第20話

文字数 11,471文字

 誤報を連発する三流雑誌の記事でも、社会への影響は免れなかった。雑誌発売後、球団は即座にマスコミを通じてコメントを発表した。
「選手のプライベートに関しては、完全に自主性を尊重しております。今回の報道に関して、球団としてお答えできることは一切ありません。」
 以前であれば、それだけでほとぼりが冷めるまで待てばよかった。だが、インターネットの浸透が時代の流れを代えてしまった。
「おい、見てみろよ、これが炎上ってやつだ。」
 翌日出勤すると、先輩社員がそう話しかけた。先輩が見ていたのは、スワローズ球団のシンジのページだった。
「このエセ貴公子。てめえなんかペテン師だ。ずっと応援していた全国のファンを騙したんだ。」
「記者会見をして、真実を明らかにすべきである。コソコソ隠れていたら、かえって疑いが深まる。そうしない大野の人間性を疑う。」
「球団は厳正な処分を下すべきだ。だいたい話題性だけで実力のない選手をいつまで養うつまりなんだ。これを機にクビにしろ。」
「そんなことしているから、野球がうまくならないんだよ。さっさと退団して、刑務所に行け!」
「こんな形でファンを傷つけるなんて許せない。今度球場で見かけたら、ぶん殴ってやる。」
「こんな人でなし。さっさと死ねばいいのに。」
「俺の手で殺してやる。」
 普段は温かい応援メッセージで溢れているはずの交流のページが非難の嵐で溢れていた。その数はこうして閲覧している間にも次々と増えていった。
「それにしてもファンってやつは、軽薄なやつが多いね。ついこないだまで、あんなに持ち上げていたのに、ちょっとしたスキャンダルでかばう声は一つもなしだ。まあ、大野という人間がその程度のものだったということだ。」
「スワローズは何をやっているんだ。このページは早く遮断しなきゃだめだ。そうしないとどんどんコメントがエスカレートしてしまう。」
「何言ってるんだ。そんなことをしても意味ないだろ。」
 そう反応したのは別の先輩社員だった。
「世間の声が表に出るか出ないかの違いであって、そういうふうに思われていることには違いないんだから。むしろ、せっかく率直な意見を言ってくれているんだから、ありがたく聞き入れるべきだよ。これまでだったら、世間からどう思われていようとわからないままだったんだから、それよりはよっぽどマシだよ。」
「いや、こんな誹謗中傷のどこが意見なんですか。立派な犯罪だ。脅迫罪や名誉毀損罪で起訴できるレベルですよ。」
「どうやって起訴するんだよ。インターネット上じゃ、みんな匿名でどこのどいつかわからないんだぞ。」
「それは僕もよく知らないですけど、なんとかできるでしょ。逆探知機とか使って。」
「そんなの電話じゃないんだから。」
 その時、ちょうど植草社長が入ってきた。
「大野のページが炎上しているのか。うちも対策を考えないとな。」
「そんなの必要ないと思いますよ、社長。だって、うちの選手はみんな社会人としてまっとうですから。大野なんかとはレベルが違いますよ。」
「そんなのわからんじゃないか。今回の記事だって、真偽の程はよくわからん。それでも炎上するんだから、何かしらの対策は必要だろう。」
「でも、火のないところには煙は立ちませんから、大野にも何らかの落ち度は合ったんだと思いますよ。」
「そりゃ、大野にも何かはあったんだろう。でも、これからは小さな火種で大火事になる時代だ。事前に策を打たないとな。」
「でも、どうします?週刊誌を止めることはできませんよ。」
「それだな。確かに、お前の言ったとおり、ネットをシャットダウンしたところで、週刊誌に書かれてしまったら、世間の悪評は抑えようがないしな。かと言って、選手に自制を求めたところで限界があるしな・・・。」
