第3話

文字数 11,918文字

 当日は朝から抜けるような青空だった。
「第29回夏季宮城リトルリーグトーナメント大会決勝戦」
 対戦相手はもちろん、大野真司率いる原ノ町ベアーズだ。
「よろしくおねがいします!」
 試合前にホームベースを挟んで一礼をした。背番号1同士の僕らは、真正面に向かい合った。あの大野真司が目の前にいる。絶対に負けるもんか!
「よろしくね。」
 にらみつけた僕に対して、大野は笑顔で握手を求めてきた。
「あ、ああ。こちらこそ・・・。」
 思わず握り返してしまった。力強い握力の感覚が、しばらく右手に残った。
「おい、マサト、何やってんだ。」
 両チームがグランドに散った後も、しばらくその場でボーッとしていた。
「ああ、わかっているよ。試合開始だろ?」
「当たり前だろ。大丈夫か?」
「大丈夫に決まってるだろ。任せとけ。」
 ヨウスケの言葉で、ようやく我に返った。早く試合モードに入らなければ。
 マウンドに立って周りを見渡してみる。これまでと同じ、小さな球場。ベンチの上のスタンドには母親たちの応援団。全ては同じはずなのに、何かが違う。これが決勝戦の雰囲気というものだのだろうか。どこかふわふわ空中を浮いているような感じだ。
「ボール!」
 初球は大きく高めにハズレてしまった。
「落ち着いていこぜ。」
 伸び上がってボールを取ったヨウスケが、そう言って返してくる。
「おう、大丈夫だ。」
 その返事とは裏腹に、二球目はホームベースの手前でワンバウンドになってしまった。
 やはり、だめだ。宙に浮いているような感じは続いていて、思うように体を操れない。結局、一つもストライクが取れないまま、フォアボールでバッターを歩かせてしまった。
「ピッチャー、ビビってるぞ!」
 フォアボールを出すのも初めてなら、そんなやじを受けるのも初めてだ。なんだか球場全体に敵に囲まれているような気持ちだ。
「ドンマイ。気にするな。」
 ヨウスケの言葉で、なんとか我に返ろうとする。だが、そんな僕の心を見透かしたかのように、相手チームは大声でプレッシャーを駆けてくる。
「リー、リー、リー、リー・・・!」
 今までほとんどランナーを出したことがなかった僕には、一塁コーチャーの声がやたらと耳障りだ。しかも、正面に見えるランナーは右に左にちょこまかと揺さぶりを駆けてくる。
「ゴー!」
 投げる瞬間に、コーチャーだけでなくベンチ全員で大きな声を出してくる。ランナーも2、3歩盗塁の素振りをする。
「ボール!」
 相変わらず僕は制球が定まらない。
「ランナーは気にするな。俺が刺してやるから安心しろ。」
 ヨウスケの頼もしい言葉に、次の球はようやくストライクが入った。だが、スピードを殺した、置きにいったような球だ。
「よし!いいぞ、マサト。」
 ヨウスケはそう言ってくれるが、まだ今日の調子に自信が持てない。次の球も恐る恐る真ん中に投げた。
 バントだ!
