」
 眠ったままのシンジは、何も答えない。
「今さら野球部に戻れるわけないよな。あんなふうに言い合いになって、どんな顔して戻ればいいんだよ。」
「・・・。」
「アリサに言った言葉は本当か?今でも、俺のことをゴールデンルーキーだと思っているのか?」
「・・・。」
「まさかな。お前と俺とじゃ、もうレベルが違うんだ。どうせお前は、高校でも野球を続けるんだろ。育英とか東北に行って、甲子園目指すんだろ。俺にはそれは無理だ。ライバルだと思っていた、あの頃が懐かしい。」
「・・・。」
「俺だって、本当は、野球部に戻りたいよ。もう一度みんなと野球がしたいよ。こんな形で終わってしまうのは嫌だ。でも、どうやって戻ればいいのかわからないんだよ。」
「・・・。」
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「!!」
 突然、テーブルの上の何かが音を立てて震えだした。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「これは・・・。」
 長さ10センチくらいの長方形の物体。数字のボタンが並んでいて、その上に小さなディスプレイが光っている。
「鈴木亜里沙・・・。」
 僕は携帯電話を恐る恐る持ち上げた。振動音はまだ止まらない。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 携帯電話が話しだした。
「ねえ、シンジ。ごめんね、こんなときに電話しちゃって。本当は心配かけちゃいけないってわかっている。でも、どうしていいかわからなくて。宮中が大変なの。シンジもいないし、マサトもいないし。塚田くんは頑張っているけど、もう限界だと思うの。ああ、また打たれた!」
 プーーー、プーーー、プーーー、・・・。
 塚田ではダメかもしれない。もしも、失点を重ねてしまったら・・・。あの奥山から逆転できるだろうか。
 早くピッチャーを代えたほうがいい。このままでは確実に点を取られる。でも、シンジがいない中で、他に誰がいる・・・?
 ブーーーー。
「あっ!!」
 握ったままの携帯電話がまた震えだした。驚いた僕は、どこかのボタンを押してしまった。
「あれっ!?シンジ!?起きてるの?」
 アリサの声だった。
「あっ、あっ・・・。」
 初めて使う携帯電話に、どうやって切るのかわからない。僕は手当り次第、ボタンを押しまくった。
「ねえ、ちょっと。どうしたの?なにかしゃべってよ。」
 プーーー、プーーー、プーーー・・・。
 ようやく電話が切れたようだ。冷や汗をかいた僕は、携帯電話を机の上に戻した。だが、それでも携帯電話はしつこく音を出す。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 僕はもう電話を触らないことにした。また変なボタンを押すと、今度はどうなるかわからない。
 プーーー、プーーー、プーーー、・・・。
 今度はメッセージを残さないまま切れてしまった。ありさは本当にシンジが起きていると思っているのだろうか。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 携帯電話は何度も同じことを繰り返す。だがこんなことでは起きそうにないくらい、シンジは深く眠っている。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 ・・・。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 ・・・。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 ・・・。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 クソ、しつこい女だな。僕は携帯電話を取り上げた。どこかに電源を切るボタンがあるはずだ。
「えっ!?」
 ディスプレイに表示された名前に、体が固まった。
 鈴木先生・・・!?
「発信音のあとに、メッセージをどうぞ。」
 ・・・。
「おい、マサト。そこにいるんだろ。俺の言葉は、アリサから聞いているな。仲間を信じろ。敵を仲間に変えるのは、自分次第だ。ここで逃げたら、一生そのチャンスはないぞ。」

 4回裏の青葉台中の攻撃。この回も塚田はピンチを迎えていた。打ち取った当たりが内野安打になると、そこから制球が乱れ始めた。続く打者はストレートのフォアボール、続く打者にはツーストライクと追い込んだあとで、デッドボールを与えてしまった。
「お前はここまで本当によくやっているよ。」
 マウンドにできた輪の中心でケータローが話しかけた。
「毎回のピンチをゼロに抑えているということは、相手にとっては相当なフラストレーションなはずだ。我慢を続ければ、きっと流れは宮中に来る。」
「はい、がんばります、先輩。」
 だが、塚田は見るからに限界を迎えていた。額からはひっきりなしに汗が流れ、時々肩を震わせるように息をしていた。久々の登板、異常な暑さ、決勝戦の重圧、2年生ピッチャーには十分すぎるくらいの重荷だ。
「だが、リリーフも考えたほうがいいじゃないか?仮にこの回を乗り切れたとしても、まだ3回もある。」
 ヨウスケが言った。
「バカ、だからといって、誰に代えるんだ。経験のない一年生に任せるくらいなら・・・。
ん?」
 ブルペンを見やったケータローの動きが固まった。
「おい、あそこにいるのは・・・。」

 ブルペンで投球練習をする僕は、邪念を振り払おうと必死だった。
 長らく実戦から遠ざかっているけど大丈夫だろうか。練習さえ最近はまともにしていなかったのに、いつもどおりの球が投げれるだろうか。そして、仲間たちは僕を受け入れてくれるだろうか。
 だが、今はそんなことを心配している場合ではない。チームが勝つために自分ができることに集中すべきだ。
 バンッ!
