第21話

文字数 10,579文字

 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 数日後、思わぬ形で僕の携帯に着信が入った。シンジからだと思って取った携帯のディスプレイに写った文字は、「鈴木亜里沙」だった。もう互いに交わることのない相手だったのに、まさか向こうから連絡をしてくるとは。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 今さら話なんてできるか。縁を切ってきたのはそっちじゃないか。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 それでも電話をしてくるなんて、よほどのことに違いない。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 だとしたら、それはシンジに関することだ。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 練習をサボるくらいならともかく、まさか本当に死んでしまったのか。あんな無責任なネットニュース・・・。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 でも、藤沢と付き合いがあったことは事実だし、藤沢も死んでしまったことも事実だ。まさか、シンジまで・・・。
「もしもし・・・。」
「良かった。ねえ、今どこ?早く東京に来て。」
「えっ、どこって・・・。」
 悲壮感溢れるアリサの声に、戸惑いを隠しきれなかった。事態は飲み込めないが、一刻を争うことらしい。
「だから、今どこにいるの?すぐに東京に来て。」
「いや、どこって。今、仙台だよ。」
「だったら、すぐに新幹線に乗って!今からなら、今日中に東京に来れるでしょ。」
「わ、わかったよ。すぐに準備するから・・・。でも、どうしたんだ、ちゃんと説明してくれよ。」
 時刻はもうすぐ7時。ちょうど仕事を片付けて、退社しようと思っていた頃だ。
「だって、シンジが・・・。シンジが大変なの。」
「え、シンジがなんだって?」
 アリサの声は、涙で詰まっていた。僕は、携帯片手に事務所を出た。
「シンジが大変。もしかしたら、死んじゃうかも・・・。」
「えっ、なんだって!?・・・でも、生きてはいるんだな?」
「うん。」
「良かった。で、シンジは、今どこなんだ。」
「だから、あんなにやめてって言ったのに。あんな人達と付き合ったらだめだよって。絶対危ない目に会うんだから、やめてって言ったのに・・・。」
「あのヤクザのことだな?藤沢と付き合いがあった、あのヤクザのことだな?」
「でも、シンジったら、全然あたしの言うこと聞かないの。だから、あたしも、頭にきて、つい・・・。」
「わかった。すぐに行くから、待っててくれ。」
「でも、死んじゃうのはイヤ。あたし、シンジが死んじゃったら、もう・・・。」
「大丈夫だ。俺がなんとかするから。」
「ごめんなさい。本当は、マサトには関係のないことなのに。でも、警察にも連絡できないし、他に頼れる人がいなくて・・・。」
「わかった。すぐに行くから。俺が着くまで、絶対に動くなよ!」
 そう言うと、僕はタクシーに飛び乗った。


「おい、どれだけここにいればいいんだよ。」
 時刻はまもなく午前0時になろうとしている。
 東京駅には9時前には着いた。そのままレンタカーでも借りて現場に行こうかと思ったが、ふと思いついて六本木に寄ることにした。成田さんを連れて行くためだ。
