第12話

文字数 10,371文字

 一高での僕はもう野球少年ではなかった。
 硬式野球部に入ろうかとも本気で考えた。でも、一度見学に行ってみてやめた。とても頂点を目指せるレベルではない。これでは育英や東北と戦ったら、一方的にやれてしまうのが目に見えている。結局僕は、軽音楽部(と言う名の帰宅部)に入部した。仮にも中学までは全国大会を目指して頑張ってきたんだ。今さら、趣味や遊びのために野球を続けて何になるんだ。何かやるのなら、頂点を目指さなければ。
「じゃあ、お前は何で頂点を目指すんだ?」
 野球じゃない何かさ。きっとそのうち見つけるさ。
 僕は頑張って野球を忘れようとしていた。それは同時に、シンジのことを忘れようとすることでもあった。もしかしたら、育英のレベルについていけずに、落ちこぼれているのかもしれない。どこかでそれを望んでいる自分がいる。もしかしたら、育英でも頭角を表し、ゴールデンルーキーと呼ばれているかもしれない。そしたら僕はいたたまれない。そしたら僕は自分の選択を恐ろしく後悔する。
 高校野球に関するあらゆる情報から目をそらそうとしていた。テレビ中継を見ない、新聞のスポーツ欄を見ない、雑誌も見ない。できれば、宮城球場にも行きたくなかったが。
「武田くんって、昔、野球してたんでしょ?」
 甲子園予選だけは何故か全校応援で、全員出席が義務付けられていた。バレやしないと思って1年生のときサボったら、後で先生に激しく怒られた。2年目の今年はいやいやながらも行かざるを得なかった。
「ねえ、野球って面白いスポーツだよね。」
 同じクラスの竹山という男がしつこく話しかけてくる。別に仲がいいわけではなかったが、2年連続で同じクラスで、たまたま席も近かったから、話だけはするようになった。
「サッカーだと点がなかなか入らないからね。90分も応援してて、点数が入らないなんてつまらなすぎたよね。でも、バスケだと点数が入りすぎ。野球ぐらいが丁度いいよ。」
 僕は宮城球場の内野席からグランドを見ていた。僕があそこに最後に立ってから、もう2年が経つ。学校と家の往復ばかりの毎日で、すっかり野球をしていない自分に慣れてしまった。
「俺も野球部に入ろうかと思ったんだけどね。リトルリーグからずっとやってきたから。でも、中学でついていく自信をなくしたんだ。」
 シンジとアリサが手書きの画用紙を貼って応援してくれたのは、ちょうど向かい側のスタンドだ。
「でも、野球が好きなことには変わりないね。特に高校野球は最高だよ。これからどんな選手が有名になるんだろうかって、いつもワクワクしながら見てる。一高の試合以外でも、よく観に行ってるんだ。」
 あの二人はまだ付き合っているんだろうか。噂によると、アリサは同じ宮城育英に行ったらしい。だが、英進科であれば、シンジの通うスポーツ科とはキャンパスが違う。宮城野原と多賀城では気軽に会える距離ではない。この年代にありがちな自然消滅というところか。
「武田くんって、宮城野中でしょ?高橋くんから聞いたよ。」
「ん?」
 高橋とは、トモキのことである。結局、僕らの代で一高で野球を続けているのは、トモキとケータローだけだ。他の高校に行った奴らは、シンジ以外は野球を続けているのか知らない。
「宮中では外野手兼ピッチャーだったんでしょ。左投げのピッチャーだったら、それだけで貴重だって高橋くんが言っていたよ。」
「別にそんなこと・・・。人口の2割が左利きなんだから、貴重というほどのものじゃないよ。」
「でも、足も早くて、センスがあったって言っていたよ。背は低いけど。」
 トモキめ・・・。おとなしいやつだと思っていたのに、案外余計なことをしゃべるんだな。
「武田くんなら、高校でも野球ができたんじゃない。なんでやめちゃったの?」
「・・・一高では甲子園に行けないから。」
「そんなのわかんないじゃん。」
「わかるだろ、この試合を見れば。」
 甲子園予選一回戦の相手は、仙台の隣町の公立高校だった。もともと特徴のない田舎の公立校だったが、数年前にスポーツ科を設けてから徐々に力をつけていった。もっとも、私立二強との差は歴然だったが。
