第1話

文字数 8,642文字

 「俺は野球が好きだ。」なあ、その言葉、今でも覚えているか?

 宮城県仙台市。東北唯一のプロ野球球団のフランチャイズの本当の名前を多くの人は知らない。県営宮城球場。通称「宮球(みやきゅう)」。あれから何度名前が変わっても、僕たちにとってそれは、「宮球」であることには変わりなかった。
「おい、こんな時間に動いているんだな。」
 そう言いながら、シンジは観覧車に片足を掛けていた。
「勝手に乗ったらまずいだろ。」
 マサトの忠告もよそに、シンジの体は観覧車の中にすっぽり収まっていた。扉は締まりかけている。「早く来いよ」と手招きをするシンジに急かされて、マサトは慌てて飛び乗った。
「こんなところに、観覧車なんて作るとはな。」
 シンジは感慨深げに窓の外を眺めている。ようやく向かいの席についたマサトも、その視線の先を追った。ナイトゲームを控えるグランドには、まだ誰もいない。あるのはただ、春の日差しに照らされて萌えるように映える人工芝と、それを取り囲むクリムゾンレッドの観客席だけだった。
「宮球も変わったな。」
「ああ、観覧車だけじゃない。人工芝はハゲかかっていたし、客席はもっと窮屈だった。たまにロッテが試合に来るくらいで、プロ野球なんてほとんどなかったしな。」
「だからこそ、なおさらワクワクしてたな。」
「初めてイチローを見たのもここだった。」
「少しでも近くから見たくて、ライトスタンドにいたな。ロッテファンでもないに。あの頃はまだ芝生席だったな。今じゃあんな高いところにまで、座席ができているけど。そう言えば、試合が始まったら係員がいるのは3回くらいまでで、その後はただで入れたからな。」
「そうそう、チケット買って見に行くやつなんていなかった。」
「そういう時代だったんだな・・・。」
 高さ36メートルの観覧車は、もうすぐ頂上に達しようとしている。スタンドの向こうには、僕たちが育った仙台の町並みが見える。
「宮中はあっちのほうかな?」
 マサトが一塁ベンチの向こうを指す。
「違うだろ。あっちだろ。」
 シンジはライトスタンドの向こうを指す。
「最近行ったか?」
「いや、卒業以来、一度も。」
「全然、違っていたぞ。体育館はそのままなんだけどな。校舎は数年前に建て替えたらしい。元々校庭があったところにな。」
「マジか。じゃあ、校舎があったところが、校庭になっているのか?」
「ああ。狭いことには変わりないけどな。きれいな長方形。中学校のグランドらしい形だな。」
「そうか。じゃあ、少しは野球もやりやすくなっているかな。」
「そうだな。オレたちの時は、いびつな台形だった。レフトグランドが異常に狭くてな。」
「その狭いレフトグランドにサッカー部がいて。」
「打撃練習で少し引っ張ったら、すぐにサッカー部に当たって怒られてたな。」
「そう。しかも、なぜか加藤にばかり当たって。不思議だな。サッカー部も多かったのに、なんでアイツばかり…」
「ポジション取りが絶妙なんだろ。」
「サッカーは下手だったのにな。野球やってればよかったんだよ。」
 ケタケタ笑うシンジから白い歯がこぼれた。日に焼けた褐色の肌によく映える。マサトの顔もあの頃はこんなふうに真っ黒だった。
「でも、昔のほうが良かったけどな。宮中も宮球も・・・」
 シンジの目がライトスタンドの向こう側を見ている。
「イーグルパークだってい悪くないだろ。俺にとっては、ここが大事な職場なんだぞ。」
「職員と選手じゃ、ぜんぜん違うよ。一度プロとしてあそこで投げてみればわかるよ。宮球とイーグルパークじゃ、まるで別のスタジアムだ。」
「それを味わえただけ、幸せだったと思えよ。」
「それもそうだな・・・。」
 シンジとマサト。小さな空間にいる二人の間に、奇妙な沈黙が続いた。誰もいないグランドに、一組しか乗っていない観覧車。夜には、満員に膨れ上がるはずのその場所が、嘘のような静けさだ。
「降りるか。」
 半分腰を浮かしたマサトを、シンジが引き止めた。
「もう一周乗っていればいいだろう。どうせ同じところに戻ってくるんだからな。」
「それもそうだな。6分だ。6分で同じところに戻ってくる。ちなみに総ゴンドラ数は16基。ゴンドラ1基あたりの定員は4人だから、最大で64人乗れる。」
「さすが球団職員、詳しいな・・・。」
「お前も今日からそうなんだぞ・・・。」
 再び奇妙な沈黙が続く。マサトには、徐々に高度を上げていく観覧車のスピードが、一周目よりゆっくりに感じられた。