「ちょっとだけって言っただろ。早くずらからないと、ヤクザの手下に見つかっちまうぞ。もしかしたら、俺たち、顔割れてるかもしれないだし。」
 例のごとく、マンションの向かいのコンビニに車を停めて、様子を伺っていた。2時間近く見張っているが、高層マンションを出入りする人影はない。
「まあ、落ち着いて。もう少ししたら、仲間が来ますから。それに、頼りになるのは、成田さんしかいないんです。前回のこともあって、事情がわかってるし、それになにせ情報通ですから。」
「まあな、お前のせいでバラエティ班クビになって、今は報道班だからな。やばい事件ばかり取材させられてるよ。」
「でしょ?だったら、こんなの慣れたもんでしょ?」
「バカ言うな。事件があったら、警察の話を聞きに行くだけだ。こっちから、薬の密売人を直撃なんかしねえよ。」
「良かったじゃないですか。スクープ取れますよ。」
「そんなもんいらねえよ。スクープより命だ。・・・おい、見ろよ。変な女が出てきたぞ。親分の愛人なんじゃないか。」
 マンションから出てきたのは、髪を明るい色に染めた若い女だった。秋も深まっているというのに、ショートパンツにノースリーブのシャツを着ている。耳元にはここからでも形がはっきりわかるほど大きなピアス。足元は10センチはゆうに越えようかという高いヒールのサンダル。その姿は明らかに「カタギの人間」ではなかった。
「あんな派手な女ばっかり集めて、パーティー三昧なんだろうな。そこだけは、羨ましいな・・・。」
 女は近くの信号を渡った。
「やばいぞ、こっちに来る・・・。」
 女は高いヒールにも慣れた足取りに歩いてくる。
「なあ、ただコンビニに行くだけだよな。まさか、俺たちのことがバレたんじゃないよな。そういう場合って、男の手下が来るよな。鉄砲玉ってやつ?」
「大丈夫ですよ。」
「大丈夫ですよってなんだよ。女だからって、ヤクザはヤクザだぞ。ほら、こっちに来た。早くロックしろよ!」
「大丈夫ですって。」
 ガチャッ!
「ああ、入ってきた!」
「ごめん、なかなか抜け出せなくて。こっちからお願いしておいたのに、本当にごめんね。」
「仕方ない。不自然に抜け出すと、返って怪しまれる。」
「おい、何だよ!知り合いか?」
「誰なの、この得体のしれない男?鉄砲玉?」
「誰が鉄砲玉だよ。俺は立派なテレビマンだ。」
「ああ、マサトのテレビ局時代の友達ね。だったら、少しは役に立つか。」
「何なんだよ。この初対面から失礼な女は。」
「まあまあ、落ち着いて。ここからはチームワークが大切なんですから。」
「そうね、ごめんなさい。あたしが無理言ってお願いしたことだもんね。まずは、ここまで来てくれてありがとう。」
「で、今回は何をすればいいんだ?また、芸能人を助ければいいのか?」
「ええ、そうです。正確には芸能人じゃなくて、スポーツ選手の大野真司です。」
「大野って、あの大野か!?」
「ええ、プロ野球選手の・・・。」
「そう言えば、お前は大野と知り合いだったんだな。この女もそうか?」
「ええ、そうです。僕たちは、皆、同じ中学校の同級生です。」
「じゃあ、簡単だ。藤沢のときのように、出てきたところで捕まえればいいんだろ。大野が一人になるのを見定めて。それで、車に乗せて、どこかへ連れていけばいいんだろ。わがまま娘の藤沢を捕まえるより、よっぽど楽勝だな。」
「いえ、そうも単純じゃないんです。」
「どういうことだよ。」
「大野真司はヤクザに監禁されて、脅されてるの。だから、助けてほしいの。」
「おっと、ねえちゃん。簡単に言ってくれるじゃないか。そもそも、なんで大野がヤクザに監禁されて、脅されるような羽目に合わなきゃなんないんだよ。」