「確かに、コールド負け寸前だね。でも、武田くんがいれば違ったかもよ。」
「まさか、一人じゃ野球はできないんだし。」
「だったら、育英に行けばよかったんじゃない?」
「簡単に言うなよ。育英には全国レベルの人間が集まるんだぞ。そう簡単に試合に出られるもんじゃないよ。」
「でも、大野って人は宮中から育英に行ったんでしょ?武田くんは育英の大野って人と宮中二枚看板だったんでしょ?」
 トモキめ・・・。そんなことまで言っていたのか。本当に余計なことばかりだな。
「二枚看板とは言っても、実質、彼のワンマンチームだったよ。彼が育英で通用しないのなら、俺になんかチャンスはないよ。」
「え!?武田くん知らないの?」
 そう言うと、彼はかばんの中から一冊の雑誌を取り出した。
 月刊高校野球マガジン。
 僕が意図的に避けてきた媒介だ。
 注目の2年生エース特集。そこには東京や大阪の強豪高の選手に並んで、「宮城育英 大野真司投手」の文字が。
「これは・・・。」
 驚く僕に、竹山は平然と答えた。
「大野くんは、全国レベルの選手なんだよ。」
「・・・。」
 僕は月刊高校野球マガジンを奪い取った。そこにはテレビでいつも見ていたスカイブルーのユニフォームをまとったシンジの姿があった。
「去年の秋季大会から投げ出して、一気に注目されるようになったんだよ。東北大会ではベスト4に終わって、甲子園には行けなかったけど、今年は2年生エースとして活躍が期待されているんだよ。」
「・・・。」
 心のどこかで恐れていた事態を、なかなか受け止めきれずにいた。僕が野球をしない毎日を送っている間に、シンジはとんでもないところに行こうとしている。
「すごいよね。武田くんも、育英に行っていたら、これくらいの選手になれたんじゃない?宮中二枚看板から、育英二枚看板に。かっこいいな〜。」
「でも、まだ期待されているだけだろ。」
 一瞬しかけた甘い妄想を打ち消すように、強めに言った。シンジと二人で育英の主力として甲子園を目指す自分。そんな妄想を抱けば抱くほど、現実とのギャップが苦しくなる。
「これを見ると、有名校で試合に出た2年生を手当り次第載せてるような感じだよ。確かに、試合に出れるだけでもすごいけど、それだけで全国レベルと言ってしまうのはね・・・。大野だって、上級生の力があったからベスト4に行けたんだろうし、育英の実績から考えて、ベスト4では健闘とは言えないよ。それに、本当に今年はエースかどうかもわからないし。」
「だったら、観に行こうよ。」
「えっ!?」
「明日は育英の試合があるんだよ。大野くんも投げるかもよ。」

 翌日、たまたま休日だったこともあって、育英の試合を見に行くことにした。竹山がしつこく誘ってきて、断るのがめんどくさくなったのだ。
 初めて見る育英は、試合前の守備練習からしてすでに他のチームとは違っていた。まずはキャッチャーからセカンドへ球回しのボールが送られる。それは軽く投げたはずなのに、沈むことなく正確に相手の胸に収まった。ケータローにしろヨウスケにしろ、セカンドへの送球は全力で投げてようやく届くくらいだったのに。
 球回しが続くと、そのキャッチャーが特別ではなかったことにすぐ気がついた。ショートもサードもファーストも、いとも簡単に対角線に正確に送球する。その流れは、機械のように正確だった。
 シートノックも圧巻だった。他のチームはエラーの連続で、見ていれらないようなことも多いが、育英はエラーとは無縁だった。グローブでゴロを抑えるというよりは、ボールが自らグローブに入っていくような感覚だった。外野手も皆強肩で、矢のようなバックホームが次々と決まった。
「これはすごいな・・・。」
 そして、このエリート集団の中心にシンジの姿は確かにあった。雑誌で見た姿そのままに、スカイブルーのユニフォームに背番号1を背負っている。
「絶対勝つぞ!」
 大きな掛け声とともに、2年生エースはグランドの中心に立った。
