第6話

文字数 9,834文字

 そして、中総体。
 初戦の先発は高田先輩だった。もっとも、これでエースの座を高田先輩が確保したとは言い切れないのだが。と言うもの、初戦の相手は宮中にとってあまりに格下だった。秋季大会でも春季大会でも初戦でコールド負けをしているようなチームで、むしろエースなら温存させておいたほうがいいくらいだ。
 実際、初回から打線が繋がり、5回には二桁の点差がついていた。よし、これでコールドだなと思ったところで、高田先輩のピッチングが乱れ始めた。これまでテンポよく凡打の山を築いてきたはずなのに、急にフォアボールを連発。ランナーが溜まったところで、痛打をくらいついに失点してしまった。
「大丈夫だ。点差がある。」
 ベンチからの掛け声通り、勝敗に響くことはないのだが、すんなりコールド勝ちできないのは、どこか気持ち悪い。結局、高田先輩は6回にも点を取られ、最終回まで戦うことになった。
 高田先輩は、自分のピッチングに迷いを感じているのではないだろうか。
 そんな疑問は、試合を重ねるごとに強くなっていった。試合は打線の爆発もあり危なげはなかったが、高田先輩だけはなぜか安定しない。あるイニングを簡単に三者凡退に抑えたかと思えば、次のイニングでは連打を浴びる。地味に失点を重ねながらも、打線の力で勝ち上がり、ついにベスト4まで来た。相手は奥山擁する青葉台中だ。
「明日の先発は誰で行くんですか?」
 前日のミーティングで石橋先輩からそんな質問が出た。
「明日の先発も、高田で行く。」
 鈴木先生の言葉には迷いがなかった。
「打線の援護は期待できませんよ。」
 石橋先輩の心配ももっともだ。奥山のピッチングは冴えに冴えている。ストレートだろうがスライダーだろうが、宮城県の中学生にはまともにとらえられるものがいなかった。打線が宮中ほど強力ではないのが、唯一の救いだ。
「うちのエースは高田だ。」
 鈴木先生の一言で全てが決まった。

 準決勝からは宮城球場だった。秋季大会の決勝と同じ舞台だったが、雰囲気は全く違うものだった。内野スタンドは応援に招集された宮中の生徒たちで埋め尽くされていて、息のあった声援がひっきりなしに飛んでいた。フェンス際には横断幕。
「飛べ 常勝軍団 宮城野中学」
 去年、野球部が負けたあとサッカー部の応援に行かされたときにも同じものを見た。長年いろんな所で使いまわしているんだろう。
「前より色が薄くなってるな。穴も大きくなってるし。」
 その日は仙台の6月とは思えないほど蒸し暑かった。空は厚い雲に覆われて日差しこそなかったものの、湿度がものすごかった。試合前の準備運動だけで、びっしょりと汗をかいた。
 試合は気候同様、初回から重苦しい展開だった。両ピッチャーとも汗で滑るのか、抜け球が多かった。ロジンバッグでしきりに滑りを止めようとするが、なかなか制御が効かなかった。フォアボールでランナーを出す、チャンスは作る、でもあと一本は出ない。ともにフラストレーションがたまるなか、試合が動いたのは4回だった。
「足をつったんじゃないか。」
 高田先輩の異変に気がついたのは、ヨウスケだった。その回の先頭をフォアボールで歩かせると、ふくらはぎを伸ばすような仕草を見せた。でも、それは注意して観察しなければ気がつなかないほどさり気ない動作で、ベンチから悟られるのを避けているようにも見えた。
「この暑さで体がやられたんだ。」
 ヨウスケの言うとおりだろう。次の打者もストレートのフォアボールで歩かせてしまった。どの球も高田先輩の球とは思えないほど、力なく上ずっていた。
「様子を見てこい。」
 鈴木先生が伝令を飛ばした。高田先輩はしきりに首を横に振っている。「交代の必要はない。大丈夫だ。」と訴えているんだろう。だが、それが強がりなのは、誰の目にも明らかだ。
 鈴木先生はブルペンを見やった。シンジは準備万端だ。
「続投だ。」
 危険な選択だと思った。どう見たって高田先輩は限界に来ている。
「本人が納得が行くまで投げさせるということなんだろう。」
 答えはそれしかない。でも、敗退の危険を掛けてまですることなのか、トーナメントは一度負けたら終わりなのに。
