第17話

文字数 9,724文字

 それからしばらくは、何をしていても心が落ち着かなかった。
 確かに僕たちはなにかやましいことをしたわけではないし、法律に触れることをしたわけでもない。だが、あそこにいたのはどう考えても暴力団関係者だったし、その後の藤沢の様子を考えても、犯罪行為に近いことが行われていたと考えて間違いないだろう。僕たちはその後の彼女に接触しただけだ。
 でも、もしその様子を誰かが見ていたらどうだろう。万が一暴力団の手下が遠くで見張っていて、僕たちの不自然な行動を目にしていたら・・・。僕たちも口封じのために殺されてしまうんじゃないか。
 だが、一ヶ月が経ち、二ヶ月が経つ内に、そんな恐怖も薄れていった。これだけなにもなければもう大丈夫だろう。それに、あれだけつまらないと感じていた仕事もだんだんと面白くなってきた。藤沢の悪態は相変わらずだったが、それも以前ほど苦痛に感じなくなってきた。藤沢の別の顔を知ったからだろう。あるいは、秘密を共有したからかもしれない。
 あの日以来、あのことを話すことはなかった。それまで同様、僕たちは仕事だけの関係だったし、プライベートな話をすることもなかった。でも、あえてそうすることによって、お互いに秘密を守っている。そんな共有意識が僕たちの中に生まれていたんだと思う。
「この仕事を初めてもうすぐ1年になるんでしょ。全然成長しないのね。」
 そんな暴言も、以前とは違うふうに聞こえた。
 そんなある日だった。
 ブーーー、ブーーー、ブーーー、・・・。
 登録していない番号だったが、会社からの電話であることはわかった。出勤前のこんな時間にかけてくるなんて、あまりいい予感がしない。
「もしもし・・・。」
「ああ、武田か。」
 島田さんの声だった。ただし、それはいつもの軽いノリから程遠い、重たい口ぶりだった。
「今日は本社には出社するな。まずは、別館に来い。」
「えっ!?何かあったんですか?」
「理由は後で説明する。本館に寄らず別館に来い。」
「はい・・・。」
「誰にも見られるなよ。裏口から入るんだ。」
 僕は嫌な気持ちを抱えながら、別館へと向かった。
「失礼します・・・。」
 指示された部屋に入って驚いた。
「社長・・・。」
 入社式で遠くで見て以来、初めて見る社長の姿だった。
「君が武田くんか。まあ、座りなさい。」
 それは入社式で見た社長とは違う社長だった。あのとき新入社員の前に立った社長は、冗談を連発する気さくで気のいいおじさんだった。だが、今目の前に座っているのは、紛れもない大企業のトップだった。存在だけで人を畏怖させるようなオーラは、あの日見たヤクザの組長を思い出させた。
「藤沢奈々が半日間失踪していた日のことを覚えているな。」
 その瞬間心臓がドキンと動いた。忘れかけていた恐怖心が、一瞬にして蘇った。
「あの日は朝から藤沢とは連絡が取れず、マネージャーがいくら探し回っても見つからなかった。だが、我々の仕事の時間には遅れずにやってきた。マネージャーを伴わず一人できたのは不自然だったが、我々としては構わない。誰と来ようが仕事さえやってもらえばどうでもいいことだった。」
「・・・。」
 社長はゆっくり話し始めた。そのゆっくりした口ぶりが、僕には苦しくてたまらなかった。その日の事実関係を確認するためだけに呼ばれたわけじゃないことくらいはわかっている。
「だが、その日にあった不自然なことはそれだけじゃなかった。入社以来無遅刻無欠勤のお前が、珍しくその日は遅刻したそうだな。」
「はい・・・。」
「なぜだ?」
「藤沢を探していて、つい時間を忘れてしまったんです。」
「本当か?」
 眼鏡の奥の鋭い目が突き刺すように睨んできた。
「はい・・・、本当です。」
 あの日も島田さんに同じ質問をされ、同じように答えてごまかした。ここでもそれで押し通すしかない。
「じゃあ、質問を変えよう。」
「・・・。」
「あの日、藤沢はどこにいたんだ?」
「・・・。し、知りません。」
「お前は藤沢の居場所を知っていて、迎えに行っていたんじゃないか?」
 背中から冷や汗がダラダラと流れてきた。社長はどこまで知っているのだろうか。もしかしたら、コンビニの駐車場にいるのを誰かに見られていたのかもしれない。
「そ、そんな事はありません。」
「本当にそうか?」
「・・・はい。」
「成田の話はお前とは違っているぞ。」
「えっ!?」
「成田は、お前が藤沢と特別な連絡をとって、誰も知らないその場所を聞き出した、と。」
 そうか、成田さんから漏れたのか・・・!
