第12話

文字数 7,925文字

 ※

 ライナスはダイニングキッチンで羊肉とレタスのサンドイッチを作り、紅茶を淹れ、ハサドの前に置く。
 テーブルを挟み、真向かいに座る。
 手を怪我してからまともに食べていないようだ。ハサドはサンドイッチに飛びつき、口の中にねじ込む。
 その様子を眺め、ライナスは聞いた。
「……手の怪我は、まだ治っていないのでしょう」
 よほど腹を空かせていたのか、ハサドはサンドイッチを頬張りながら頷く。
「治療ができる者を一人寄こしましたが、役に立ちませんでしたか」
 手を怪我したハサドを世話するようにと、仲間の一人に頼んだ。
 その男はどこにもいない。
 ライナスが訪れるまでハサドはずっと隣の部屋に引きこもっていたのか、無精ひげは伸び放題で、髪はぼさぼさ、着ている服も汚れていた。
 ライナスはもう一度聞いた。
「介助は来なかったのですか」
 ハサドは胸元をどんどんと叩き、紅茶のカップをあおる。喉に詰まりかけたようだ。
「お、俺は、一人が、いい。知らない奴だから追い返した。そいつが保存食をいっぱい置いて行ったから、それを食べていた」
 口からサンドイッチの欠片がぽろぽろと落ちる。
 ライナスは飛び散った欠片を濡れた布で拭き取る。
「……今、ウェイン・ボルダーに死なれてもその手では処置できませんよ。怪我が治るまで私がウェインを世話しましょうか」
 喉に詰まりかけて懲りたようだ、ハサドはサンドイッチを小さくかじり、ずいぶん時間をかけて咀嚼した後、飲み込んだ。紅茶をすすり、ぼそりと呟く。
「なにもしなくていい。あの女はあそこで死ぬ」
 ライナスは不思議に思い、聞いた。
「なぜです。『サイードの女は俺の作品にする』。映像を観て、そう言っていたでしょう。ウェインの目は青くありませんが、髪は貴方好みの金髪です」
 ハサドの作品は金髪碧眼の女性ばかりだ。「青と金のコントラストが最も美しい」と、頬を上気させ言っていた。ウェイン・ボルダーの目は灰色だが、光の加減で銀色にも変わる。充分に魅力的だと思うのだが……。
 ハサドはしきりに首を横に振る。
「あの女は死ぬ。俺の作品にはしない」
 呪文のように繰り返す、「あの女は死ぬ」と。
「…………」
 ウェインを誘拐する前日、ハサドは地下室の映像を見て繰り返し呟いていた、――「サイードの女を俺の作品にして、サイードに見せつける」と。
 その時ライナスは「サイードの女ではなく、サイードが惚れている女です」と訂正しなかった。玩具を与えて大人しくなるならいい、下手に動かれて『新たなテロ計画』が台無しになれば、知人だけでなく関係者の不興を買い、ハサド同様己の命も危うくなる。そう考え、一言、「彼女は貴方の獲物です。好きにして下さい」と付け加えた。
 つい一週間ほど前の話だ。
「なぜ、殺すことにしたのです。指を折られたからですか。それだけで、作品への情熱が失せたのですか」
 ハサドは食べかけのサンドイッチを乱暴に置いた。歯型のついた羊肉やレタスがテーブルに散る。
「あの女は俺の作品にふさわしくないぃっ」
 ハサドは包帯を巻いた手を一方の手で庇い、小刻みに震えだす。
 寒いのか、それともウェインの影に怯えているのか。ライナスは訝りながら説得を試みる。
「作品にしなければ楽しみが半減するのではないですか。ハサドは生きている者より、死んだ者が好きでしょう。『死んだ者は口答えをしないからいい。どこまでも静かで、従順で、愛おしい』。そう言っていたと、私は記憶していますが」
 だから安心してウェインを任せていた。手の怪我が治るまではウェイン・ボルダーをどうこうできないだろうと。手の怪我がなくても格闘技の心得がないハサドが元軍人のウェインを相手に好き勝手できるとは思えなかった。
 ハサドは警戒心が強い。自分の指を折ったウェインに安易に近づかないだろうと、楽観していた。
