第22話

文字数 10,480文字

「なあ、何か話してくれよ。」
「・・・。」
「アリサも成田さんも、・・・と言っても成田さんのことは知らないか。俺の元同僚。アリサを助けようとして、果敢に立ち向かったんだ。あっさり捕まってしまったけどな。二人とも保護されて、警察の中にいるそうだ。」
「・・・。」
「俺と成田さんは2回目だが、アリサは警察の取り調べを受けるのは初めてだから、少し動揺しているかもな。いや、あの性格だから、全然平気か。」
「・・・。」
「尿検査を受けたそうだな。結果は聞いているか。聞かなくてもわかるか。自分のことだもんな。」
「・・・。」
「無罪放免なら、これからは集中して野球をやれるな。もうヤクザのことは気にしなくていいって、宮地刑事が言ってた。当面ムショから出てこないから、お前には手を出せないって。」
「・・・。」
「マスコミのことも心配しなくていい。そう宮地さんが約束してくれた。マスコミにとって警察は貴重な情報源だから、逆らえないんだって。」
「・・・。」
「最初は宮地さんのことを変な警察官だなってナメた目で見てたけど、本当にいい人だよ。俺が二人っきりでシンジと話すことも許してくれたし。」
「・・・。」
「お前も後でお礼を言っておけよ。」
「・・・。」
「なあ、わかったか?」
「・・・。」
「黙ってばかりじゃ、わからないだろ。俺ばかりに喋らせないで、お前もなにか話してくれよ。俺は、お前の話が聞きたいんだ。」
「・・・。」
 シンジと二人きりになって、どのくらい経つだろうか。僕が話すばかりで、シンジは一向に反応がない。ヤクザの部屋にいたときと同じ、下を向いたまま置物のように固まっている。
「・・・。」
 ついに僕まで話す言葉を失ってしまった。
 大人が二人入ればいっぱいとなるような狭い部屋。小さな机を挟んで、動かないシンジとずっと向き合ったままだ。言葉だけでなく、息まで詰まりそうだ。
 子供の頃はこんなんじゃなかったのにな。あんなにも明朗で快活なシンジはどこへ行ったんだ。「俺は野球が好きだ。」あれだけ目を輝かせていたのに、今はその目を合わせようともしないのか。
「・・・。」
「余計なことしやがって。」
「・・・?」
 あまりに突然に、あまりに小さな声で話したので、二人きりなのにそれがシンジの声だとは信じられなかった。
「・・・えっ?」
「余計なことしやがって!!」
 今度は狭い部屋に不釣り合いなくらいな大声だった。
 だが、頭を上げることはない。肩だけが小刻みに揺れていた。
「お前のためを思ってやったんだ。」
「それが余計なことだと言っているんだ。」
 肩を震わせたままシンジが言った。
「なぜだ。あのままだと、お前は犯罪に巻き込まれるどころか、犯罪者になっていたかもしれないんだぞ。」
「別にそんなこと・・・。」
「どうでもいいわけないだろ。結果論かもしれないが、全てはうまく行ったんだよ。さっきも言ったとおり、ヤクザはもうお前には手を出してこない。マスコミに追われることもない。ようやく野球ができるじゃない。俺はお前のピッチングが見たいんだよ。」
「もう終わってるんだよ!!」
 大声とともに初めて顔を上げた。その目は涙で真っ赤に腫れていた。
「俺の人生なんてとっくに終わってるんだよ。お前だって本当はわかってるだろ。俺の球は通用しないんだ。いつまでも子供じみた理想論ばかり語るな。野球選手として終わった俺の人生なんて、もう価値なんてないだよ!!」
「・・・。」
 あまりに激しい剣幕に、すぐには返す言葉が出てこなかった。
 椅子から立ち上がらんばかりのシンジは、再び腰を落ち着けた。
「わかっただろ。だから、もう俺には関わらないでくれ。」
「・・・。」
「俺はもう野球をやめる。お前は勝手に球団職員でも続けていればいい。もし、野球を通じて俺とつながっているつもりなら、それも終わりだ。今度こそ俺とお前は赤の他人だ。」
「・・・。確かに、俺にも悪いところはあったかもしれない。お前の気持ちを十分に考えずに、自分の思いばかりを押し付けていたかもしれない・・・。」
「何だよ今さら。」
「でも、一つだけわかってもらいたいことがある。仮に野球をやめたとしても、人生が終わったことになるわけではない。」
「何だよ。野球を続けてほしいのか、やめてほしいのか。」
「野球以外にも人生はある。お前なら、それができるはずだ。」
「だから、それが理想論だと言ってるんだ。前にも言っただろ。俺は有名になりすぎたんだ。俺なんかがどこかの会社に就職したって、腫れ物扱いにしかならないだろ。俺はもう表の世界では生きてはいけないんだよ。それは、今さらどうしようもないことなんだ。」
「俺だって、完璧な答えを持っているわけじゃない。それに、俺だって苦しんだ。でも、答えはあると思う。アリサのためにも、頑張ってほしい。」
「なんでアリサが出てくるんだよ。あの女こそ、もう関係ないだろ。」
「アリサに頼まれたからこそ、お前を助けに行ったんだ。アリサは、それほどまでにお前のことを想っている。」
「命がけて乗り込んできたのはお前の方だろ。」
「アリサに頼まれたからこそだ。」
「だったら、お前がアリサと付き合えばいいじゃないか?」
「はぁ!?」
「アリサに頼まれて命かけるなんて、よっぽど惚れてるんじゃないか。」
「バカ言うな。俺は、お前を想うアリサの気持ちに心打たれたんだ。」
「ふんっ!カッコつけやがって。」
「お前だってそうだろ。アリサのことを大切に想っているから、ヤクザに縁を切るように頼んだんだろ?自分を犠牲にしてまで。」
「別に、そんなつもりはねえよ。表の世界では生きにくくなったから、そういう口実を付けたまでだ。あんな女のことは、どうでもいいんだよ。」
「嘘言うな。お前のことをずっと想ってきた女は、アリサしかいないじゃないか。」
「知ったことか・・・。それに、他の女を知らない中学生の時だったから付き合っただけで、別にタイプじゃねえよ。お前にやるよ。あの頃から、自分のこと見られていると勘違いしてたんだろ。良かったじゃないか。」
「バカヤロー!」
 気がつけば、僕はシンジの頬にパンチを食らわしていた。シンジの大きな体が驚くほど簡単に吹き飛んだ。
「おい、やめろ。」
 部屋の外で監視していた警察官が慌てて止めに入った。
「もう少し骨のあるやつかと思ってたよ。残念だ・・・。」
 僕は警察官たちに引きずられるようにして、部屋を出た。