 悪い予感は的中した。次の打者に置きに行った甘いストレートを痛打された。ショートの頭上を超えた低いライナーは、そのまま左中間を突破した。
「セーフ!」
 センターからうまく中継をしてバックフォームをしたが間に合わず。ついに先制を許してしまった。
「まだ、2点だ!ここでふんばれ!」
 ベンチから檄が飛んだ。鈴木先生は腕組みをしたまま動かない。高田先輩は額の汗を拭うと帽子を深くかぶり直した。どうやら続投のようだ。
「ボール!」
 ダメだ。もうボールを制御することができない。低めに投げようと必死に腕をふろうとするが、もう足は限界を超えている。バランスを保つことすらままならない。
「フォアボール!」
 再びノーアウト一二塁。このままでは大量失点になってしまう。
「よくやった。十分だろ。」
 鈴木先生がマウンドに向かって声を掛けた。これまでの試合でもほとんど声を発することもなく、たまに何かを言うにしてもつぶやく程度だった鈴木先生が初めて出した大きな声だった。
「鈴木先生、ありがとうございました。もう投げれません。」
 深くかぶっていた帽子を取り、深々と頭を下げた。その声は涙でかすれていた。
 マウンドで新しいボールをシンジに渡しベンチに駆け足で戻る高田先輩を、ずっと見ていた。その顔にはすでに涙はなかった。とても清々しい顔をしていた。

 マウンドはこの大会初めてのシンジ。春季大会でも出番がなかったので、久しぶりの登板となる。
「楽にいけよ!」
 シンジにそんなアドバイスは不要だった。彼は最初の打者を三振に打ち取ると、次の打者をつまらせてショートゴロ。あっという間にゲッツーでチェンジとなった。
「ナイスピッチング、シンジ!」
 見事な火消しぶりに、ベンチも大はしゃぎで迎えた。長い相手の攻撃でシーンとしていた宮中応援団も、一気に活気を取り戻した。
「いいぞ、いいぞ、大野!いいぞ、いいぞ、大野!」
 だが、一番喜んでいたのは、高田先輩だったかもしれない。ベンチの奥で控えめに拍手をするだけだったが、その気持はきっとシンジにも届いていたはずだ。
 シンジの好投により流れは掴んだかのように見えたが、奥山の壁も厚かった。毎回のように、ヒットやフォアボールでランナーをためるピッチングは序盤から変わらない。だが、あと一本を許さず、ホームだけは死守するピッチングも変わらない。残塁を築くたびに、宮中応援団の声援がため息に変わった。
「おい、どうするんだよ!」
 2点差くらい追いつける、楽観ムードだったベンチにも次第に暗雲が立ち込めてきた。
「せっかく、高田とシンジが頑張ってきたんだからさ。なんとか追いつこうぜ。」
 何度もエンジンを組んで気合を入れ直すが、それだけでは奥山のピッチングはいかんともしがたい。ランナーを背負っても、まるで動じるところがない。奥山ののらりくらりにやられたまま、残すは最終回の7回表の攻撃を残すのみとなってしまった。
「最終回だ、ここで追いつかなきゃ終わりだぞ。」
「そんなの言わなくてもわかってるよ。じゃあ、どうすればいいんだよ。」
「どうするも何も・・・、打つしかないだろ。他に何がある?」
「そんなクソみたいな作戦が通用するなら、とっくに点とってるよ。」
「何がクソだよ。じゃあ、お前になにかアイディアがあるのかよ。」
 一触即発の雰囲気に、その場が凍りついた。
「俺に考えがある。」
 そう言ったのは、石橋先輩だった。
「なんだよ、言ってみろよ。」
「ランナーをためて、俺に回せ。それだけでいい。」
「それのどこが作戦なんだよ。」
「俺が打って、ランナーを返す。それで少なくても同点にする。」
「お前、ヒットつててないじゃないか。」
「次は打つから大丈夫だ。」
 石橋先輩が言うものただの強がりではないかもしれない。確かにここまで2打席凡退しているが、いずれも大きな当たりのセンターライナーだ。それも警戒して深めのポジションを取っていたから抑えられたものの、定位置であれば間違いなく頭を超えていた。
「わ、わかったよ。お前がそこまで言うなら・・・。」
「おう、サンキュー。」
 他の人なら決して納得しなかっただろう。だが、これまで攻守に渡って何度もチームを救ってきた石橋先輩だ。しかも、何一つ深刻ぶった様子もなく、さも当たり前のように言ってくる。不思議とそれでうまくいくような気になってしまう。