「成田さん、情報通の割に何も知らないんですね。残念ながら、週刊誌などの報道にあったとおり、大野は生前の藤沢と付き合いがありました。そして、それは藤沢が亡くなったあとでも、別の形で続いています。」
「別の形って、ヤクザのことか?」
「ええ、それも残念ながら・・・。」
「元はと言えば、私の事務所の問題なの。社長が裏社会とズブズブの関係で、所属タレントも生きていくためには、どうしてもそこは避けて通れないの。だから、藤沢の後輩の米山もヤクザのために働かされているようなもの。芸能界で売れないとわかると、すぐにAVに飛ばされそうになっているの。」
「なんだ、ねえちゃんも、芸能人か。局では全然見かけないけど。」
「うるわいわね。売れてないんだから、仕方ないでしょ。」
「・・・とにかく、藤沢と関係を持っていたために、大野もヤクザと関わることになってしまったのです。」
「そうか、そいつは災難だったな。」
「ヤクザにとっては、知名度のある大野は利用しがいのある人間だったかもしれません。大野はなんとか関係を絶って野球に専念しようとしますが、そうはさせてくれないのがヤクザです。野球でうまく行かないことをいいことに、どんどんとつけ込んできます。」
「それで、米山なんてAV嬢とも付き合ってるのか・・・。」
「ええ、金銭的な弱みにつけ込まれて、離れられないようにしてしまったというのが実態だと思います。」
「そうか、週刊誌なんて、ろくに調べもしないで、適当な書き方しかしないからな。」
「でも、好きでヤクザと付き合っている人なんか誰もいないわ。あたしだってそうだし、米山だって本当はヤクザもAVも望んではいないはずなの。それで自分が犠牲になろうとしているの。」
「え!?どういうことだよ。」
「アリサや米山にはもう手を出すなって、俺だけで十分だろって。」
「いいね。男気あるじゃないか。」
「全然よくない!あいつらがそんな言い分聞き入れてくれるわけ無いでしょ。損失を補えって、無理難題を押し付けてきているの。」
「そりゃ危ないな。下手をすると、本当に命を取られかねないぞ。」
「そうなの。だから、無理を承知でお願いしているの。」
「そういう事情なら助けてやりたいのは山々だけど、でも、どうするんだ。今、ヤクザに捕まってるんだろ。どうやって救い出すんだ。外に出てくるまで、待ち続けるのか?」
「いえ、今回はそんな消極的な作戦ではうまくいかないでしょう。すでに抜き差しならない所まで来ていますし、最悪の事態になる前になんとかしなければなりません。」
「おい、まさかアジトに乗り込んで、救出するなんて言うなよ。ハリウッド映画じゃあるまいし、そんな離れ技できるかよ。」
「確かに、正攻法で行ったら、太刀打ちできません。でも、我々には秘策があります。」
「は!?あくまで乗り込もうっていうんだな。」
「はい。我々は内情がわかっています。部屋の間取りがどうなっていて、誰がどこにいるか大体わかっています。アリサがさっきまで部屋にいました。これは大きなアドバンテージです。」
「そうか、ねえちゃんもヤクザの仲間だと思われてるんだな。スパイってことだな。」
「ええ、さらにいいことに、隣の部屋はアリサの事務所の所有物で、自由に出入りができます。そこから様子をうかがえば、チャンスはあるかもしれません。」
「チャンスはあるかもな、2パーセントくらい・・・。」
「シンジは今、ちょうど端の部屋に閉じ込められているの。もしかしたら、一人にされているかもしれない。そしたら、ベランダ伝いで隣の部屋に連れ出せるんじゃないかと思うの。」