「球団として真実を明らかにすべきなんですよ。」
 ここで初めて僕が発言した。
「隠しきれないなら、全部さらすしかないんですよ。今回の件だって、スワローズが中途半端な対応をするから、余計に変な憶測を呼ぶんですよ。」
「そりゃそうかもしれないが、でも、全部さらしたら逆効果かもしれないぞ。大野の件だって、週刊誌が全面的に正しくて、下手をしたらもっと都合の悪い事実が出てくるかもしれない。」
「いえ、大野に限って言えば、絶対にそんな事はありません。ちゃんと確認して、公表すれば、つまらない誤解はなくなります。」
「お前がガキの頃の友達を信じたい気持ちはわかるが、もう何年も会っていないんだろ。人間変われば変わるもんだ。中学の頃とは違う人間になっているよ。」
「そこまで言うなら、僕がやりますよ。」
「何を?」
「大野真司が潔白だと証明してみせます。」
「へっ!?」
「少しお時間をください。社長、シーズンオフだから2、3日大丈夫ですよね?」
「あっ!?ああ・・・。」
 社長の返事を待たずに、僕は事務所を飛び出した。

 威勢よく啖呵を切ってみたのはいいものの、これと言ったあてがあるわけではない。球場脇に止めた車に乗り込んでから、考え込んでしまった。
 最初はシンジ本人に直接電話を掛けてみようかとも考えた。アリサと同じように卒業アルバムに携帯番号を載せているかもしれない。だが、実家の母に確認してもらったが、今回はなかった。
 となれば、アリサに掛けてみるしかない。藤沢の一件以来、なんとなく後ろめたい気持ちにさいなまれて連絡を避けていた。だが、少なくともシンジと高校までは関係があり、かつ藤沢と同じ事務所となれば、彼女以上に内情を知っていそうな人もいない。
「もしもし・・・。」
「何なのよ・・・。」
 開口一番ありさの不機嫌な声が聞こえてきた。敵対的で憎悪すら感じる。
「いや、ごめん。藤沢奈々が、まさかあんな形で死んでしまうとは。僕も仕事を続けられないくらいにショックを受けてしまって・・・。君も辛かったのはわかるよ。ごめん、何も連絡をしていなくて。」
「別に、仕事上の付き合いだけだったし、あたしはそんなに・・・。」
「そ、そっか。それなら良かったと言うか、なんと言うか・・・。」
「で、今日はなんで掛けてきたの?あんたもシンジのこと知りたいの?」
「えっ、ま、まあ。そうなんだけど。」
「マサトだけはわかってくれると思ったのに。」
「えっ、・・・。」
「昨日から色んな人にそのこと聞かれて、嫌になってるの。挙句の果てに、報道陣とかいっぱい来るし。こんなときだけタレント扱いされて、プライベートもなにもないの。来週号にはあたしものことも書かれるわ。何も答えてないんだけど、どうせ適当なこと書くんでしょ。大したキャリアじゃなかったけど、あたしも終わったわ。シンジと一緒ね。」
「そ、そっか。それは、すまないことをした・・・。」
「別に。マサトは昔から空気を読めない人だったし。」
「・・・。」
「まあ、シンジもそういう所あるよね。うまく行っているときは、それがプレッシャーに強いってことになってたのかもしれないけど。」
「で、でも、俺はまだシンジはできると思ってるんだ。まだ、プロでは出し切っていないだけ。年齢的にもまだチャンスはあると思うんだ。」
「ふん、おめでたいわね。あんなやつ、もう終わりよ。変な女のヒモに成り下がってるんだから。」
「ヒモ・・・?」
「マサトも雑誌読んだんでしょ。奈々のマンションって、正確には事務所の持ち物なの。今は奈々の後輩の頭の悪い女が住んでいて、そいつと一緒にいるの。ね、気持ち悪いでしょ?」
「・・・。」
「だから、もう、連絡してこないで。あたしとシンジが終わったように、あたしとマサトの関係も終わったの。もう、中学の楽しかった頃には戻れないのよ。」
