第13話

文字数 8,750文字

「びっくりしたよ。育英が県大会で負けるなんてね。」
 二学期のある日、開口一番竹山が言ってきた。この頃になると、ぼくたちはすっかり高校野球フリークとしてクラスに定着してしまった。(実際、彼とはそんなに仲がよかったわけじゃないが。)
「ああ、確かに。打線が振るわなかったね。」
 もちろん、僕も知っていた。あれだけ地方ニュースで大きく取り上げられれば、嫌でも目につくだろう。
「なんでだろう。甲子園の準優勝チームだよ。それが県大会で負けるなんて、そんなのありえる?」
「強豪校にはよくあることだよ。特に、育英のように全国レベルで言えば、上位進出が少ないチームではね。」
「どういうこと?」
「チーム作りが十分にできなかったんだよ。甲子園では大の以外はみんな3年生で戦った。ベンチ入りメンバーを含めてもだ。経験を持った2年生がいないんだ。しかも、他のチームより長く3年生が現役でプレーしていた。2年生を主体とするチームを作る時間がなかったんだよ。」
「でも、準優勝投手の大野くんがいるんだよ。簡単に打たれるとは、やっぱり信じがたいよ。」
「それほど失点はしてないけどね。でも、それもまたネックになったんだと思う。相手チームからしたら、大野さえ打てればいいと研究の的になっていたはずだ。それに、炎天下の甲子園であれだけ投げれば、疲労は蓄積される。簡単に回復するものじゃないよ。」
「じゃあ、来年の甲子園には間に合うよね?」
「どうかな?大野以外の2年生がどれだけ成長できるかだろうね。」
 だが、一年経っても、シンジのワンマンチームからの脱却はできなかった。次の年の甲子園予選、育英は序盤かららしからぬ苦戦を強いられた。初戦を2−0で辛くも逃げ切ると、その後も3−1、2−1と昨年の甲子園準優勝校とは思えぬ、ぎりぎりの試合が続いた。
「それでも勝っているんだから。試合をしているうちに、調子が上がってくるよね?」
 すっかり育英ファンになっている竹山が心配そうに聞いた。
「どうかな。打線の調子が戻らないことには、きついんじゃないかな。大野も僅差のゲームでずっと投げっぱなしだ。体力的には、しんどいだろうな。」

 決勝の相手は東北学園高校。ここ数年決勝は同じカードで、ことごとく育英が勝利を収めてきたが、この年ばかりは分が悪かった。僅差のゲームを辛くも勝ち抜けてきた育英とは対象的に、東北はすべてコールド勝ち。センバツ出場の勢いそのままに、力の差を見せつけていた。
「いや〜、県予選とは言え、まさに世紀の戦いだね。」
 宮城球場に観戦に訪れた竹山は、試合開始前から興奮しっぱなしだった。
「絶対的エースを誇る育英と、マシンガン打線の東北。甲子園でもめったに見られない高カードだね。」
 興奮しているのは竹山だけじゃなかった。会場全体が試合前から熱狂の渦に包まれていた。選抜の出場は逃したものの、甲子園のアイドルを要する宮城育英と、その育英に代わって選抜に出た東北学園高校。甲子園では2回戦止まりだったものの、確かな実力を見せつけた。
「どっちが勝ってもおかしくないね。」
 僕は中総体の決勝を思い出していた。あの試合も両校が全校応援となり、今まで経験したことのない熱気だった。もちろん、観客席にはあのときの2倍も3倍もの応援団が詰めかけているが。
「外野の芝生席まで、ほぼ満席だね。」
 試合は注目度にふさわしい、熱戦となった。シンジは連投の疲れを感じさせない、力投を見せた。ストレートは常時140キロの後半をマークし、フォークやスライダーといった変化球も、ことごとくコーナーに決まった。
「このままプロにいっても、通用しそうなピッチングだな。」
 しかし、そこは東北学園高校。次第にシンジのピッチングにアジャストしていった。
「危ない!」
 いい当たりが多くなってきた。序盤は内外野の好守に助けれられていたものの、大きなピンチを迎えたのは6回だった。
 ワンアウトを取ったあとシングルヒット2つとフォアボールで満塁。マウンドにはシンジを中心に輪ができていた。
「ああいうときって、どんなこと話しているの?」
「どこまでを許すかだろうね。満塁なのでスクイズの可能性は低いけど、犠牲フライやゲッツー崩れの1点ならよしとする。多分そんなところだろう。」