 予想通りウェインには近づいていなかったようだが、しかし、先ほどのウェインの衰弱ぶりから察すると、監禁してからほとんど食事も水も与えていない様子だった。食事抜きでも二、三週間ぐらいはもつだろうが、水が飲めないとなると、もって五日。いつ心臓が停まってもおかしくない。いや、普通なら死んでいる。ウェインだからこそ、いまだこと切れていないのだ。
 ハサドは小刻みに震えながらヒステリックに叫んだ。
「あの女は死ぬっ。俺の作品にはふさわしくないっ」
 ライナスはようやく理解した。
 ――……なるほど……。
 ハサドはウェイン・ボルダーを恐れている。
 サイードの想い人かどうかを抜きに、作品にふさわしい容姿かどうかを抜きにして、ウェイン・ボルダー自身に強い怒りと恐れを抱いているのだ。
 ハサドは臆病で繊細な一面があり、警戒心も強い。己を傷つける者、脅かす者、否定する者、不快にさせる者、不安にさせる者……、全てを忌み嫌う。
 少しの乱暴な言葉でもハサドは容易に傷つき、打ちひしがれる。だからこそ、物言わず、ただ静かに横たわり、されるがままの死体が好きなのだ。
「俺が動くままに反応し、俺の望むままに受け入れてくれる彼女が好きだ」
 ハサドはそう言って、冷たくなった死体に口づけをし、頬ずりをしていた。
 ――……なんの反応もしない死体に無償の愛を感じているのか。
 ハサドは気に入った作品だと性行為にも及んだ。
 腐敗を防ぐため氷点下近くにまで温度を下げた処置室で、ハサドは作品になる前の遺体を抱き上げ、処置用のベッドにそっと寝かせる。
 優しく髪を撫で、白い頬に手を添え、慈しみを込めて囁く。言葉は聞こえない。
 冷たい暗室で白い息を吐きながら青白い額にキスをし、白い体の隅々まで指で、手で、肌で、唇で、舌で、吐息で、全身を使って愛撫する。白い息がハサドの口から噴き出る。
 ハサドは壊れ物を扱うように死体の青白い両足をゆっくりと、時間をかけて左右に開き、足の付け根や下腹部に顔を埋め、唇で食み、舌で愛撫する。唾液で湿らせた指を青白い両脚の狭間に入れ、時間をかけてほぐし、また顔を埋める。
 行為の最中も、目を閉じた死体を愛おしげに見つめ、頬や首筋に優しくキスをする。
 ハサドは頬を紅潮させ、己の下半身をまさぐる。苦しげに食いしばった口から白い息が煙のように噴き出す。
 ハサドは切なげな表情で遺体の名前か、もしくは愛の言葉かを囁き、滑らかな曲線を描く白い腰を両手で支え、開いた両脚の狭間へ己の腰を沈める。
 深く甘いため息が漏れる。ハサドは押しては引く波のように静かに腰を動かす。上ずった声が白い吐息に溶け、霧となって交わる二つの体を視界から隠した。
 そこまでなら死体にしか心を開けない哀れな男の痴態にすぎなかった。
 死後硬直はまだだった。ほんの弾みだったのか、体内に注がれる精液が呼び水になったのか、死体の目が開いた。
 固い蕾が花開くように閉じていた瞼がうっすらと開き、白濁した目が己の下腹部に顔を埋める男を見下ろした。
 ハサドは怯むことなく、慈しみと切なさが混じった表情で、目を開いた死体にそっと口づける。
 生と死、動と静、欲望と無私、対極にあるものが交じり逢う、瞬間。
 人間の最奥、精神性の深遠、目に見えなくとも確かに存在する世界を垣間見た。
 神という空想の産物ではなく、もっと、宇宙にも似た現実的な世界。
 死を忌避するのではなく、愛し、慈しむハサドだからこそ、到達できた領域なのか。
 ハサドの内にある“何”が共鳴し、生と死が融合する世界に辿り着いたのか。
 ハサドの内にあるもの、生育歴、環境、性質、知能……、そんな上辺だけのものではなく、ハサドの精神を形作る根幹、核となるものが知りたくなった。
 当然、嫌悪感は抱かなかった。
 行為を終え、ハサドは白い唇に己の唇を重ねる。
 消毒液に浸した布を固く絞り、疲れて眠る恋人を労わるような手つきで、爪の先、髪の先まで清め、白い体を新しい布で包む。
 どこまでも静かで、崇高だった。