「同じところに戻ってくるというのは・・・。」沈黙を破ったのは、シンジだった。「俺の人生と一緒だな。いろいろなところに行ったけど、結局、仙台に戻って来てしまった。振り出しに戻るってやつだ。それまでの人生は一体何だったんだろう・・・」
「別に、前に進んでいない訳ではないだろう。それに、人生は観覧車とは違って、もう一周やり直すことはできないし。」
「・・・。」
 再びの沈黙。できるだけ前向きなことを言ったつもりだが、それがシンジにどれだけ響いたかはわからない。
「なあ、もしも人生をやり直せるとしたら、いつに戻りたい?」
「ん?」
 シンジからの不意な質問に、すぐには言葉が出なかった。
「そうだな・・・。」
 マサトは目を閉じて考えた。頬を照らす春の日差しが、一層暖かく感じられた。


「青森から来ました武田雅人といいます。よろしくお願いします。」
 チームメイトの前でそう自己紹介をすると、どっと大爆笑が起こった。普通に名を名乗っただけなのに、なんでみんなが腹を抱えて笑っているのか、僕にはなかなかわからなかった。
「やっぱり、青森。すげーなまってる!」
 中でも一番体の大きな少年がそう言った。幼少期からずっと青森で過ごし、10歳にして初めて仙台に引っ越してきた僕には、言葉一つとっても戸惑いの連続だった。
「青森でも野球をやっていたそうだからな。きっと頼もしい仲間になるぞ。」
 垣内監督がそう言ってくれたおかげで、ようやく笑いが収まった。それでも、あの体の大きな少年だけは、グローブで顔を隠しながら笑い続けていた。彼の名前は、大久保陽介。第一印象は最悪だったが、その後、親友となる。
 人生のいつに戻りたい?そう聞かれてまず最初に思いついたのが、この時期だった。別にやり直したいわけではない。子供の頃からやり直せば、自分もプロになれただろうとか、そんなふうに後悔しているわけでもない。ただ楽しかったのだ。あの頃だけが純粋に、ただ野球を楽しむことができていたのだ。
 宮城野原スポーツ少年団。通称、宮城野原ベアーズ。夏休みに青森から引っ越してきた僕がまず行かされたのが、リトルリーグの練習だった。
「おい、青森。そんな田舎で野球やってたからって、ここで通用すると思うなよ。」
 訛りを馬鹿にしていたヨウスケが、威圧的に言ってきた。別に、通用すると思っているわけじゃない。野球好きの父に言われるままに、ここに来ただけなんだから。それに、野球をやっていたというのも、正確に言うとちょっと違う。
 青森には仙台のようにリトルリーグのチームが数多くあるわけではなかった。一番近いチームの練習場でさえ車で30分以上かかり、とても通える距離ではなかった。だから、僕の場合は近所の空き地で草野球をやる程度。もちろん、審判もいなければ、監督もいない。およそ「野球をやってる」とは言い難い。むしろ、大都会のリトルリーグの練習にいきなり参加させられ(青森から見ると、仙台は大都会だ)、少しビビっているくらいだ。
「よし、シートバッティングをするぞ。」
 垣内監督が言った。
「Aチームはバッティングの準備をしろ。Bチームは守備につけ。」
 新入りの僕は当然Bチームだ。でも、どこを守ればいいかわからない。グローブをはめたままウロウロしていた僕に、垣内監督が声を掛けてきた。
「マサトは左利きなのか。じゃあ、ファーストか外野だな。」
「センターがいいんじゃないんですか。青森だから。」
 そう口を挟んできたのは、またしてもヨウスケだった。ヘルメットをかぶったヨウスケは、ブンブンと素振りを行っている。
「そうなだ。まずはセンターで様子を見るか。」
 最初にセンターをやらせたというのは、ヨウスケも監督も僕にあまり期待していなかったからなのかもしれない。
 センターというのは大人の野球でこそ外野の要だが、リトルリーグでは重要度はグッと下がる。レフトには右の強打者が打球を飛ばすし、ライトはライトゴロを処理するという役割がある。それに引き換えセンターときたら、打球が飛んでくることさえめったにない。未熟なリトルリーガーたちには、センター返しなどという高級なテクニックを持ったものはいないのだ。
 事実、シートバッティングが始まっても、なかなかセンターに飛んでこなかった。いや、センターどころか外野にもめったに来なかった。
 ピッチャーの子が投げるボールは山なりで、なかなかストライクが入らない。ようやくストライクが入っても、弱々しいスイングでは内野の頭を越えない。大都会のリトルリーグにビビっていたのが拍子抜けだ。
「仙台と言っても、大したことないんだな。」
 その時、ひときわ大きな体が、右バッターボックスに入った。偉そうなことばかり言っていたヨウスケだ。あいつもどうせ大したことないんだろう。
 カキーン!