「でも、理想はゲッツーでしょ?」
「もちろん、それを狙ってくると思うけどね。」
「あっ!?」
 守備に散った内野手を見て驚いた。
 前進守備。
「これは・・・。」
「ホームゲッツーを狙うならそのほうがいいけど、でもその分ヒットゾーンは広がる。これは絶対に点を許さないというチームの意思の現れだと思う。」
「守りきって勝つ、ということだね。」
 このチームの決断を意気に感じたのか、ここでシンジのギアが明らかに一つ上がった。
「ストライーク!」
 球速表示が150km/hを超えた。東北学園高校の応援団も、一瞬応援の声を止めてどよめいた。
「すごい、ど真ん中なのに振り遅れている。」
「ストライーク!」
 ストレート2球で追い込んだ。さすがの甲子園経験選手も、これだけの速さにはなすすべがない。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
「おおおっ!!!」
 地響きのような歓声。これで流れは、追い込まれているはずの育英に傾いた。
「ストライーク!」
 投げるたびにどよめきが大きくなる。2万超の視線が、シンジに釘付けになった。
「ストライーク!」
 打者だけじゃない。みんながストレートだとわかっている。それでも打てないのが、ゾーンに入ったシンジのストレートだ。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 最後の球は153km/h。圧巻のストレート6球だった。
「なんて奴だ・・・。」
 誰もが大声でシンジを称える中で、僕は一人呆然としていた。一体彼は、どこまで行ってしまうんだろう。肩を並べてピッチング練習をしていたのが遠い昔のことのようだ。
「よし、これで攻撃にもつながるね。」
 試合は竹山の言うとおりになった。
 育英はサイドスローの背番号10を打ちあぐんでいた。これと言った特徴があるピッチャーではないが、サイドから繰り出される140キロ台のストレートと大胆に内角を突く強気のピッチングに、なかなか思うような攻撃を仕掛けられずにいた。
 しかし、ついに7回の表にその時はきた。盗塁やバントを絡めてワンアウト三塁のチャンスを作ったのだ。
「これで一点は確実に取れるね。」
「ああ、120%スクイズだろう。でも、相手もそれをわかっている。簡単に決められるのか・・・。」
「敬遠するってこと?」
「それもありうる。このピッチャーはコントロールが悪くない。たとえ満塁にしても、十分勝負はできるだろう。」
 マウンドには前の回の育英同様、内野手の輪ができている。東北の監督は就任10年を超えるベテラン。名将が送った伝令は一体何を伝えているのか。
「あっ!?」
 10番のピッチャーがマウンドを降りていく。ブルペンからは長身の背番号1がマウンドに上がる。
「思い切った策に出たな。あれだけ好投したピッチャーをスパッと諦めるとは。」
「えっ、武田くんは知らないの?」
 竹山はかばんから、月刊高校野球マガジンを取り出した。「注目の2年生特集」。
「いつもこの特集をやっているんだな。」
「でも、彼は別格だよ。プロどころか、メジャーリーグも目指せるくらいだよ。」
「大げさな・・・。」
 だが、月刊高校野球マガジンを手に取ると、竹山の言うことも的外れではないことがわかった。
 ギルバート健。アメリカと日本のハーフ。198センチの上背から、マックス158km/hの速球を投げ下ろす。
「でかいとは思ったが、そんなにもあるのか。ほとんど2メートルじゃないか。それに158キロって、さっきのシンジよりさらに速いぞ。」
「ね、日本じゃ規格外の、まさにメジャー級なんだよ。」
「こんなのを温存しておくなんて、今年の東北はとんでもないな。」
 ギルバートのストレートは同じような球速でも、また質が違った。とにかく角度がある。2階から投げ下ろしているようなものだ。
「ファール!」
 三塁ランナーがスタートを切ろうがお構いなし。平然と投げ込まれたストレートに、バントをすることさえできない。
「スリーバント失敗、バッターアウト!」