 三塁前にボールが転がっていく。僕はマウンドを駆け下り、ボールを拾う。
「一塁だ!」
 ヨウスケの指示にも構わず、二塁めがけて全力で投げる。僕はピッチングだけじゃない。送球だって自信があるんだ。
「アウト・・・、セーフ!」
 一旦出た判定が覆った。セカンドがボールを落としたからだ。
「何やってるんだよ!」
 僕はセカンドに詰め寄ろようとする。
「一塁に投げないお前が悪い。」
「アウトのタイミングだっただろ!」
 今度はヨウスケに食って掛かる。
「僕のせいだ。ごめん。速すぎて捕れなかった。」
 セカンドが謝ってきたので、どうにか一触即発は免れた。だが、どうにも投げにくい。あれだけうまくいっていたヨウスケとのバッテリーも、どこかに溝ができてしまった。
「真ん中に投げればいい。絶対打たれないから。」
 そんなことわかってる。それがができないから困っているんだろ。
「フォアボール!」
 次のバッターも歩かせてしまった。ノーアウト満塁。事もあろうに、迎えるバッターは大野真司だ。
「まだ初回だから、最小失点に抑えることを考えろ。」
 マウンドに内野手が集まる。伝令が垣内監督の指示を伝えるが、ほとんど頭に入らない。
「相手は4番だ。長打を打たれて大量失点になるくらいなら、歩かせてもいい。」
 歩かせるなんて、ありえない。そもそも、セカンドがちゃんと取っていれば、今頃こんな事にならなかっただろ。これもヨウスケの指示が悪いんだ。一塁というから、セカンドが準備できてなかったんだ。そしたら、満塁になる前にチェンジになっていたはずだ。
「いいか、マサト!?」
「ああ、もちろんだよ。」
 もちろん、話など聞いていない。最悪な状況のまま、最悪なバッターを迎えることになった。
 打席に立った大野真司は、試合前に握手を求めてきた爽やかな笑顔の少年とは別人だった。大きく見開かれた両目は、にらむようにこちらを捉えている。まるで、獲物を捉えようする肉食動物のようだ。
 この感覚、何かに似ている。そうだ、ヨウスケそのものだ。初めての練習でヨウスケと対戦した時も、こんな感じだった。構えだけでわかる、他とは違う圧倒的な存在感。
「お前なら大丈夫だ。」
 そうだ。あの時だって、最後に勝ったのは僕だったんだ。
「ストライーク!」
 アウトコースに構えたヨウスケのミットにボールがきれいに収まった。この試合で初めて納得のいく球が投げられた。さすがの大野も打席をはずして首をひねっている。
「いいぞ、マサト!」
 ヨウスケからの返球にも力がこもる。
 次の構えはインコースギリギリだった。クロスファイア・・・。今日はじめての要求だ。これまでは制球がままならず、真ん中ばかりに投げていた。だが、もう大丈夫。俺はいつもの自分に戻った。
 そう思って投じて投げた一球だった。真っ直ぐにミットに向かって吸い込まれていく。よし、これなら大丈夫だ。
 カキーン!
 大野は素早く腰を回転させ、鋭くバットを振り抜いた。レフト線に高く打球が舞い上がる。
 これはまずい!
「ファール!」
 球審の両手が大きく広がった。打球は大きく右にそれると、場外へと消えていった。
「それでいい。これで追い込んだぞ。」
 そうは言うのものの、僕の背中は冷や汗が止まらなかった。大野は昨日もあんな感じでホームランを打っているんだ。
「思い切ってこい!」
 ヨウスケはあくまで強気だった。続いても要求はクロスファイア。今度こそ打たれるんじゃないか。いや、それとも裏をかいているのか。まさか大野もあれだけいい当たりをしておいて、同じ球が来るとは思っていまい。
 えい!
 これはまずいと瞬間的に思った。さっきよりコースがあまい。
「ストライーク!」
 空振りだった。バランスを崩した大野は、膝から崩れ落ちた。
「ナイスボール!」
「さすが、エース!」
 険悪ムード一転、仲間たちから称賛の声が聞こえた。
「よし!」
 僕もヨウスケからのボールをむしり取るように受け取った。
 本来の調子を取り戻した僕に、怖いものはなかった。続くバッターに対しても、クロスファイアの出し入れが面白いように決まった。塁上を賑わすランナーも、相手ベンチからの声も全く気にならなかった。僕はただ、無心にヨウスケのミットめがけて、全力で投げ続けた。
「ストライーク、バッターアウト!」
 あっという間だった。それまでの不調が嘘のように二人のバッターを三振に打ち取ると、颯爽とマウンドを駆け下りていった。
「ナイスピッチ!」
「すごいぞ、マサト!」
 ベンチもスタンドも大喜びで迎えてくれた。
「よく我慢した。これで、流れはこっちに来るぞ。」
 垣内監督も興奮気味で言った。

 そんな行け行けムードも大野真司には通用しなかった。
 ひとたび彼がマウンドに立てば、そこはもう彼の一人舞台だった。投球練習からすでに敵も味方もグランド中が彼の動きに釘付けになった。
「シンジ、がんばれ〜」