「ほう、それじゃ4パーセントくらいは見込めるかもな。でも、その後どうするんだよ。万が一マンションから逃げ出せたとしても、すぐに気が付かれるぞ。そしたら、どこまでも追ってくるんだぞ。逃げ切れるのか。」
「その後のことは、その後に考えるしかないでしょう。今はあそこから脱出することだけを考えましょう。そうしなければ、命が危ない。藤沢の二の舞です。」
「おい、どうしたんだ。もう行くのか?」
「ええ、説明は十分でしょう。急ぎましょう。隣の部屋までは、訳なく行けるはずです。」
「まったく、お前は疫病神だな。」

「すごいな。タワマンのリビングってこんなにも広いのか。金持ちはいいな。こんなところに住んでいたら、毎日にテンション上がりまくりだな。」
 さっきまでヤクザに怯えていた成田さんは、部屋に入るなりテンション上がりまくりだった。
「俺たちみたいな下っ端こき使って、芸能事務所は儲けまくりか。お前もタワマンに入るのは初めてだろ?」
「いいえ、私は・・・。」
「眺めも最高なだ。」
 成田さんはベランダの窓を開け放った。
「ほら見ろよ。東京湾の向こう岸まで見えるぞ。・・・てか、お前、タワマンに入ったことあんの?そんな金持ちの知り合いいんの?」
「窓を締めてください。隣はヤクザなんですよ。気づかれたら大変ですよ。」
「おお、そうだった、そうだった。」
 僕たちは一旦窓を締めて、リビングのソファに腰を下ろした。
「改めて、作戦を確認しましょう・・・。」
「作戦と呼べるほどのものがあるのならな。」
「・・・とにかく、今シンジはちょうどこの部屋の隣りにいるはずです。しかも、ベランダ側の部屋。」
「壁一つ挟んだ向こうだな。壁を叩いて、モールス信号でも送るか?」
「いえ、我々はモールス信号を知りません。」
「冗談だよ。真面目に答えるなよ。」
「でも、私もシンジの番号を知っているので、いざというときの連絡手段はそれで大丈夫でしょう。」
「没収されてなきゃいいがな。」
「・・・。そして、アリサは再び中に潜入しています。安全が確認出来次第、ショートメールをくれるはずです。」
「勘付かれて、捕まってなきゃいいがない。」
「・・・。成田さん?」
「ん?何だ?」
「さっきから私の否定ばかりで、前向きな言葉が一つもありませんね。もっとポジティブに行きましょうよ。」
「バカ、現実的なことを言ってるんだよ。お前のはポジティブじゃなくて、妄想って言うんだよ。」
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
「ちょうどアリサからメールが来ましたよ。」
 ーーーヤクザはそばにはいない。シンジは部屋で一人。今がチャンス。
「この機を逃したら、あとはないかもしれません。行きましょう。」
 僕は窓を開けて、ベランダに出た。
「おい、待てよ。俺も手伝うから。」
 隣の部屋とは、薄い壁一枚で仕切られている。耳をすませば、隣の声が聞こえてきそうだ。
「ちょっと様子を見てみます。」
 成田さんの耳元で、ささやくように言った。
「気をつけろよ。ヤクザが見張っているかもしれない。」
 ベランダの外側に首を出し、慎重に向こう側を覗いた。
 ベランダに面した部屋は少なくとも3つ。どうやらこちら側とは少し間取りが違うようだ。手前側の狭い部屋は明かりが消えている。おそらくここにシンジが監禁されているのだろう。その隣の部屋は倍の大きさはある。メインの部屋と思われる。ヤクザたちやもしかしたら、アリサもここにいるかも知れない。向こう側にも狭い部屋が一つ。ここにも明かりがついていて、誰かがいることがわかる。
「良かった。ベランダには誰もいません。アリサの情報が正しければ、手前の部屋にさえ入れれば、シンジを連れ出せそうです。」
