第7話

文字数 14,200文字

 三年生が引退して、僕たちの時代が来た。それまでは練習試合に守備固めで出るのがせいぜいだった、トモキ(高橋友樹)やスギヤン(杉田正彦)もがぜん張り切って練習に来るようになった。
 だが、いちばん気合が入っていたのは、シンジだったと思う。自分のせいで先輩を引退させてしまったという負い目があるのだろう。鬼気迫るピッチング練習は、隣で見ていても怖いものがあった。
 ただでさえ速いストレートが、一層大きな唸りを上げてケータローのミットを叩いた。僕も思い切って投げ込んでみるが、ヨウスケのミットはあんなふうには鳴らなかった。バッターの手前でホップするような独特の球道は僕にはなかったけれど、スピードだけで言ったらもともとシンジとあまり変わりなかったはずだ。それが、今じゃ、何一つ肩を比べられるものがなかった。
「130キロは出てるんじゃないか?」
「いや、もっとだろう。」
 全体練習が終わるとバッテリーだけ榴岡公園を走らされた。もちろん、ここでもシンジが先頭を切って走り、僕たちはついていくことができなかった。
「あいつプロにでもなるつもりかな。」
「どうかな。シンジなら育英や東北に行ってもレギュラー取れそうな気もするけど。でも、全国からすごいやつが集まるところだからな。シンジよりうまいやつだって、たくさんいるんだろ。」
「お前はどうする?」
「ん?」
「お前も頭はいいからな。一高に行って、トンペイ(東北大学)に行って、有名な会社に就職するんだろ。絵に描いたような仙台市民の憧れの人生だ。」
「そうか?絵に描いたような退屈な人生だろ。」
「お、じゃあ、お前もプロ目指すのかよ?」
「ん?」
 俺もゴールデンルーキだぞ、と言おうとしてやめた。最高学年になった今、そんなふうに呼ばれていたなんて、誰も覚えていないだろう。あの頃は、シンジと僕は対等だと思っていた。世界大会に出た彼に対して、強い対抗心を持っていた。それが、いつの間にか遠くの存在になっていた。彼は高田先輩がいた頃から事実上のエースで、酸いも甘いも含め、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた。それなのに僕は、一度サヨナラ負けを食らったくらいで、投げることに臆病になっている。
「もう絶対に負けねえ!」
 そんな言葉が言えたなら。闘争心。気がつけば宮中で野球ができるのもあと一年。本当にこのままでいいのだろうか。
「おい、そんなに飛ばしてどこに行くんだよ!」

 そして、夏休み。去年と同様、毎日のように練習試合が組まれた。先発はシンジと僕が交互に務めた。
 シンジのピッチングは相変わらず圧巻だった。ストレートのスピードと伸びはますます凄みを増し、どのバッターも着払い(ミットに収まってから、バットを振ること)になった。スライダーやカーブは魔球のようにバッターの視界から消え、まるでタイミングが合わない。さらに、中学生では投げるのが珍しい、フォークボールまで投げてみせた。そして、新チーム発足後初の練習試合で完全試合をやってのけた。格下相手とはいえ、これには鈴木先生も驚いたようで、「これぞエースのピッチングだな。」と完全に脱帽だった。
 それを受けて、2試合目に先発した僕にも期するものがあった。シンジがエースと決まったわけではない。エース候補はここにもいる。
 シンジと同じようなピッチングスタイルが自分にはできないことはわかっていた。
「ストライーク!」
 やっぱり、僕にはクロスファイアしかない。それを活かすためのカーブ。不器用だが、これが自分のスタイルなんだ。シンジのように投げようとして、自分の見失うようなことはもうやめよう。
「ゲームセット!」
 完封だった。ヒットこそ許したものの、久しぶりに満足の行く投球ができた。ちょうど2年前の夏、初めてピッチングをした頃のような高揚感だ。
 それを受けて、シンジもさらにピッチングに磨きをかける。僕も負けじとクロスファイアを投げる。お互いがお互いを意識するいい相乗効果のまま、夏が終わった。いよいよ秋季大会(新人戦)。こんなに大会が楽しみなのも、あの夏以来だ。
 それだけに、なかなか出番が回ってこなかったのは、もどかしい限りだった。一回戦からシンジが全く相手を寄せ付けない快投。点差のついた終盤には、二年生ピッチャーにマウンドを譲った。僕はブルペンから、複雑な心境で試合を見つめるだけだった。
 シンジはその後も快投を続け、僕の出番が回ってきたのは、ようやく準決勝になってからだった。連投のシンジを休ませたいという意図もあったのだろう、僕を試してダメならすぐにシンジに代えればいいという考えもあったかもしれない。でも、「明日の先発はマサトで行く。」と言われたときには、背中にゾクッと緊張感が走った。僕にとっては一年前の借りを返すまたのチャンス。これ以上無様な姿を見せるわけには行かない。
 準決勝の舞台は、宮城球場。ちょうど一年前、サヨナラを食らって以来のマウンドだった。
 僕はマウンドから後ろを眺めてみた。これまでは先輩たちがほとんどのポジションを締めていて、僕たちのチームという感じがしなかった。でも、今は、1年半先輩の下で苦楽をともにしてきた仲間がいる。ショートにはトモキ、セカンドにはスギヤン、サードには今日はシンジ、ファーストにはケータロー。(残念ながら、ヒロキはベンチスタート。)ようやく、時代が来たと実感した。
「思い切っていけよ。」
 マスクをかぶっているのはヨウスケだ。試合でヨウスケ相手に投げるのも、2年ぶりになる。
「しまって行こー!」
 新キャプテンのケータローがチーム全体に向かって声をかける。
「プレイボール!」
 さあ、新しい自分を見せるぞ!