 作戦はシンプルでも実行するのは簡単ではない。7回の攻撃は1番から始まる。4番の石橋先輩に回すのには少なくとも一人はランナーに出なければならない。だが、それだけでは十分ではない。点差は2点だ。仮に石橋先輩が長打を打つにしても、同点に追いつくにはランナーは2人は必要だ。
「絶対に出ろよー!」
 祈りにも似た声をベンチから飛ばす。フォアボールでもデッドボールでもいい。とにかくランナーにさえ出てくれればいい。
「ボール!」
 荒れ球は相変わらずだ。初球はキャッチャーも取れないような、とんでもないボール球から入った。
「いいぞ、よく見た!」
 一つの判定にベンチがお祭り騒ぎになる。
「ストライーク、三振バッターアウト!」
 結局はこうなる。ボールが先行して期待させてくれるが、最終的にはストライクを入れてくる。この不安定さが返って厄介だ。
「抜け球が増えてきたな。」
 隣でじっと戦況を見つめていたケータローがつぶやくように言った。
「なんだよ、ボール球が多いのは最初からだろ。」
「ボール球じゃない。抜け球が多いんだ。」
「同じことだろ。」
「違う。握力が弱っている。ストレートも変化球も全部すっぽ抜けて、右打者の外角に外れているんだ。今までとは違う乱れ方だ。」
「だから、何なんだ。」
 そうこうしているうちに次のバッターも倒れてしまった。ツーアウト。崖ぷちだ。
「鈴木先生、俺を代打で出してください。」
 ケータローがいきなり直訴した。この大事な場面で2年生がでしゃばるなんて。思いもかけないことにベンチも騒然とした。
「左打者のほうが投げにくいというのか?そんな弱点、経験を積んだ奥山にはないぞ。それに、同じ左ならマサトのほうがストライクゾーンが小さい。」
「いや、マサトじゃダメなんです。ほら、時間がない。いいや。」
 そこらへんにあったバットを適当に拾うと、そのまま打席に向かい強引に代打の席に立った。
「おい、あいつ大丈夫か?これでゲームセットになったら、戦犯もんだぞ。」
 そんな心配をよそにケータローはゆうゆうと左打席に入った。
「あと一人!あと一人!」
 宮中応援団に比べたら人数は少ないが、青葉台中からも沢山の生徒が応援に駆けつけている。
「ストライーク!」
 初球はど真ん中のストレート。打ちごろの絶好球にも、ケータローのバットはピクリとも動かない。二球目はボール。これも際どく外角に外れた球で、手を出してもおかしくない。
「そうか、あいつの狙いがわかったぞ。」
 ヨウスケが言った。
「すっぽ抜けのボールを待っているんだ。フォアボール狙いだと、ボールが4つ来る前にストライクが3つ来てしまう。だが、すっぽ抜けなら1球くればいい。それがマサトではなく、体がでかいケータローが打席に行った理由だ。」
 ヨウスケの読みが当たったかのように、3球目は抜け球だった。肩口に来た球が鈍い音を立たて、ケータローにぶつかった。
「デッドボール!」
 ケータローの作戦があたった。ついに石橋先輩の前にランナーを出すことができた。だが、ランナーは一人だ。同点に追いつくには、どうしてもあと一人足りない。
「よくやったぞ、ケータロー!」
 打席から石橋先輩が満足そうに声を掛けた。それはあたかも、「一人いれば十分だ。」と言っているかのようだった。
「ホームランを狙っているんじゃないか?」
「まさか。いくら石橋先輩でも、この球場でホームランは無理だ。」
 プロ野球のフランチャイズとなった今では小さな球場というイメージのある宮城球場だが、その当時の僕たちには宇宙のように広かった。中学生の力ではフェンスオーバーなんてとても考えられるものではない。
 9回ツーアウト一塁。青葉台中スタンドからは、相変わらず「あと一人!」コールが飛んでいる。異様な雰囲気のなか、奥山が初球を投じた。
「ストライーク!」
 ど真ん中のストレートを見逃した。ホームランを狙っているなら何故振りに行かないのか。
 2球目はすっぽ抜けのボール、3球目は変化球が決まってストライクだった。
「やばいぞ、追い込まれた。」
「いや、これも作戦のうちだ。奥山にクロスファイアを投げさせようとしているんだ。」
「なんで、あいつの得意球を。」
 キャッチャーが内角によった。クロスファイアが来る!