「でも、どうやってそっちに行くんだ。この壁は上にも下にもスペースがないぞ。」
「このタイプのベランダなら、大丈夫です。」
「どういう意味だよ。」
「僕も実家は団地なんですが、タワマンでも基本的にはベランダは同じ作りですね。防災上の理由で、タックルすれば破れる程度の強度でできているんです。そうすれば火事になっても隣に避難できます。」
「まさか突き破って向こうに行くわけじゃないだろうな。」
「さすがにそれは・・・。でも、大丈夫、子供の頃こうして、隣の部屋に遊びに行ったことがありますから。」
 僕は手すりに手をかけると、ジャンプをしてフェンスにまたがった。
「おい、正気か。そもそもお前の実家は何階なんだよ。」
「1階です。」
「バカか!ここは30階だぞ。」
「恐怖心以外は、条件は同じです。それに突き破るよりはいいでしょう。外側に降りますので、体を抑えてもらってもいいですか?」
「おお、これでいいか?」
 成田さんは両手で僕の肩を抑えた。頼りないが、これが今の僕の命綱だ。
「では、行きますよ・・・。」
 外側に出ていた右足をゆっくりと下げ、フェンスとベランダの隙間に入れる。手すりに引っかかったままの左足を慎重に外していく・・・。
「よし、もう少しだ。」
 昔はもう少し体が柔らかかった。野球をやめて以来固まったままの股関節は、思うようにフェンスから外れてくれない。
「よし、ちょっと足を押すぞ・・・。」
「はい・・・。」
「よし、外れた!」
「あっ!!」
「おい!!」
 危なくバランスを崩しそうになった。
「良かった!気をつけないと、落っこちるぞ!」
「大丈夫です。その場合、即死ですから。苦しまずに死ねます。」
「くだらない冗談を言うくらいなら、大丈夫だな。」
 僕の体は、完全にマンションの外にある。一歩足を踏み外せば、一度手すりを掴みそこねば、一気に70メートル下の地面に叩きつけられる。
「よし、いいぞ。そのまま慎重に行け。」
 見ちゃだめだ。そうは分かっていても、足元を見てしまった。路上のトラックがおもちゃのように小さく見える。
 一歩一歩足を少しずつ横にずらしていった。薄い壁を超えて、自分の体を隣の敷地で運ぶだけ。わずか数十センチの移動が、永遠にも感じらる。
「風が出てきたな。」
 僕のシャツの袖がバタバタ揺れた。考えてみれば、ここは海の近く。風が強いのも当たり前か。
「よし、もういいだろ。手を放すぞ。」
 からだは完全に隣の部屋だ。
「ありがとうございました。」
 腕が震える。足も震える。このフェンスを乗り終えると、敵のアジトだ。
「何かあったら、皆さんによろしくおねがいします。」
「おい、縁起でもないこと言うんじゃねえよ。」
 意を決して飛び上がった。
 まずは上体だけを部屋側に乗り入れた。腰を中心に、上半身が内、下半身は外の状態で宙に浮いている。
「よし、ゆっくりでいいぞ。ベランダには誰もいないんだから。」
 さっきと違い、成田さんの支えはない。不格好でも、慎重にやるしかない。ゆっくりとからだを回転させ、右足を中に入れた。上半身、右足がベランダの内側。残るは左足一本だ。
「よし、もうちょっとだぞ。」
 ところが、ここでも股関節の硬さが災いした。なかなか左足を引き入れることができない。
「おい、何やってんだよ。そんなところでまごつくなよ!」
「そんな事言われたって・・・。」
 さっきはあった成田さんのサポートがない。引っかかった足を自分でなんとかしなくてはならない。
「えい!」
 力づくで、足を引っこ抜いた。
「おい、大丈夫か!?」
 ドスン!