 3球続けてのファールだった。あのバッターだって相当の球数をバントしてきたはずだ。だが、あんなボールは練習のしようがない。
「バントさえできないのに、どうやって打つんだよ。」
 続くバッターはシンジだった。中学まではバッティングでも非凡なものを見せてきた彼だが、さすがに育英では8番というあまり期待されない打順を任されていた。
「ここは大野くんになんとかしてもらわなければ。」
 だが、気持ちだけはなんともしようがない。初球のストレートに手が出ず見送ると、2球目は内角に沈む変化球を空振りした。
「すごい変化球だね。あれなんだろう。」
「ツーシームじゃないかな。」
「ツーシーム?何、それ?聞いたことない。」
「シュート回転で落ちる球。メジャーリーグでは、それが主流なんだ。」
 3球目はストレート。ギリギリまで短く持ったバットで、なんとか当てた。
「すごいね。ファールで粘れたよ。この調子でファールを続けていけば、いつかタイミングが合うんじゃない?」
「いや、ストレートだからファールにできたんだ。それに、ファールをするだけで精一杯。またツーシームが来られたら、おしまいだ。」
 ギルバートが大きく足を上げた。シンジはバットを短くするだけでなく、水平近くまで寝かせた。あからさまなファール狙いだ。
「ストライーク!」
 ツーシームだった。内角低めに沈んだボールにバットは虚しく空を切った・・・。
「いや、まだだ。走れ〜!」
 キャッチャーがボールを後ろにこぼしている。シンジはバットを投げ出すと、一塁に猛ダッシュをみせた。
「行け〜、シンジ〜!!」
 ボールは大きくはそれていなかったが、それでもキャッチャーはボールの行方を一瞬見失っていた。
「すぐ後ろだぞ!」
 マスクを外してあたりを見渡すキャッチャーに、ギルバートが大きな声を出した。
 シンジは必死に走るが、一塁までの距離は長い。今まで走った27メートルの中で、一番長い27メートルだ。
 よし、あと3メートル。
 渾身のヘッドスライディング。
 一塁塁上に大きな砂埃が舞った。タイミングは間一髪。塁審がジャッジをするまで、0.5秒。宮城球場全体が、静けさに包まれた。
「セーフ!」
 静寂から歓声へ。一気に球場が揺れた。
「すごいぞ!育英が先制したぞ!!」
 育英サイドにいた誰もが立ち上がった。僕も隣の竹山だけだでなく、誰彼かわまず抱き合って喜んだ。
「よし、これで行けるぞ!」
 勢いに乗ったシンジは7回と8回を三者凡退に抑えると、9回もツーアウトまでこぎつけた。
「あと一人、あと一人!」
 1対0の緊迫したゲームの中、ついに育英が勝利を収める・・・。誰もがそう思った瞬間だった。
 カキーン!
 粘りを見せる東北が、センター前にクリーンヒット。更に次バッターもヒットを放ち、ツーアウト一二塁とした。
「東北も簡単には終わらないな。」
 再びマウンドに輪ができている。その中心にはシンジ。帽子をとって、しきりに汗を拭っている。
「疲れがあるのはわかっている。あともうひと踏ん張りしてくれ。」
 輪がとけ、選手がそれぞれのポジションに散っていく。マウンドにはシンジ一人が残った。
「ストライーク!」
 渾身のストレートも球速は143km/h。序盤に比べると、明らかに球威が落ちている。
「ストライーク、ツー!」
 珍しくカーブを投げてきた。目先を変えようということなのだろうか、うまく追い込むことができた。
「ボール!」
 フォークボールを見逃された。良いところに落ちているように見えたが、敵の選球眼が上回った。
「ボール!」
 スライダーにもバットは動かない。変化球は完全に見切られているのだろうか。そうなれば、球威は落ちていてもストレートしかない。
「えいっ!」
 バシッ!
 外角低めいっぱい。キャッチャーのミットと寸分の狂いのないコースにボールが収まったかに見えた。
「・・・ボール!」
 上がりかかった球審の腕が止まった。
「おおっ・・・。」
 球場から上がったのは、ため息なのか悲鳴なのか。フルカウントからの勝負の一球に誰もが固唾をのんだ。
 変化球は見切られている。ストレートには球威がなくなっている。さあ、選ぶのはどっちだ。
 打者は打ち気に早っている。フォークボールで三振だ!
 カキーン!