「ボール!」
 初球はストレートがすっぽ抜けた。少し力んだか・・・。
「ボール!」
 カーブも決まらない。・・・まだ2球だ。たまたまそういう球が続いただけだろう。
「ボール!」
 あの時の嫌な記憶が蘇った。ちょうど一年前、新人戦の決勝戦。急遽マウンドに上った僕は、全然ボールを制御することができなくて、ワイルドピッチを犯してしまったんだ。あの時の雪辱を晴らすためにマウンドに上ったのに・・・。
「ボール、フォアボール!」
 クソッ!結局あの時の二の舞かよ!あれだけ夏に努力をしたのに!
 僕はロジンバッグを投げつけた。
「おい、マサト!」
 背中から声が聞こえた。サードを守るシンジがいつの間にかマウンドまで来ていた。
「ランナーは気にしなくてもいい。ストライクも無理に取ろうとしなくていい。自分の球を投げること。それだけに集中すればいい。お前の球なら大丈夫だ。」
 いつもの正論だ。僕は時々うなづきながら、意識は次のバッターにあった。バントをしかけてくるか、それとも制球難につけ込んでヒッティングか。だが、そんな考えも次の言葉で吹き飛んでしまった。
「俺たち、ゴールデンルーキーだろ。」
「・・・。」
 シンジには時々冗談か本気かわからない時がある。からかっているのだろうか。もはや誰も使わなくなったそんな言葉を使うとは。
「ああ、ゴールデンルーキーだ。」
 これで気持ちが吹っ切れた。
「リー、リー、リー・・!」
 ランナーが挑発するように大胆なリードを取る。バッターはバントの構えだ。だが、そんなものは気にしない。自分の球を投げるまでだ。
 えい!
「ストライーク!」
 バントが空振りになった。寝かしたバットの上を通った。よし、球は伸びている。
「ストライーク!」
 2球目はカーブ。これも決まった。腰を引くように見逃した。相手は変化の大きさに驚いている。
 よし、最後はこれだ。決め球はこれしかない。
「ストライーク!」
 理想通りのクロスファイアが決まった。バッティングに切り替えたバッターも手が出ない。
「ヨッシャー!」
 最初のアウトを取れたことで、リズムを掴むことができた。続く打者もあっという間に片付け、初回をゼロで切り抜けた。
「ナイスピッチング!」
 シンジも笑顔で駆け寄ってくる。
「サンキュー!」
 僕も力強いハイタッチでそれに応えた。
 その裏の宮中のの攻撃。最初のバッターは、一番ショート、トモキ。長打こそないがシュアなバッティングで、ここまで高い出塁率を誇っている。まずトモキが出塁して、塁をかき回す。それが宮中の得点パターンだ。
 カーン!
 よし、ヒットだ!、とベンチを立ち上がったが、ショート正面。ワンアウトとなった。「俺が決めてやる。」と見栄を切って打席に入ったセカンドのスギヤンだったが、あえなく三球三振。初回はダメか。嫌な空気を変えたのは三番に入ったシンジの一打だった。
 ガキーン!