 反動で体を大きく打ち付けた。ヤクザにバレていやしないかと、慌ててあたりを見回した。
「オッケーです。成田さんはそこで待機していてください。」

 壁に背をつけて、気持ちを落ち着けるように大きく息をした。この向こうにはシンジがいるはずだ。音はしない。眠っているのだろうか。
 その隣の部屋からも、明かりが漏れているだけで人影はない。あの窓をヤクザが開けでもしたら、一巻の終わりだ。アリサの言う通り、今がチャンスだ。
 僕は恐る恐る、シンジがいるはずの部屋の窓を押してみた。万が一そこに他の人がいてもばれないように、ゆっくり慎重に・・・。
 開かない・・・。鍵がかかっている。当たり前か。
 今度は窓に顔をつけて、中をうかがってみた。
 わからない・・・。
 暗い上に、レースのカーテンで閉められている。人影でも見えればと思ったのだが、これでは本当にここにシンジが一人でいるのか確証が持てない。
 こうなったら、シンジにショートメールを送るしかない。
 いや、待てよ・・・。
 ポケットの携帯に手を伸ばしたところで、ふと不安になった。
 やっぱり成田さんの推論のほうが正しいだろうか。僕がヤクザだったら、人質同然のシンジに携帯を持たせたままにしておくだろうか。部屋に一人でいさせるということは、当然ながら連絡手段を断っているからだと考えるのが妥当だ。
 ・・・いや、そんなことしないか。プロ野球選手とは言え、所詮は一般人。ヤクザに対抗しうる人脈を持っているわけもない。警察に連絡したら自分の立場も危うくなる。携帯を没収しておく必要もないだろう。
 僕は携帯をポケット入れたまま、ブラインドタッチで文面を打ち始めた。
 シンジ。マサトだ。ベランダの外にいる。ばれないように、外に出ろ。
 よし、送信・・・。
 いや、待てよ・・・。
 このメールを受信したシンジの携帯はどうなるだろうか。マナーモードにしてくれていればいいが、万が一大きな着信音を上げたらどうなるだろうか。この静かなマンションでは、隣の部屋まで響いてしまう。
 いや、待てよ・・・。
 今どきは、迷惑メールが一日に何件も届く時代。メールの着信一つにいちいち反応するわけないか。
 よし、今度こそ、送信・・・。
 ガラガラ!
「はっ!!」
 急にベランダの窓が開いた。
 やばい、バレたか・・・!
 だが、暗がりの大男は、その場に立ったまま動こうとしない。シルエットだけだが、誰だかはっきりとわかる。
「何だ、シンジか。良かった。てっきりヤクザに見つかったのかと思ったよ。」
「ありさがメールをよこしてきた。」
 そう言って、携帯を見せてきた。
 ーーーベランダの外にマサトがいると思うの。早く一緒に逃げて。
「そういうことなら話が早い。さっさと逃げよう。隣に仲間が控えているんだ。ベランダを乗り越えるのは少し勇気がいるが、お前ならなんとかなるだろう。」
 僕はフェンスに手をかけ、手招きでこちらに来るよう促した。
「何をしている。お前も早く来いよ。」
 シンジのシルエットは微動だにしない。
「今がチャンスだぞ。高いところが怖いのはわかるが、いつヤクザがやってくるかわからないぞ。」
 シルエットの口が動いたような気がした。
「えっ、何だって?なんか言ったか?」
「俺はもうお前が知っている俺じゃないんだ。」
「はっ!?」
「俺にはもう関わるな。お前と俺は、もう赤の他人なんだ。」
「お前が勝手に言ったことだろ。赤の他人だろうが、ヤクザに捕まっているやつをほっておけるか。さあ、逃げるぞ。」
 僕はシンジの腕をつかもうとした。
「やめろっ!!」
「バカ、大きな声を出すな!」
「おい、どうした!?」
 部屋の奥からヤクザの声が響いた。
「バレちまったじゃないかよ!」
 こうなったら、シンジをおいて自分だけでも逃げるしかない。僕はベランダの仕切りの壁に体当りしようとした。
「無駄だ。逃げれると思うな!」
 ヤクザの一人が後ろから羽交い締めにしてきた。
「クソ!放せよ!!」
 なんとか振りほどこうと、暴れてみる。
「おとなしくしろ!死にたいのか?」
 冷たくて硬い感覚が頬に伝わった。拳銃を突きつけられているようだ。
「わ、わかった。おとなしくする・・・。」
「だったら、最初っからそうしてろよ!」
 ガツッ!
 拳銃で頭を打たれた。あまりの激痛にその場にうずくまった。
「勝手に座るんじゃねえよ。」
 こんどは腹部を蹴り上げられた。
 痛いっ!