「そんなことないだろ・・・。」
 プー、プー、プー・・・。
 バックミラーには、2年目に向け改装が進む宮城球場が見える。ともに戦い、ともに笑ったあの頃の思い出が、また少し遠ざかっていった。

 仙台から車を走らせること約2時間半。久しぶりに東京に来た僕は、タワーマンションを見上げながら心の迷いを整理していた。
 アリサの話を聞く限り、シンジが元藤沢のマンションで女と住んでいるという報道は本当のようだ。テレビ時代に何度か迎えに行ったことがあり、場所はわかっている。こうなれば、直接話をつけるしかない。
 エントランスに入ると、震える手で部屋番号を押した。
「はーい、誰ですか?」
 女の声が聞こえてきた。シンジが一緒に暮らしているという、藤沢の後輩だろう。
「小島さんですか?シンジはいますか?」
 すっかり芸能界に疎くなってしまったが、愛用していたタレント名鑑はまだ手元にある。事前の調べが正しければこの女は米山さくら(本名、小島佐紀子)で、藤沢の後にドラマ出演などいくつかの仕事を引き継いでいた。だが、素行の悪さや演技力のなさが災いして、ほとんどの仕事を短期間の間に切られてしまった。今じゃ、芸能界を半ば干されていて、AV出演も噂されている。
「え、誰なの?シンジの友達?」
「はい、中学の頃からの友達です。武田といいます。」
「え、そうなの?でも、シンジ、友だちが来るなんて一言も言ってなかったけど。」
「アポ無しです。ちょっとびっくりさせてやろうと思いまして。」
「あ、そうなんだ。じゃあ、丁度いい。シンジはもうすぐ帰ってくるから。上がってきて。」
 17階のその部屋からは都内の高層ビル群を一望することができた。通されたリビングは30畳はあるだろうか。ロケーションも考えると、週刊誌の言う通り、確実に億は超える物件だろう。
「シンジの友だちに会うの初めて。彼、自分の話はほとんどしないから。やっぱり、野球つながり?」
「まあ、そんなところです。」
 週刊誌の報道で世間が大騒ぎになっているのに、見知らぬ男をよくも部屋に入れたものだ。アリサの言う「頭の悪い女」というのは、誇張ではなさそうだ。
「あれ、どこか出会ったことある?」
 小島は僕の顔を覗き込むようにじっと見つめた。髪は金髪に染められ、根本だけ黒くなっていた。部屋の中にいると言うのに、厚くメイクが塗られている。幾重にも重ねられてつけまつげは、瞬くのたびにバサバサと音を立てそうなくらいだ。
「いえ、勘違いだと思いますよ。」
「だよね。シンジの友達に会ってるわけないもんね。」
 一瞬ヒヤリとした。。本当は会ったことがある。藤沢との打ち合わせで事務所に行ったときに短い会話も交わしている。
「でもさ、え~と、名前なんだっけ?」
「武田です。」
「ああ、武ちゃんね。シンジって真面目すぎてつまんない男よね。友達すら一人もいないのかと思っちゃってた。」
「そ、そうですか・・・。」
「あたし、野球のことよくわかんないけど、あんなのばっかりやってたら、人生つまんないわよね。もっと楽しいこといっぱいあるんだから、経験しなきゃ。」
「・・・。」
「あたしなんか、芸能界だけじゃなく、いっぱい友達いるからさ。そういうところで、彼を助けられていると思うんだよね。」
 そう言うと、ゲラゲラと大声を出して笑った。上下左右の部屋にも響くんじゃないかと思うくらいに大きな声だった。
「どうしたの?キョロキョロして。」
「いや、なんでもない。」
 部屋の中はどれも高そうな家具で埋められていた。事務所が所有しているマンションとはいえ、芸能界を干されている彼女に一体どこから金が入ってくるのだろうか。
「あ、ちょうどシンジから電話があった。」
 小島はわざわざ携帯のディスプレイを見せてきた。「名前:シンジ。番号:090-xxxx-xxxx。」