 落ち際をうまく拾われた。鋭い打球はライナーで左中間へ。
 二塁ランナーは三塁を回って本塁に帰ってくる。同点。一塁ランナーもそのまま三塁を回ってくる。
「やばい、サヨナラか!?」
 左中間でボールを抑えたセンターが中継のショートにボールを返す。ショートは素早くバックホーム。流れるような中継プレーでクロスプレーに。
「アウト!」
 東北が土壇場で追いついた。いや、育英がギリギリで持ちこたえたというべきか。試合は延長にもつれ込んだ。
「サヨナラは阻止したんだから、流れは育英に来ていると見ていいよね。」
「いや、それは厳しいだろう。」
 なにせ相手は途中からマウンドに上ったギルバート。少ない球数で簡単に三つのアウトを取る。
 それに対して、シンジは明らかにキレも球威も落ちていた。序盤は面白いように空振りが取れていた球が、ファールになる。そして、球数が増える。
 延長14回。それでもシンジはマウンドに上がる。
 育英には他に代わるピッチャーがいないのか。もしも叶うのなら・・・。もしも叶うのなら・・・。僕は想像しないわけにはいかなかった。シンジに代わりマウンドに上がる俺。育英二枚看板として甲子園の切符を手にする俺。もしも、あのとき違う決断をしていたら・・・。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 限界を超えたシンジは、それでも一人、東北打線をゼロに抑え続けた。
 対するギルバートにも、少しずつほころびが見え始めた。最初はバントするらできなかった直球も、次第にファールが増えてきて、前にも飛ぶようになってきた。まだヒットは出ていないが、可能性を感じさせる当たりもいくつかあった。
「もしかしたら行けるんじゃないか。」
 そんな淡い期待を抱いたのは竹山だけじゃないだろう。左バッターボックスにに入ったのは、育英の四番打者。この大会ですでに三本のホームランを放っている屈指の長距離砲だ。
「ストライーク!」
 低めのボールに空振りした。
「いまのは変化球?143キロも出てるけど。」
「スプリットだろう。高速で落ちていく、特殊なフォークボールだ。」
「ストレートだけじゃないね。変化球まで規格外だ。」
 続く球もスプリットに空振り。さすがに警戒して、まともにストライクを取りに来ない。
「やっぱりダメなのかな?」
 キャッチャーは中腰になり、高めの球を要求している。
「これは手を出しちゃダメだよね?」
「いや、むしろ狙い目かもしれないぞ。」
「え?どういうこと?」
「ストレートを低めに投げるからこそ角度が出る。高めの球なら、ただの速い球だ。」
「でも160キロ近いよ。」
 カキーン!!!
 シャープに振り抜いた打球が、ライトに高々と上がった。
 上がり過ぎか。
 いや、ライトが慌てて下がっていく。ウォーニングゾーンに入り、フェンスにピッタリくっついた。
 あっ、入るのか!?
 ようやく打球が落ちてくる。それに合わせてジャンプ!
 バタッ!
 フェンスに背中をぶつけてそのまま倒れ込んだ。
 ボールはどこへ行った?
 球場全体が固唾をのんだ。
「ねえ、あそこ・・・。」
 竹山が指差した。緑の芝生席中に、白球がポツリ・・・。
「入っている。ホームランだ。ボールはフェンスの向こう側だ!」
 球審が右手をぐるぐると回した。球場全体がどっと湧いた。
「すごい!勝ち越しだぞ!!」
 育英サイドに歓喜の渦。全校応援の育英の生徒はみな立ち上がって、メガフォンを強く叩いた。僕らもまた立ち上がり、誰彼かわまず抱き合った。
 今度こそ育英が逃げ切れるか?球場の視線は1点を守るシンジの右腕に集まった。
 延長15回の裏。ここまで投じた球数はすでに170を超えている。序盤には150km/hを連発していたストレートも、ついに130km/h台に落ちた。あと1イニングだけ。あと1イニングだけ持ちこたえてくれ。
「ストライーク!」
 1球投げるたびにスタンドがどよめく。東北の応援もつづているが、球場全体がシンジの力投を祈るような気持ちで見つめている。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 この試合13個目の三振でワンアウト。シンジの体力と精神力は無尽蔵か。
 カーン。
 次の打者も3球目のカーブを打ち上げた。
「アウト!」
 平凡なセンターフライ。
「ねえ、いよいよだね。あと一人まできたね。」
 竹山も興奮が止まらない。僕たちは球史に残る瞬間を目撃しようとしている。
「いや、まだまだ。野球はツーアウトからだ。」
「あっ・・!」
 ショートにゴロが飛んだ。3時間戦ったグランドを砂埃を立てながら、ややセカンドよりへとボールが転がっていく。
 バシッ。
 グラブでボールを抑えると、流れるようにステップを踏んで一塁へと送球する。
「勝った!」
 球場の誰もがそう思った。
「アウ・・・。」
 上がりかかった塁審の手が止まった。
「セーフ!」
 塁審の両手が大きく広がった。
「なぜだ!?」
 送球が僅かに下にそれていた。一度ミットに収まったかに見えたショートバウンドは、無情にも外にこぼれ落ちていた。
「ドンマイ!」
 それでもシンジは笑顔で右手を上げた。
「さすが大野くん。全然動揺していないね。」
「いや、どうかな?ここまで限界を超えて投げてきたからね。終わったと一瞬でも思った瞬間、気持ちが切れてしまうものだからね。相当な精神的ダメージだと思うよ。」
「・・・ところで、武田くんって、前から思ってたんだけど。」
「ん?」
「悲観的な発言が多いよね。それもだいたい当たらない・・・。」
「そうか・・・?」
 ところが、今回ばかりは僕の悪い予感のほうがあたった。
 カキーン!