 息が詰まる・・・。だんだん視界が狭くなる・・・。
「おい、そのくらいにしておけ!」
 多分、この間も見かけた親分の声だろう。だが、その顔を確認する前に、僕の視界は真っ暗になってしまった。

 気がついたときには、僕はヤクザに取り囲まれていた。
 10人近くはいるだろうが。首筋にまで入れ墨を入れている者。指の第一関節がほとんどない者。顔に不自然に傷を負った者。いずれもひと目でそれと分かるアウトローばかりだ。
 その中にひときわ身長の高いシンジが一人。だが、うつむいてばかりで、目を合わせようとしない。
 アリサは?アリサがいない。うまく逃げてくれたか?
「ベランダを超えてきたとは、度胸だけは大したもんだな。」
 真ん中に陣取った親分が言った。
「だが、一人で来たわけじゃあるまい。隣に誰かいるんだろ。このアホは見つけられなかったと言っているが。」
 そう言うと、隣の子分の頭をひっぱたいた。
「信じてくださいよ、親分。本当に誰もいなかったんですから。」
「お前のことなんか信じられるか。この間もヘマしたばかりじゃないか。」
 どうやら成田さんはうまく逃げたらしい。でも、アリサは?この部屋にいたはずじゃないのか。
「そもそも、お前はどうやってここに大野がいることを知ったんだ?誰かが密告したんだろ?大野、お前か?」
 親分はシンジをにらめつけた。
 シンジはやはりうつむいたまま、返事をしない。どうした、本当のことを言え。お前は関係ないだろ。
「俺です・・・。俺がこいつに連絡をしました。だから、悪いのは全部俺です。」
「嘘を言うな。なんでも自分でかぶろうとするなよ!」
 思わず大声を上げてしまった。
「フッフッフッ・・・。」
 それを見て親分は笑い出した。
「本当にお前たちは仲間思いだな・・・。だがな、それが命取りになることもある。」
「親分!やっぱり、こいつでした!」
 奥から別の声がした。その子分が連れてきたのはアリサ!クビにはナイフを押し付けられている。その後ろには成田さん。僕と同じように拳銃で殴られたのだろうか。こめかみから血が流れている。
「ちょっと、痛いでしょ。放しなさいよ!」
 こんなときでもアリサは気丈だ。こうすることで、危ない世界を生き延びてきたのかもしれない。
「この女を連れて行ったら、一発で見つけられました。女を殺されたくなかったら出てこいって。このバカ、助けられるとでも思ったのか。おとなしくクローゼットに隠れていればよかったのに。」
 その子分が成田さんの背中を蹴飛ばした。バランスを崩した成田さんはそのまま僕の隣に倒れ込んだ。
「すまんな。つい、スーパーヒーロー気取りになってしまった。」
 アリサは相変わらず怯むことなく、押さえつけられた腕をほどこうとしている。いつナイフの葉が横にずれるのかと、こっちがヒヤヒヤするくらいだ。
「まったく、女っていうのは信用ならんよな。」
 親分は立ち上がると、アリサの髪を掴んだ。
「あんたなんて、最悪。地獄に落ちればいいのよ。ペッ!」
 つばを吐きつけた。
「強情なところまで、藤沢とそっくりだな。だが、お前が死んでもニュースにはならん。売れないやつは可愛そうだな。」
 親分があごで合図をすると、子分たちがアリサを奥へと引き釣りこもうとした。
「放しなさいよ!」
 まずいっ!
 ドンッ!
 大きな音がした。ベランダからだ。
「動くなっ!」
 黒ずくめの男たちが次々と部屋になだれ込んでいく。頭にはヘルメット。両手にはマシンガン。背中の防弾チョッキには「 POLICE」の文字。
「おとなしくしろ!」
 突然の出来事に、ヤクザたちもなすすべがない。 またたく間に全員を拘束した。
「やれやれ、素人がこんなところに来るもんじゃない。」
 遅れて入ってきた男性の声には聞き覚えがあった。
「まったく・・・。定年を前に、また水死体を見るところだったよ。お前らのな・・・。」
「宮地さんっ・・・!」
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