 油断していた僕には、まさに目の覚めるような快音だった。ヨウスケが放った痛烈なライナーはあっという間にショートの頭を越えていった。のんびり構えていた僕も、急いで左中間に回り込んだ。レフトもぼんやりしていたのか、とても追いつきそうにない。僕はも一弾走りのギアを上げて、左中間を抜ける寸前のところで追いついた。
「おい、セカンド!」
 そう叫ぶ二塁手に投げ返そうと思ったが、すぐやめた。油断していたのか、ヨウスケは一塁の前をゆっくりと走っている。
「どこに投げてるんだよ!」
 二塁手の言葉も構わず、僕は一塁に全力で投げた。
「アウト!」
 僕が投げた球はノーバウンドで一塁手のグラブに収まり、センターゴロ成立。アウトになったヨウスケは、まだ事態が飲み込めず、一塁ベースの前でただ呆然としていた。
「すげー!」
 グランドがどよめきに包まれた。ベンチに腰を下ろしていた垣内監督も、立ち上がってこう言った。
「おい、マサト。ピッチャーやってみろ。」
 さらに、まだ一塁でぽかんとしているヨウスケに向かってこう言った。
「ヨウスケ。お前がキャッチャーをやれ。」
「え、俺がですか?」
 ヨウスケは、いかにも不服そうだった。ヨウスケにしてみれば、自分はAチームのレギュラーキャッチャーで、入ってきたばかりの青森なんかの球は受けられない、といったところだったのだろう。
「変なところになげんなよ。」
 ふくれっ面して、ようやくマスクをかぶった。
 初めて上がるマウンドは、想像してたよりもずっと緊張感にあふれていた。ただの練習とは言え、グランドの全員が見ている。心臓がバクバクと音を立てて動いた。
「真ん中に投げればいいからな。どうせ細かいコントロールなんてないんだろうから。」
 ヨウスケがミットを構えた。打席には、すでに次の打者(後で知ったが、この時の打者は赤川弘樹だった。通称、泣き虫ヒロキ。彼とは中学まで一緒で、その後は何をしているのか知らない。)がバットを構えている。
「よし、やるぞ!」
 自分に言い聞かせてから、大きく振りかぶった。テレビで見てきた野球選手を真似るように、左腕を思い切り振った。
「ストライーク!」
 審判の右手が上がった。驚いたヒロキは、半分バッターボックスから出かかった。泣きそうな目で監督に助けを求めている。
「相手は新入りだぞ。ビビるんじゃないぞ!」
 檄を飛ばされ、再びバッターボックスに入り直す。 僕はまた、ヨウスケのミットめがけて全力で投げる。
「ストライーク!」
 ヒロキはかろうじてバットを振ったが、そのままバランスを崩して尻餅をついてしまった。
「ナイスボールだ。」
 そう言って、ヨウスケからボールが返ってきた。僕は投げるのが楽しくなってきた。
「よし、今度も思い切ってこい!」
 言われなくてもわかっている。僕はまたど真ん中めがけて力いっぱい投げ込んだ。
「ストライーク、バッターアウト!」
 ピッチャーとしての快感を覚えた瞬間だった。力で相手を制圧する優越感は、それまでの人生で感じたことのない楽しさだった。
 その気持の良さは、その後も続いた。ど真ん中ばかり投げているのに、ほとんどが空振り。たまに当たっても、振り遅れのファールばかりで、まともに前に飛ぶ球はなかった。グラウンドのみんなが、僕のピッチングに釘付けになっているのがわかる。
「青森、すげーな。」
「あんなの打てねえよ。」
 そんな声を聞きながら、僕はますます気を良くしていった。

「よし、今日はこれで終わりにしよう。」
 垣内監督そうが言って、選手たちが引き上げかけた時だった。
「俺にも打たせてください。」
 マスクを外したヨウスケの手には、すでにバットが握られていた。
「お前はもう打撃練習をしたじゃないか。」
 垣内監督の言葉にも、ヨウスケは耳を貸さなかった。
「このままじゃ、青森にやられっぱなしじゃないですか。ベアーズをなめられていいんですか?」
「バカ言っているんじゃない。マサトも立派なベアーズの一員じゃないか・・・。」