 振りかぶってから大きく足を上げるダイナミックなフォーム、流れるようなスムーズな動きはあの頃と変わっていない。
「ストライーク!」
 審判のコールとともに、球場全体にどよめきが起こった。スコアボードに急速が表示されたからだ。
 147km/h。
 中学生の大会では球速は出なかった。だから、自分がシンジがどれくらいの球を投げているのかわからなかった。別に根拠はないがなんとなく130キロくらいかなと、願望も込めて思っていた。
「さすが、注目の2年生特集に取り上げられるだけのことはあるね。」
 注目の2年生どころじゃない。今すぐにでも、十分プロでも通用する球速じゃないか。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 当たり前のようにストレート2球で追い込むと、最後は変化球で空振りを取った。
「最後のボールは何?」
「フォークボールだ。」
「へ〜、野茂英雄みたいだね。中学生の時から投げてたの?」
「持ち球にはあった。でも、試合ではほとんど投げなかった。スッポ抜けることが多くて、精度が良くなかったんだ。」
「カウントが有利だから投げてみたのかな?」
「いや、また投げた。」
 次の打者の初球、ストレート一本に絞っているのを見透かしたかのような、鋭いフォークボールだ。
「ストライーク!」
 激しく空振りをした打者は、危なく尻もちをつきそうになった。
「ストライーク、ツー!」
「あれもフォークボール?」
「ああ、続けて投げてきた。初球は意表を突くものであっても、2球目は球道がバレていると承知で投げてきた。それでも打たれないという自信があったんだ。」
「まさに消える魔球だね。」
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 3球目もフォークだった。もはや持ち球の一つではない。ストレートに続く強力な武器になっていた。
 次の打者もあっさり抑えると、育英のショータイムが始まった。先頭から下位打線に至るまで、次々と鋭い打球を飛ばしていった。
「なんだか、相手ピッチャーが可愛そうだね。」
 ようやく3つ目のアウトを取ったのもつかの間、シンジがあっという間に攻撃を終わらせ、次の回のマウンドに立たなくてはならない。
「代わってあげればいいのにね。」
 次の回も連打を浴びるピッチャーを見て、竹山がつぶやいた。
「あれ以上のピッチャーはいないんだろう。普通の高校じゃ、エース以外にのピッチャーを育てる余裕がないんだよ。」
 結局3回までに15点を取ると、それ以上シンジが投げることはなかった。野手も順番に控え選手に代わっていったが、戦力が落ちることはなかった。レベルの差は歴然。5回コールドで初戦を突破した。
「ね?見に来てよかったでしょ?君の同級生がすごい選手になっていて、誇らしいでしょ?もしかしたら、本当にプロになれちゃうかもよ。」
 竹山は興奮気味に言った。
「う、うん。まあ、そうだな・・・。」
「いや〜、武田くんも育英に行っていればよかったのに、宮中二枚看板から、育英二枚看板へ。絶対にかっこいいよ。」
 竹山という男は、悪意がないだけにたちが悪い。挑戦して成功を掴みかけている人間と、挑戦すらしなかった人間。現実を容赦なく突きつけてくる。
「ねえ、選手出入り口に行ってみない?間近で大野くんが見れるかもよ。」
「いや、芸能人の出待ちじゃないんだし。」
「芸能人じゃないよ。武田くんは大野くんの友達でしょ?少しくらい話ができるんじゃない。そしたら、僕は大野くんの友達の友達になれるよ。」
「別に友達じゃないよ。」
「何言っているの?君と僕は友達だよ。」
「そういうことじゃないよ。」

「いや〜、もっと早く来ればよかったね。これだけの人だかりじゃ、大野くんが見れないよ。」
 自分はつくづく断るのが苦手だと思う。あれだけ嫌がっていたのに、結局竹山についてきてしまった。
「女子高生がいっぱい。やっぱり女性人気が高いんだね。羨ましいね。」
 黄色い声援というのだろう。二重三重に並んだ女子高生たちが、キャーキャーと甲高い声を発している。