 ガキーーン!
 歓声を切り裂く轟音が響いた。ベンチメンバーが全員グラウンドに身を乗り出した。
 強引に引っ張った打球は、レフトのポール際に飛んでいく。キレなければホームランだ。
「行けーーーー!!!!」
 ポーン・・・。
 ポールの根本にボールがぶつかった。スタンドがシーンと静まり返った。
「スタンドイン!」
 塁審が大きく右手を振った。
「お、おおっ!!!」
 静寂が一点、割れんばかりの歓声に包まれた。
「すげー、言ったとおりだ。俺が言ったとおりだっただろ。」
「別にお前がすげーわけじゃねえよ。石橋先輩がすげーんだよ。」
 興奮した僕は、持っていたメガホンでヨウスケの頭をポカポカ叩いた。
 バックスクリーンまでは120メートル。対して両翼100メートル。スタンドインを目指すなら、最短距離を狙うのが合理的だし、引っ張るならクロスファイアがおあつらえ向きだ。
 絶対にクロスファイアが来る。石橋先輩の強い信念が、同点ホームランを生んだ。
 次のバッターは倒れて勝ち越しとは行かなかったが、追いつきさえすれば、こっちのもんだと思った。奥山は初回から相当の球数を投げ込んでいる。この暑さを考えれば、疲労が溜まっているはずだ。対するシンジは途中からの登板。しかも、球数も少なくスイスイとピッチングを続けている。スタミナの差は火を見るより明らかだ。

 7回裏、シンジがこの日4イニング目のマウンドに上った。ここまでのシンジは、ポテンヒットを一本許しただけで、あとは四死球なし。ほとんどを三振でアウトに取る文字通り完璧なピッチングだった。この回も先頭打者を2球で追い込んだ。
 カーン!
 3球目はセンターに飛んだ。低い弾道だが、伸びすぎだ。センターが定位置からほとんど動くことなくグラブに収めた。
「ワンアウト!」
 前の回のホームランで盛り上がった宮中応援団からも、大きな歓声が飛ぶ。
「いいぞ、いいぞ、大野!ゴー、ゴー、宮中!」
 4回途中でマウンドを受けてから変わらぬ好投に思えたが、一人ベンチで首をひねるものがいた。
「何かが変だ。これまではあんな打球打たれたことなかったのに。」
「別に外野に飛ばされたくらいで、心配するようなことじゃないだろ。」
 いぶかるヨウスケに対して、僕は楽観的だった。
「確かに、三振を狙いに行った球だったが、打ち取ったんだから問題ないだろ。」
「そういうことじゃない。タイミングが合っている。あれは完ぺきにとらえられた当たりだった。たまたま飛んだところが良かっただけで・・・。」
 カキーン!
