第9話

文字数 9,537文字

 秋季大会優勝から、まさかの一回戦負け。これを機に、一気にチームの雰囲気が変わってしまった。
 宮城野原ベアーズと原ノ町キングスという2つのリトルリーグのチームがくっつくような形でできた宮中野球部。せっかく最初はあった派閥意識がなくなっていったのに、またチームが分裂してしまった。いや、正確に言うと、僕だけが孤立してしまった。
「なぜシンジに任せなかった。お前がでしゃばって続投したから負けたんだ。」
「俺は外せと言ったんだ。自分の実力を過信して、ストライクを取りに行ったんだろ。」
「せめてシンジが投げて負けたんなら、あきらめが付く。シンジを出さずに負けたんじゃ、悔やみきれないよ。」
 試合後のミーティングでみんなから言われてことが頭から離れない。授業中もその事ばかり考えてしまう。
「シンジに代えたからって、うまく行っていたとは限らないだろ。」
「最後はたまたまヒットを打たれたが、ツーアウトを取るまでは、僕が圧倒してたんだ。」
「ツーアウトを取ったんだから、外野は後ろだろ。長打警戒がセオリーなはずだ。」
 下手に言い返さなければよかった。孤立が余計に深まるばかりだから。
「マサトばかりを責めるのは間違っている。野球はチームスポーツだ。」
 最後に鈴木先生がそう言ってくれたのが、唯一の救いだった。
 キーンコーン、カーンコーン。キーンコーン、カーンコーン。
 6時間目の授業が終わった。運動部の連中は教室で練習着に着替えてから部活に行く。
「マサト、部活行かないのか?」
 制服のまま教室を出ようとするところを見つかってしまった。
「病院に行くんだ。虫歯ができちゃって。」
「ふーん・・・。」
 背中を刺す視線がなんとなく痛く感じた。嘘をついているわけではないが、やましいものはないわけじゃない。今まで歯医者なんてまともに行ったことがなかった。母親にうるさく言われようがお構いなし。部活を優先し、今まで一度も行ったことがなかった。
「ねえ、あれ見て・・・。」
 廊下の途中で窓際で戯れる女子生徒を通りすがった。彼女らはいつも窓から野球部の練習を見ている。1年生の時からずっとそうだ。
「あ、本当だ・・・。」
 そのうちの一人と目が合った。同じクラスになったことがないので、名前は知らない。2年以上ほぼ毎日練習を見ているなら、僕のことは知っているかもしれない。
「え〜、マジで、信じらんない。アリサって、よっぽどどうかしているよ。」
 下の名前がアリサということはわかった。でも、何の話をしているのかはわからない。誰かの悪口でも言っているんだろう。女子とはそういうものだ。
 キーンコーン、カーンコーン。キーンコーン、カーンコーン。
 部活動開始を告げるチャイムが鳴った。僕はもう誰にも見られないように、小走りで学校を出ていった。
 一度サボってしまうと、その後は段々と罪悪感がなくなっていった。翌週も一回サボると、次の週は2回サボった。その次の週は3回サボった。言い訳も歯医者だけじゃ足りなくなったから、「寝違えて首が痛い」とか「母親が体調を崩したので、看病しなければならない」とか、思いつく言い訳を次々と並べていった。
 そうして僕は、野球部に居場所をなくしていった。たまに行く練習も、この上なく苦痛に感じてきた。バッティング練習をしていても、守備練習をしていても、どこか気持ちはうわの空。
「何が楽しくて野球なんかやっているんだろう。」
 一年生の時は球拾いばかりで、早く練習したくてうずうずしていた。今、思う存分野球ができる環境にあって、あの時以上に野球がつまらない。