 鋭いライナーがショートの頭の上をかすめるようにして飛んでいった。「回れー!」左中間を深々と破る間に一気に三塁を陥れた。
「ヨッシャー!」
「ナイスラン!」
 これで一気に流れが変わった。続くケータローはライトオーバーのツーベース、更にヨウスケはレフト前ヒットと3連打で2点を先制した。こうなると打線が止まらず、更に連打を重ね、7番の僕の打席まで回ってきた。
「思い切っていけよー!」
 公式戦で打席に立つのも久しぶりだった。夏の間はピッチングのことばかり考えて練習してきたが、それは打撃の方でもいい効果をもたらしていた。これまでは俊足を活かすバッティングばかりを意識してきたが、最近では大きな打球も打てるようになってきた。
 よし!
 この押せ押せムードなら僕も打てそうな気がする。
 初球はストレートが高めに外れてボール。よし、思ったより速くはない。このスピードなら合わせられそうだ。
 2球目は置きにきたストレートが真ん中に来た。
 よし、もらった!
 ポーン!
 尻餅をつくほどフルスイングしたにもかかわらず、打球は真上へ。力みすぎて、ボールの下っつらを叩いてしまった。
「アウト!」
 あえなくキャッチャーフライ。せっかくの流れを断ち切ってしまった。
 しかし、二回以降もピッチングは好調だった。先制してくれたおかげで、プレッシャーからも解放された。ストレートも思い通りコーナーに決まり、カーブは必ずと言っていいほど腰砕けにさせた。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 決め球はもちろんクロスファイア。二回は三者三振で片付けた。
 それ以降の攻撃も、宮中の打棒が爆発した。面白いように打線が繋がり、次々と追加点を上げた。
「ナイスバッティング!」
 リードを7点に広げた。こうなってくると、狙うのはコールド勝ちだ。5回までに10点差をつければ、勢いを持って決勝に臨むことができる。
 しかし、それを意識してしまうと空回りしてしまうのが、打線というものだ。みんな大振りをして、簡単な球も打ち損じてしまう。両チーム一点も取れないまま、5回の裏の宮中の攻撃を向かえた。
「この回で試合を決めるぞ!」
 エンジンの真ん中でケータローが気合を入れる。
「決めるぞって言ったって、何か作戦があるのかよ。」
 誰かが言った。
「打てばいいんだ。」
「それのどこが作戦なんだよ。」
「でも、他に何があるんだよ。」
 その時黙ってやり取りを見ていたヨウスケが一歩前に出た。
「俺に考えがある。」
「なんだよ。」
「マサトに回せ。」
「は?」
 石橋先輩が言ったことを真似て、その場を和ませたかったんだろう。だが、これがわかるのは僕とシンジとケータローだけだ。他の部員は意味がわからず、ぽかんとしている。
「マサト、お前打てるんだな。お前に回せばいいんだな。」
「・・・お、おう。任せておけ。」
 そう答えるしかなかった。
 ヨウスケの迷惑な冗談だが、先頭のケータローがフォアボールで出塁、「お前に回すからな」と打席に入ったヨウスケもヒットでつなぎ、現実味が帯びてきた。
「お前が決めてくれてもいいんだぞ。」
 そう思いながらネクストバッターズサークルで見ていたが、平凡なレフトフライ。ワンアウト一二塁で僕の打席が回ってきた。
「お前の言う通りにしたからな。」
 一塁ベース上でヨウスケが叫ぶ。
「別に俺は何も言ってないって・・・。」
 そうぼやきながらも、僕なりに対策を考える。相手ピッチャーは3回と4回はゼロに抑えたとは言え、決して調子が上がってきているわけじゃない。ストレートに伸びがあるわけでもないし、変化球にキレがあるわけでもない。簡単に打てそうな気がしてしまう。
「ボール!」
 初球のストレートを見送った。やっぱり、速くはない。むしろ、初回よりも急速は落ちているように感じる。
「ボール!」
 2球目は変化球。完全にすっぽ抜けている。指先の制御が効かないのだろう。となれば、次はストレートか・・・。
「力むなよ!」
 ヨウスケが叫んだ。そうだ。初回は大振りをしてしまい、キャッチャーフライに倒れたんだ。コンパクト、コンパクト、小さく鋭く叩けば、結果はついてくる。
 3球目はストレートだった。球が手から離れた瞬間、打ちごろだとわかった。
 まだダメだ。逸る気持ちを限界まで押さえつける。ギリギリまでひきつけろ!
 白球が視界の中で大きくなった。縫い目まで見えそうだ。
 よし、今だ!
 カーン!