 ミットを叩く音が響く。こんなものだっただろうか。僕の球はこの程度だっただろうか。
 バンッ!
 いや、違う。もっと勢いのある球が投げられたはずだ。
 バンッ!
 いや、まだまだ。
 バンッ!
 いや、まだまだ。
 バンッ!
 よし、これだ。
「おい、マサト。出番だ!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
 ヨウスケ、ケータロー、トモキ、スギヤン、ヒロキ、そして僕・・・。三ヶ月ぶりにマウンドで再会した僕たちは、なかなか言葉を発することができなかった。「よく戻ってきたな。」「今までのことは水に流そう。」「優勝目指して頑張ろう。」どれもこの場の言葉にふさわしくないような気がした。
「ストレートで押していくぞ。」
 マスクをかぶったヨウスケが言った。
「わかってるさ!」
 僕はヨウスケからボールを奪い取った。
 こうして僕の、最初で最後の中総体が始まった。4回裏、ノーアウト満塁、奥山相手に一点も許されない厳しい局面であることには変わらない。
「しまっていこー!」
 ケータローのいつもの掛け声も聞こえないくらいの声援がスタンドから響いている。「絶対勝つぞ、青葉台!絶対勝つぞ、青葉台!」
 同じ宮城球場でも、中総体決勝の舞台は独特だ。
 よし、負けないぞ!
 ストレートのサインを出した、ヨウスケのミットに思い切り投げ込んだ。
「ボール!」
 クソッ、少し力んだか。これならどうだ。
「ボール!」
 クソッ、これもだめか。
「ボール!」
 おかしいな・・・、ブルペンの最後の球はあんなにいいところに決まったのに。本番のグランドでは微妙に感覚が違う。
「ストライーク!」
 4球目でようやくストライクがはいった。だが、これは打者に打ち気がなかったからだ。あんな置きにいったような球では、次は確実にやられてしまう。
 その時、ベンチの鈴木先生が珍しく大声を上げた。
「仲間を信じろ!一人で野球をするな!」
 肩の力が抜けてくるような思いがした。そうか、無意識のうちに三振を狙いに行っていたんだ。だが、この場面で一番必要なのは三振ではない。
 ボコッ!