「部活、やめようかな。」
 練習試合でも僕の出番は減っていった。最初はシンジに続く2番手という位置づけだった。仮にも宮中二枚看板。春季大会では悔し涙を飲んだものの、中総体ではやり返せる。そんな気持ちがチームの中にあった。でも、僕が毎試合のように失点を重ねるなか、意識が変わっていった。
 宮中には大野真司しかいない。いや、大野真司さえいれば十分だ。
 その方針は、大会一週間前、最後の練習試合で明らかになった。その日は午前と午後のダブルヘッダーだったにもかかわらず、僕の出番は一切なかった。二試合ともシンジが先発。途中から投げたのは二年生ピッチャーだけで、僕の名前は呼ばれることはなかった。
「部活、やめようかな。」
 最後の一週間も、殆ど練習に行かなかった。僕がサボっていても、もう誰も何も言わない。僕の部活での存在感など、もうないに等しかった。
「中総体にも行かない。」
 そう決めた大会前日だった。
 キーンコーン、カーンコーン。キーンコーン、カーンコーン。
「武田くん、部活行かないの?」
 廊下の女子が突然話しかけてきた。例のアリサという子だ。いつもなら数人とたむろっているのに、今日に限っては一人でいる。 
「あ、ああ。歯医者に行かなきゃならないんだ。」
 少し驚きながらも、もう付き慣れた嘘を反射的に答える。
「歯医者には直接行くの?」
「いや、一度家に帰ってからだけど。」
「武田くんの家って、宮城野原だったよね?」
「まあね。」
「じゃあ、一緒に帰ろ。私も同じ方向だから。」
「え?」
 戸惑う僕をよそに彼女はもう階段を降りかけている。
「ねえ、早くおいでよ〜。」
「わ、わかったよ。」
 僕も慌てて、階段を降りていった。
 いつも通い慣れているはずの下校の道が、とんでもなく長く感じた。同じ方向に帰る他の生徒の視線が少し気になる。僕の学年にも付き合っている男女はいたが、いつだって冷やかしの的だった。僕らだって、一緒に帰っているのを見られたら、どんな噂が立つかわからない。
 彼女は僕の斜め前を無言のまま歩いている。僕はその後姿を見ながら、やはり無言でついていく。これなら、一緒に帰っているのか、たまたま同じ方向を歩いているのか、わからないくらいだろう。
 僕はこの長い時間をやり過ごそうと、彼女の後ろ姿を見ることに集中していた。夏服の白いシャツ。膝上20センチで揺れる短いスカート。校則ではスカートは膝が隠れる位置でなければならないが、クラスに何人かは守らない人がいた。
「ね、ねえ。」
「何?」
「なんでもない・・・。」
 話しかけようとしてやめた。聞きたいことは山ほどあった。どうしていつも野球部の練習を見ていたのか。どうして僕に話しかけたのか。どうして一緒に帰ろうと誘ったのか。
 でも、どれもどうしても聞けなかった。女子と話し慣れていなかった僕には、そんな時どうしたらいいかわからなかった。
「ハチくんで買い食いしよ。」
 スカートの揺れが止まった。振り返る彼女の顔は笑顔だった。
 「ハチくん」とは、通学路にあるたこ焼き屋さんのことである。近くに宮城育英高校があることもあり、よく買い食いをする人を見かけた。もっともそれは高校生だけで、宮中生でそれをする人は、僕の知る限りいなかった。
「買い食いは校則で禁止されているよ。」
 お堅い僕のリアクションも、彼女には想定内だったのかもしれない。
「フフフッ、武田くんって、本当に真面目なんだね。おじさーん、ソフトクリーム2つ!」
「へい、まいど!」
 やり慣れている・・・!