 退団のニュースが報じられたのは、それから数日後だった。
 その時僕は、イーグルパーク内の球団事務所にいた。スポーツ紙の3面の下の方の、小さな小さな記事だった。
「おい、大野真司がやめたらしいぞ。」
 誰かが言った。
 普段からスポーツ紙をくまなく見ているプロ野球関係者でなければ見過ごしてしまいそうなくらい小さな記事だった。入団の時にあれだけ騒がれた選手とは思えないほどの静かな現役引退。これも、宮地さんのはからいだろう。
「こいつ、この後どうすんだろうな?」
「知らねーよ。」
「うちで雇うのはどうだ?バッティングピッチャーならまだできるだろ。」
「冗談よせよ。」
 シーズンオフの閑散期となれば、こんな話題でも事務所は盛り上がる。僕は窓から外を見た。天気は悪くなさそうだ。
「おい、どこへ行く?」
「ちょっと休憩です。」
 僕は球場に出て、天然芝の上を歩いた。シーズンオフの誰もいない静かな宮城球場。秋の日差しが、穏やかに降り注いでいる。
 空を見上げると、天高くいわし雲が気持ちよさそうに泳いでいた。
 全てはこれで終わったんだ。
 これで良かったとは思わない。
 でも、全てはこれで終わったんだ。
 シンジの野球人生も。
 シンジの再起を願う僕の気持ちも。
 シンジに寄り添い続けたアリサの想いも。
 全ては野球のせいだ。
 野球さえなければ、今頃きっと・・・。
 シンジの学力と人柄を考えれば、今頃きっと・・・。
 一高に行って、トンペイ(東北大学)に行って、有名な会社に就職する。
 仙台市民として、絵に描いたようなあこがれの人生。
 野球さえなければ、今頃きっと・・・。
 でも、全てはこれで終わったんだ。