 あれだけ僕やベアーズに声援を送っていたスタンドも、一気に「大野真司」一色に染まってしまった。
「思い切っていけ!」
 こちらのベンチがいくら声を出しても、一度変わった雰囲気をもとに戻すことはできなかった。大野が投じる伸びのある真っ直ぐに、ベアーズのバットは次々と空を切った。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 まるで昨日の試合のリプレーを見ているかのようだった。僕があれだけ苦労して取った三つのアウトを、汗もかかずに取ってしまった。
「やっぱ、すげ〜な。」
 ボソッとつぶやいたヒロキを、思わずにらみつけてしまった。
 そこからは僕と大野の意地の張り合いだった。実際、大野がどう思っていたかはわからないが、僕が相当意識していたことは確かだ。自分が投げている時も、一塁ベンチに座る大野の反応ばかりを気にしていた。自慢のクロスファイアで打者を三振に捕れば、大野を見る。「どうだ。俺はお前に負けていないぞ。」たまにヒットを打たれれば、やはり大野を見る。「まずい。あいつは僕を見下しているのだろうか。」
 血相を変えて球を投げ込む僕とは対象的に、大野のピッチングは涼しげそのものだった。一見軽く投げているように見える。ウオームアップで投げるキャッチボールのような力感のなさだ。だが、打者はくるくると空振りをして帰ってくる。まるで別世界の魔法にかけられたかのようだ。ついにはヨウスケまで「球が浮き上がって見える。」と弱音を吐く始末だ。
 僕もようやく打席に立って、その意味がわかった。あの力みのないフォームを見れば、誰だって最初は打てそうだと錯覚してしまう。だがそれは、手元で球が浮いてくる魔法のボールだ。低めに外れると思ったボールは浮いてストライクになる。絶好球と思ったボールも結局はバットが空を切る。普段なら流し打ちで俊足を活かすところだが、当てることすらできなかった。
「ストライーク、三振バッターアウト。」
 打席の中で首をひねるしかできなかった。
 膠着状態が続く中で、先に仕掛けてきたのはキングスの方だった。

 五回表、それまでと同じようにマウンドに立ったが、これまでと打者の様子が明らかに違うのに気がついた。ホームベースギリギリに立っている。最初のバッターもそう。次のバッターもそう。これまではバッターボックスの真ん中に立っていたのに、ホームベースの近くに窮屈そうに構えている。
「デッドボール!」
 ツーアウトから歩かせてしまった。
「それが狙いだ。クロスファイア封じだ。」
 マウンドに駆け寄ったヨウスケが言った。
「内角ギリギリに立って、投げにくくさせる。デッドボールになれば、塁に出れる。それがキングスの狙いだ。だが、怖がるな。相手はそれ以上に怖がっている。ストライクを投げれば、それでいいんだ。」
 次の打者はさらに露骨だった。ベーズギリギリに立つだけじゃなく、覆いかぶさるようにバントの構えをしている。ツーアウトなんだから、これは嫌がらせに他らならない。
「真ん中でいいぞ。」
 そう言って構えたヨウスケのミットは、打者の上半身に隠れている。
 えい、どうなっても知らないぞ!
 僕の投げた球は狙い通りヨウスケのミットに吸い込まれていく。だが、その前にあるのは突き出したバッターの左肩だ。
 ボテッ!
 鈍い音がして、ボールが地面に落ちた。バッターは痛そうに顔を歪めながらも、体を弾ませて一塁に向かっていく。
「ストライーク!」
 意外な判定に会場が一瞬静まった。バッターも不思議そうな顔をして、後ろを振り返っている。
「当たっても、ストライクゾーンならストライクなんだよ。」
 ヨウスケだけは理解していた。ボールを拾い上げると、「さっさと打席に戻れ」と言わんばかりににらみを効かせた。
 これでもうバント作戦は使えなくなった。内角ギリギリに立っていることには変わりはないが、恐れることはない。ヨウスケの言うとおりだ。ストライクを投げればいいんだ。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 得意のボールでピンチを乗り切った。

 五回裏、ずっと戦況を見つめるだけだった垣内監督もついに作戦を与えた。
「高めの球は捨てるんだ。それはボールになると思っていい。当たってもどうせポップフライだ。それよりも低めだ。それをコンパクトに叩けば、必ずヒットになる。」
 効果はすぐに現れた。
 その回の先頭で打席に立った僕は、二球続けてボールを見送った。これまで振りに行って、ことごとく空振りしてきたような球だ。
「ボール、ツー!」
 大野は帽子をとると、額の汗を拭った。
「低く、低く!」
 珍しく相手のキャッチャーが声を張り上げている。
 そうか。この炎天下。大野にも疲れはある。
 次の球は低めだった。これまでだったら見逃していたボールだ。
 浮き上がってストライクになるぞ。
 カキーン!