「ねえ、買い食いのソフトクリームって、なんでこんなに美味しんだろう。」
 宮城野原公園のベンチに座る僕は、やはりどうしても落ち着かなかった。一緒に帰るだけならともかく、ハチくんで買い食いとは、もうどうにも言い訳ができない。
「武田くんは食べないの?ソフトクリーム嫌いなの?」
「いや、そんなことないよ。」
 僕は押し込むように、ソフトクリームを口に入れた。
「やだ、そんなふうにしたら、口元がベタベタだよ。はい、これ使って。」
 ハンカチを渡された。
「あ、ありがとう。」
「フフフッ、武田くんって、結構かわいいんだね。」
 考えてみれば、これが普通の中学生生活なのかもしれない。今までの僕は野球しかやってこなかった。本当ならもっといろいろな体験があってよかったはずだ。
「名前は、なんて言うんですか?」
 僕はまだ彼女の名前を知らないことになっている。
「鈴木亜里沙。」
「鈴木さんですか・・・。」
「でも、名字で呼ばれることはないから。アリサって呼んで。」
「アリサさん・・・。」
「アリサでいいって。それになんでさっきから急に敬語なの?」
「ご、ごめん。」
 6月の仙台の日差しが気持ちいい。これまでずっと部活で嫌な思いしかしてこなかったから、久しぶりに感じる開放感だ。それに、このアリサという子、不良っぽい見かけだけど、ハンカチを持っていたり、案外ちゃんとした子なのかもしれない。
「ねえ、最近、練習にあまり行ってないよね。なんでなの?」
 いきなり核心を突く質問が来た。毎日練習を見ているだけあって、よく知っている。
「歯医者に行かなきゃならないからだよ。仕方ないだろ。」
「嘘でしょ。」
「嘘じゃないよ。虫歯はちゃんとあるんだから。」
「じゃあ、なんでソフトクリームなんか食べているの?虫歯に悪いよ。」
「なんでも何も。君が勝手に買ったんだろ。」
「本当のこと言ったら?」
「本当のことってなんだよ。」
 彼女が顔を近づけて、僕の目を覗き込んできた。ただ遠くから練習を見ているだけの女なのに、全てを見透かされているようで気持ちが悪い。
「本当は、みんなと喧嘩して、居心地が悪くなっただけなんでしょ?」
「違うよ!」
 急に大きな声を出してしまった。でも、彼女には全く動じるところがない。
「フフフッ、武田くんって、隠し事ができない性格なんだね。」
 完全に彼女のペースだ。手玉に取られてしまっている。
「明日も行かないの?大会本番なのに。」
「わからない。でも、僕なんかいてもいなくても関係ないよ。どうせ出番なんかないだろうし。」
「そんなことないよ。武田くんはいいピッチャーだし、足も速いから、それ以外でも出番はあるかもよ。」
「君は知らないだろうけど、最近はさっぱりだめなんだ。春季大会で打たれてみんなと仲違いして以降、全然自分のピッチングができなくなっちゃった。何を投げても打たれると言うか、何を投げたらいいかわからないと言うか。そんな状態じゃ、とても大会で投げらんないよ。」
「技術的な問題じゃなくて、精神的な問題だって言っていたよ。」
「ん?」
「マサトは技術的には中学生のトップクラスのものを持っている。あれだけの切れのある球を内角に投げ込めるピッチャーはそうはいない。でも、精神的には繊細すぎる。精神的に強くなれば、もっといいピングができる。」
「・・・。」
「精神的に強くなるには、仲間が必要だ。今、彼の周りには敵しかいない。でも、敵を仲間に変えるのは自分次第だ。」
「・・・それ、誰が言っていたの?」
「鈴木先生。」
「なんで君が知っているの?」
「パパだから。」
「えっ!」
 ソフトクリームを落としそうになった。そうか、毎日のように野球部を見ていたのは、お父さんがいたからなのか。
「でも、みんなには内緒にしててね。同じ学校に娘がいるって、何かとやりにくいんだって。あたしはそういうのどうでもいいんだけど。」
「鈴木先生がそんなふうに思っていたなんて、知らなかった。でも、どうすればいいんだ。今さら、敵を仲間に変えるだなんて、無理だよ。」
「どうしてそう思うの?」