 バットの根っこに当たったとき特有の鈍い音が響いた。内閣高めのクロスファイア気味のストレート。狙い通りの内野ゴロがショートに飛んでいる。
 猛ダッシュをして捕球したトモキは素早く本塁へ投げワンアウト、受け取ったヨウスケも矢のような送球を一塁に返してダブルプレーが成立した。
「ナイスプレー!」
 気がつけば、打球を処理したトモキとハイタッチをしていた。野球でいがみ合っていた僕たちは、野球でしか元に戻れなかったんだ。
 野球の鉄則として、ノーアウト満塁で先頭が凡退すると、点数が入らないものだ。このときもツーアウトランナー一二塁とピンチには変わりなかったが、不思議と打たれる気がしなかった。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 ヨウスケが言ったとおり、ストレートで押し、最後はこの日初めてカーブを投げた。ストレートしか頭になかったのだろう。タイミンが合わず、膝から崩れ落ちるように空振りをした。
「ヨッシャー!」
 雄叫びを上げる僕を、みんながハイタッチで迎えてくれた。そこにいたのは、敵ではなく、二年半苦楽をともにした紛れもない仲間だった。
「いいぞ、いいぞ、宮中!いいぞ、いいぞ、宮中!」
 スタンドからも大きな声が飛んだ。その環の中に電話をくれたアリサもいるはずだ・・・。
「あれ?おかしいな・・・。」
「どうした?」
「アリサは来ていないのか?」
「いや、いるぞ。俺は話をしたもん。」
「でも、見当たらないんだ。」
「全校応援だからな。簡単には見つけられないだろ。」
「そうか・・・。」
 僕はもう一度スタンド全体を見渡してみた。一塁側を埋め尽くす制服の集団。袴姿の応援団。ブラスバンド部。フェンスにはボロボロの横断幕。
「飛べ 常勝軍団 宮城野中学」
 確かに大応援団だが、集団に埋もれるほど地味な子じゃないはずなのに。
「これで、我々が有利になったぞ。奥山だって疲れてくる。甘い球も増えてくるはずだ。」
 5回の表。改めてエンジンを組んだ僕たちに、鈴木先生が発破をかけた。確かに、塚田がここまで踏ん張ってくれたおかげで、流れが変わりそうな雰囲気はある。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 だが、奥山はそんなに簡単なピッチャーじゃない。甘い球が増えるどころか、ますます球威を上げてきた。
 ズドンッ!
 ミットを叩く音は、声援をかき消さんばかりだ。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 結局、三人で攻撃を終えた。糸口は見えそうにない。
 5回の裏、僕も相手に主導権を握らせないために必死だった。ストレートもカーブも必ずしも思い通りの球が投げられたわけではないが、何とか低めに集めようとだけは心がけた。低めに投げていれば、痛打をされてもゴロになる。ゴロになれば、バックがなんとかしてくれる。
 実際、3人目の打者も、打たれた瞬間はセンター前に抜けるかと思った。だが、スギヤンが華麗にバックアップ。セカンドベースの後ろで打球を抑えると、そのままノーステップで一塁に投げた。
「アウト!」
 うまい。確かに、もともとグラブさばきは巧みだったが、こんなにも守備範囲が広くなっていたとは。
「ナイスプレー!」
 と褒めても、スギヤンは、
「飛んだところが良かっただけ。」
 と、謙遜してみせたが、僕には気がついていた。僕が練習をサボりがちだったこの3ヶ月にも、みんな懸命に練習して、うまくなってたんだな。
 よし、俺だって!
 俄然力がみなぎった。こうなれば、延長線だろうが、再試合だろうが、とことん奥山と投げあってやる。
 そして、チャンスは7回にやってきた。その回先頭のトモキがデッドボールで出塁した。追い込んでおきながら、奥山が珍しく変化球を引っ掛けたのだ。
「よし、俊足のトモキなら何でもできる。」
 ベンチの期待は高まった。
「リー、リー、リー、・・・!」
 一塁コーチャーが大きな声でプレッシャーを掛ける。バッターボックスのスギヤンはバントの構えをしているが、これは偽装だ。鈴木先生のサインは盗塁だった。
「奥山のモーションの大きさなら、十分行けると判断したんだろう。」
 確かに、彼のマウンドさばきはうまくはない。僕もランナーとして奥山と対戦したことがあるが、その気になれば十分に盗めると感じた。僕より走力のあるトモキなら、難なく行けるはずだ。もっとも、あの頃の奥山と今の奥山が変わっていなければの話だが。
「リー、リー、リー、・・・バック!」
 奥山の牽制に一瞬ヒヤリとした。トモキが一瞬逆を取られたからだ。
「やっぱり、そこらへんもしっかり練習してきたか・・・。」
 それだけではない。逆を取られたということは、相手にこちらの盗塁の意思がバレたということだ。
「さすがに、作戦を変えてくるか。」
 しかし、鈴木先生のサインは盗塁のままだった。
「リー、リー、リー、・・・、ゴー!」
 スタートはやや遅れたように見えた。奥山の巧みな投球フォームに惑わされたからだ。しかし、そこからの加速がすごかった。宮城球場の天然芝をスパイクの歯が捉えると、そこから滑り込むまでは一瞬だった。
「セーフ!」
 キャッチャーからは矢のような送球が返ってきたが、時既に遅し。トモキの右足はすでにセカンドベースに到達していた。
「いいぞ、トモキ!」
 ベンチからもスタンドからも大きな声が飛んだ。これまで盛り上がれる場面の少なかった宮中サイドが、にわかに活気づいた。
「これで奥山も動揺してくれたらいいが・・・。」
 だが、奥山は落ち着いていた。二年生の頃から投げ続けている経験値がものを言うのだろう。動揺の気配のないまま、簡単にスギヤンを追い込んだ。
「スギヤンでは厳しいか。」
 誰もがそう思い込んだところから、スギヤンの怒涛の粘りが始まった。
「ファール!」
 ストレートには明らかに振り遅れている、変化球には体勢を崩されている。だが、ギリギリのところでバットに当て、5球連続でファールにしてみせた。
「そろそろ奥山もじれてくるか。」
 カーン!