「ねえ、シンジ、ちょっと聞いて。チョウうけるんだけど。シンジの友達っていう人が来ているんだよ。」
 彼女が電話をしている間に、僕は急いでメモ帳を取り出した。090-xxxx-xxxx。窓の外を向いて話している今なら、怪しまれることもないだろう。
「え!?教えない。サプライズだから。でも、チョウうけるよ。・・・。うん、わかった。じゃあね。」
「何だって?」
「もうすぐそばまで来てるって。あっ、来て来て。車が見えるよ。」
 シンジの車は初めて見るが、ひと目でそれとわかった。17階からでも眩しいくらいの派手な黄色。あれが噂のスポーツカーか。
「やっぱ、かっこいいでしょ、あれ。外車なんだよ。」
 手前の角をスピードを落とさないまま曲がると、そのまま地下駐車場へと消えていった。
 ピンポーン。
 程なくして、チャイムが鳴った。
「あっ、はい、はーい。」
 小島が子供のようにはしゃぎながら、玄関へとかけていった。
「どうしたの?早かったじゃない。」
「別に・・。」
「別にって何よ。」
 扉の向こうに二人の会話が聞こえる。
「そんなことより、誰だよ。こんな時期に友達なんか来るわけないだろ。」
「ううん。中学から友達だって言ってたよ。」
「んなわけないだろ。マスコミが友達のフリしてるんだろ。」
 シンジの声が、だんだんと近づいてくる。
「違うよ。武ちゃんは嘘なんかついてないよ。」
「武ちゃん?そんなやつ知らねえよ。」
 ガチャッ・・・。
「誰だ、出てけよ!」
 扉を開けるなりそう大声で怒鳴った。
「・・・。」
 だが、予想外に見覚えのある顔で驚いたのだろう。僕を見つめたまま、しばらく固まっていた。
「久しぶりだな、シンジ・・・。」
 10年ぶりに会うシンジは、テレビで見るのとはかなり印象が違っていた。そこにいるのは野球のエリートコースを歩いてきた将来のスター候補ではなく、街でよく見かける粗暴なチンピラだった。
「俺だよ、わかるか・・・?」
「武ちゃんって、お前・・・。」
 ようやく認識できたのだろう。だが、つまらなそうに目を背けると、そのまま奥の部屋へ引っ込んでしまった。
「何だお前か、帰れよ。」
「ちょっと、そんな言い方ないんじゃない。せっかく武ちゃんが遊びに来てくれたのよ。」
 そう言って小島が追いかけていった。奥の部屋から二人のやり合いが聞こえる。
「うっせ〜な、あんなの友達じゃねえよ!」
「ひど〜い、そんな事言うからいつも友達がいないのよ。」
「だいたいなんで、あんなやつ入れたんだよ。素性がわからないやつ入れるなよ、バカじゃねえの。」
「別にそんなのあたしの勝手じゃない。」
「勝手じゃねえよ。俺宛てできたんだから、俺の許可を得てからにしろよ。」
「はぁ、なんであんたの許可がいるのよ。」
「当たり前だろ。」
「バカじゃないの。ここ誰のうちだと思ってんの?」
「はっ!?」
「ここあんたのうちじゃないのよ。誰を入れようとあたしの勝手じゃない。あんたの許可なんか必要ないわ。」
「うっせ〜な、そういうことじゃないだろ。」
「じゃあ、どういうこと?このうちだけじゃないわ。車も服もあんたのものなんか何一つないわ。どうせあんたなんて・・・。」
「てめぇ〜・・・。」
「やめろ!!」
 険悪な雰囲気を感じて慌てて部屋に飛び込んだ。今にも小島に殴りかかろうとするシンジを、どうにか抑え込んだ。
「放せよ、お前には関係ねえだろ。」
「そういうわけにはいかないだろ。」
「どけよ!」
「暴力はよくない。」
「いてっ!」
 もみ合っているうちに、ふたりとも倒れ込んだ。その間に、小島は玄関から出ていく準備をしていた。
「もう、うんざり。あんたなんて、勝手にすればいいわ。どうせあたしがいなきゃ、何もできないくせに!」
 バタン!