「こんなんじゃ、選手は見えないだろ。俺は帰るよ。」
 僕は乗ってきた自転車にまたがった。
「自転車というのはナイスアイディアだね。彼女たちより視線が高くなる。」
「たいして変わらないだろ。」
「う〜ん、残念だな。女子高生しか見えない・・・。」
「だろ。やっぱり帰るぞ。」
 だが、竹山は動こうとしない。
「でも、女子高生のエネルギーっていうもの悪くはないものだよね。なにせ、僕たちの高校生活に華やかさが掛けている。」
「まあね・・・。」
 一高は男子校だった。ルーズソックスに丈を極端に短くした制服を着た女子高生は、テレビの中の存在だった。
「みんなかわいいね。特にあの子。芸能人みたいだ。」
 竹山が一人の女子高生を指差した。
「別に興味ないよ。」
 と言いつつ、自転車の上に立ち首を伸ばした。これだけの人だかりの中でも、彼が誰を指差したかすぐにわかった。身長こそさほど高くないものの、均整の取れた体から伸びる細くてきれいな足はそれだけで目を引いた。そして、隣の友達と話すときの笑顔がかわいい。あれだけ豊かな表情の人がクラスにいたら、それだけで雰囲気が変わりそうだ。
 その笑顔が一層嬉しそうに輝いた。選手が出てきたのだ。黄色い声援が一層高くなる。選手たちはその状況に慣れているのか、驚きもせず淡々とバスに乗り込もうとする。その中のひとりが、その女子高生のところで止まった。何やら楽しそうに話している。彼女の制服は育英だから、知り合いなんだろう。
「ねえ、よく見えないけど、あれ、大野くんじゃない?」
「ああ、確かに背番号1だ。」
「やっぱり、可愛い子にモテるんだね。」
「あっ!!」
「どうしたの?大きな声出して?」
「いや、なんでもない。」
 どうして今まで気が付かなかったんだろう。あれは間違いなく鈴木亜里沙じゃないか。中学卒業以来会っていなかったとは言え、あれだけ応援してくれた人を忘れるとは。
「もしかして、知り合い?」
「い、いや・・・、まさか。」
 別れたものだと勝手に思い込んでいたが、まだ付き合ってたんだな。人目があるにも関わらず、あんなに楽しそうにして、よっぽど馬が合うんだな。
「あっ!」
「今度は何?」
 鈴木亜里沙と目が会ったような気がした。人だかりの一番奥にいる僕とは結構な距離がある。気のせいか。いや、またこっちを見た。手を振っている。
「あれ、やっぱり知り合いなんじゃない?もしかして、あの女の子も宮中なの?」
「いや、違う人に手を振ってるんだろ。」
 僕は逃げるようにして、自転車を漕ぎ出した。今彼女に会ったとしても、何を話したらいいのかわからない。「マサトもシンジの試合見にきてたんだ。マサトは今何しているの?」野球をやめた僕に、自分を語る言葉はない。
「あっ、ちょっと待ってよ。」
「悪い、先帰る。」
 全力で自転車を漕ぐ僕に、冷たい風が横切った。アリサもシンジも背中の後ろに遠くなっていく。もうこの町で、二人を見ることはないだろうと思った。

 その年の宮城県代表は当然のように宮城育英だった。
 一回戦の勢いそのままに最後まで圧倒し続けた。決勝は東北学園高校だったが、まるで相手にならなかった。初回から猛打が爆発、次々と得点を重ねていった。守ってはシンジが快投を繰り広げた。さすがに一回戦のときのような奪三振ショーにはならなかったが、同じく甲子園常連校の強打者相手に全く自分のスイングをさせなかった。力強いストレートは試合を重ねても衰えることなく、空振りとポップフライの山を築いていった。
 そして、変化球。もともと投げていたスライダーやカーブはもとより、あんなにフォークを多投するようになっていたとは。しかも、ほとんどすっぽ抜けることなく、ホームベース上に落ちていった。
「やっぱりすごいね。甲子園でもいいところまで行けるんじゃない。」
「そんなに簡単なところじゃないよ。一回戦だって突破できるかどうか・・・。」