 第二回仙台イーグルス経営戦略会議。
「球場内限定のイーグルス弁当を販売しましょう。仙台の名産をこれでもかと詰めるのです。例えば、これ。(パワーポイントのスライドを一枚めくる。)仙台名物の牛タンです。これはただの牛タンではないですよ。イーグルスのEの文字の焼印が入った、イーグルス牛タン。これだけではないですよ。(次のスライドをめくる。)同じくEの焼印が入ったイーグルス笹かまぼこ。さらには、イーグルス萩の月。これだけ入って、価格は驚きの1500円。今なら、イーグルスずんだ餅もついてくる。」
「・・・。」
「・・・。」
 同僚のプレゼンが終了した。だが、植草社長のリアクションはまだない。
 カチカチ。カチカチ・・・。
 まずい。ボールペンのノックを小刻みに押し始めた。機嫌が悪い時にいつもする癖だ。
 カチカチ。カチカチ・・・。
「い、いかがでしょうか・・・?」
 勢いよくプレゼンした同じ人の声とは思えない弱々しい声でお伺いを立てた。
「あのさ、球場に来る主な客層わかってるの。ほとんどが、地元の人だよ。地元の人が地元の特産をわざわざイーグルパークで買うわけないじゃん。それに、牛たんでも笹かまでも、どこでも売ってるよな。仙台でも他ではなく、ここに来たからこそ意味のある体験をしてもらいたいわけだよ。」
「しかし、その・・・。」
「何?俺、間違ったこと言った?」
「いえ、・・・出直してきます!」
「次!」
「はい、そういった意味では、私の提案はまさにイーグルスのファンにしかできないものです。もちろん、他の球団もやっていないものです。特製弁当など、むしろやっていないところのほうが珍しい。まさに、プロ野球界の先端を行く私の提案はこれです。(スライドをめくる。)イーグルス抱き枕です!長さ180センチの抱き枕に、ほぼ等身大の選手の姿をプリント。あこがれの選手をいつでもそばに感じられます。」
 カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ・・・。
 あちゃ〜。完全に失敗だ。ボールペンが壊れんばかりにノックしている。
「あのな、ウチはただでさえベテランが多いんだぞ。おじさんの抱き枕なんて、誰が欲しがるんだよ!」
「・・・。」
「次!」
「・・・。」
「おい、次だよ。次のプレゼン誰だよ。早く始めろよ。」
「あの・・・、社長。」
「ん?何だよ!」
「今日の予定者は以上です。」
「はっ!?マジで!」
「・・・はい。」
「何だよ、まともなアイディア一つも出てないじゃん。真面目に考えてきたのか。1年目は何もしなくても注目度が高かったから、それだけでなんとか乗り越えることができた。でも、2年目以降はそうはいかないんだぞ。選手だっていきなり補強できるわけじゃないし、そんなに勝てるわけはないんだ。だったら、経営のアイディアでやっていくしかないだろ。みんな危機感持って仕事しているのか?」
「・・・。」
「予定の者じゃなくてもいいや。誰かないのか、即興でアイディアを言ってみろよ。」
「・・・。」
「まったく、だらしないな。当てられなきゃしゃべれないのかよ。俺が若い頃は、24時間仕事のことばかり考えていたけどな。お前らは、何も考えてないのかよ。」
 カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ。カチカチ・・・。
 何も考えていないわけじゃない。だが、カチカチモードに入ってしまった植草さんには、何を言っても火に油だ。情熱的な人だけに、怒りも簡単には収まらない。
「おい、俺の話聞いてるのか!」
 そこに秘書がやってきて、社長に耳打ちをした。
「仕方ない。急な来客があるから、今日のところはここまでにしとく。一週間後にもう一度やるからな・・・。」
「社長!待ってください!」
 席を立ちかけた社長を呼び止めた。
「ん?何だよ?」
 社長だけじゃない。その場にいた全員からの、敵意ある冷たい目線が突き刺さった。またあの空気を読めないバカが、場違いな発言をしようとしているぞ。このまま社長を出させれば、重たい空気から逃れられるのに。
「私に提案があります。」
「バカか。客が来てるって言っただろ。」
「30秒で終わります。」
「本当に30秒だな。じゃあ、言ってみろ。」
「地元出身者のみを対象とした、トライアウトを開催しましょう。仙台を始めたとした東北地方は、元来学生野球は盛んな土地柄です。高校は宮城育英に東北学園高校、大学なら東北福祉大。他にも強豪校はたくさんあって、一度はプロを諦めてくすぶっている若者はたくさんいるはずです。彼らに再チャレンジする機会を与えましょう。それに経営面でもメリットはあります。地元の選手を多く獲得すれば、地元を大切にするイーグルスというブランドイメージ向上に繋がります。」
「・・・。」
 会場がしんと静まり返った。
 しまった。やっぱり僕は、空気を読めず場違いな発言ばかりするバカなのか。
 すると、植草さんがニヤリと笑った。
「武田、20秒オーバーだ。」