 6球目でようやく前に飛んだ打球は、勝負としては奥山の勝ちだった。ボテボテのセカンドゴロ。完全に球威が勝っていた。だが、それこそがスギヤンの狙いだった。なんとしてもトモキを三塁に行かせる。その執念が生んだセカンドゴロだった。
「ナイス進塁打!」
 僕たちには彼の狙いがわかっていた。ワンアウト三塁、あとは塁上のトモキをどうやってもう一つ進塁させるかだ。
 ここでバッターは、ヨウスケ、ケータローのクリーンアップ。宮中打線の中核であり、トモキの足を考えれば、スクイズも有効だった。
「よし、一点ははいる。」
 ベンチの期待も一気に高まった。
 だが、敵もその点はよく考えていた。ヨウスケを敬遠気味のフォアボールで歩かせると、ケータローに対してもキャッチャーは立ち上がった。
「満塁策か!?」
「これまでの奥山のピッチングを考えれば、勝負でも良かったんじゃないか。ヨウスケもケータローもタイミングはあっていなかったぞ。」
「いや、それ以上にトモキの足を警戒したんだろう。あの足なら、多少下手なバントでもセーフになる。満塁なら、その確率は減る。」
 ここで打席に立ったのはヒロキ。シンジがいない中、5番に打順を上げていたのだ。
「スクイズを考えるなら、むしろヒロキのほうが得意だ。」
 だが、ここで信じられないことが起こった。キャッチャーがボール気味に構えている。立ち上がってこそいないが、その構えは外角から大きくハズレていた。
「どういうことだ。」
「これもスクイズを警戒してのことだろう。ボール3つとなれば、スクイズはさせづらい。」
 ボールが3続いたあと鈴木先生のサインは「待て」。難なくストライクを取り、ワンストライクスリーボールとなった。
「スクイズを仕掛けるなら、当然このカウントだろう。追い込まれてからだとリスキーだ。だが、敵だってそれはわかっている。」
 投球と同時に一塁手と三塁手が猛ダッシュを仕掛けた。ヒロキの視界には二人の大きな姿が迫っている。
 カーン!
 さすがに打たざるを得なかった。ヒロキの渾身のスイングは、しかし明らかにストレートに押されていた。
 力のないファールフライ。ファースト後方に飛んだフライを、セカンドが猛ダッシュで追いかけていく。
「スタンドに入れ!」
 普通のグランドであれば、とっくにファールになっていただろう。だが、宮城球場のファールグランドは広い。フェンスギリギリではあるが、グランド側に落ちそうだ。
「アウト!」
 最後はフェンスにぶつかるようにして、打球を抑えた。
「クソ〜。」
 誰もが落胆したその時だった。
「ゴー!!!!!!!」
 トモキが三塁から猛ダッシュでホームに向かっている。タッチアップだ。取ることに必死だった二塁手はトモキのスタートに気がつくのが一瞬遅れた。しかも、内野フライとはいえ、宮城球場のファールグランドは広い。中継に入る人もいない。ちょっとした遠投を見せなければならなかった。
「セーフ!」
 青葉台中の作戦も間違ってはいなかっただろう。荒れ球の昔の奥山ならいざしらず、制球力を身に着けた今の彼なら、スリーボールからでも十分に勝負できる。スクイズをさせるよりはよっぽど抑える確率が高い。だが、一瞬のすきを突くトモキの走力と、球場の特性を計算に入れることはできなかったようだ。
「ナイスラン、トモキ!」
 激走のトモキをベンチみんなで迎え入れた。ある者はハイタッチをし、ある者はメガフォンでどつき、まるで勝利が決まったかのようにもみくちゃにした。
「よし、あと一イニングだ。絶対守るぞ!」
 ケータローが気合の掛け声を掛けた。後続は倒れ1得点に終わったものの、今の僕たちにはそれだけで十分に勝ちきれるだけの、一体感があった。
「がんばれ、がんばれ、武田!がんばれ、がんばれ、武田!」
 全校応援の大きな声に後押しされ、僕は最終回の勝利へのマウンドに上った。

「思い切っていけよ。」
 ヨウスケのアドバイスは昔から変わらない。
「当たり前だ。」
 そう言って、投球練習を終えた最後のボールを受け取る。4回途中からマウンドに上った僕は、5回6回といずれも三者凡退に抑えていた。特に6回は2つの三振を奪うなど、尻上がりに調子を取り戻していった。しかも、今は心強い味方がいる。チームが一つになった今なら、どんな相手でも負けることはない。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 よし、あと二人だ。ちらりとスタンドの方を見る。攻撃側の青葉台中より、優勝を目前にした宮中のほうが盛り上がっているようだ。
 ボコッ!
