第14話

文字数 6,369文字

 高校野球が終わり、甲子園が終わると、いよいよ僕たちは次の進路を考えなくてはならなくなった。
「お前は何を目指すんだ。」
 入学以来つきまとっている心の声は、まだ鳴り止むことがない。
「雅人くんの成績であれば、東北大学も圏内であると言えると思います。ギリギリではありますが。」
 中学の進路相談を受けたのはつい最近だったような気がする。いつの間にか高校でも進路相談が始まっていた。
「でも、最近の雅人の成績を見ていると、伸び悩んでいるようにも見えますが。」
「誰にでも好不調はありますからね。でも、大切なのは不調時に何をするかじゃないですかね。ある者はうまく行かないからってすぐに投げ出してしまう。でも、ある者はそんなときだからこそ努力を惜しまない。努力はすぐには結果につながらないですが、それでも腐らず努力を続けてる者こそが、心の栄冠を勝ち取れるんですよ。」
「そんなもんですかね・・・。」
 甲子園では2回戦止まりだったが、シンジは十分にプロ野球関係者に強い印象を残した。来週のドラフト会議でも、上位指名されてもおかしくないくらいだった。
「ええ、私も何人も生徒を見ていきましたが、夏の努力の成果は秋以降に出るんです。俗に言う、『夏を制するものは受験を制する』ってやつです。」
 だが、彼は進学を選んだ。来年から早稲田大学で野球をすることが決まっている。その進路選択に、当然マスコミも注目した。
「野球のことは好きだが、人生は野球だけじゃない。野球以外のことも幅広く勉強したい。」
 どこまでも青く純粋な彼の生き方に多くの人が好感をもった。
「東北の貴公子、文武両道を目指す。」
「野球しか知らない人間とは一線を画す。」
 もはや彼は高校野球を超えた若者のアイコンになりつつあった。
「では、あと数ヶ月、ぜひとも東北大学現役入学の夢を叶えられるように頑張ってください。」
「・・・。」
 担任が熱く僕の肩を叩いてきた。
「東北大への進学者数で、他校に負けるわけには行きませんからね。」
 3年前の僕は、他人が決めた夢に反抗した。一高では野球をすることができない。本当は僕だって育英で甲子園を目指せたはずだ。でも、大人たちの理屈に反抗し切ることができなかった。
 そして、今、また新しい夢を勝手に押し付けられようとしている。
「わ、わかりました・・・。東北大学現役入学の夢に向かってがんばります・・・。」
 今度は反抗すらできなかった。

 だが、そんな作られた夢さえ叶えることができなかった。
 僕は秋以降も全く勉強に集中することができなかった。僕は本当にこの生き方でいいんだろうか。東北大学に行くことが、本当にやりたいことなんだろうか。
 答えはノーに決まっている。
 でも、だからって、他に何があるというのだろうか。あの頃は心のどこかに野球という答えがあった。でも、一高に行き、その一高でも野球部に入るチャンスをみすみす逃してしまった。
 あのときもう一歩を踏み出す勇気があったら、僕の高校生活は変わっていたのだろうか。世間の注目を浴びながら、全力で青春を送るシンジの面影を思い出すたびに、僕はひどく落ち込んだ。
 そして、僕は大学受験に失敗した。掲示板に自分の番号がなかったとき、妙に納得した自分がいた。旧帝大はそんなに簡単に入れる大学じゃない。
 そもそも僕は片時だって集中して勉強できた試しがなかったし、受験当日もどこか上の空だった。「俺はなんのためにここにいるんだろう。こんな大学に入ったところで、楽しい人生が待っているんだろうか。」
 あの程度で合格できたのなら、自分は世間を勘違いしてしまうところだっただろう。
 合格に喜び、胴上げをしている人を見て思った。仮に合格してもあんなふうに喜べるだろうか。
 不合格に号泣している人を見て思った。僕はどうして何も感じないんだろう。
「そうか、それだけ全力で勉強に打ち込んだということなんだな。」