 そんなネガティブな予想とは裏腹に、あっさり突破してみせた。相手は四国地方の商業高校。公立高校ではあるが、常連校の一つであり優勝経験もあった。先制点は相手チームだった。初回、珍しく制球が乱れたシンジを見逃さず、2点を先制した。
「やっぱり、独特の雰囲気があるんだろうな。」
「いや、彼ならここからやってくれるよ。」
 打線も、宮城県予選のような猛打はなかなか発揮できなかった。シンジほどのスピードはなくても140キロはコンスタントに超えてくる。そこからコーナーに変化球を決めてくるピッチングに、さすがの育英も苦しんだ。
 だが、そんな育英の窮地を救ったのも、シンジのピッチングだった。2回以降も時々ランナーを背負うことはあっても、勝負どころで踏ん張りホームを許すことはなかった。そして、次第に本来のキレを取り戻してきた。ストレートの球速もマックス148km/hを記録した。
「流れが変わってきたんじゃない?」
 竹山の読みが当たった。ついに8回。打線が相手ピッチャーを捉えた。先頭がセンター前ヒットを放つと、そこからバントやエンドランなどの小技を絡めて3点をもぎ取った。
「やったね。」
 試合の最終盤になると僕もテレビに引き込まれていた。一点リードの9回裏の守り、ツーアウト2、3塁の一打さよならのピンチ。炎天下の中、汗を拭いながらサインを覗き込むシンジ。
「がんばれ!」
 竹山の声に僕も頷いていた。最後は宝刀となったフォークボール。バットが空を切ったときには、小さくガッツポーズをしていた。
「すごいね。完投勝ちだよ。」
「お、おう・・・。」
「このピッチングなら、優勝してもおかしくないんじゃない?」
「いや、さすがにそれはないだろう。」
「なんで?」
「だって、育英にはシンジ以外にピッチャーがいないみたいだし、そんなに甘くないよ。」
「だからこそ、二回戦も一緒に応援しようよ。」
「どうかな。俺も忙しいし。」
 無関心を装ってみても、どうしてもテレビが気になる。育英以外にはどんなチームがあるだろうか。そのチームが育英とあたったら、シンジはどんなピッチングをするだろうか。
「すごい、二回戦も勝ったね。」
「でも、次は厳しいだろう。」
 勝ち進むにつれて、シンジへの注目度も上がっていった。「北国からきた貴公子」「みちのくの新星」そんな言葉で、マスコミもどんどん持ち上げた。
「いよいよ決勝戦だね。」
 なんだかんだで、最後まで竹山と一緒に見てしまった。その年の夏休みは竹山と甲子園を見ていた思い出しか残っていない。
 決勝の相手は、何度も優勝経験がある大阪の強豪校だった。下馬評では相手の方が圧倒的に有利。だが、人気では育英が上回っていた。東北の厳しい環境の中でも奮闘する2年生。その姿に高校野球ファンならずとも夢中になった。
 試合は序盤から両者一歩も譲らないシーソーゲームとなった。先制点は育英。相手の不安定な立ち上がりを攻め、2点を先制した。これでシンジのピッチングも楽になるかと思いきや、そこは強豪校。140キロ代後半のストレートにも切れのあるフォークボールにも難なくついていった。
「いい球投げていると思うんだけどな。」
 2回に1点。3回に2点取られ、逆転を許してしまった。
「くそー、流れが悪いな。」
 だが、それもすぐに断ち切った。4番打者の豪快な一発で逆転、再び流れを引き戻した。
「よし、これで行けるかも。」
 しかし、敵もさるもの。毎回のようにランナーを送り、絶え間なくシンジにプレッシャーをかけ続けた。
「なんとか踏ん張ってくれ。」
 テレビ越しにも願いが通じたのか、ここ一番で踏ん張り、相手に得点を許すことはなかった。
 9回裏、ランナーを一塁に出しながらも、ツーアウトまでたどり着いた。テレビの中にシンジは大粒の汗を書いている。ここまで140球を超える球数を投げてきた。しかも、全試合完投。厳しい育英の練習を耐え抜いてきたとは言え、体力はとっくに限界を超えているはずだ。
「ねえ、歴史的瞬間になるんじゃない?」
 深紅の大優勝旗が初めて東北地方にもたらされる。しかも、この2年生エースによって。高ぶる期待を抑えきれなかったのは、竹山だけじゃないだろう。
 カキーン!