 次の打者もクロスファイアで詰まらせた。平凡なサードゴロ。
「アウト!」
 信じられない思いだった。昨日までは部活をやめたつもりで生きていたのに、今、こうして優勝の瞬間に立ち会えるなんて。
「あと一人!あと一人!」
 宮中応援団からはなお一層大きな声援が飛んでくる。
「勝ち急ぐなよ。」
 一塁からケータローが話しかけた。
「わかってるさ。」
 その言葉を証明するように、3球で追い込んだ。ヨウスケの構えは、内角低め。決め球はいつもクロスファイアだ。
 どうだ!
「ボール!」
 少し手元が狂ったか。続くサインもストレート。
 どうだ!
「ボール!」
 おかしい・・・。今まであのコースは取っていたはずなのに。審判にも迷いがあるのか。
「勝ち急ぐなよ。」
 もう一度ケータローがそう言った。
 ヨウスケのサインは、ここでカーブ。僕は首を振った。俺は自分のクロスファイアを信じている。
 えい!
 カーン!
 センター前のクリーンヒットだった。
「勝ち急ぐなよ。」
 しつこくケータローが言ってくる。
「ああ、わかってるよ。まだ、ランナーを一人出しただけだ。あとワンアウトなのは変わらない。」
 セットポジションに入り、ランナーを正面に見る。バントはないが、盗塁も考える必要はないだろう。あとアウト一つを取ればいい。
「ストライーク、ツー!」
 さっきと同じだ。ここも3球で追い込んだ。ヨウスケのサインは、カーブ。ここはあいつに従っておこうか。
 カーン!
 これもセンター前のクリーンヒットだった。
「勝ち急いでなんかないさ!」
 伝令とともに、内野手がマウンドに集まった。僕はケータローに言われる前に、そう応えた。
「いや、問題はそこじゃないだろ。」
 ケータローの返事は意外だった。
「一度、帽子を取ってみろ。」
「ん?帽子?」
 額やうなじにどっと大粒の汗が流れた。白い帽子は汗を吸って、どす黒く変色している。
「気がついていないだけで、疲れが溜まっているんだ。この異常な湿度と暑さ。それから、言いたくはないが・・・。」
「わかった・・・。」
 ケータローの言葉を遮った。もう言われなくてもわかっている。練習不足がたたったんだ。
 ちょうど一年前のシンジもそうだった。実戦の場をすべて高田先輩に譲っていたせいで、試合で身につくはずの体力が不足していたんだ。僕なんか、試合どころか練習すら満足にしてこなかったのに・・・。
「ストレートで押すピッチングはもうできない。変化球を低めに集めよう。ゴロを打たせれば、バックがなんとかしてくれる。」
 ヨウスケがそう言った。
「ああ、わかった。俺は、バックを信じるよ。」
 だが、自覚をすると、急に疲れが湧いてきた。足の筋肉も腕の筋肉もパンパンだ。それでも日差しは容赦なく照りつける。
「ボール!」
 ヨウスケの言う通り、変化球を低めに集めた。
「ボール!」
 だが、バッターはなかなか誘いに乗ってこない。
 これでどうだ!
 カーン!