 でも、待てよ。情報源は開かせないと成田さんには言ったはずだ。どうして僕が藤沢と直接連絡したことになっているんだ。
「成田さんは嘘をついています。あの日僕たちは藤沢を迎えに行っていませんし、藤沢に会ってもいません。」
 逆にあの日の成田さんの行動を知っているのも僕しかいないんだし、それを証明できるのは藤沢しかいない。
「・・・よろしい。警察に対してもそう言い切るんだ。」
「えっ!?警察・・・!?警察が来ているんですか?」
「それは俺から説明してやろう。」
 黙って聞いていた島田さんが口を開いた。
「警察が来たのは、今日の朝早くだ。事前の連絡もなにもなかったので、我々も驚いたよ。なんでも、ある殺人事件の捜査をしているそうだ。」
「殺人事件ですか!?」
「ああ、港区の運河から男性の水死体が見つかったそうだ。身元はまだ不明だが、薬物反応が出た。薬物の密売人か、暴力団か・・・。まあ、そっちの筋の人間だな。死因は銃殺。至近距離から一発打たれて即死だったみたいだ。」
「・・・。」
 段々と後悔の念が高まってきた。あれだけアリサが警告していたんだ。下手に勇気を出して近づくべきではなかったんだ。
「その後調べていく内に、近くのマンションの一室が現場として怪しいということになった。その部屋は薬物や銃器の違法取引が行われていて、警察もマークしていたそうだ。覆面のパトカーや警察官がしょっちゅう巡回していたそうだ。」
 しまった。暴力団が周りにいないことばかりに気にかけていて、警察のことなんかまるで頭になかった。暴力団がいれば、そばに警察がいることなんて、ちょっと考えればわかることじゃなか。
「その件に関して、藤沢が関係しているんじゃないかと疑われている。」
 やっぱりか・・・。彼女がマンションを出てからの一部始終を警察に見られていたのか。
「藤沢とよく似た女が事件当日にマンションから出ていくのを目撃されている。藤沢は否定しているが、ちょうど半日失踪していたあの日だ。助けたくてもアリバイがない。」
「で、でも・・・、彼女が殺人犯として疑われているわけではないですよね?」
「もちろんだ。だが、その場にいたとしたら、それだけでスキャンダルだ。もし、そんなことが週刊誌にでも知られたら、それだけでアウトだ。藤沢の芸能人としてのキャリアはおしまいだ。」
「でも、お前はその日、藤沢に会っていないんだろ。どこにいたかなんて知らないんだろ。」
 そう言ったのは社長だった。
「いや、それは・・・。」
 遅刻をごまかすための嘘だったのに、これじゃ犯罪者になりかねない。
「それでいいんだ。お前はあの日藤沢とは会っていないし、どこにいたかも知らない。俺たちに言ったことを、そのまま警察に言えばいいんだ。」
「で、でも・・・。」
 眼鏡の奥の目が、さらに鋭く光った。すべてを分かった上で、僕に嘘をつかせたんだ。
「警察が知りたいのはまさにその点だそうだ。藤沢に似た女がマンションを出た後、男性二人が乗る車に乗せられたと・・・。車種を聞くと、ウチの社用車と一緒だ。問題はそれが誰かということだ。その時車を使っていた可能性のある人を教えてほしいというのが警察の依頼だ。」
「わ、わかりました。それに乗っていたのは・・・。」
「早とちりせんでいい。」
 社長が大きな声で遮った。
「あくまで同じ車種だったということだ。つまり、ナンバーまでは確認できなかったということだ。藤沢はあの日の夜にウチのスタジオで仕事があった。そしてウチの社用車と同じ車種の車に、藤沢に似た女が乗ったということ、それだけのことだ。」
「・・・。」
「お前が遅刻したきたことはいまさら隠せない。だから、お前が社用車に乗っていたのはどうしようもない事実だ。だが、あんな車種どこにでもある。日本中の会社があれを社用車として使っている。それにあくまで藤沢に似た女だ。警察も確信は持てていない。」