 打った瞬間ヒットだと思った。シンジの頭をかすめるようにした打球は、ワン版でセンターの前に落ちた。
「ほら、見ろ!」
「バカ言ってるんじゃねえよ。ヒットを打たれたくらいで、大騒ぎすんなよ。」
「バカはお前だよ。今のも完璧だ。お手本のようなセンター返しだ。」
「たまたまだろ!」
 だが、当たっていたのはヨウスケの方だった。次の打者もリプレイを見るようなセンター返しで塁に出た。
「体力が限界に来たんだ。」
「バカな。シンジは途中登板だ。球数だって多くない。それに、これまで試合で投げてこなかった。スタミナだって温存されてきたはずだ。」
「それが仇になったんだ。」
「なんだって?」
「練習で投げるのと試合で投げるのでは、使う体力がぜんぜん違う。あいつがここまで鍛えてきたのは練習で使う体力であって、試合で使う体力ではない。試合でしか身につかないものもある。特に中総体のような独特の試合では。」
 マウンドの周りに内野手が集まっている。ベンチから見る限り、シンジに変わった様子はない。
「マサト、準備だけしておけ。」
 突然、鈴木先生に言われた。
「は、はい。」
 上ずった返事をして、ヨウスケとブルペンに向かった。
 急にこの試合が自分のもののように感じられた。今までこの試合は、僕にとって観戦するものだった。あるときは評論家のように分析し、ホームランが出れば応援団と同じようにはしゃぐ。全ては他人事だった。だが、ブルペンに入った瞬間、自分がこの試合の責任を追うかもしれないというプレッシャーに襲われた。
「よし、ヨウスケ、行くぞ。」
 軽く1球投げただけでも、足がガクガク震えた。
 もし僕が投げるとしたら、春季大会以来となる。あの時も自分がマウンドに立つとは露とも思っていなかった。同点の最終回。あんなことは、二度と思い出したくないと思っていたのに・・・。
 シンジを取り囲んでいた輪がとけた。とりあえず続投らしい。ブルペンで少しだけホッとしている自分がいた。
 このままシンジが投げきってくれたらいい。連打されたのは偶然だ。そもそもシンジは勝負強い。リトルリーグ時代から、大事なところはいつも抑えてきたはずだ。
 カキーン!
 そんな願いも虚しく、レフトに痛烈な打球が飛んだ。レフトが突っ込んで捕球を試みるが、ワンバンド。サヨナラを狙って、サードコーチャーが腕をぐるぐる回している。
「バックホーム!」
 石橋先輩の大きな声が飛ぶ。レフトから素早い返球が返ってくる。
 まずい、間に合わない!
 キャッチャーの捕球より早くスライディングした右足がホームに伸びる。遅れて石橋先輩がタッチに行く。
 やられたか・・・。球場全体が、審判のコールに集中する。
「アウト!」
 宮中側のスタンドがどっとわいだ。僕もブルペンでホッとため息をつく。石橋先輩のブロックが効いたのだろう。ランナーはホーム手前でひっくり返っている。
「ツーアウト!」
 よし、アウト一つでピンチを乗り切れる。
 この勢いに乗って、シンジも簡単に二つのストライクを取った。いつもの調子を取り戻したと誰もが思った。
「ファール!」
 だが、3つ目のストライクがなかなか取れない。際どいところに投げているようだが、ことごとくファールで逃げられてしまう。
「ピッチング練習に集中しろ!」
 ヨウスケからの声が飛んだ。交代の可能性が高いということを悟ったんだろう。
「お、おう!」
 そう言って、徐々に強めの球を投げ始める。足の震えはまだ止まらない。
「ボール!」
 マウンド上のシンジは、粘られているうちにボールが増えてきた。際どいところはカットされ、ボール球は確実に見送られる。序盤のシンジにはあり得なかったことだ。
「ボール!」
 フルカウントになった。僕は一層強く投球練習をした。足の震えは止まらないが、腹をくくらなければならない。
「ボール、フォアボール!」
 満塁になった。
 再びマウンドに輪ができた。鈴木先生が送った伝令とシンジが激しく言葉をかわしている。そこに時々石橋先輩が大きなリアクションで加わってくる。
 僕はマウンドとベンチの様子を交互に見合った。鈴木先生は相変わらず腕組みをしたままだ。いよいよ出番だろうか。足だけじゃない。心臓もバクバクと破裂しそうになっている。
 シンジがブルブルと首を振った。伝令がベンチに戻っていく。シンジが交代を拒否したのだろう。
 だが、果たしてそれだけのスタミナが今のシンジに残っているのか。この回だけで30球近く投じている。そして、投げれば投げるほど、球威は落ちていっている。
「フレー、フレー、青中!フレー、フレー、青中!」
 応援の力で一気に試合を決めてしまおうと言わんばかりの、大きな声援が飛んでいる。
「ストライーク!」
 初球は空振りだった。完全に振り送れさせたのは、この回では初めてではないだろうか。もしかしたら、息を吹き返したか?