 ハサドが作業に取りかかる合間も死体の目は薄く開いたままで、処置の技法なのか、白い唇は微笑みを絶やさなかった。腰まであった金の髪は伸び続け足首に届くまでになり、ホルマリンの水槽に沈められた後も艶やかな金の髪は淡い光を放ち、青白い裸身を縁取っていた。
 暗い水の中、青いライトに照らされ静かに微笑む姿は、さながら水底で眠る女神のようだった。
 これがウェインならどうだろう。
 ホテルの一室で初めて対面したウェインは、他を圧倒する威厳があった。凛とした気をまとい、背筋を伸ばし、身体の不自由さや不調など微塵も感じさせなかった。
 ウェインなら、死した後であろうとハサドが近づくやいなや、目を開き、あの鋭い眼光でハサドの首をつかみ握り潰すだろう。ちょうど、ハサドの指をへし折ったように。
 ライナスは想像し、それがまるっきりの空想でもない気がして、苦笑した。
 ――……なるほど……。それは、こわいな。
 ハサドはテーブルに散らばったサンドイッチをかき集め、口の中に入れる。
 ライナスはハサドの様子を窺いながら、深く頷いた。
 ハサドにとってウェインは拘束されていようと脅威であり、またウェインにとっても感情を露わにわめき散らすハサドは嫌悪感すら覚える敵であっただろう。
 ウェインは命乞いをするどころか、監視カメラのレンズ越しにハサドを睨みつけていたかもしれない。
 ハサドは画面に映るウェインに震え上がり、毛布に包まって縮こまっていたのだろう。手を負傷し仕事ができない状態が、ハサドの恐怖心を煽り立てたのかもしれない。
 臆病で繊細なハサドと威厳に満ち誇り高いウェイン、二人の相性は最悪だったわけだ。
 ――……ウェインは早々に片付けておくべきだったな。
 ハサドは『新たな計画』に向け、多大な貢献をした。ウェイン誘拐はハサドへの褒美だった。ハサドは警戒心が強く、他人を恐れる。だから、ハサド一人にウェインを任せておいたのだが、ウェインの世話は荷が重すぎたようだ。
 ウェインに指を折られた臆病なハサドはウェインが恐ろしく、拷問もできず、ウェインが餓死するまで部屋に引っ込むくらいしかできなかった。
 作品にするつもりがあれば健康な状態で生かしておくはず。
 『肌質、髪質ともに最高の状態に保つためには、衣食住はもちろん、十分なケアを欠かさない。それが作品の出来栄えに影響するんだ』と、ハサドは言っていた。
 そして、『何のストレスも与えず一瞬で殺さないと。苦しみや恐怖を感じた表情ではその後の処置も手間取る』のだと語っていた。
 見知らぬ男に誘拐されれば、普通の人間なら恐怖を抱く。相手が大男で粗野なら余計に。しかしハサドは一見優男で、言動も頼りなく、人質にはへりくだり献身的に世話をする。
 何も知らなければ、犯罪組織の幹部連中に顎で使われる下っ端にしか見えないだろう。これからどんな目に遭うか不安に陥っている人質にとっては、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるハサドは知能が低いけれど純真な男とうつり、信頼さえしていたかもしれない。
 実際、ハサドに不安を吐露する人質は多かった。ハサドは神妙な顔で頷き、時折懸命に慰めてもいた。
 ハサドは作品にと定めた獲物には絶え間ない愛情を注ぎ、手間を惜しまなかった。
 だから、地下室に繋がれたウェインを目にした時、驚愕した。
 まさか、と。
 すぐには目の前の状況が理解できずにいた。
 ウェインは鎖で繋いだ時のままの状態で水も食事も与えられていなかった。
 本来なら衣食住が保証され、それ以上の快適な待遇を受けていただろう。あの衰弱ぶりではおそらく、ハサドは指を折られた時から既に、ウェインを作品にはせず殺すつもりだったのだろう。
「では、ウェインが死ぬまで、あのまま鎖に繋いでおくのですね」
 ライナスは確認した。
 ハサドはサンドイッチを食べ終わり、指を丹念に舐める。質問には答えない。