「つまり・・・。」
「我々に話したのと同じことを警察に話せばいいということだ。確かに、社用車に乗っていて、あの日は遅刻したが、あくまで藤沢を探し回っていてのこと。あのマンションから出てきた女は藤沢かどうかはわからないし、仮にそうだとしても乗ったのは違う車だったということだ。」
「し、しかし・・・。」
「お前もわからないやつだな。」
 そう言ったのは島田さんだった。
「警察も確証が持てるまでは、芸能人には手を出せない。万が一誤認逮捕でもしたら、メンツに関わることだからな。警察はヤクザと一緒で、メンツを一番大事にする。一方、芸能人は好感度が命だ。逮捕までにはいかなくても、警察沙汰となれば、それだけで仕事ができなくなる。お前が黙っているだけで、誰も損はしない。」
「確かにそうですが・・・。」
「考えてもみろ。藤沢の後ろに何人のスタッフが働いていると思っているんだ。藤沢は単なるタレントじゃない。ビジネスの一部なんだ。それが破綻したら、どれだけの影響が出ると思っているんだ。それに引き換え、今回の事件は、チンピラがひとり死んだだけだ。仮にそこに藤沢がいようがいまいが、解決の手がかりにはならないだろ。他にも目撃者はいるはずなんだから、事件はやがて解決する。それに、藤沢が犯人を売ったとなれば、藤沢の身も危ない。お前だって無関係ではいられないはずだ。」
「・・・。」
「そういうことだ。わかっただろ。本館にいつものように出社しろ。警察が待っているから、おとなしく任意同行に従え。もちろん、その前にここに寄ったことは黙ってな。成田は先に行っている。同じように指示をしているから、口裏が合わないことはないはずだ。安心して行ってこい。」

「俺もずいぶん長いこと刑事をしててな。もう定年まであと僅かとなって、これまでのことをよく振り返るようになったよ。もともとはドラマに憧れてこの職業についたんだ。抜群の推理力を働かせて、事件を解決させる金田一耕助みたいになりたかったんだ。もっとも、あのキャラクターは探偵という設定だったがな・・・。でも、現実はドラマとは違うとすぐに気付かされたよ。最初の衝撃は死体だ。ドラマではきれいな姿で死んでるがな。あんなことはめったにない。大概は死にたくもないのに死んでるんだ。怨念が顔に出てるよな。それが目を見開いてこっちを見てるんだぞ。俺が殺したわけじゃないのに、そんな目で見るなよな。まったく、背筋が凍っちまうぜ。それに人間も生物だからな。当然時間が経てば腐っていく。野菜や果物だって腐れば見にくくなる。人間の場合は、その比ではない。自分と同じ生物が、腐った肉の塊になっちまうんだからな。しばらくは悪夢となって出てくるな。まあ、お前ら一般人はあんな物は見ないで人生を終えたほうがいい。精神的に追いやられるよ。でもな、普通に死んでくれるだけだったら、時が経てばなれるぞ。人間も死ねばああなるって仕方ないよなって思えるようになる。そんな俺でも、一つだけ見慣れない死体がある。それってなんだと思う?俺のようなベテランでも見るのが嫌な死体はどんな死に方だと思う?」
 港警察署につれてこられた僕は、長い時間一人で個室で待たされていた。大人が二人も入ればいっぱいになるような狭い部屋に、机一つと椅子が二つあるだけ。。時計すらなくどれだけ待たされていたのかわからない。(携帯電話は事前に没収されていた。)
 一体これからどうなってしまうのだろう。よく聞くように、強面の警察官に精神的に追い詰められて、自白の強要をさせられてしまうのだろうか。そんな中でも、社長の言いつけを守って、嘘を押し通さなければならないのだろうか。
 いろいろな不安や疑問が入り交じる中、ようやく現れた宮地と名乗る刑事は、穏やかな初老の男性だった。それこそヤクザのような威圧的な人が来るんじゃないかと思っていな僕には、とんだ拍子抜けだった。