 と言っていたが、途中でなにか思うところがあったらしい。
「わかった。キャッチャーは俺がやろう。」
 と、ヨウスケの申し出を許してしまった。
 打席に立ったヨウスケは、明らかに他の打者とは雰囲気が違った。肩に全く力みが見られない。それでいて、顔の前に構えられたバットは今にも動き出しそうな躍動感があった。
「さすがにエラそうなこと言うだけあるな。」
 マウンドに上って以来の心臓の高鳴りが始まった。それと当時に、コイツにだけは打たれたくないという強い闘争心が湧き上がった。ここで打たれたら、一生になめられてしまう。
「今まで通りに投げればいいんだぞ。」
 大きく構えたミットは、これまでと同様、ストライクゾーンの真ん中だった。
「よし、思い切り投げるだけだ。」
 覚悟を決めて、思い切って投げた。ミットに迫る球を、ヨウスケのバットが襲いかかる。
「ストライーク!」
 打たれたと思って、一瞬身構えた。バットは空を切り、ボールがミットに収まる音が響いた。
 今までの空振りとは違うな、と冷や汗を拭いた。自分の間合いで打ちに行っている。来た球を当てに行っていただけの打者とは、異次元のスイングだ。
「コイツはすごいぞ。」
 初めて恐怖を覚えた。力の強い者が、自分に狙いを定めている。一瞬の油断が命取りになる。
「いい球だったぞ。」
 垣内監督の球を受け取り、平常心を取り戻した。これまでと何も変わらない。これまで通りに投げればいいんだ。
「ファールボール!」
 ファールチップした打球が、真っすぐバックネットへと飛んだ。
「タイミングは合ってるぞ!」
「いいぞ、ナイススイング!
 ベンチから声が聞こえた。ヨウスケはそれにうなずくようにしていったん打席をはずし、二、三回素振りを繰り返した。
 グランドいるほとんどの人がヨウスケに声援を送っている。完全にアウェイだ。
「今のもいい球だったぞ。」
 垣内監督だけが唯一の味方だった。
「次で決めよう。」
 そう言って構えたミットは、内角ギリギリだった。垣内監督の体が、ヨウスケの影に半分隠れた。あんなところに投げたら、ぶつけちゃうんじゃないか。
「勇気を持って投げきるんだ!」
 よし、あそこに投げれば打たれないんだな。
「えい!」
 思い切って投げた球は、そのままミットに吸い込まれた。ヨウスケは打席に立ったまま、ピクリとも動かなかった。
「・・・。」
「・・・ストライーク、バッターアウト!」
 一瞬の静寂。やや遅れて審判からコールがあった。
「おお〜!」
 そして、どよめき。見逃し三振。僕は勝負に勝ったのだ。
「よく投げきったな。」
 マスクを外した垣内監督が近づいてきた。
「最後に投げたボールが、クロスファイアだ。左投げのお前にとって、一番の武器になる。」
 そう言って、手渡しでボールを返した。
「クロスファイア・・・。」
 僕はボールを見つめ、初めて聞いた言葉を繰り返した。
「おい、青森!」
 後ろから強く肩を叩かれて、思わずボールを落とした。振り向くと、ヨウスケの大きな体が見下ろすように立ちはだかっている。
「あれくらいで、調子のんじゃねえぞ。」
 そう言ってベンチの方へ帰っていった。マウンドには僕だけがぽつんと取り残された。
「そうだ、マサト。」
 ヨウスケが振り返った。
「あのクロスファイア。他のバッターに絶対に打たれるなよ。」
 それが僕の、少年時代の始まりだった。


 仙台の夏は暑かった。僕はその後いろんな街に引っ越したけど、この年の仙台ほど暑く感じた夏はなかった。
 夏休みなのに、毎日同じ時間に起きて家を出ていく。ブカブカのユニフォームを着て、自転車でグランドまで駆けていく。もちろん、背中にはバット、前カゴにはグローブやスパイクや水筒。詰め込めるだけの野球道具を満載していた。
「よう!」
 途中で、ヨウスケやヒロキが一緒になり、声を駆けてくる。昨日のテレビ番組やプロ野球など、くだらない話をしているうちに、セミの鳴き声が聞こえてくる。森に囲まれた僕たちのグランドだ。