 監督の指示通り、コンパクトに振り抜いた。感触はなかった。ただ、乾いた音とともに、打球が大野の足元に転がっていくのが見えた。
 抜けろー!
 そう心で叫びながら、一塁へと走り出した。
 大野はものすごい反射神経で、さっとグラブを下に差し出す。
 バスッ!
 鈍い音がした。大野がボールを弾いたのだ。 勢いを失ったボールは、一塁方向へ転々としている。一塁手が慌ててボールを取りに行く。
 まずい、間に合わないかもしれない!
 ちょっとした不安が頭をよぎった。がら空きになった一塁に素早く大野がバックアップに入る。このタイミングでは大野のほうが先に一塁につく。
 一塁まであと5メートルというところで、大野が足を止めた。一塁手からのトスがそれたのだ。
 よし、これなら行けるかも!
 僕はこの隙に大野の脇をすり抜けた。体制を立て直した大野は、必死にグラブを伸ばしてタッチを試みる。
「セーフ!」
 間一髪。タッチを交わした僕は、ベンチに向かってガッツポーズをした。
「いいぞ、マサト!」
 大声援で返してくれたベンチに何度もガッツポーズを繰り返す僕の脇を、大野がマウンドに帰っていく。
「ドンマイ!」
 そんな状況でも彼は笑顔だった。ボールがそれたことを詫びる一塁手の肩を、ぽんと叩いて励ました。それを見て、僕はガッツポーズをやめた。
 なんて冷静なやつなんだ。自分を見失うことがない。ランナーが一人出たくらいでは、チャンスとは言えない。
 ノーアウト一塁。垣内監督がバントのサインを出した。バッターは軽くうなずくと、構えに入った。だめだ、見るからに肩に力が入っている。
「リー、リー、リー・・・。」
 僕も塁上から、一塁コーチャーと一緒にプレッシャーを掛ける。
 セットポジションに入った大野は、一塁側に首を傾けたまま、微動だにしない。視界の端には僕の姿も入っているだろう。少しはプレッシャーに感じているだろうか。
「リー、リー、リー・・・。」
 まだ動かない。バッターもバントの構えのまま、体が固まっている。
 このおかしな間が永遠に続くんじゃないかと思えたその時だった。大野はようやく足を小さく上げて、投球動作に入った。
 ボールだ。
 球が離れた瞬間そう思った。完全なスッポ抜けだ。
「ストライーク!」
 だが、頭の上をよぎったボールにバントを試み、あえなく空振り。垣内監督も天を仰いだ。
「マサト・・・。」
 帰塁した僕に、一塁コーチャーが注意を促した。監督のサインが変わった。バントは無理だと悟ったのだろう。監督の指示は、盗塁だった。
「リー、リー、リー・・・。」
 声のプレッシャーは、さっきと変わらない。でも、少しだけリードの幅を狭くした。大野からの牽制球に備えたのだ。ほとんどランナーを出さない彼は、未だに牽制をしたことがないのだ。
「リー、リー、リー・・・。」
 僕の変化に気づいたのだろうか。さっきにもまして、大野は動かない。視界の片隅に僕を入れて、こちらの心を読んでいるかのようだった。
「バック!!」
 不意にコーチャーが大きな声を上げた。大野は素早く体を反転させて、牽制球を投じた。それはヘッドスライディングで戻ろうと手を伸ばしたファーストベースに正確に飛んでくる。
「セーフ!」
 顔を上げると両手を広げる一塁審判が映った。どうやら助かったらしい。
「危ないぞ!」
 ベアーズベンチからやじが飛んだ。僕は笑顔を返したが、内心はヒヤヒヤだった。あんな素早い牽制は初めてだ。しかも、タイミングがいやらしい。あんなに長く持たれると、集中力を保つのが難しい。
「リー、リー、リー・・・。」
 再び無言の駆け引きが始まった。相変わらず大野は銅像のようだ。僕もリードを一定に保ったまま動けない。
「リー、リー、リー・・・。」
 動いたら負けだ。先に動いたら負けだ。大野の足元をじっと見つめる。あの左足が上がれば、ゴー。右足がプレートを外せば、バックだ。
「リー、リー、リー・・・。」
 大野もこちらが動き出すのを待っているかのようだ。
「リー、リー、リー・・・。」
 その時、風が吹いた。砂ぼこりが舞い、三塁側からマウンドの大野のところに迫っている。
 今だ!