 打った感触はほとんどなかった。ただ、コンパクトに振り抜けてよかったという満足感だけが残った。
 白球がライトに飛んでいる。これは越えるかもしれない。
 僕は必死に走った。一塁を回る頃には打球を目で追うのをやめた。二塁の手前でサードコーチャーを見た。右手をぐるぐる回している。よし、三塁打か。
 だが、三塁の手前でも右手の動きは止まらない。まだ、行けということなのか。
 僕は三塁を回った。初めて打球の方向を確かめてみる。ライトは広い宮城球場のフェンス際でまだもたついている。よし、これなら行ける。
 ホームではケータローとヨウスケが、両手を上げて待ち構えている。
「セーフ!」
 僕は一気にホームを駆け抜けた。ランニングホームランだ。
「俺の作戦通りだな!」
「すげーよ、お前!」
 ベンチからも駆けつけてくる。僕はヘルメットの上から何度も頭を叩かれた。
「さすが、ゴールデンルーキ!」
 普段はクールなシンジもこの時ばかりは、我を忘れてポカポカとヘルメットを叩いてくる。
「当たり前だろ!」
 僕も一発、シンジの頭を見舞ってやった。
 
 決勝のマウンドはシンジ。昨日のバッティングを買われてか、僕は二番センターでの先発出場だった。
 対戦相手は三度の青葉中、いや、三度の奥山だったと言ったほうが正確だろうか。去年の秋季大会と、中総体で先輩が涙をのんだ相手だ。今大会でも、決勝まで危なげないピッチングを披露。順当にここまで勝ち上がってきた。
「まさにこれが頂上決戦だな。」
 対するシンジもここまで無失点。宮城県ナンバーワンはどっちなのか。この試合ではっきりする。
「プレイボール!」
 宮城球場の空は高く澄み渡っている。
 先攻は宮城野中。一番のトモキが右打席に入った。
「積極的に行けよ!」
 僕もネクストバッターズサークルで声をかける。宮中の攻撃は、トモキの出塁ありきだ。彼が塁に出てピッチャーにプレッシャーを掛け、ケータローやヨウスケと言った中軸でランナーを返す。
「ストライーク!」
 初球を見逃したトモキが驚いたようにこちらを見た。
「ストライーク!」
 2球目はスライダー。タイミングが合わず、くるりと体を一回転させた。バットコントロールのいいトモキが、あそこまでバランスを崩すとは。
 結局、3球目のスライダーもただ当てるだけのピッチャーゴロ。あっという間に僕の打席が回ってきた。
「さあ、来い!」
 奥山と打者として対戦するのも一年ぶりだ。あの時はただ球が速いだけのノーコンピッチャーで、簡単にフォアボールを選ぶことができた。だが、今の奥山はあの時の奥山とは違う。
「ストライーク!」
 速い!
 初球のストレートに僕は思わずのけぞってしまった。練習では何度もシンジと対戦しているので、速い球には目が慣れているつもりだった。だが、シンジのそれとはまた違う。手元でホップするような感覚はない。鉄の塊がそのままぶつかってくるような感覚だ。
 メチッ!
 2球目も同じくストレートだった。当たった瞬間、金属バットとは思えない鈍い音がした。フルスイングとは裏腹に、ボテボテの打球がセカンドに。
「アウト!」
 あまりの衝撃に、ファーストベースを駆け抜けたあとも、手のしびれを感じていた。
「ポイントを前においたほうがいいぞ!」
 3番のシンジにアドバイスを送ったが、そう簡単には対応できるものではない。
 ボコッ!