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 おい、聞いてくれよ。イーグルスがトライアウトを主催するんだ。お前も出てみないか。まだチャンスは有るぞ。

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 本当に燃え尽きたと言えるのか。そんな辞め方じゃ、一生後悔するぞ。日本中に非難されたっていいじゃないか。

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 勝手にエントリーしておいたぞ。球団職員だからできる裏技だ。主催者推薦というのも無理やり作っておいた。

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 明日だぞ。お前は球場に来るだけでいい。会場は俺たちが切磋琢磨した宮城球場だ。

「やっぱりあいつは来ないのかな?」
 僕は不安げにトライアウトの様子を見ていた。始まってから一時間。すでに多くの選手がグランドで再起を目指して必死のプレーを見せてきた。かつて1軍で優勝まで経験してベテラン選手。ドラフトにもかからず、それでも独立リーグで夢を見続ける若手の選手。それぞれがそれぞれの思いをこの瞬間にぶつけていた。
「トライアウトと言っても、マスコミは来てるからね。シンジは嫌なのかもね。」
 アリサはその後すぐに芸能界を引退していた。実質的な活躍はほとんどないままの引退だったが、本人はいたってさばさばしている。あれだけ長く伸ばしていた金色の髪もすっかり長くなり、見た目も「カタギ」そのものだ。
「何なのよ。さっきからジロジロ見て。」
「いや、なんかさ。黒髪だと中学生の頃を思い出して・・・。」
「バカね。すっかりおばさんだって。そんなことよりシンジに電話してみたら。早くしないと本当に手遅れになっちゃうよ。」
「毎日のように電話してるさ。今朝だって、ほら・・・。」
 僕は発信履歴をアリサに見せた。
「いいから、また電話してみて。あたしの勘だと、近くにいるような気がするの。」
「何なんだよ、その勘って。」
 そう言いつつ、シンジに電話をかけた。何度かけても留守電にしかならなかったシンジへの電話。もしかしたら、それも最後かもしれない。予定通りであれば、シンジの登板は終盤の8回か9回だ。近くにいるにしても、早く会場に入って準備をしなければ、とても間に合わない。

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 おい、そばにいるんだろ。わかってるんだぞ。だったら、すぐに来いよ。今ならまだ間に合うぞ。でも、今を逃したらもうないぞ。

 どうしてまたここに来てしまったのだろう。
 携帯に現れた「武田雅人」の文字を見ながら考えた。
 すべてを終わらせようと何度も自分に言い聞かせてきた。リトルリーグ時代から続けてきた野球も、中学から付き合ってきたアリサのことも。そして、その後にできた良くない人間関係も。

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 さっきの電話で最後にしようと思ったんだけど、アリサがしつこいからもう一回掛けるぞ。俺たちは今、宮球に来ている。お前のプレーを見に来たんだ。これが引退試合になっても構わない。俺たちのためにマウンドに立ってくれよ。

 でも、コイツのせいで俺の人生が終わりにならない。
 クッソ!
 俺だって、マウンドに立ちたいんだよ。だって、俺には野球しかないんだから。
 でもな、俺はもう表には出れないんだよ。俺にはもう人前で野球をする資格なんてないんだよ。
 車のキーを入れ直した。エンジンは相変わらずいい音を立てて回りだす。
 この車も後で廃車にしよう。
「さようなら。」
 バックミラーには、2年目に向けた改修を終えた宮城球場が見える。ともに戦い、ともに笑ったあの頃の思い出は、もう戻ることはないだろう。