「だって、僕はもうだめなんだよ。僕は大事なところで打たれてばかりだ。この間の大会だけじゃない。先輩の新人戦だって、僕のせいで優勝を逃した。僕なんか投げなきゃいいんだよ。きっとみんな僕のことを恨んでるよ。」
「さすがにそれは思い込み過ぎじゃない?」
「そんなことないよ。間違いなく、この間は僕が投げるべきじゃなかった。シンジに代わっていれば、あんなことにはならなかったんだよ。意地を張って続投しなきゃよかった。」
「案外、みんなはそんなふうに思っていないものだよ。」
「そんなことないよ。」
「絶対、違うよ。」
「いや、絶対そうだ。」
「絶対、違う。だって、シンジはあなたに投げてもらいたがってたもん。」
「え?」
「あいつは宮中の二枚看板なんだから、続投で当然だ。あいつで打たれたんなら仕方ない。俺は納得行く。」
「・・・。」
「それに、シンジはあなたに戻ってきてもらいたいって。あいつと俺は、ゴールデンルーキーだ。だから、最後まで一緒に戦いたい。」
「・・・。」
 意外だった。あの場面、シンジが一番怒っていると思っていたのに。
「だから、明日は試合に行ってよね。あたしも応援に行くから。」
「ちょっと、待って。」
 立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「なんで知っているんだ、シンジがそんな事を言っていたなんて?これもお父さんから聞いたのか。」
「違うよ。」
「じゃあ、誰から?」
「本人から直接。」
「?」
「あたし、シンジと付き合ってるから。」
「!」


 大会初戦。行こうかどうか、朝まで迷った。
 アリサが言うように、シンジが僕のことを信頼してくれているのなら、行かないのは裏切りだろう。でも、他のみんなはどうか。練習試合で結果を出せず、練習もサボりがちな僕のことを受け入れてくれるだろうか。
「試合開始!」
「よろしくお願いします!」
 挨拶の輪に僕はいなかった。試合会場に行くには行ったが、チームには加わらず、スタンドの端の方でばれないように試合を見ることにした。
 初戦の相手は、泉中央中学。どういう因縁か、春季大会と同じ組み合わせだった。
「苦戦は免れないな。」
 泉中央は初戦で宮中を破ったあとも快進撃を見せ、決勝でも接戦の末、青葉台中を撃破。見事に優勝を飾った。あの実力は間違いなく本物だ。もし、宮中にとって有利な条件があるとしたら、あの試合にシンジが投げなかったことだ。しかし、泉中央打線は、どの打者も選球眼が良くしつこい。シンジと言えども、簡単には行かないだろう。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 あまりの一瞬の出来事に思わず目を疑った。僕や塚田があんなに苦戦した打線をいとも簡単に三者凡退に片付けた。まるで、別のチームを相手にしているかのようだ。
「ナイスピッチ!」
 チームメイトと笑顔でハイタッチを交わす。その光景は、僕がいないだけで、いつもと何も変わるところがなかった。
 打線の方は相変わらず苦戦を強いられることになった。前回と同じように、タイプの違うピッチャーが次々出てくる。それぞれがずば抜けているわけではないが、要所を締めるうまさがある。それに、守備力がさらにアップしている。いい当たりをしても、うまくさばがれてアウトにされる。せっかく作ったチャンスも、何度好プレーに阻まれたかわからない。
「なんでそんなところにいるの?」
 後ろから突然声を掛けられたのは、三回裏のチャンスを潰してため息を付いたときだった。
「えっ!?」
 鈴木亜里沙だった。
「いや、なんでって言われても、その・・・。」
「試合のことは気になるけど、みんなと一緒になるのが怖いから、そんなところに隠れているんでしょ。」
「・・・。」
 彼女の勘の鋭さには、返す言葉もない。
「でも、来てはくれたんだ。良かった。もしかしたら、家から一歩も出れずに、引きこもりになっちゃったんじゃないかと思った。」
「さすがに、それは・・・。」
「で、試合の方はどうなの?」
「ゼロゼロ。重苦しい試合だ。こっちが一方的に攻めてて点数が入らないんだから、なんだか嫌な展開だ。」
「でも、点を取られなきゃいいんでしょ。ほら、見て。シンジが投げてる。」