 これまた鈍い音を立てた打球は力なくショートフライ。結局、誰ひとり自分のバッティングをさせてもらえないまま、初回の攻撃が終わった。
「しまっていくぞー!」
 1回の裏、青葉中の攻撃。今日はキャッチャーのポジションに付いたケータローがいつものように声をかける。マウンドにはエースナンバーのシンジ。
「ストライーク!」
 今日は調子がいい。センターで見ていてもわかった。ボールがバットのはるか上を通過している。相当手元で伸びているのだろう。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 瞬殺だった。全く付け入るスキを与えることなく、三者三振で片付けた。
「ナイスピッチ!」
 だが、奥山も譲らない。2回の表も宮中が誇る中軸を全く寄せ付けなかった。ケータローやヨウスケといったパワーヒッターに対しても、真っ向ストレート勝負。次々と相手を詰まらせていった。
「こいつは手強いな。」
 両チーム突破口を開けないまま、試合は中盤へと移っていった。
「なにか手はないか?」
 4回の攻撃の前にエンジンを組んだ。ここまでシンジが完璧なピッチングを続けているが、奥山も同じように完璧だ。ストレートも変化球もコーナーに決まり、フォアボールで塁に出ることもできない。
「ダメだ。去年のようにボールが荒れてくれない。弱点が見当たらない。」
 誰かがぼやいた。「これは延長戦に持ち込むしかないんじゃないか。」「いや、奥山はスタミナも十分だろ。去年の中総体だって、一人で投げきったんだから。」悲観的な意見が続くなか、鈴木先生だけは違っていた。
「俺はむしろ打ちやすいピッチャーになったと思うがな。お前らの先輩だったら、とっくに打ち崩していたはずだぞ。」
 意外なコメントに、誰もその真意を理解することができなかった。
「コントロールが良くなったということは、一つ武器がなくなったということだ。去年まではどこにボールが来るかわからなかった。予測不可能なモンスターが、予測可能な機械に変わったんだ。それにな、去年から成長していないところもある。それはな、・・・守備力だよ。」
 それが大きなヒントになった。
 その回先頭のトモキが初球にセーフティバントを試みた。勢いをうまく殺した打球が三塁側に転がっている。無警戒の三塁手はスタートがやや遅れた。
「俺が取る。」
 大柄な奥山がドタドタとマウンドを降りてボールを取る。その時点でトモキは一塁まであと5メートル。奥山から弾丸のような送球が飛んでくる。タイミングは微妙だ。
「セーフ!」
 送球がやや二塁側にそれた。一塁手の足が離れている間に、一気にトモキが駆け抜けた。
「ナイスラン!」
 両チーム通じて初めてのランナーに一気にベンチが湧き上がった。
 なるほどな、と思いながら、僕は打席に向かった。コントロールが安定しているなら、バントもエンドランもしかけやすい。それに三塁側の打球は左ピッチャーだと逆モーションになる。守備の苦手な奥山となれば、一層投げにくいはずだ。
「ボール!」
 投げる瞬間にバントの構えをした。気にしているのがあからさまにわかる。投げきる前からマウンドを降りようとしている。
 これは面白い。僕はもう一度バントの構えをしようと打席に入ろうとした。鈴木先生からサインが出ている。バスターエンドランだ。
「リー、リー、リー・・・。」
 トモキもリードでプレッシャーを掛ける。
 奥山が足を上げた。トモキがスタートを切った。それに合わせて、セカンドがベースへカバーに入る。よし、一二塁間が大きく空いた。
 僕は寝かせていたバットを引いた。ストレート。初回ほどのスピードはない。
 大きく踏み込んで、思い切り引っ張った。
 ボコッ!
 当たりは良くない。でも、これで十分だ。ボテボテの打球がライトへと抜けていく。
 トモキは俊足を飛ばして一気に三塁へ。ヒットエンドランの完成だ。
「ナイスバッティング!」
 全ては計算通りだ。僕は盛り上がるベンチにガッツポーズで応えた。
「頼んだぞ、シンジ!」
 ノーアウト一三塁で、宮中の誇るクリーンアップ。誰もが先制点を確信した。
 だが奥山も、ここから驚異の粘りを見せた。ストレート二球で追い込むと、最後はスライダー。完全にタイミングが狂わされたシンジは当てるのが精一杯。力ない打球がレフトへ上がった。
「アウト!」
 前進したレフトがショートの手前でボールを掴んだ。これではタッチアップのスタートを切れない。
 続くケータローも本来のバッティングをさせてもらえなかった。ストレートに振り遅れのファールしかできないまま、2−2と追い込まれた。
「食らいついていけよ!」
 ここはケータローの粘りに期待するしかないだろうと思った。それだけに、鈴木先生のサインに目を疑った。
 スクイズ!?
 確かに、このカウントからだとボールは来ない。振り遅れていることを考えると、ストレートで押してくる可能性が高い。そして、奥山は守備が下手だ。だが、それ以上にケータローはバントが下手だ。四番の自分にバントはないだろうとばかりに、いつも適当に練習していた。そんなケータローに、このプレッシャーが掛かる場面でスリーバントスクイズなんて決められるだろうか?
 奥山がセットポジションに入る。正面に立つ僕は、少しでも気を引こうとリードを大きめに取る。よし、サードランナーのことは気にしていない。
 奥山が足を上げた瞬間、トモキがスタートを切った。よし、最高のスタートだ。ボールを前に転がしさえすれば、セーフになる。頼む、決めてくれ!
 カスッ!