 指を舐めるのに集中しているのか、答えたくないのか。どちらにしろ、ウェインは遅かれ早かれあの地下で死ぬだろう。
 ハサドの包帯がほどけている。一度も交換していないのか、汚れも目立つ。
「……食器は私が片づけます。先に包帯を巻き直しましょう」
 ライナスは新しい包帯とハサミを手にハサドの隣に移動し、包帯を替え始める。
 ハサドは大人しかった。
「できました。一度、医者に診てもらいましょう。手配しますので、今度は追い返さないで下さいね」
 ライナスは包帯とハサミをしまい、茶器を片付ける。
 ハサドは新しく巻かれた包帯に目を落とし、ぼそりと言った。
「……ライナスは、なぜ来たの。俺が引き止めた時は居てくれなかったのに。今日は、なぜ……」
 ライナスはしげしげとハサドを見下ろす。
「昨日、『様子を見に伺います』と電話で伝えたでしょう。忘れましたか」
 ハサドは声を荒げる。
「違うよ。そうじゃない。俺がここに居てって頼んだ時はさっさと帰ったくせに、どうして来るのさ。それも知らない女連れて。あの女だろう。ライナスはあの女と居たくてさっさと帰ったんだろう。なのになんで今になって来るんだよ」
 ライナスはテーブルを拭きながら答える。
「ハサドの手が気になりましたし、電話では貴方は何も教えてくれませんでしたから、ウェイン・ボルダーの様子が分かりませんでした。だから来たんです」
 ハサドは新しく巻かれた包帯に手を重ね、呻くように言った。
「ライナスは、変わった。優しかったのに。俺を馬鹿にしなかった。俺の味方だって、言ってくれたのに。俺を、俺の作品を褒めてくれた。……だから、ライナスには作品を見せたし、秘密だって打ち明けた……。……それなのに、……それなのに、……なんで……」
 ハサドは涙をこぼし、すすり泣く。
 ライナスは当惑した。
 ハサドは鼻をすすり、新しく巻いた包帯で目元を拭う。
「ライナスは、俺を認めてくれたのはライナスだけだった、俺の味方だと思っていた」
「私は貴方の味方ですよ」
「嘘だッ。嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だっ」
 ハサドは叫んで、隣の自室に飛び込んだ。バタンと扉を閉め、ガチャリと鍵をかける。
「……ハサド……、ハサド、……ハサド……」
 ライナスがノックをしても、呼びかけても返事はない。
 こうなるとしばらく出てこない。
 ライナスは仕方なく、片づけを終えるとダイニングを後にした。

 ※

 シエナは昼からずっと食べていない。夕方に一度、部屋をノックしたが、返事がなかった。
 ライナスはキッチンで遅い夕食の準備をする。
 ここに来る前に立ち寄った店で買ったファラフェル(豆のコロッケ)とシュワルマ(塊の肉をそぎ落としたもの)、それに生野菜を皿に盛り付け、パンとハーブティをトレイに載せる。
 ライナスは深いため息をつく。ハサドではなく、シエナを思って。
 ――……シエナにどう伝えようか……。
 シエナは泣いていた。ウェインを助けてほしいと、声を震わせ嘆願していた。
 返答を渋ると敵意を露わに問い質してきた、憎悪すら滲ませて。
 顔面蒼白でガタガタと震えだし、くずおれた。近づき手を伸ばすと、シエナは金切り声を上げ、床に突っ伏した。
 ――……いや、あれは私に怯えていたのだ。
 ハサドの性癖を暴露し、ウェインは大した作品にならないと揶揄した私にシエナは戦慄した。
 ライナスは苦笑を漏らす。
「ハサドはウェインを生かしておくつもりはないようです」などと伝えようものなら、恐れられるどころか、今度こそシエナは私を憎むだろう。
 ――……どう、伝えようか……。
 そう考える自分に驚き、戸惑う。
 化け物を見るような目で自分を見上げ、伸ばした手を拒絶したシエナ。
 動揺し、なす術なく部屋を出た自分。
 あんなことは初めてだった。
 シエナに拒絶されたことも、取り繕うこともできず部屋を後にしたことも。