 乱暴に扉を締めて、小島は出ていった。
「哀れなもんだろ。」
 シンジは力なく言った。倒れ込んだ体を元に戻すと、僕らはその場に向かい合って座った。その姿はさながらあの頃のようだった。野球部の試合終わりのミーティング、僕たちは鈴木先生の話をこんなふうに地べたに座ってよく聞いたものだった。
「何しに来た?慰めに来たのか、それとも憐れみに来たのか。」
 シンジはまっすぐに僕の目を見据えた。あの頃の力強さは失っても、その眼差しはシンジそのものだ。
「クビにはならなかったが、厳重注意だ。」
 溜息をつくと、天井を見上げた。
「まだクビになったほうがマシだったかもな。ほとんど居場所がねえ。」
 シンジは上を向いたまま話し続けた。
「なんでクビにならなかったかわかるか・・・?グッツが売れるからだ、客が集まるからだ、マスコミが注目するからだ・・・。要するに金だ。客寄せパンダってことだ。最初は期待を持って注目されていたが、今は逆の意味の期待だ。あれだけ一斉を風靡した男が、どれだけ落ちぶれたかってこと。みんな、俺の無様な姿見たくて球場に来てるんだ。パンダどころか、笑えないピエロだ。そのためだけに、球団はクビを切らなかったんだ。」
 シンジはまだ上を向いたままだ。それは僕に話しかけているようでもあり、自分自身に話しかけているようでもあった。
「野球を辞めれたほうがまだマシだった。野球以外に物を知らないし、なまじ有名になっちまったから、他に雇ってもらえるところもない。こんなスキャンダルも表沙汰になっちまったし。結局、不本意でも、笑えないピエロを演じ続けるしかねえんだ。」
 ここで、またシンジは正面を見据えた。
「つまらない人生だろ、なあ?」
 僕はすぐには答えられなかった。
 思えば10年というのは長い月日だ。僕はその間、シンジの眩しさばかりに目がくらんで、影の部分なんて思いもよらなかった。なんで中学の3年間をともにしただけで、全てを知った気になっていたんだろう。
「でも、まだ3年目だろ。年齢的にもまだ向上の余地はあるし、これまでは怪我がちだっただろ。リトルリーグ時代から、中学・高校・大学と投げ続けてきた疲労がここに来てきたんだ。それが癒えれば、まだまだやれるだろ。」
「1年目なら、まだそれが言えた。実際、俺もそう自分に言い聞かせて奮い立たせてきたさ。でも、2年目の終わりあたりから、ふと気づいたんだ。これが俺の才能の限界なんだろうなって。怪我をしていたなんて、都合のいい言い訳で、実際は実力なんだ。マスコミは、俺が勘違いして練習を怠っていたかのように書き立てているが、それも事実と違う。少なくともプロに入ってからは、人生で一番練習した。学生の頃の何倍もやった。その結果がこれだ。最初はストレートだった。これまでなら確実に空振りを取れていたストレートを簡単にカットされた。ムキになって力んで投げたら、今度はホームランにされた。力めば力むほど、球の回転が悪くなっていくのがわかった。仕方がないから、変化球に活路を見出そうとした。フォークのキレは悪くないほうだと思った。確かに、高さを間違えなければ、かなりの確率で空振りが取れた。これを中心に組み立てれば、ストレートも生きてくるんじゃないかと、希望が見え始めた時期もあった。だが、それも時間の問題だった。いつの間にか簡単に見切られるようなってしまった。どれだけ最高のコースに、どれだけ最高のフォークを投げ込んでも、見逃されてしまったら意味がない。結局、フォークとは空振りを取るための変化球なのだから。」
「なぜなんだ。それがプロのレベルと言ってしまえばそれまでかもしれないが、少なくとも学生時代のお前は無双していた。ストレートでも変化球でも、面白いように空振りが取れていたじゃないか。」
「腕の振りが違うらしい。変化球を投げるときは、腕の振りが緩むらしい。コーチに言われるまで気が付かなかったが、確かに微妙に投げ方が違っている。多くのピッチャーを映像で注意深く見てみるといい。一流のピッチャーほど、どの球種も投げ方が変わらない。どんなにいい球を投げていても打たれるピッチャーは、投げる前に球種がバレてるんだ。俺が克服できなかったのはこれだ。ストレートと変化球を同じ腕の振りで投げることができない。今まで球のキレばかりを意識して、打者から投げ方がどう見えるかなんて考えたこともなかった。これがプロとアマの差だ。」
「何度も言うが、まだ3年目だろ。年齢もまだ25だ。プロの選手でもその年齢から飛躍を遂げた人は何人もいる。弱点がわかってるなら、それを修正することもできるはずじゃないか。」