 ファールチップだった。ボールは無情にもバックネットにライナーでぶつかった。
「ファールボール、三振バッターアウト!」
 ホームベース直前まで来ていたトモキは悔しそうに、ケータローと顔を見合わせた。
 ツーアウト、ランナー一三塁。
 これも計算のうちだったのかもしれない。追い込まれるまでのケータローのバッティングを見て、打てる確率は少ないと見たのだろう。つまらされてゲッツーになるよりは、一か八かに掛けたほうがいい。それに、まだ次の打者がいるのだから。
「頼んだぞ、ヨウスケ!」
 全てはヨウスケのバットに託された。
「ストライーク!」
 初球は膝下に決まるスライダーだった。今日はあの球が多い。これまではクロスファイアを決め球としてきたが、もう一つ武器を増やしたようだ。
「ストライーク、ツー!」
 同じ球を続けてきた。同じ内角をえぐる球であれば、変化する分スライダーのほうが打ちにくい。
 3球目。キャッチャーが中腰に構えている。ここで一球外して、もう一度スライダーで勝負を決めにかかるか・・・。
 ここで普段あまり動かない鈴木先生が、この回2つ目のサインを出した。
 盗塁・・・。
 ツーアウトを取った奥山はランナーを気にしなくなったのは僕も気づいていた。でも、それはヨウスケを確実に抑えられるという自信の裏返しなのではないだろうか。
「よく考えろよ!」
 鈴木先生の声が飛んだ。これはただの盗塁の指示ではなさそうだ。
「よく考えろよ。」
 トモキはさっきなんでセーフになったんだ。奥山が守備が下手だから?早急が逆モーションになったかから?それが正解だとしても、盗塁はキャッチャーとの勝負だ。奥山の守備力とは関係ない。それに、セカンドに進んだとしても、ヨウスケが抑えられたら元も子もない。
 そうか!
 奥山が右足を上げた。スタートを切った瞬間ひらめいた。守備が苦手な奥山にもう一度逆モーションをさせる方法があるじゃないか。
 僕は二塁の手前で走るのを止めた。キャッチャーから鋭い送球が送られてくる。二塁手がボールを持ったまま追いかけてくる。ここではたぶん大丈夫だ。二塁手が僕を追い詰めるにはまだ距離がある。諦めた二塁手が一塁手にボールを渡す。逆方向に切り替えした僕の視界には、一塁にカバーに入った奥山の姿が一瞬入った。よし、計算通りだ。
 あとはここを逃げ切れるかどうかだ。一塁手は一般的に足が遅い。それにセカンドに深追いすることはないだろう。すぐにカバーに入ったショートに返した。問題はここだ。トモキもそうだが、ショートは足の速い人が多い。ここを逃げ切れるか。
 ショートが猛烈にダッシュをしてきた。一二塁間を往復して、スタミナの切れた僕との距離をどんどんと縮めてくる。やばい、タッチされる。
「走ったぞ!」
 大きな声とともに、ショートの足取りが一瞬止まった。トモキがスタートの構えをしたのだ。そのスキに一塁方向に素早く逃げる。ショートが球を渡したのは、カバーに入った奥山だ。よし、ここまでは計算通りだ。
 奥山の走力がどの程度か知らない。だが、仮に足が速くても、あれだけの長身なら加速するまでに時間はかかるだろう。塁間であれば、十分に逃げ切れるはずだ。
 僕は簡単に二塁に投げさせないために、あえて挑発するようにゆっくりと走る。狙い通り、奥山も二塁方向にどんどん深追いしてくる。
 今だ、行けーーー!!!
 心の中の叫びが通じたかのようにトモキがスタートを切った。この瞬間、勝ったと思った。この向きだと奥山は逆モーションにならざるを得ない。
「セーフ!」
 同じように送球がそれた。キャッチャーが飛び上がってボールを抑える間に、トモキは素早く右足から滑り込んだ。
「ヨッシャー!」
 先制点を抱き合って喜ぶトモキやヨウスケを、僕は二塁上から見ていた。「野球は右利き用にできている。」この言葉を誰から聞いたかもう覚えていない。多くのスポーツで左利きは有利に働く。野球だって、プロには左利きの選手が多い。だが、内野の守備だけは左投げはできない。ピッチャーをしない時、シンジはサードを守るのに、僕は外野に入るのはそのためだ。
「いいぞ、トモキ!」
 作戦がはまったことに満足した僕は、大きな声でトモキに声を掛けた。
 こうなれば、がぜん宮中ペースだ。点を取った次の回もシンジには全く危なげがない。一番から始まる青葉中の攻撃を簡単に三人で退けた。
「いいぞ、シンジ!」
 奥山も次の回以降は立ち直り、スコアボードにゼロを並べていった。だが、シンジが投げ続ける限り、1点で十分だ。誰もがそう思っていた。六回裏のツーアウトまでは。
 カーン!