「クソ〜、やっぱりダメか・・・。」
 僕はパタリと携帯を閉じた。
「そんなに簡単に諦めちゃダメだよ。野球は9回まで何があるかわからないよ。」
「そうだけど、もう8回だぞ。早くしないと、本当に手遅れだぞ。」
「大丈夫、シンジはどんなときでもここに来る。病院にいたって、来るくらいなんだから。」
「それって、お前が無理やり・・・。」
「あっ・・・。」
 8回最後の打者が凡打に終わった。残るイニングは9回だけになった。
「ストライーク!」
 球審の大きな声が、仙台の青空に響いた。9回のマウンドに立ったのは、プロ通算で100勝以上を誇るベテラン投手だった。
「ストライーク、ツー!」
 スピードガンの数字は138km/h。150キロ超えを連発していた全盛期を知るファンにとっては、なんとも寂しい数字だ。
「これが野球なんだろうな・・・。」
「どうしたの?急にしみじみとして。」
「あのピッチャーなんか、ずっと億以上の年俸を稼いでいて、お金のことを考えたらもう野球なんてする必要はないはずなんだ。むしろ衰えていく自分を直視することが辛いはずだと思う。でも、それでもやめられないのが野球だよ。僕だってわかる。レベルは違えど、一度情熱を注いだものを簡単には捨てられないよ。」
「じゃあ、シンジは絶対に来るってこと?まだ、野球を続けるために。」
「いや、逆なんじゃないかな。ここに来たら、踏ん切りをつけなければならない。ここでダメたら、もうチャンスはないんだよ。」
「じゃあ、シンジはずっと野球を引きずったまま、中途半端な気持ちで生きていかなきゃならないってこと?」
「そんなふうになってほしくないから、トライアウトを提案したんだよ。」
「ストライーク、三振バッターアウト!」
「あ、ワンアウトになっちゃった。」
「クソ〜、あと二人か。もうダメだな。仕方がない。これがシンジが選んだ道なら、僕たちにはどうしようもない。」
 席を立とうとしたときだった。
「ねえ、あれ見て!」
 アリサがレフト側のブルペンを指差した。
 ダイナミックに大きく上げた足の力が、スムーズに上半身に伝わり、力強く上から振り抜くあのフォーム。キャッチャーの手元でホップするような回転のかかったストレート。少年の頃から目に焼き付いて離れなかった、あの背番号1が宮城球場で投球練習をしている。
「でも、あのユニフォームなんか変じゃない?」
「確かに・・・。あいつの背番号は1じゃなかったしな。」
「ん?」
「あれ、宮中のユニフォームだ!」