「いかにも野球を知らない奴が言いそうな正論だな。20年近くそうやって投げてきたものを、そう簡単に直せるものじゃない。むしろ、これは才能だよ。そう投げれるやつは、教えられなくてもできてしまうものさ。できないやつは、いくら練習してもできない。これは俺の才能の限界なんだろうな。残念だが、これ以上どうしようもない。」
「勝手に決めるなよ。お前ならまだやれるって。」
「お前こそ勝手に決めるなよ。俺の人生は終わったんだ。少なくとも野球人としてはな。いや、社会人としてもだめかもしれないな。こんなスキャンダルが出たんじゃ。普通に生きていくには有名になりすぎた。」
「そんなこと言うなよ。社会人としても、野球人としても終わってなんかねえよ。俺だって、野球をやめて何年も生きる意味を見いだせずにいたよ。それこそお前と同じように終わったと思ったよ。でも、イーグルスの仕事をするようになって、少しずつ光が見え始めたんだ。野球以外の何かをずっと探し求めていたけど、結局野球しかなかったんだ。お前だってそうだろ。野球を諦めたら、絶対に後悔するぞ。」
「誰にだって、夢を諦める時が来るだろ。普通の人がお前のように子供の頃に経験する挫折を、俺は今になってようやく経験しているんだ。遅ければ遅いほど悲劇だ。人生を巻き返すだけの時間がない。俺もお前のように普通の人生が良かったよ。なまじ野球がうまかったせいで、何もかもうまくいかねえ。」
「でも、俺はいつもお前の背中を見ていた。お前がいつもスポットライトを浴びていて、自分が惨めに思える日もあったよ。それでもお前の姿をいつでも支えにしてた。お前がそこまでできるなら、俺も頑張ろうと思えたよ。多くの野球経験者たちが、同じように思っていたはずだ。」
「お前なんかに何がわかるんだ。所詮、少年野球レベルしか知らねえくせに。」
「どんなレベルだろうが、真剣に野球に打ち込んだんだ。それに今は、プロ球団を経営している。プロ野球の内情だって、お前よりはよく知ってるよ。」
「だったら、球団が選手をどんなふうに見ているかも知ってるよな。結局は、見世物だ。調子のいいときだけ破格の年俸を与えて、だめになったらポイ捨てだ。お前らと違って、その後の保証がねえんだよ。」
「お前こそ何がわかってるんだ。選手と球団が一丸となって地域を盛り上げてるんだろ。」
「そんな理想論、まだ信じてるのか。プロ野球なんて、金儲けの手段に過ぎないんだよ。お前は単純だから、IT成金に洗脳されてるんだよ。」
「なんだって!?」
「綺麗事並べて、搾取してるんだよ。芸能界と一緒で、裏じゃ何してるかわかったもんじゃない。純粋なやつほど、気がついたときの落差はでかいぞ。また、藤沢が死んだときみたいに、嫌になって逃げ出すんだろ。」
「黙れ、この野郎!」
 いつの間にか二人とも立ち上がっていた。至近距離でお互いに睨み合っている。あの頃と同じで、シンジのほうが頭一つ大きい。
「ほら見ろ。本当のこと言われて、逆上している。」
「うっせえな。藤沢のことだって、助けようと思ったんだよ。」
「でも、何もしなかったんだろ。」
「だから、何だよ。お前こそ、女に逃げやがって。藤沢が死んだら、その後輩か。あんなAV崩れに入れ込んでないで、真面目に練習しろよ。だから、打たれるんだよ!」
「関係ねえだろ!」
「お前こそ、逆上してるじゃないか!」
「・・・。」
「・・・!」
 これ以上言い合っていたら、殴り合いが始まっていたかもしれない。だが、見上げるとシンジの瞳が潤んでいた。
「す、すまない・・・。少し言い過ぎたよ。そういうつもりじゃ・・・。」
「いや、いいんだよ。お前の言うことが正しい・・・。」
 そう言うと、部屋から出ていった。
「シンジ・・・。」
「もう帰ってくれ。そして、二度と現れないでくれ。もう、あの頃には戻れないんだから・・・。」
 そんなことないだろ・・・。
 肩を落としたシンジの後ろ姿に、何かを話しかけることはできなかった。

 その日以来、僕は携帯を握りしめたまま何日も苦しんだ。
 シンジに電話を掛けて説得を続けるべきか、やめるべきか。どうせ掛けたって、聞き入れてもらえずに、怒鳴り返されるに決まっている。あのときと一緒だ。僕もムキになって、罵り合いに終わるのが関の山だ。いや、むしろ電話に出てもくれないかもしれない。
 それでも、どうしても伝えたいんだ。
 確かに、俺は少年野球レベルで、お前とは住む世界が違いすぎるのかもしれない。それでも、野球をできる楽しさをわかっているつもりだし、野球をできない辛さもわかっているつもりだ。
 誰にでも壁にぶつかることはあるし、いつかは挫折を受け入れなければならない時が来るだろう。でも、それは今なのか。終わるにしても、こんな終わり方で本当にいいのか?