 青葉中から生まれた初めての快音だった。それとともに、ガッシ!という鈍い音も球場に響いた。
「おい、大丈夫か!?」
 強烈なライナーがシンジの頭を襲った。バランスを崩したシンジは、そのまま大の字に倒れ込んだ。
 マウンドに内野手が寄ってくる。僕も遅れてセンターから駆けつけた。
「シンジ、聞こえるか?」
「おい、しっかりしろ!」
 返事が来ない。僕も経験がある。頭に衝撃を食らうと、一瞬意識が飛んでしまう。
「おい、返事をしろ!」
 なかなか意識が戻らない。一分近く目を閉じたままだ。
「大丈夫だ。最後まで投げる。」
 ようやく返事を返した。声は力強い。はっきりとした闘志を感じる。
「本当に大丈夫か?」
 立ち上がったシンジに話しかける。
「ああ、大丈夫だ。守備位置に戻ってくれ。」
 バタッ!
「おい、シンジ!」
 再び仰向けに倒れてしまった。
「無理だ。その体じゃ、持たないよ。」
「大丈夫だ。ちょっとバランスを崩しただけだ。」
 起き上がろうとしたところで、鈴木先生が割って入ってきた。
「バカヤロー!動くんじゃない!」
「せ、先生・・・。」
「脳が揺れたんだ。今動くと、後遺症が残るぞ!」
 シンジもようやく諦めた。
「すいません。先生・・・。」
「お前は悪くない。絶対に動かず安静にしてろ。」
 担架で運ばれていくシンジを心配そうに見送った。
「おーい、行くぞ!」
 鈴木監督が声を掛けたのは、ブルペンで準備をしていた1年生ピッチャーだった。あと2イニング、なんとか一年生で乗り切ろうというのか。
「鈴木先生・・・。」
 担架のシンジから声が聞こた。
「どうした。これでもまだ投げるというのか?」
「違います。マサトです。マサトに投げさせてください・・・。」
「・・・。」
 マウンドに沈黙が走った。野手全員の視線が僕に集まっている。
「俺が投げます!」
「・・・いいのか?」
 鈴木先生が心配そうに聞いてくる。昨日のピッチングでも評価は変わらないのか。それとも、一年前のサヨナラ負けを思い出したのか。
「もう絶対に負けねえ!」
 鈴木先生からボールを奪うようにしてマウンドに上った。俺だってゴールデンルーキーだ。このまま後輩にこの場を譲るわけには行かない。
「しまっていくぞー!」
 改めてファーストに回ったケータローが声を掛けた。キャッチャーにはヨウスケ、僕が守っていたセンターにはヒロキが入った。
 ランナーを正面に見つめて、セットポジションに入った。場面はすでにツーアウト。ランナーは気にする必要はない。
「ストライーク!」
 初球からクロスファイア。バッターのバットはピクリともしない。
「ストライーク!」
 2球目もクロスファイア。下手な小細工はいらない。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 最後はカーブが膝下に決まった。三球三振。完璧だった。完璧な3球だった。
「どうだ、これが俺のピッチングだ!」
 心の中で、僕は吠えた。
 そして、最終回。1対0の最小得点差のまま、最後のマウンドに上った。思えば奥山に破れた2度の対戦は、いずれもサヨナラ負けだった。僕もシンジもこの最終回に自分のピッチングができなかった。どんなに試合の流れがこちらに来ていても、この回だけは鬼門だ。
「しまっていこー!」
 ケータローの掛け声は毎回変わらない。そう、僕もいつもと同じピッチングをするだけだ。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 先頭打者を三振に切って取った。よし、いつものピッチングができている。
 カーン!
 次の打者は初球を打ち上げた。「よし、ツーアウトだ」センターに上がった打球を目で追いながらそう思った。打球に伸びがない。平凡なセンターフライだ。
 ところが、センターのヒロキの動きが変だ。立ち止まってグラブを構えた位置がおかしい。定位置より遥かに後ろだ。
「おい、前だ!」
 僕の声に反応して、ようやく前進を開始する。センターでは間に合わないと悟ったショートもセカンドも必死にボールを追いかける。
 ポテッ!