「ストライーク、ツー!」
 2球目は変化球。スライダーを見送りだ。追い込むところはでは来た。あとは三振でも、内野ゴロでもなんでもいい。とにかく一つのアウトさえすれば、この場は逃げ切れる。
「ファール!」
 前の打者と同じだ。なかなか最後の球が決まらない。
「ボール!」
 次第にカウントを整えられていく。押し出しも頭によぎる。
「ファール!」
 ストレート、カーブ、スライダー。どれも完全にタイミングはあっていないが、完全に崩すところまでは行かない。こんな時、僕だったら何を投げるだろうか。ブルペンのヨウスケが内角にミットを構えた。そう、クロスファイアだ。僕の決め球はそれしかない。仮に打たれても、それを投げておけば後悔はないだろう。
 じゃあ、シンジの決め球はなんだ。ストレート、カーブ、スライダー・・・。全部だ。全部の球が最高レベルだ。でも、それは決め球が何もないということと同じなんじゃないか。
 ツーストライク、ツーボール。スリーボールにしたくはない。マウンド上のシンジは首筋に大粒の汗をかきながら、何度もサインに首を振っている。
 ストレート?・・・いや、アウトローに決めてもカットされるに決まっている。
 スライダー?・・・いや、曲がり方を完全に見切られている。うまく合わせられたら、試合が終わってしまう。
 カーブ?・・・握力が限界に迫っているのに、うまく制御できるのか?これ以上、ボールを増やすわけには行かないぞ。
 シンジは一旦プレートを外した。サインが決まらない。完璧なピッチャーの完璧なゆえの弱点だ。
 シンジはマウンド後方に下がり、センターの方を見ながら大きく肩で深呼吸をした。そして、小さく飛び跳ねる。
「プレイ!」
 主審に促されるように、セットポジションに入った。もう心のなかで、サインは決まっていたのだろう。首を小さく縦にふると、足を高くあげた。キングスのエースとして始めて見てから、大人になるまで変わらない、あのダイナミックなフォームだ。
 シンジが選んだ最後の球が何だったか、ブルペンからはわからんかった。いや、その後の衝撃が大きすぎて、覚えていないだけなのかもしれない。
 打たれた瞬間まずいと思った。痛烈なピッチャーライナーが足元を抜けていく。センターに抜けるかと思われた打球は、マウンドでバウンドが変わった。ポーンと大きくはね、勢いが死んだ。
 それを見てセカンドがダイブする。
 ナイスキャッチ!
 頭の中ではもうイメージができていた。
 そのままセカンドがグラブトスをする。カバーに入ったショートがそれを抑え、セカンドでフォースアウトになる。そのまま延長線に突入する。奥山にも疲れが出てくる。それをとらえ打線が爆発する。その裏を立ち直ったシンジが抑える。宮中が勝つ・・・。

 多くの選手が引き上げていくなか、シンジだけはマウンドから動けずにいた。うずくまったまま、肩を小刻みに動かしている。
 彼に話しかけるものはいない。みんなあたかもそこに誰もいないかのように、無言のまま脇をすり抜けていく。試合中に誰よりも注目されていた男が、今は誰よりも存在感がない。
 きっと僕もそっとしておくべきだったんだと思う。どうしてそんな言葉を言ってしまったのか、今でも時々悔やむことがある。
「ありがとう。いいピッチングだったよ。」
 あの時シンジに言われた言葉そのままだった。別に言い返すタイミングを待っていたわけではない。ただ、他に思いつく言葉がなかった。
「もう絶対に負けねえ!」
 シンジからの返答は僕とは違っていた。
「・・・。」
 てっきり泣いているものと思っていた僕は、予想外の返事に返す言葉がなかった。シンジは立ち上がると、強い眼差して空を見上げた。
「もう絶対に負けねえ!」
 結局、マウンドに取り残されたのは僕だった。
 選手はもちろん、応援団も皆引き上げていく。誰もいない宮城球場の真ん中で、僕は仙台の短い夏の始まりを感じていた。
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