 初日こそ新人扱いされBチームスタートの僕だったが、それからはAチームとしてヨウスケとともにベアーズを引っ張った。
「守備練習開始!」
 そうヨウスケが叫ぶと、選手たちが一斉に各々のポジションに付いた。僕は時にはセンターとして、時にはピッチャーとして、率先してノックを受け続けた。
 バッティング練習でも、最初に僕がピッチャーをやった。相変わらずみんな空振りばかりだったが、何日かするとスピードに慣れてくる選手が出てきた。特にヨウスケは、真ん中に投げるとかなりの確率でヒットを打つようになってきた。だが、僕には必殺技がある。「クロスファイア」だ。このボールが内角に上手く決まりさえすれば、さすがのヨウスケもバットに当てることができなかった。
 だが、自分が打つ番となると、なかなか思い通りにはいかなかった。どうしても長打を連発するヨウスケを意識してしまう。自分もあんなふうに遠くに飛ばしたいと思いフルスイングするのだが、ようやく内野の頭を超えるのが精一杯。しかも、大抵それはライトゴロに終わってしまう。
「自分の個性を活かしなさい。」
 垣内監督の言葉でひらめいた。僕は左打ちで足が速い。無理に引っ張らず、流し打ちをすればたいていヒットになる。外野に抜けなくても、内野安打で出塁できる。出塁できれば、盗塁することができる。これでバッティングでもヨウスケと肩を並べることができた。
「よし、全員集まれ。」
 そんなある日のことだった。練習後に垣内監督が選手を集めて、パンフレットを配りだした。
「第29回夏季宮城リトルリーグトーナメント大会」
 表紙をめくると、1ページ目にトーナメント、それに続きチーム紹介と選手名簿が現れた。「宮城野原ベアーズ、背番号1、武田雅人」。みんながトーナメント表を見ながら騒いでいる中、僕は自分の名前から目が放せなかった。「背番号1、武田雅人」。
「キングスとは反対側の山だな。」
 誰かが言った。
「みんなもわかっているはずだが、明日からの大会が6年生にとって、最後の大会となる。そして、目標はただ一つ。春季大会で負けたキングスに勝つことだ。」
 垣内監督の話に、みんながシーンとなった。
「春季大会で負けた原因は何かわかるか?」
 垣内監督はヒロキを指差した。
「相手ピッチャーのボールが速すぎたことです。」
「そうだ。残念ながら我々は、ノーヒットノーランに抑えられてしまった。」
 僕は急いでパンフレットをめくった。「原町キングス、背番号1、大野真司」。あのヨウスケでさえ打てなかったということか。
「だが、我々に秘策がある・・・。」
 みんな顔を見合わせたままで、言葉は出ない。
「今日までお前たちは、マサトの球でバッティング練習をしてきた。俺の見立てでは、マサトのスピードは、あの大野というピッチャーと比べても、ほとんど見劣りしない。」
「そうか。僕たちはずっと実践練習をしてたんだ。」
「その通り。最初は全く手も足も出なかったお前たちでも、段々とタイミングが合ってくるようになった。マサトを打てるなら、大野も打てる。」
「おお〜!」
「自信を持っていけ!」
「はい!」
 その日の練習が終わったあと、僕は一人だけ垣内監督に呼ばれた。
「もうパンフレットで、自分の背番号はわかってるな?」
「は、はい・・・。1番です。」
「そうだ。野球で1番はエースの背番号だ。」
「僕がエースですか・・・。」
 エースという言葉に、特別な重みを感じた。
「なに、そんなに身構える必要はないさ。お前は仙台の大会には出たことがないが、十分な実力はある。普段通りやれば、いいピッチングができるさ。」
「でも、僕は試合で投げたことがありません。」
「大丈夫だ。練習通りのピッチングをすればいい。まずは思い切って真ん中めがけて投げること。それでもだめだった場合は、・・・わかるな?」
「クロスファイア・・・。」
「それがお前の武器だ。わすれるな。」
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