 せめて自分にも悔し涙を流すだけの情熱があったなら。せめて自分にも情熱を燃やせるだけのなにかがあったなら。
 そして、卒業。
 あっという間の3年間だった。野球でびっしり詰まった中学の三年間と比べて、なんとも中身の薄い三年間だった。
 思い出さえも残らなかった。

 浪人生活に入ったからといって、すぐに勉強に集中できたわけではなかった。
 常に頭の中にあるのは、これでいいのだろうかという思いだ。僕は本当に大学に行きたいのだろうか。勉強以外に他にもっと輝ける場所があるんじゃないだろうか。
 でも、結局答えは見つからない。
 ここではない何かを目指そうにも、それが何なのか自分にもわからない。仕方なく、部屋で一人参考書を広げるしかなかった。東北大学に現役入学を目指す(もう現役ではないが)。他人が決めた夢を目指す以外に、僕には生きる理由がない。
 もうすっかり遠い人となったシンジだが、それでも動向は耳に入ってきた。話題に飢えたマスコミが注目度の高い大学一年生をほっておくはずがなかった。
 入部早々の春季リーグで早くもベンチ入りし、大事な場面を任されたらしい。慶応や明治といった、文字通りプロの卵たちを相手に、一歩も引かない見事な投球をみせたらしい。それから、試合だけではなく練習にも多くの女性ファンが駆けつけ、一種の社会現象になっているらしい。
 初めての東京ぐらしに、発見の連続らしい。ファッションにも興味を持ち始め、3年間坊主だった頭もすっかり長くなったらしい。渋谷や原宿で仲間たちと古着を買う。帽子やマスクで隠しているが、群衆より頭一つ背が高いため、直ぐにバレてしまうらしい。それでも、気さくにサインに応じ、さらにファンが増えているらしい。
 段々とゴシップめいてきた。どれも、一人やる気の出ない勉強に必死になっている男には関係のない話だ。
「ねえ、そろそろ学校に出かける時間じゃないの?」
 母親が声をかけてくる。浪人しても定期的に学校に顔を出す決まりになっていた。昔の担任と面談を行い、受験勉強の進捗や模擬試験の結果を報告する。
「うん、わかってるよ・・・。」
 でも、僕はどうしても行く気になれなかった。何を言われるかは察しが付いている。
「現役の時より成績が落ちてますよ。普通この時期は現役生より浪人生のほうが圧倒的に有利なんですがね・・・。」
 それが前回の面談での元担任の言葉だった。
「武田くんは、以前私が言った言葉を覚えてますか?」
「・・・。」
「苦しいときに何をするかで、人の価値が決まるのです。栄冠をつかめる人は、結果の出ないときにこそ努力を惜しまない。でも、今の君は残念ながら、そうじゃないと言わざるを得ない。厳しいことを言うようだが、君は現実から逃げてるんだ。ちょっと結果が出なかっただけで、すぐに腐ってしまっている。せっかく、東北大学合格という素晴らしい夢を持ったんだから、そのために頑張ろう。辛いときの努力こそが本当の努力なんだ。」
 うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ・・・。
 問題の本質はそこじゃないんだ。
 敷かれたレールの上しか歩いてこなかったお前に何がわかる。宮教に行って、教育実習を受けて、教員免許を取っただけのお前に何がわかる。そんなつまらない人生を他人にも押し付けるつもりか。
「・・・行ってきます。」
 もちろん、高校に行くつもりはない。
 自転車にまたがり、ペダルが赴くままに道を進んでいく。小6のときから住み始めたこの街には、もう7年近くいることになる。最初の頃は新鮮に見えた風景も、今じゃすっかり平凡に見える。
 平日の午後、どこも人影はまばらだ。子どもたちは学校に行き、大人たちは仕事に行っている。一人のんきに自転車を漕いでいるのは浪人生くらいだろう。