 僕が走り出すのと、大野の右足が上がるのと、どちらが先だったかわからない。これ以上ないタイミングでスタートが切れた。
 僕の視界にはセカンドベースしか入らない。わずか20メートルの距離がなかなか縮まらない。ショートがベースカバーに入り、ボールを取る構えをする。間に合ってくれ!
「セーフ!」
 滑り込んだ右足が、先にベースに入った。
「ナイスラン!」
 大興奮のベンチにも、僕は控えめのガッツポーズでこたえた。これで大野を攻略したと考えるのはまだ早い。
 案の定、2球で追い込まれたバッターは、次の球を高めのボール球に手を出し、あえなく三振。次の打者も、あれだけ手を出すなと言われた高めの球に手を出し、やはり三振。簡単にツーアウトになってしまった。
 せめて、ヨウスケにまで回ってくれれば・・・。
 ネクストバッターズサークルのヨウスケを祈るような思い出見つめた。
 だが、次の打者も高めの球を見極められない。あそこに来た球は、全部ボールなのに。
「コンパクトにいけよ!」
 監督が盛んに指示を出している。バッターは軽くうなずくと、打席の外で2、3回素振りした。
 頼むぞ〜。
 ようやく高めを見極めボール。低めに来た次の球はファールにした。
 これなら行けるかもしれない。
 そこからは、バッターとピッチャーの根比べだった。大野も意識して低めに投げる。バッターはことごとくそれをファールにする。序盤だったら空振りを捕れていたストレートも、さすがに勢いを失っている。前に飛ばすことはできなくても、ファールにならできる。
「フォアボール!」
 よし、ヨウスケまでつなぐことができた。
 打席に立ったヨウスケは、いつも以上に全身に気合がみなぎっていた。ただでさえ大きな体は山のように相手に迫り、睨みつける目は二塁で見ていても怖いくらいだった。
「頼んだぞ、ヨウスケ!」
 僕も塁上から声を掛けた。ここで点を取れば、次の回を抑えるだけ、優勝に一気に近づく。
「ストライーク!」
 初球は空振りだった。甘い球に見えたのだが、ヨウスケはバランスを崩して尻餅をついた。
 だめだ、力が入りすぎている。
 ヨウスケもそう感じたのか、打席をはずして大きく息を吐いた。
「コンパクトだぞ!」
 垣内監督からも指示が飛ぶ。
 次の球は高めに外れてボール。次の球も同じくボールだった。さすがの大野も疲れは隠せないか、それともヨウスケを前に力みが出たか。
 次がチャンスだ。ストライクを取りに来る。
 思ったとおりだ。大野の球は力なくど真ん中に来る。よし、絶好球だ!
「ストライーク!」
 またもやヨウスケは尻餅をついた。
 だめだ、追い込まれてしまった。大野のボールも良くないが、それ以上にヨウスケの力みようが尋常じゃない。
「状況を考えろ!」珍しく垣内監督が長めの指示を出す。「次は最終回だぞ。一点取れればいいんだ。ランナーはマサトだ。どうしたら一点取れるか、状況を考えろ!」
 ヨウスケは黙ってベンチの方を見続けている。「状況を考えろ」その言葉の意味を彼なりに解釈し直しているようだ。
「さー、来い!」
 大きな叫び声とともに打席に入り直した。溢れ出る闘争心はこれまでと変わらない。だが、構えがこれまでと違う。バットを目一杯短く握っている。長く持って豪快に振り回すのが彼の持ち味だったのに。
「ファール!」
 豪快とは程遠い、ヨウスケらしからぬスイングだった。だが、確実に大野の球について行っている。これならチャンスが開けるかもしれない。
「ボール!」
 3球続けてファールになったあと、高めに外れた。フルカウント。
「投球と同時に、ゴーだぞ!」
 コーチャーから指示が飛んだ。
 ここでセットポジションに入った大野がプレートを外した。遠く外野の方を見つめて、なにか考え事をしている。
「前へ!」
 長打警戒で下がっていたレフト、センター、ライトが定位置まで前進した。それでも納得がいかないのか、大野はさらに指示を出す。
「もっと、もっと!」
 ほとんど内野と変わらない位置まで来てしまった。これでは、シングルヒットでは生還は難しい。だが、その分長打の可能性は高くなる。
 大野がセットポジションに入り直す。ヨウスケのバットは短いままだ。「状況を考えろ」その言葉に対するヨウスケの答えは変わらない。
「リー、リー、リー・・・。」
 大野は動かない。盗塁を警戒しているわけではない。自動スタートの僕に対する駆け引きか。それとも勝負球へのためらいか。
「ゴー!」
 投球とともに、コーチャーの合図が響いた。
 カキーン!