 すっかり力の落ちたストレートをライナーで運ばれた。ショートの頭の上を抜けた打球は、左中間をゴロで抜けていく。
「やばい!」
 一塁ランナーは早々にセカンドベースを回り、すでにサードベースすら回ろうとしている。
「同点に追いつかれるか!?」
 そう思った瞬間、サードコーチャーから大きな声が飛んだ。
「止まれ〜〜〜!!」
 ランナーは急ストップ。慌ててサードベースに戻ったときには、中継を受けたショートから見事なバックホームが返っていた。
「9回に同じようなプレーでランナーを刺している。あの刺殺が頭に残ってたんだ。」
 同点は免れたものの、ツーアウトランナー二三塁。今度は一打サヨナラのピンチだ。
「頼む、もうひと踏ん張りしてくれ。」
 だが、もうこれ以上無理は利かないことは誰の目にも明らかだ。
「ボール!」
 ストレートが上ずっている。序盤には見られなかったボールだ。
「ボール!」
 スライダーもフォークもすっぽぬけ。もうボールを強く握る力も残っていない。
「ボール、フォアボール!」
 4球全てがはっきりとしたボール球。さすがのシンジもここまでか。
「大変なことになってきたね。」
 竹山が心配そうに見つめるマウンドには、この日三度目の野手の輪ができている。
「今度は何を話しているんだろう。」
「もう何も話すことはないだろう。育英には大野しかいないんだ。大野に託し、それでだめなら仕方がない。ただそれだけのことなんだ。」
「それでだめなら仕方がないって、そんな・・・。」
 マウンドの輪がとけた。シンジ対東北打線。いよいよ最後の勝負だ。
 セットポジションに入るシンジ。すでに球数は200球近い。首筋には大粒の汗が光る。あの頃と同じ、脚を大胆に上るダイナミックなフォームだ。
「ストライーク!」
 ど真ん中のストレート。一瞬ヒヤリとした。球速はついに、128km/hまで落ちた。
「打者も緊張しているんだろう。」
 2球目。キャッチャーのサインを覗き込む。首を大きく縦に振った。
「ストライーク!」
 これもど真ん中のスライダー。ここまでは打者に助けられている。
「最後の1球が難しい。もう見逃してくることはないだろうから。」
 決め球はフォークボール。3球勝負だ。もう遊び球を投げている余裕はない。
 握力はどうか。フォークを挟む力は残っているか。
 えい!
 カキーン!
 やばい!フォークがすっぽ抜けた。
 鋭いライナーが三塁手の頭上を襲った。
 ジャンプ!
 取れない!
 このまま長打でサヨナラ負けしてしまうのか。
「ファール!」
 助かった。ギリギリのところでキレてくれた。
 だが、次は何を投げればいい?フォークは落ちない、ストレートはスピードが出ないとなれば、もう球がない。
 サインを覗き込む。そうか、ストレートか。
 力で押すのは無理だ。コースに決めよう。コースに決めさえすれば、手は出ない。
 えい、どうだ!
 バシッ!
 見逃したボールがミットに収まった。
 アウトローギリギリ。もうこれ以上の球は投げられない。
 頼む、取ってくれ・・・。
「ストライーク!」
 ようやく球審の右手が上がった。
 僕はその場で大声で吠えた。そして、噛みしめるように何度もガッツポーズをした。
「よし、優勝だ。最後まで投げきったぞ。」
 仲間たちが抱きついてきた。泣いている者もいた。笑っている者もいた。みんなの想いが一つになる。この瞬間が高校生活のハイライトだ。
 あの夏の宮城球場は、どこよりも熱く燃えていた。
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