 綺麗事だけでは野球は語れないかもしれない。時として、実力以外の面や、金や利権が優先されることもあるかもしれない。それでも野球は野球だろ。野球が好きだという気持ちに、変わりはないはずだろ。
 子供の頃の友情はいつまでもは続かないかもしれない。大人になって、いろんなことを覚えていくうちに、いつまでも同じではいられなくなるだろう。それでも、根幹の部分は変わらないはずだ。
「俺は野球が好きだ。」
 だって、お前はシンジなんだから。
 090-xxxx・・・・。
 だめだ。ダイヤルを途中までプッシュして、またクリアボタンを押してしまった。
 これじゃ、藤沢のときと同じだ。同じところ行ったり来たりで、結局何もしない。
 あのときは、自分が正しいと信じることをやりきることができなかった。たとえ、組織を敵に回しても、たとえ、自分のキャリアを損なうことがあっても、僕は僕が正しいと信じることをやるべきだったんだ。
 もちろん、誰も僕を責めることはないだろう。悪いのは殺した犯人であり、変な組織に関わった藤沢自身だ。でも、見て見ぬ振りをしていることに、自分自身は納得しているのか。
 また同じことを繰り返すのか。いったい俺は何を恐れているんだ。シンジと言い合いになること?今度こそ完全に縁が切れてしまうこと?そんな小さなことで、俺は悩んでいるのか。今こそ俺は、自分が正しいと信じることをやりきるべきなんじゃないか。
 090-xxxx-xxxx。
 震える手でダイヤルをプッシュした。
 プルルル、プルルル・・・。
 頼む、出てくれ。
 プルルル、プルルル・・・。
 いたずらでも、マスコミでもないよ。俺だよ、俺。
 プルルル、プルルル・・・。
 頼む・・・。
「お掛けになった電話をお呼びしましたが、お出になりません。発信音の後にメッセージをどうぞ。」

 頼むよ、シンジ、電話に出てくれよ。
 俺はお前と話したいんだ。
 お前の人生は終わってなんかいない。
 野球人としても、まだやり残したことがあるはずだ。
 たとえ、お前が諦めたとして、俺はそれを認めはしない。
 お前の終わりは俺が決める。
 それまでは、誰がなんと言おうと、お前はゴールデンルーキーだ。

 それ以降、僕はシンジの携帯に電話を入れることはなかった。
 しばらくは東京に滞在していた。もしかしたら、シンジの方から電話があるかもしれない。そしたら、すぐにでも会いに行ける距離にいたいと思ったのだ。
 だが、淡い期待にすがるのもすぐに限界が来た。
 僕には僕の日常がある。彼には彼の人生がある。これまでの大半の人生がそうだったように、これからもそれぞれ別の道を歩んでいくだけなんだ。そう言い聞かせて、僕は仕事のある仙台に戻った。
「AV女優との自堕落な日々。元東北の貴公子の現在。」
「秋季キャンプでも怠慢プレー連発。コーチからは叱責の嵐。」
「秋季キャンプを無断欠席。球団からも呆れられる。」
「3日間連続無断欠席。球団も連絡が取れず。」
「薬物所持疑惑浮上。ついに警察が動きだす。Xデーも間近か?」
「今度は死亡説。藤沢と同様、暴力団とのトラブルか?」
 だが、完全に情報を遮断することは不可能だった。スポーツ紙に週刊誌にインターネット。シンジの話題となれば、どうしても目が行ってしまう。
 嘘だ・・・。全部ウソだと言ってくれ。
 なあ、シンジ。電話をしてくれ。電話をしてくれれば、それだけでいい。
 まさか、本当に死んでしまったわけではないだろ。
 俺の番号はわかっただろ。
 だから、ただ、電話をしてくれればいい・・・。
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