 四番打者が放った打球は無情にもレフトスタンドへ。この日2本目のホームランで、サヨナラゲーム。
「嘘だろ、信じられない・・・。」
 テレビの前で呆然とする僕たちとは対象的に、テレビの中のシンジは笑顔だった。すべてを出し切った。あれで打たれたのなら悔いはない。高校に入ってから僕が一度も感じたことのない、爽やかな気持ちだったに違いない。

 甲子園から戻ってきた彼は、仙台のアイドルになっていた。
 月刊高校野球マガジンの表紙を飾ることはもちろん、普段はあまり高校野球を取り上げないスポーツ総合誌や一般の媒体でも大きく特集されていた。「世紀の決勝戦」。もちろん、主役は優勝した大阪の高校ではなく、負けたシンジだ。
「冬の寒さの厳しい東北地方で、ここまで来られた理由はなんですか?」
「先輩たちの支えがあったからだと思います。キャプテンを中心に先輩たちが強いリーダーシップを取ってくれたから、ついていくことができました。」
 夜のスポーツニュースでも、主役はシンジだった。
「サヨナラのホームランを打たれたときの気持ちは?」
「悔しさはありましたが、それ以上に嬉しかったです。世の中にはこんなにすごいバッターがいるんだな。だったら、それを目標にもっと努力ができる、と。」
 女子アナのインタビューに応えるシンジは、すでに一流アスリートの風格を漂わせていた。
「負けても嬉しい。なんでそんなに前向きになれるんですか?」
「なんでですかね。多分、ただ野球が好き。それだけなんだと思います。」
 仙台のマスコミの取り上げ方はさらに派手だった。甲子園から返ってきた育英ナインを仙台駅から生中継。母校への凱旋から県知事への報告まで、連日のようにトップニュースで伝えた。
「大野くんって爽やかで可愛い子ね。サインを貰えないの?」
 普段それほど野球に興味を持たない母親までそんな事を言う始末。実の息子そっちのけでテレビにかじりついた。

 周りの熱狂に呆れつつも、僕も知らず知らずのうちに刺激を受けていた。
「野球が好きだ。」
 2年間封印していた思いを次第に抑えきれなくなってきた。
 今からでも遅くはないんじゃないだろうか。大きな練習バックを抱えてグランドへと向かうトモキたちを見ているうちに、本気でそう思うようになってきた。
 確かに、2年間のブランクは大きいが、仮にもあの大野真司と二枚看板を組んだ男だ。甲子園に行くことはできなくても、この高校ならそこそこできるんじゃないか。
 ある日、自転車でグランドに向かうトモキたちを後ろからつけていった。野球部のグランドは校舎から離れたところにある。見学会で一度行ったきりだったので、正確な場所は覚えていない。自転車でも30分はかかったと思う。
「もうすぐ秋季大会だな。」
「育英とは当たりたくないな。」
 彼らの会話がかすかに聞こえてくる。連坊小路を下りきり、国道にぶつかると、さらに直進した。こんなに遠かったっけ?繁華街を抜け、住宅街を抜けると、ついに周りは田んぼと畑だけになった。
 とんでもないところで、練習していたんだな。
 風が強く吹いている。時々白い鳥が空を舞っている。海の近くまで来てしまった。
 田畑の真ん中に、フェンスを覆っただけのその場所では、姿を隠すだけで一苦労だ。僕は外野に回ると草むらに身を隠した。
「しまっていこー!」
 新チームのキャプテンはケータローのようだ。昔から掛け声はワンパターンだが、リーダーシップは変わらない。ウォーミングアップからストレッチまで、チームを引っ張る姿はすでに板についている。
「守備につけ〜!」
 ノックが始まった。僕は宮城球場で見た育英のノックを思い出さずにはいられなかった。あの時は流れるような美しいボールさばきに感動さえ覚えたほどだ。
「しっかり取れよ〜!」
「ドンマイ!」
「最後までボールから目を離すな!」
 エラーをするたびに檄が飛ぶ。やはり、育英とのレベルの差は歴然だ。
「もういっちょ!!」
 だが、何度エラーをしても立ち上がる。
「もういっちょ!」
 みんなユニフォームを土で真っ黒にしている。
「もういっちょ!」
「何度目だよ!」
 グランド全体に笑い声が響いた。長時間草むらにいる僕は、段々と足がしびれてきた。
 なんだか楽しそうだな。
 ばれないように姿勢を変えた。見学会のときは頂点を目指せないと思って入部を見送ったが、本当にそれで正しかったのだろうか。たとえ頂点を目指せなくても、やりたいことが見つからず悶々と毎日を送っている、今の人生よりはよっぽどマシなんじゃないだろうか。
「よし!」
 僕は半分腰を上げた。このまま入部を申し込もう。僕は心のなかでシミュレーションをした。
「武田雅人といいます。中学ではピッチャーをやっていました。」
「今からでも大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。中学では大野真司と一緒にやっていました。二人でゴールデンルーキーと呼ばれていました。」
 そこまで考えて腰を下ろした。自分の存在価値ってそんなものなのだろうか。大野真司と野球をやっていたこと以外に自分を説明できるものがないのだろうか。
 僕は再び自転車にまたがった。ばれないように遠回りをして。海が見えてきた。もう二度と野球をすることはないだろうと思った。
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