 森に囲まれたグランドが見えてきた。僕が野球をはじめて場所だ。今でもリトルリーグの練習場として使われているんだろうか。
 無人のグランドの真ん中に立ってみた。ちょうどあの辺り、外野からボールを投げて、肩の強さを見込まれてピッチャーに抜擢されたんだっけ。それから、隣町に大野というすごいピッチャーがいて、彼と決勝戦で戦って、中学では彼とチームメイトだったんだ。彼と切磋琢磨した中学3年間。色々あったけど、最後には心が一つになれたような気がしたよ。
 全ては懐かしい、戻れない過去の自分だ。
「おーい、そんなところで何してるんだ。」
 不意に遠くから掛けられた声に、思わず身構えた。誰かにずっと見られてたんだ。
「おい、お前マサトじゃないのか?どうしたこんなところで?」
 見覚えのある姿が近づいてきた。垣内監督だった。まだ、ベアーズの監督を務めているのか。
「いや〜、久しぶりだな。随分背が伸びたんじゃないか?」
「いや・・・。」
 別人です、と言って去ろうかとも思った。垣内監督との話となれば、当然話題は野球になる。できれば触れてほしくない話題だ。
「おお、近づいてみるとやっぱりチビだな。変わらない姿を見れて懐かしいよ。」
 だが、どんどんと距離を詰めてくる監督に、すでに逃れるすべを失っていた。
「監督こそ、お変わりなく。元気そうで何よりです。」
「いや〜、俺なんかすっかり年をとったよ。監督をできるのも、あと何年かな。」
 監督と選手として接していたときは威厳のある怖い大人だったが、今こうしてみると気さくでひょうきんなおじさんだった。
「浪人中なんだって?大変だな。」
 いきなり直球勝負だった。
「な、なんで知っているんですか?」
「ベアーズから何人が宮中に行くと思っているんだ。何でもお見通しだぞ。」
 おしゃべりなやつはどこにでもいるようだ。この分だと、高校では野球をやらなかったことも知っているに違いない。
「せっかくきたんだ。臨時コーチをやっていけよ。」
「えっ!?」
「何驚いているんだ。もうすぐ練習が始まるぞ。」
「えっ、これから練習があるんですか?平日ですよね?」
「なんだ、浪人していると、そんなこともわからなくなるのか。今日から夏休みだぞ。」
 まもなくちびっこたちが続々とやってきた。
「よろしくお願いします!」
 大声で挨拶をする姿は、あの頃の僕そのものだ。
「今日は臨時コーチを連れてきたぞ。武田コーチだ。武田コーチは準優勝したこともある、優秀なピッチャーだったんだぞ。」
「すげー、武田コーチ。俺たちもうまくなりたいっす。よろしくお願いします。」
 そんなふうに言われると、僕もだんだんその気になってきた。3年以上手を通していなかったグローブでキャッチボールをする。最初は思うように腕が振れなかったが、次第にあの頃の感覚を思い出してきた。
「すげー、肩強え〜!」
 調子に乗って遠投を繰り返していると、リトルリーガーたちが尊敬の眼差しを向けてきた。こんなふうに注目されるのも、久しぶりだ。
「よ〜し、ノックをするぞ。守備につけ!」
 バットを握るのも3年ぶりだった。
 カーン!
 自分でトスした球でも、打球が飛んでいくのは快感だった。
「もういっちょお願いします!」
 ミスをしても立ち上がる。下手なりに真剣な姿も、あの頃の僕と同じだった。
「よし、次はバッティング練習だ。今日は特別に、武田コーチに投げてもらうからな。左ピッチャーの練習は貴重だぞ。」
 マウンドに上がると、更に色んな思いがこみ上げてきた。中総体の決勝で負けてから、僕はもうこの場所に戻ることはできないと思っていた。ここは宮城球場ではないが、それでも僕の原点であることには変わらない。
「ストライーク!」
 最高のクロスファイアが決まった。
「おい、マサト、小学生相手なんだから、加減しろよ。」
 キャッチャーの選手もいるのに、なぜあえて垣内監督がマスクをかぶったのか、すぐにはわからなかった。
 バッシ!