「それはな、水死体だよ。人間の皮膚っていうのはな、水を吸い込むんだ。お前も水泳をしていて指がしわくちゃになったことあるだろ。死体となればしわくちゃどころじゃない。水ぶくれして、皮膚の一部が剥がれ落ちる。とてもそれがもともと人間の形をして生きていたものだとは思えないぞ。あれを始めて見たときには三日間まともに飯が食えなくなった。」
 ところが、この宮地刑事は一方的に話すばかりで、なかなか本題に入らない。散々待たされた僕には、それもまた警察の作戦のように思えて、かえって恐ろしかった。
「今回も運河から死体が上がったと聞いたときにはゾッとしたよ。またあれを見なきゃならないのかとね。定年まであと僅かなんだ。それで最後にしてもらいたいよな。それに、いくら悪人だって、あんな死に方は可愛そうだ。」
 そこまで話すと、タバコに火をつけた。
「お前もいるか?・・・そうか、吸わないのか。」
 宮地刑事はうまそうにタバコを、ぷかーっと吸った。小さな部屋が、白い煙で一杯になった。
「ましてや、一般人ならなおさらあんな死に方はしてほしくないよな。まあ、お前らの世界では、芸能人は一般人ではないのかもしれないがな。」
 宮地刑事の目がギラリと光った。表情は穏やかでも、長年犯罪捜査の第一線にいただけの十分な迫力があった。
「そ、そうですね・・・。」
 この芸能人が藤沢奈々を指していることは間違いない。果たして、どこまでの確証があって言っているのか?マンションを出た後の藤沢の動きをどこまで正確に把握しているのか?
「藤沢を厄介なことに巻き込ませたくない気持ちはわかる。やっぱり、仲間だもんな。どういう仕事であれ、仲間ってのは大事なもんだ。俺はそういうのは、嫌いじゃない。仲間を思う気持ちがあるからこそ、危険を犯して迎えに行った。仲間を思う気持ちがあるからこそ、今もこうして黙秘を続けている?なあ、そうだろ?」
 少しずれているところはあるが、概ねすべてを分かっているようだ。そこまで握られていて、僕にそれを否定できるだけの気持ちの強さがあるか。それとも、相手は鎌をかけているだけだろうか。
「俺も長く刑事をやっているんだ。人を見る目だけは、それなりにあるつもりだ。お前を信用して、一つ教えよう。」
 そう言うと、タバコの灰をポンと灰皿に落とした。
「藤沢は限りなく黒に近いグレーだ。いいか、お前だから教えるんだぞ。罪状は薬物取締法違反。逮捕は時間の問題だ。」
 背中の冷や汗が一層激しく流れ出した。藤沢はヤクザの抗争に巻き込まれて、殺人現場に居合わせる羽目になっていたのか・・・。
「俺はすぐにでも逮捕したいと思っているんだがな。それがあの芸能人のためだ。芸能人だから特別扱いしてるんじゃないぞ。若くて未来のあるやつは守ってやんなきゃ。それで犯罪組織から離れられるきっかけるになるんなら、早く逮捕してやるべきなんだよ。」
 藤沢はかなり深くヤクザと関わっているようだ。
「だが、警察というのは大きな組織だ。組織は大きくなればなるほど、独特の理論で動く。どんなに理不尽だと思っていも、俺も組織の一部である以上、その理論から逸脱することは出来ない。悲しいが、それが現実だ。お前だってわかるだろ。テレビ局の局員じゃなかったら、警察に捕まることなかったんだから。」
 わかっているなら、この奇妙なプレッシャーから早く開放してほしい。
「藤沢をしばらく泳がしておくことが決まってしまった。もっと大きな組織を一網打尽にするというのが理屈だ。芸能界にも薬物が蔓延しているから、他にもいるかも知れないしな。まあ、そんな事言われちゃ、こっちだって返す言葉がないよな。それが全体の利益だと言われちゃ、そのとおりだもんな。」
「でも、それじゃ藤沢は・・・。」