「いや、ずっと見てるし・・・。」
 アリサが見始めたのに気がついているわけではないだろうが、この回から、さらにギアを上げてきた。ストレートも変化球も全くタイミングが合わない。僕や塚田はファールで粘られて苦戦したが、ファールさえ打たせない。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 まるでレベルが違う。別世界のピッチングだ。
「ヤッター、すごい!ねえ、これだけ抑えているんなら、絶対勝てるよね?」
 アリサは子供のようにはしゃいでる。
「いや、野球はそんなに単純じゃないんだよ。さっきも言ったけど、押しているのに点数が入らないというのは、流れが悪いということなんだよ。」
「でも、シンジは三振ばっかりだよ。」
「だから、怖いんだ。野球というものは、ちょっとしたきっかけでどう転ぶかわならない。」
「・・・ねえ、武田くん。」
「ん?」
「武田くんって、本当にネガティブだよね。」
「え!?」
「さっきから、ずっと同じこと言ってんの。宮中が押していて、シンジがいいピッチングをしていても、結局負けるって。」
「いや、負けるとまでは言ってないけど・・・。」
「少しはポジティブに考えたら。人生損するよ。どんな事もポジディブに言っていたら、絶対いいことあるって。ほら、ヒット打ったよ。」
 その回の先頭のトモキがヒットで出塁した。これで毎回のランナーにはなる。
「でも、ここからが続かないんだ。」
 次のバッターはセカンドゴロ。ダブルプレーは免れたが、ワンアウトランナー二塁となった。
「武田くんの応援が足りないから、タイムリーが出ないんだよ。ほら、シンジ〜、頑張って〜!」
「待て、そんな大きな声出したら、バレるじゃないか。」
 カキーン!
 目の覚めるようなライナーがショートの頭上を超えていった。
「トモキ〜、走れー!!」
 俊足を飛ばして一気に三塁を回った。外野はようやく左中間の深いところで打球を抑えたところだった。
 ホームイン!
「ヤッター!!」
 アリサは僕の手を取って、ぴょんぴょんと跳ね回って喜んでいる。僕も思わずその手を強く握り返してしまった。
「やっぱり、宮中は強いね。これできっと勝てるね。」
「いや、先制点を取っただけじゃ安心できないよ。野球というものは、複雑にできているんだから。」
「また〜、ネガティブなことばかり言っている。一生懸命応援すれば、もっと点数が入るよ。かっとばせ〜!」
 正しいのは、アリサの方だった。シンジのタイムリーで堰を切ったように打線が繋がりだした。続く、ヨウスケとケータローも連続タイムリー。たまらず、ピッチャーを交代させても、勢い止まらず、一気に5得点を上げた。
「いいぞ、宮中!」
 こうなれば、あとはシンジのワンマンショーだった。三振に次ぐ三振、たまにバットに当てられてもボテボテの内野ゴロが精一杯。あっという間に、相手打線を片付けていった。
「ゲームセット!」
 完全試合だった。信じられない思いだった。塚田や僕が苦戦したのは一体何だったんだ。同じチームでありながら、住む世界が違う異次元の人間。いや、最初から僕とは才能の差があって、少しでもライバルだと思ったことが間違いだったんだ。
「やったね。」
 アリサは、また握手をしてきた。
「うん。」
「次の試合は、武田くんも試合に行ってよね。応援してあげるから。」
「いや・・・。」
「どうしたの?」
「ごめん・・・。」
「ちょっと、どうしたの?もう帰っちゃうの?」
 アリサの手を振りほどいた。
「今度シンジに会ったら伝えておいてくれよ。僕は宮中の二枚看板なんかじゃない。ゴールデンルーキーは、お前一人だ。」
「じゃあ、武田くんはどうするの?」
「部活をやめるよ。お父さんによろしく。」
「ちょっと!ねえ、ちょっとてば!」
 僕は猛ダッシュをしてその場を去った。もう二度と鈴木亜里沙が声を掛けてこれないように。

 その日以来、僕は野球の試合に行くことはなかった。時にはサッカーの会場に行き、時にはバスケの試合を見た。
「ゴー、ゴー、宮中!ゴー、ゴー、宮中!」