「いい球投げるじゃないか。」
 ヨウスケのときもそうだったが、バッテリーとは無言の会話なのだ。何も言わなくても、言いたいことはすべて伝わる。
ー野球をやめて、本当は後悔しているんじゃないか?
 監督の会話は常に直球だ。
ーわかりません。高校野球のレベルではついていけなかったかもしれませんし。
 中学に入ってから覚えた変化球で返す。
ー大野のようになりたかったんじゃないのか。甲子園に行って活躍し、大学野球でも注目を浴びる。それがお前の理想だったんじゃないのか。
ーわかりません。僕とシンジは違いますし。
ーよくわかってるじゃないか。
ー何がですか?
ー人はそれぞれ違うということだ。
ーそれがどうしたと言うんですか?
ー野球だけが人生じゃない。大野のように生きなくてもいい。
ーでも、僕は野球に代わる何かを見つけられないでいるんです。
ー焦らなくていい。俺だって、リトルリーグの監督になったのは40を過ぎてからだ。
ー40歳まで待てないですよ。
ーわかってないな。それを見つける過程も含めて人生だよ。
ーそんなものですかね・・・。
ー早くにそれを見つけても、すぐに見失う人生もある。そしたら、また見つければいいだけのことだ。
「ストライーク!」
 最後の打者にもクロスファイアが決まった。
「おいおい、また本気出しただろ。」
 垣内監督が笑った。
「武田コーチ、ありがとうございました。また、来てくださいね。」
 そう言って選手たちが帰っていく。
「本当にまた来てもいいんだぞ。どうせ暇なんだろ。」
「いえ、一応勉強してますから。」
 だが、もう二度と来ることはできなかった。8月に父が名古屋に転勤になり、僕もそれについていくことになったからだ。仙台にいた約7年、野球をしていたのは前半の半分だけだったけど、何だがずっと野球をやっていたような気がした。

 今思えば、最後に野球をやったことがいいきっかけだったのかもしれない。
 名古屋に引っ越した僕は、吹っ切れたように勉強に集中できた。別に野球に代わる何かを見つけたわけじゃない。大学に行くことに納得できたわけじゃない。でも、そんなことはどうでも良かった。ただ、決まった時間に起き、決まった時間に決まった教科を勉強し、決まった時間に寝る。それだけを繰り返した。
「修行僧みたいだな。」
 言い得て妙かもしれない。そんな生活で邪念を払っていたのかもしれない。野球という邪念。人生の目標を持たなければならないという邪念。そして、シンジという邪念。その先に何かが見えるわけじゃないが、僕は受験という目の前の課題に邁進した。
「すごいな、名古屋大学がB判定だぞ。」
 成果は秋が深まる頃に現れた。目標を名古屋大学に変えて受けた模擬試験で、合格圏内の結果が出た。これまではどんなに頑張っても、DとかEだった僕にとっては、飛躍的な進歩だ。
「名古屋大学も同じ旧帝大だ。この調子で頑張れ。」
 夏までの勉強ぶりに何かと厳しい眼差しを向けていた父も、励ましてくれるようになった。
 そして、本番。一年前とは全く違う手応えを感じた。何をしていても上の空だった昨年とは打って変わり、確実に試験に集中していた。あれも勉強した、これも勉強した。一問解くたびに、これまでの日々を思い出した。
 掲示板に自分の番号を見たときは、歓声を上げることも、涙を流すこともなかったけど、確かに心に熱いものを感じた。
 僕の心にまだ熱いものが残っているなら、僕はいつか人生を取り戻せるんじゃないか。
 大野真司とは違い、世間からは全く注目されない入学だった。それでも僕にとっては門出だ。シンジとは大きな差をつけられてしまってたが、まだ何かが始まったわけじゃない。野球だけが人生じゃない。僕には僕なりの生き方があるはずだ。それが何かはまだわからないけれど。
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