「わかってる。仲間を思うお前の気持ちは、よくわかってる。だからこそ、頼みたいことがある。お前にしか出来ない頼みだ。お前の先輩まで巻き込んでここに連れてきたのは、別に藤沢がマンションから出た後、お前らの車に乗ったからじゃない。そのなことはとっくに調べがついている。」
 やっぱり警察に隠し事は無用だ。最初から全てお見通しだったんだ。
「藤沢に自首を勧めてくれないか?」
「えっ!?」
 思いがけぬ依頼に声がひっくり返りそうになった。
「じ、自首ですか?」
「ああ、頼むよ。お前ならできる。」
「で、でも・・・。」
 確かに、藤沢が自首をするのが一番かもしれない。罪も軽くなるだろうし、一刻も早く保護されるには(逮捕されるには)、それ以外ない。自首となれば、泳がせておこうという組織の理論も関係がなくなる。
「でも、タレントとADでは、なんと言うか・・・、身分が違うんです。タレントはADなんて、まともに相手にしません。僕も彼女とは仕事では一緒ですけで、それ以外の接点はほとんど無いですし、ましてや、そんなパーソナルなこと、とてもじゃないけど、話せる間柄じゃないですよ。」
「関係が深くないからこそ話しやすいということもある。お前だって、親や親友だと返って相談しにくいこともあるだろ。」
「確かにそうですが・・・。」
「俺の人を見る目を信じろ。藤沢はお前のことを信用している。あの日、他人にはめったに見せない涙をお前の前では見せた。お前に心を開いている証拠だ。間違いなくお前の言葉なら聞く。」
「ですが・・・。」
「藤沢に自首をさせて助けるか、見殺しにするか。全てはお前にかかっている。」
 宮地刑事は僕の肩をポーンと叩いた。

「藤沢さん、入りま〜す!!」
 それからの藤沢との仕事は、いつもと同じようにやっているつもりでも、心の中は常に焦りでいっぱいだった。
 早く自首させなければ。
 そう思う僕は、常に藤沢と二人きりになれる瞬間を狙っていた。10分でいい、いや、5分でもいい。すべてを知っている僕なら、それだけの時間で想いを伝えられるはずだ。
 だが、売れっ子芸能人の彼女には、5分どころか5秒のスキさえもない。楽屋にいるときは常にマネージャーと一緒。移動中もSPに囲まれている。スタジオにいる時間は言うまでもない。
「お疲れさまでした〜!」
 この日も何も出来ないまま、とうとう一週間が過ぎてしまった。
 このままでは手遅れになってしまう。こうなったら、あの手を使うしかない・・・。
 プルルル、プルルル・・・。
「あれ、マサト?今度はどうしたの?」
 昔の知り合いをまた頼ってしまうとは。
「アリサ、ごめん。またお願いしたいことがあるんだ。」
「え〜、何なの、またお願いって?そう言えば、この間はどうだった。危ない目に遭わなかった。ちゃんと奈々に会うこと出来た?」
「この間は本当にありがとう。ちゃんと藤沢に会うことが出来たよ。危ない目にも遭わなかったし。その件については本当に感謝している。」
「良かった。少し心配してたんだからね。ホント、奈々って怖いもの知らずだから、近くにいるあたしまでハラハラしちゃう。マサトも絶対にそういうのと関わっちゃダメだよ。」
「ああ、わかってる。」
「良かった。で、お願いって何?」
「それなんだが、藤沢の携帯番号を教えくれないかな。どうしても直接二人だけで話がしたいんだ。」
「携帯番号って、個人携帯?」
「ああ。本当は藤沢の許可を得て教えてもらうべきで、しかも普通のADじゃ、そんなこと許されないことは知っているけど。でも、事は一刻をあらそんだ。それに、大袈裟な言い方をすれば、藤沢の命がかかってるんだ。」
「え、それってどういうこと?」
「君のことを信用して話そう。藤沢はもうじき、薬物取締法違反で逮捕される。今は捜査のために泳がされているだけなんだ、もっと大きな組織を逮捕するためにね。でも、一方でヤクザに身を狙われている。だから、藤沢に事情を話して、自首をさせるんだ。警察に捕まってしまえば、それが一番安全だ。」