 動転し、一人、廊下で立ち尽くしていた。
 あんな自分は初めてだった。子どもの頃を思い返しても、ない。
 ……子どもの頃の記憶……。
 友の顔ははっきりと思い出せない。
 腐って穴が開いた頬から白い骨が光っていた。それだけははっきりと覚えている。
 もう十五年も前になるか。
 学校の帰りだった。
 近くの商業施設が爆撃され、崩れた建物の下敷きになった。
 飛んできた破片で右目を負傷し、足を瓦礫に挟まれ、自力では這い出せなかった。一緒にいた友も腰から下を瓦礫に挟まれ、身動きできないでいた。
 爆撃音が響く中、友と二人、何日も瓦礫に埋もれ、声をかけ合った。
 爆撃が止み、雨が降る。夜の寒さに震え、ひたすら助けを待った。
 友は呼びかけに応じなくなり、目を開けたまま動かなくなった。友の大きな黒い目が白く濁り、長い睫毛に蝿が止まっても目は閉じなかった。
 伸ばした手は届かず、助けを呼ぶ声も雨にかき消された。
 友の体に無数の蝿が集る。眼窩から眼球がこぼれ、鼻が落ち、頬が爛れ穴が開く。友の体が腐敗し、顔が崩れていく様を、ずっと見ていた。
 一人、瓦礫から助け出され、見る影もなくなった友の亡骸を見下ろした。
 家は破壊され、瓦礫の下から家族の遺体が発見された。
 右目の視力は二度と戻らないと、医師に告げられた。
 負傷者を並べたテントから荒廃した町を見渡した。
 思えば、あの日を境に心は動かなくなった。
 全ての出来事が遥か遠くに感じられ、あらゆる存在が曖昧に見えた。
 そう、あの日を境に悟った。
 確かな物は何一つとしてない。形ある物は失われ、形なき物は移ろいゆく。
 絶えず変化し、流れ、移ろい、失われるものに執着したところで、何の意味がある。
 人の感情ですら、川のように、海のように、風のように、雲のように、絶えず変化し、流れゆく。小石一つで流れを変える水のように、木の枝一本で向きを変える風のように捉えどころがない。
 砂漠が広がる、色のない世界。細かな砂が流れていく、音のない世界。
 全てが色褪せ、意味を失くした。
 苦しいとも、寂しいとも思わない。少し物足りなくはあったが、眠った感情を揺り起こし生き急ぐ気にはなれなかった。
 何もかもが虚ろで、どうでもよかった。
 何事にも心動かされず、何物にもとらわれず、淡々と過ごす日々は心地よかった。
 己の虚無感が彼女の絶望に引き寄せられたのか、何もない世界にシエナが現れた。
 色のない、音のない、風のない、己一人の世界に、現れたシエナ。
 いつまでも消えず、そこに在り続けた。
 灰色の世界が、そこだけ、一輪の花が咲いたように色づく。
 いつかは消えるだろうと思っていたその花は、いつまでも鮮やかに、くっきりと、黒く輝いていた。煩わしいほどに。疎ましいほどに。踏みにじりたいほどに。
 そして自分は、黒く輝く一輪の花を、ずっと眺めていた。
 そうするうち、様々な感情が芽生え、生まれたての雛のように彼女を追った。
 今また、新たな感情が生まれる。この感情は――――。
 ――……早く持って行かないと冷めてしまう……。
 トレイに載せたハーブティのポットを見つめる。
 シエナに会うのが躊躇われた。また、あの目で見られたら……。
 この感情は、恐れだ。今自分は、はっきりと恐怖を感じている――彼女を、シエナを失いたくないと。
 スクリーンで観る第三者の恐怖ではなく、フィルタ一枚通して見る他人の恐怖でもない、自分自身がじかに肌で感じる明確な恐怖。今、この身に現れている異変。
 手が震え、腕が粟立つ。背中にぞくぞくする寒気を感じていた。
 ――……………………。
 ぼんやりとしか見えない右目が己の心の内を映しているようで、少しでもはっきり見えるようにと前髪をかきあげる。
 ライナスはトレイを手に、シエナがいる部屋へ向かった。
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