 乾いた音がした。僕はすでに三塁の手前まで来ている。鋭いゴロが僕の背中を通り、三遊間へ転がっていくのが見える。あの当たりなら、レフトに抜けるだろう。
「ゴー、ゴー!」
 くるくると右手を回る三塁コーチャーの声を聞くまでもなく、僕はサードベースを蹴った。
 あとは、あの極端な前進守備のレフトの方との勝負だ。
「滑り込め〜!」
 ネクストバッターが大きな身振りで合図する。
 キャッチャーはすでに捕球体勢に入っている。ホームベースの前に立ち、全く隙がない。
 僕はキャッキャーをかわすように右側に足から滑り込んだ。と同時に、キャッチャーは返球を受け取る。脇に滑り込んだ僕を追いかけるように、ミットが迫ってくる。
 ミットを避けるように上体をそらし、左手をホームベースに伸ばした。
 指先がかすかにベースをかすめた。背中にタッチされたのは、その一瞬あとだっように感じた。
「・・・。」
 主審が僕とキャッチャーを交互に見た。なかなか判定をくださない。
「・・・。」
 最後に僕と目が合った。
「セーフ!!」
「・・・。」
 僕は審判と顔を見合わせたまま動けない。
「セーフ!セーフ!セーフ!」
 これでようやく現実を理解した。ついに先制点が入ったぞ。
「ナイスラン!」
「すごいスライディングだったぞ!」
 ベンチの一人ひとりとハイタッチを交わした。
「よく戻ってきた。」
 最後に監督と握手を交わすと、塁上のヨウスケの方を見た。
「ナイスバッティング!」
 ヨウスケも誇らしげに右腕を上げた。

 よし、これなら行ける。後続は絶たれたが、1点あれば十分だ。
 僕はグラブをポーンと強く叩いてから、審判から球を受け取った。いよいよ最終回、6回表のマウンドだ。
 バッターは一番から。相変わらずホームベースギリギリに立ってくる。クロスファイア封じを続けている。だが、そんなものは関係ない。相手がどう出ようと、僕はストライクを投じるまでだ。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 3球連続の見逃し三振だった。
「ワンアウト〜!」
「あと二人だぞ、がんばれ!」
 その時、ベンチでヘルメットをかぶる大野の姿が見えた。あと二人・・・。ランナーを出さなければ、彼には回ってこない。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 あと一人・・・。大野がゆっくり、ネクストバッターズサークルに入った。
 大丈夫だ。いつもどおりのピッチングをすればいい。ここで試合を決めればいいんだ。
「ストライーク!」
 最後までクロスファイア封じは変わらない。だが、そんなものには惑わされない。淡々と内角を攻め込む。
「ストライーク、ツー!」
 追い込んだ・・・。勝利の瞬間が迫っている。大野真司に勝つ。やっぱり僕が、宮城県ナンバーワンリトルリーガーなんだ。この一球で決めてやる・・・!
 だが、ヨウスケの意図は違うらしい。大きく外角に外したボール球を要求している。
 バカ言っているんじゃない・・・。こんなところで遊び球なんて必要あるか!
 僕は首を振った。もう一球クロスファイアを投げ込めばいい。
 だが、ヨウスケは動かない。外角に構えたミットがピクリとも動かない。
 僕はもう一度首を振った。なんとしてもこの一球で決めてやる。
 だが、ヨウスケは動かない。
 クソッ、お前なんか知るものか。俺は俺の投げたい球を投げる。
 僕はヨウスケの要求を無視し、内角ギリギリに投げた。このクロスファイアで試合を決める!
「デッドボール!」
 ユニフォームにボールがかすめた。
 嘘だ、今のはストライクだ!