「本気で言っているの?」
「警察から直接聞いたんだから間違いない。逮捕されれば芸能人のキャリアはなくなるかもしれないが、人生が終わるよりはマシだ。」
「マサト、その話本気で信じているの?」
「当たり前だろ。警察から直接聞いたんだから。」
「で、自首させるように頼まれたの?」
「そう。藤沢なら僕の言葉を聞くと、ベテランの刑事さんが言ったんだ。」
「それで、すっかりその気になっちゃったんだ。」
「な、何だよ・・・。」
「マサト、あのね、警察に騙されてるのよ。」
「何だって!?」
「警察に利用されているのよ。気づかない?」
「利用されているって、何だよ!?刑事さんは僕を信用して話してくれたんだぞ。」
「それが騙されているっていうの。いい、よく考えてみて。警察は、マサトを使って奈々の出方を見ているのよ。もし本当にやっているなら、警察に行く。もしやっていなかったら、マサトが恥をかくだけ。それだけのことよ。警察にしてみたら、何のリスクも取らずに探りを入れることができるの。」
「いや、そんな・・・。でも、藤沢は危ない人たちと関わりがあるんだろ。アリサ自身が教えてくれたんだから。それだけで十分危ないよ。」
「大丈夫。奈々はあなたと違って、そういうの慣れているから。クスリに手を出すほどバカじゃないわ。」
「でも、あの日泣いてたんだぞ。」
「そんなの何の証拠にもならないわ。泣いてたらクスリをやっているってことなの?泣いてたら暴力団に命を狙われるってことなの?」
「いや、そういうことじゃないけど。でも、絶対にあの日に何かあったんだよ。だったら、助けなきゃ。」
「ヒーローを気取るなら、勝手にやって。でも、クビ覚悟ね。大事なタレントを犯罪者扱いなんかしたら、間違いなくクビになるからね。」
「・・・わかってるよ。」
「じゃあ、その覚悟でやるのね?」
「もちろん・・・。僕は自分の正しいと信じることをやるよ。」

 でも、僕は自分の正しいと信じることをやりきることが出来なかった。
 その日以来、僕は毎晩のように携帯電話の前で苦しんだ。頭の中をいろいろな理屈が交錯していた。
 自分のキャリアを守りたいという理屈だけじゃない。社長や島田さんが言う、組織の理屈も十分に理解が出来た。どういう経緯であれ、藤沢が逮捕されたとなれば、少ならからぬ損害が各所に出る。すでに出演が決まっている映画もテレビ番組も、全てやり直しが迫られる。スポンサーが納得の行くような代役がそんなに簡単に見つかるのか。CMだってすべて解約だ。そしたら、一体何億の経済的損失が生まれるのか?その裏で働いている、何人の人が影響を受けるのか。僕や成田さんのような下っ端だけじゃない。藤沢を見出した島田さんはどうなるんだ。犯罪者を引き立てたとして、業界内で干されてしまうかもしれない。
 そんな恐ろしい引き金を、どうして僕が引かなければならないのか。
 警察にも組織の理屈があるという宮地さんの理屈もわかるが、僕にも会社という組織の理屈がある。それに歯向かってまで自分の信念を通すなら、それは宮地さんがやるべきことなんじゃないか。どうして僕が宮地さんの代わりに、リスクを負わなければならないのか。
 いや、そもそも、もし藤沢が犯罪行為に手を染めているのならば、それは藤沢自身が責任を取るべきことなんだ。単なるADが、そんな差し出がましいことをする必要はない。そこから生じる結果がどんなものであれ、その刑事的制裁も、社会的制裁も、経済的制裁も、全ては藤沢が引き受けて然るべきなんだ。
 でも、それは何もかも言い訳だった。自分が正しいと信じることをやりきらない、自分への言い訳だった。それに気づいたときには、何もかもが手遅れだった。
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