「選手の交代をお知らせします。ピッチャー大野。」
 アナウンスと共に会場がどっと沸いた。イーグルスの関係者とマスコミ、それに少数の観客しかいない場内だが、まるで満員の決勝戦のような雰囲気だ。
「思いのほか注目されちゃって、シンジも嫌なんじゃない?」
「いや、これが大野真司なんだよ。どんな状況でも生まれ持ったスター性は消えない。花があるって一つの才能なんだよ。」
「でも、せめて早稲田のユニフォームを着てくればよかったのにね。あれじゃピチピチで動きにくそうだよ。」
「いや、この球場にはあのユニフォームが一番似合うよ。」
 投球練習を終えたシンジが球審からボールを受け取った。
「頑張れ、シンジ〜!」
 アリサが大きな声を出した。シンジがちらっとこっちを見たような気がした。
「あ、気づいたんじゃない?」
「いや、まさか。シンジも緊張しているだろうし。」
「プレイ!」
 いよいよゴールデンルーキーの最後の投球が始まる。
 キャッチャーのサインを覗き込む。小さくうなづき、大きく振りかぶる。あの時と変わらない美しいフォームから繰り出された初球は、ストレートだった。
「ストライーク!」
 147km/h。急速以上の切れのある球にバッターはピクリとも動けなかった。
「ファール!」
 続いてもストレート。タイミングが合わず、当てるのが精一杯という感じだ。
「すごいな。これが2軍でくすぶっていた選手か?本当はまだやれるんじゃないか?」
 3球目のサイン交換。これも一発ですぐに決まった。
「ボール!」
 フォークボールがベースの手前でワンバウンドした。これにはシンジも苦笑い。
「ここはストレートしかないんじゃないか・・・。もともと相手はストレートに遅れている。1球変化球を見せれば、ますますタイミングが合わなくなるはずだ・・・。」
 カーン!
 きれいなセンター返しだった。
「相手も必死だからな。うまくストレートにアジャストしてきた。」
「でも、まだ一人だよ。シンジの真骨頂はここからだよ!」
 背中に負ったランナーを目で牽制する。元来マウンドさばきはうまいほうだ。不用意にリードは広げられない。
「ファール!」
 チップしたボールがバックネットにぶつかった。
「タイミングは合っているようだな。不用意にストレートは続けないほうがいい・・・。」
「え?あんなに速い球投げているのに?」
「相手は一軍の経験が豊富だからね・・・。」
 カキーン!
 快音とともに、打球がレフトポールにめがけて飛んでいった。飛距離は十分。
 まずい、切れろ!
「ファール!」
 50センチの差で助かった。
「ふ〜、だからストレートは気をつけろって・・・。」
「でも、追い込んだよ。三振前のバカあたりだよ、あんなの。」
 気を取り直して、セットポジションに入る。アリサの言う通り、追い込んでいるのはこちらの方、慌てる必要はない。
「ボール!」
 様子見の高めのストレート。釣られなかったが、そこは想定内だ。勝負球は次の1球だ。
「ボール!」
 クソッ!また、フォークを叩きつけてしまった。どうも今日はフォークを制球できない日のようだ。
 こんなことなら、ちゃんと自主練をしておくべきだった。引退を告げた日から、何もかもを捨ててしまおうとしていた。プロの時に使っていたユニフォームもグローブも、過去をすべて捨てて、違う自分になろうとしていた。
 あいつからの電話がなければ、本当にそうなっていたかもしれない。でも、野球を愛した過去は変えられないし、野球を好きな気持も変えられない。
 キャッチャーのサインはストレート。そんなにストレートを信用しているのか。それともフォークに見切りをつけたのか。
 ランナーは動く気配はない。バッターもさっきファールした内角のストレートがもう一度くるなんて思っていないだろう。
 力むな。リラックスして、腕を振り切ることだけを考えろ。
 えい!
 よし、会心の球離れだ。球威、コントロールともに最高だ!
 バシッ!
 構えたところから1ミリも動かない。完璧なストレートがミットに収まった。
「ボール!」
 クソ・・・。あれがボールか。まいったな。あれ以上の球は投げられないな。
 フルカウント。
 キャッチャーのサインを覗き込む。
 ストレート?
 首を横に振る。完全にあの球は見切られている。
 フォーク?
 これもダメだ。今の俺にはこれを操る技量がない。
 スライダー?
 待てよ。プロに入ってからほとんど投げなくなったたまだ。こんな大事な場面で投げられるかよ・・・。
 一度マウンドを外した。どうしたんだ、俺。この期に及んで打たれるのが怖くなったのか。一度は野球を捨てたんだろ。今さらこんな人間どうなろうと、誰が気にかける?せいぜい世間から中傷されるだけだろ。
「頑張れ、シンジ〜!」
 ん?
「弱気になるな!思い切っていけ!」
 あんなに近くにいたのにどうして気が付かなかったんだろう。
 一塁ベンチ裏に陣取った2人の男女。トライアウトにあんな大声を出すなんて。
 ん?
 フェンスになにか貼ってあるぞ。
 しわくちゃでボロボロになった画用紙。下手な手書の文字。あいつ、まだあんなものとっておいたのか・・・。
「宮中二枚看板
 ゴールデンルーキー」
 ありがとな。
 考えてみれば、お前と一緒だったのはほんの僅かの時間だったんだよな。でも、生涯ただ一人の親友は、お前だよ。
 カキーン!
 なあ、悔いはないっていうのはこういうことなんだな。すべての夢が叶うことはないだろう。でも、最後まで何かをやりきれるっていうのは、とても幸せなことだな。
 
 再びの観覧車。
 もう何周しているのかわからない。暖かな日差しの中で、過去を回想していたマサトもようやく現実に戻ることができた。
「こんなところで野球ができるなんて、最高だな。」
 窓からイーグルパークを見下ろした。人工芝の緑と、クリムゾンレッドの客席の対比が眩しいくらいに綺麗だ。
「もうすぐお客さんも入るしな。きっと今日も満員だぞ!」
「で、どうなんだ。答えは出たのか?」
「ん?何のことだ?」
「なんだよ。あんなに真剣に考えているふうだったに、やっぱり寝てたのかよ。」
 そう言うと、シンジは観覧車を飛び降りた。
「もしも人生をやり直せるとしたら、いつに戻りたい?」
 シンジと再び野球をすることができるようになった今、そんな質問は無意味なような気がする。
「いつまで同じところにいるんだ。早く行こうぜ。」
「試合はまだこれからだからな。」
 マサトもそう言って飛び降りた。
「ああ、面白い試合になりそうだな。」
 白い歯を見せて笑う姿は、初めてあった時そのままだった。


 「俺は野球が好きだ。」なあ、その気持ち、今でも変わらないだろ?
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