 打たれた瞬間ヒヤリとした。ゴロにはなったものの、痛烈な当たりが三遊間を襲っていく。
 やばい。
 僕は同点を覚悟した。
 それを救ったのはトモキだった。レフトへ抜ける直前でダイビングキャッチ。内野安打にはなったものの、三塁を回りかけていたランナーは慌てて帰塁した。
「ありがとう、トモキ!」
 だが、ツーアウト満塁、ピンチを抱えていることには変わらない。それに僕は自信を失っていた。3人続けて痛打されている。僕の球威は明らかに落ちているに違いない。
「ゴー、ゴー、青葉!ゴー、ゴー、青葉!」
 気がつけば、青葉台中の応援のほうが大きくなっている。僕はもうだめなんじゃないだろうか。
「ボール!」
 気持ちの弱さが投球にも現れる。
「ボール!」
 打たれたらどうしようという気持ちが、ボールをストライクから遠ざける。
「ボール!」
 スリーボール。
「思い切っていけ。追い込まれているのは相手の方だ。」
 わかっている。あとワンアウトだ。それに奥山だって、満塁からスリーボールにしてみせたじゃないか。ヤツにできるなら、俺にだって。
「ストライーク!」
 ようやく一つ取れた。だが、勝負はここからだ。
「ファール!」
 ファールチップした打球がバックネットにぶつかった。
「追い込んぞ!」
 ヨウスケが声をかける。三塁側スタンドからはサヨナラを期待する青葉台中の応援団の声、一塁側からは「あと一人!」の掛け声が「あと一球」に変わる。
 ヨウスケのサインは、ストレート。渾身のクロスファイアで試合を決めてやる。
「ファール!」
 やや、甘めに入ったか。だが、振り遅れてはいる。
「ファール!」
 続くストレートもファールチップ。なかなか決めきることができない。
「ファール!」
 ここからは体力と気力の勝負だった。お互いにここで試合が決まるというプレッシャーの中、ギリギリのところで「ゲームセット」のコールを免れた。ストレートには遅れている、カーブには崩れている。だが、空振りにはならない。バットを目一杯短く持って、当てることだけを考えている。
「あと一球!あと一球!」
 このコールが始まってから何球投げているだろうか。ただでさえ体力を失いかけている僕には、一球一球が限界への挑戦だった。
「ファール!」
 あれだけ流れていた汗が止まった。頭がボーッとしてきた。熱射病への入り口か。
「ファール!」
 フラフラだ。俺はもうダメかもしれない。
「あと一球!あと一球!」
 こんなとき、声援が力になると言うが、気持ちだけではカバーできないよな。「飛べ 常勝軍団 宮城野中学」今頃バスケ部は優勝を決めただろうか。野球部はもしかしたらダメかもしれない。
「ん!?あれはなんだ?」
 僕はセットポジションを外して目を凝らした。
「飛べ 常勝軍団 宮城野中学」の大きな横断幕の向こう側。二列に並んだ15枚の画用紙。決してきれいとは言えない手書きのマジックペンの文字は、しかし、僕の目にははっきりと見えた。
「宮中二枚看板
 ゴールデンルーキー」
 一体誰が・・・?
「がんばれ、マサト〜!」
 アリサ!
 だが、それ以上に驚いたのは、その隣りにいた男だった。
 シンジ!
 どうして、さっきまで病院にいたはずなのに。
 これまでのことが蘇ってきた。
 初めて野球を知ったリトルリーグ時代。あの時はただがむしゃらで、純粋に野球を楽しんでいたよ。隣町の大野と戦った決勝戦。初めて自分よりうまいものの存在を知ったよ。でも、それも嬉しい思い出の一つだよ。そして、その大野と切磋琢磨した中学時代。辛いことも多かったけど、最後にこの場に立つことができてよかったよ。
 なあシンジ。お前はこれからも野球を続けるのか。俺はもうやめようと思っていた。でもな、野球って楽しいな。
「えいっ!」
 少年時代、最後の一球を投げた。
 最高のクロスファイアだと思った。ちょうどリトルリーグの決勝戦。シンジに打たれたのと同じだ。これだけのクロスファイアが投げれるなら、もう打たれても構わない。
 僕の少年時代は、そうして終わった。
 野球に笑い、野球に泣く。それが僕の少年時代の全てだった。
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