 だが、判定は覆らない。バッターはバットを捨てると、嬉しそうに一塁に走っていく。
「なんで、外さなかったんだ。」
 ヨウスケがマウンドまで詰め寄ってきた。
「今のはストライクだっただろ!」
 僕も反射的に言い返す。
「そういうことじゃねえだろ。勝ち急ぎって言うんだよ。最後の1球は慎重に行かなきゃダメなんだよ!」
「たまたまだろ。1球外したたからって、どうなってたかわかんないだろ。」
「いや、絶対に打ち取れてた。」
「・・・。」
「で、どうする?次は大野真司だぞ。」
「どうするって、いつもどおりだよ。自分のピッチングをするまでだよ。」
 打席では大野がブンブンと素振りを繰り返している。
「・・・歩かせてもいいんだぞ。次の打者で打ち取れれば、それでいいんだぞ。」
「バカにするな。俺は大野にだって、打たれていないんだぞ。」
「本当にいいんだな・・・?」
 ヨウスケは覗き込むように僕の目を見つめた。短い時間に考えが行ったり来たりした。確かに、大野にはホームラン性のファールを打たれている。勝負を避けるのも手かもしれない。でも、そんなことをしたら後悔しないか?
「俺は逃げない。勝負する。」
 その一言で決まった。大野を打ち取って、優勝する!

 マウンドに集まっていた内野手が各ポジションに散った。マウンドには僕一人。打席にはすでに大野真司が構えている。
 どうせお前もクロスファイア封じなんだろ。
 ん?
 思わずマウンドで声を上げそうになった。内角ギリギリに立っているかと思いきや、これまで通り打席の真ん中に立っている。
 どうしてチームの方針に従わないんだ?
 大野が、キッとこちらを睨んできた。
「俺は姑息な手を使わなくても打てる。正攻法で十分だ。」
 そんな声が聞こえてきた。
 なめんなよ!
「ストライーク!」
 狙いとは違い、ど真ん中に行ってしまった。大野はそれを悠然と見送る。
「楽にいけよ!」
 ヨウスケが山なりにボールを返す。自分でも力んでいるのはわかっている。でも、この状況でどうしろというのだ。
「ストライーク、ツー!」
 またもや真ん中に行った。大野はピクリとも動かない。
「いいぞ、追い込んだぞ!」
 ベンチから大声が飛ぶ。だが、僕は素直に喜べない。なぜ大野は手を出さないのだろう。2球とも自分でもヒヤッとするくらいの甘い球だ。一体何を狙っているんだろう?
「勝ち急ぐなよ!」
 言葉とは裏腹に、ヨウスケの構えはクロスファイアだった。
 裏をかくということか!
「ボール!」
 また力みが出てしまった。構え以上に内角にずれてしまった。
「いいぞ、狙い通りだ。」
 ヨウスケの言葉を、その通りに受け取っていいかはわからない。大野も聞いている。ここからは心理戦だ。
「よし、狙い通りだ!」
 ヨウスケの言葉を繰り返した。不思議とヨウスケの考えがわかるようになってきた。
 よし、次は外角で見逃しを狙うんだろ!
 バシッ!!
 初めて力まずに投げることができた。狙い通りにコントロールできたボールは、寸分たがわずヨウスケのミットに収まった。大野はピクリとバットを出しかけたまま、動かない。
 よし、決まった!
 ベンチの方にガッツポーズをしかけた。
「ボール!」
 審判にも迷いがあったようだ。一瞬間があって、判定はボール。
「惜しい。ナイスボールだ。」
 悔しいと言うより、安堵のほうが大きかった。ようやくいい球を投げられた。これならどこに投げても打たれる気がしない。
 それよりも冷や汗をかいたのは、大野のほうだろう。見逃し三振を覚悟したに違いない。打席を外し、心を落ち着けるように素振りを繰り返している。
 よし、行くぞ。
 ヨウスケの構えは、内角ギリギリ。今度こそ、本当の勝負球だ。

 投げた瞬間からの記憶は、全てスローモーションだった。
 手から放たれた球が、ゆっくりとミットに吸い込まれていく。
 最高の球だと僕は思った。
 これからいつまで野球を続けて、どんな野球人生になるかわからない。それはきっと、楽しい事ばかりではなく、辛いことや涙することもあるだろう。でも、子供の僕にもわかっていたことがあった。
 もう、これ以上のクロスファイアは投げられない。
 もはや、結果なんでどうだって良くなっていた。ただ、いつまでも球の軌道を見つめていたい。まだ指先に残る球の感覚を味わっていたい。
 この余韻が永遠に続けばいいのに・・・。
 この一瞬が永遠になればいいのに・・・。
 最近ふと思うことがある。僕はまだ、この一瞬の中を生きているんじゃないか。
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