 最初は加藤なんかを応援している自分に違和感を感じていたが、だんだんと馴染んでいった。僕の居場所はマウンドの上ではなく、応援団の輪の中だ。もう二度とあの場所には戻らない。
「ナイスシュート!」
 きれいなスリーポイントシュートが決まって、宮中が勝利を収めた。
「すごいな、バスケ部も決勝進出だ。」
「野球も明日決勝戦だし、アベック優勝なるかもな。」
 隣の人の話を盗み聞きして、初めて知った。驚きはしない。初戦のシンジのピッチングを見る限り、まともに打てる中学生は宮城県にはいないだろう。決勝戦も見るまでもない。
「お前はどっち行く?バスケ、野球?」
「やっぱ、野球かな。大野ってやつは、かなりすごいらしいぞ。プロになれるかもしれないってよ。」
「知ってる。あいつ、頭もいいしな。すげーやつがいるんだな。俺も、野球に行こうかな。」
「ってか見てみろよ。あいつ、武田じゃね?」
「武田って、野球部の?なんでこんなところにいるんだ?」
 嫌な話題をしやがる。僕は急いで外に出た。

「マサト、女の子から電話よ。」
 その日の夕方、母から言われてぎょっとした。
 反射的に鈴木亜里沙だとわかった。どうせ「なんで試合に来ないの。決勝戦なんだから、来なさいよ。」とでも言ってくるんだろう。誰が行くもんか、俺はバスケの方に行くんだ。
「ねえ、大変なことが起きたの。」
「えっ・・・。」
 アリサの声は至って真剣だった。
「シンジが倒れちゃって、今、病院にいるの。」
「な、なんで!?どうしたんだ?」
「脳震盪になっちゃったの?」
「脳震盪!?なんで?また、打球が頭に当たったのか?」
「ううん、倒れたのは試合が終わったあと。今日もシンジが投げたんだけど、試合が終わってベンチに戻ろうとしたときにバタンって。グランドに救急車が入ってきて大変だったんだから。」
「救急車!?救急車で運ばれたのか?」
「うん、今、病院で寝てる。私もさっき着いたところだけど、すごく心配で。まだ、意識が戻ってないの。このままずっと目が覚めないんじゃないかって、心配で。」
「でも、なんで・・・?試合が終わった後なら、頭を打ったわけじゃないんだろ。」
「お医者さんは後遺症だろうって言ってる。一度、ひどい脳震盪を起こすと、癖になることがあるんだって。どこか頭を打たなくても、疲れてているだけでそうなっちゃうことがあるんだって。それに今日はすごく暑かったから・・・。」
 暑さと疲労・・・。そうか、それでこれまでは後遺症が出なかったんだ。脳震盪を起こしたのは秋季大会だったし、春季大会は投げることなく敗退した。暑さのなか連投するなんて、シンジはしてこなかったんだ。
「そうか・・・。」
 責任を感じなくはない。控えのピッチャーが塚田しかいないという中で、無理して一人で投げ続けていたんだろう。もし、僕がいれば・・・。少しは負担を減らすことができたかもしれない。
「わかった。早く良くなることを願うよ。お大事に、と伝えておいてくれよ。」
「はっ!?何なの、あなた!?」
 アリサの声色が変わった。
「あなた、シンジの友達でしょ。お大事にと言うだけなの?」
「いや、・・・だから何なんだよ。俺、医者じゃないし、それ以上何もできないよ。」
「何もできなくてもいいじゃん。そばにいてあげてよ。それだけでシンジの力になるよ。」
「そうかも知れないけど、でも・・。」
「『でも』じゃないでしょ。みんなも来てるんだから、あなたも来てあげてよ。」
「みんなって・・?」
「みんなはみんなよ。ヨウスケもケータローも、ヒロキもトモキもスギヤンも。野球部の人はみんな来ているよ。なんであなただけ来ないの?」
「みんな来ているなら、なおさらいいだろ。」
「なんで?」
「だって、俺、もう野球部じゃないし。合わせる顔がないよ。」
「サイアク。サイテー。あなたって、最悪で最低な人間ね。まだメンツにこだわるなんて、チョーみみっちい。電話なんかしなきゃよかった。もう二度と来ないで。学校にも来なくていいから。あなたみたいな冷たい人間が、同じ学校にいるなんて、マジキモい。代わりにあなたが死ねばいいのに。」
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