 無情にもボールは3人のちょうど真ん中に。
「クソ、ヒロキめっ!」
 マウンドで小さく毒づいた。
「ワンアウトは取ったんだ。一人ランナーが出たくらいで、気にするな。」
 ヨウスケが声をかける。
「おう、わかってるよ。」
 口ではそう言うが、気持ちは動揺していたことは否めない。嫌でもサヨナラ負けが頭をよぎってしまう。
「ボール!」
 おかしい。会心のクロスファイアをストライクに取ってくれない。さっきと同じ球のはずなのに・・・。
「ボール!」
 なんでだ。膝下に落ちる完璧なカーブなのに。いつもならあの球で空振りが取れるはずだ。
「ボール、フォアボール!」
 一球もストライクが入らなかった。いや、一球もストライクに取ってくれなかった。
「自分ひとりでやろうとするな。無理に三振を取ろうとするから、微妙に外れてしまうんだ。打たせればいいんだよ。」
 伝令がきて、マウンドに内野手が集まった。
「バカ言うな。打たせたから、ピンチになったんじゃないか。」
「あれはたまたまだ。宮城球場は広いから、位置感覚がつかみにくい。定位置に守っているつもりでも、後ろに守りすぎるんだよ。」
「そんなもの言い訳になるか。あれはどう考えたって、センターフライだった。」
 頭に血が上りかけた僕をケータローも鎮めにかかった。
「ヒロキはこの球場での経験がないから仕方がない。だが、もう大丈夫だ。仲間を信じて打たせるんだ。」
 仲間を信じる・・・。そんな正論、シンジじゃないんだし。
 ・・・シンジ。本来なら、あいつがここに立っているはずだった。あいつだったら、どうしただろうか。
「わるかった。みんなの力でここまで来たんだ。みんなの力で優勝しよう。」
 柄にもないセリフだと思った。でも、不思議と心は落ち着き、静かな力がみなぎってきたような気がした。
「そうだ、みんなの力で優勝しよう!」
 内野手が再びポジションの散った。
 ワンアウト一二塁。一打同点のピンチだが、心は落ち着いている。
「リー、リー、リー・・・。」
 さっきは聞こえなかった、コーチャーの声が聞こえる。目の前の一塁ランナーは誘うように大きなリードを取る。だが、これはポーズだけで走る気はないだろう。
 二塁ランナーも気にする必要はない。いざとなれば強肩のヨウスケが仕留めてくれる。
「ストライーク!」
 さっきと同じクロスファイアだった。
「ストライーク!」
 同じくクロスファイア。2球で追い込んだ。
「投げ急ぐなよ!」
 ヨウスケが声を掛けた。次のサインはカーブ。ボールでいいということだろう。
「ボール!」
 いいところに決まったかと思ったが、見切られてしまった。
「ボール!」
 同じくカーブを見逃された。これもいいところには投げられている。
「よーし、次の球で決めようか!」
 そう言いながら出したさんもやっぱりカーブ。しかも、構えはど真ん中。
 危険すぎる・・・。心のなかでつぶやいた。相手はカーブを見切っている。ど真ん中に投げたら打たれるに決まっている。
 いや、待てよ。見切られているからこそカーブを投げるのか。ストライクゾーンに来たら、間違いなく手を出してくる。
 カキーン!
 コンパクトに振り切られた打球は僕の足元を襲った。慌ててグラブを差し出すが、打球はその下を鋭く抜けて二遊間へ。
「やばい、抜ける!」
 セカンドランナーはすでにスタートを切っている。僕は同点を覚悟した。
 その時だった。
 バッシ!
 セカンドベースの後方で、スギヤンがダイビングキャッチ。
「頼むわ!」
 そう言いながら、ショートのトモキにグラブトス。受け取ったトモキは、右足でセカンドベースを蹴るようにして触ると、そのまま一塁に矢のような送球。
「アウト!」
 美しい・・・。
 僕はマウンドで見とれてた。こんなにも美しいプレーを自分の試合で見られるとは。飛び込んでからのグラブトス。3ヶ月前の中総体で破れて以来、何度このプレーを夢に見ただろう。
「すごいぞ、スギヤン!」
 僕がスギヤンに抱きつこうとしたときには、すでに他の野手にもみくちゃにされていた。
「自分で言うけど、あんなプレー、もう絶対ムリ!」
 ムードメーカーのスギヤンらしく、最後まで笑わしてくれた。
「ゲームセット!」
 僕たちはついに優勝したんだ。何度となく奥山の壁に跳ね返されてきたが、ついに頂点に立ったんだ。シンジのいない宮城球場で、何度も勝利の味を確かめた。
 あれもこれも、思い出はいつも宮城球場だった。
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