第6話

文字数 8,215文字

 ※

 芳しい香りにシエナはふと目を覚ました。
「気分はどうですか。なかなか起きないから薬の量が多すぎたのかと心配しました」
 医師が優雅な手つきで紅茶をカップに注ぎ、テーブルに置く。
「どうぞ。毒は入っていませんよ」
 シエナはベッドから体を起こし、ぼんやりとする頭で湯気の立つカップを眺める。
 白い壁、白い床、白い天井……。ごく普通の石造りの家だが、医師の趣味なのか、凝った刺繍のタペストリーが壁に掛けられ、床には植物をあしらったマットが敷かれている。紅茶のカップにも上品な唐草模様が施されている。
「どうして、私を……」
 さらったのですか。と聞く前に、本当に私はさらわれたのだろうか、と疑問が湧いた。
 ――……本当はさっきの診察の続きで、私は途中で眠ってしまったのかもしれない。
 それほど部屋は芳しい香りとゆったりとした雰囲気に包まれていた。
 診察室とは違い、監視員の気配はなく、監視カメラも、マイクも見当たらない。窓は鉄格子ではなくカーテンが引かれ、机と椅子だけの殺風景な診察室とは異なり、上品な装飾が施された家具が置かれ、落ち着いた色調の調度品が部屋に彩りを添えていた。
 シエナは戸惑う。
 医師は上品な動作でカップに口をつけ、穏やかに微笑む。
「先ほどは手荒な真似をしてしまい、申し訳ありません。どうしてもあなたを、シエナさんをここへ招待したかったものですから」
 医師は穏やかな表情を崩さず、どこか夢見心地で語る。
 シエナはようやく理解した、――私は誘拐された、と。
「私をさらって、どうするつもりです。……あなたは、サイードの、仲間ですか。サイードに恨みがあって、それで……」
 医師は穏やかな表情に笑みさえ浮かべ、紅茶に口を付ける。とてもリラックスしているように見えた。
「私をさらってもサイードはなんとも思いません。私は、私は、……サイードに、夫に捨てられた、のですから……」
 胸の奥がずきりと痛む。サイードへの想いは捨て去った、はず。まだ未練が残っているのかと思うと自分が嫌になる。
 信じていた医師に裏切られた、さらわれた。薬のせいか混乱し、感情が乱れる。
「ゆっくり説明しますよ。喉が渇いたでしょう。軽食を準備してあります。まずはお茶を楽しみましょう」
 医師は優雅な物腰で椅子を引き、シエナに着席を勧める。
 シエナは医師を見据え、医師が引いた椅子を見つめる。
 シエナは重い体を起こし、席に着いた。医師も真向かいに着席する。
「まず、ここに連れてきた非礼をお詫びします。シエナ、私は乱暴なことはしたくありません。貴方が大人しくここにいてくれさえすれば、丁重にもてなすつもりです。この家の中でならば自由に動いてくださって構いません。刑務所より、よほど居心地がいいと思いますよ」
 医師は紅茶を嗜みながら言う。
「……私をさらった理由はなんですか。いつまでここにいればいいのですか」
 シエナは紅茶には手を付けず、聞いた。
「そうですね、期間は二か月ほど。それより短い、かもしれません。状況次第ですね。さらった理由は、……特には……」
 意外な答えにシエナは前のめりに聞いた。
「理由なく、さらったのですか」
 医師は手にしたカップを皿に置く。
「……ある者がどうしてもサイードへの報復を訴えたものですから、止むを得ず。彼には私もずいぶんとお世話になりました。けれど、生贄はウェイン・ボルダー一人でよかったのです。私がシエナと話したくて、貴方を巻き込みました。……申し訳ありません」
 医師はすっと目を伏せる。
「…………」
 シエナは医師を食い入るように見つめた。本気なのか、冗談なのか。
 医師は視線を落としたまま物思いにふけるように語る。
「監視カメラと盗聴マイクが仕かけられた部屋では貴方とゆっくり話せませんでした。貴方も固く心を閉ざしていました。ここなら自由に、貴方は発言できる。私も貴方と思いのままに語り合える。私は貴方の真実が知りたかった。だから、ここへ連れてきたのです」
 シエナは困惑した。
 ――……わたしの、……真実……。
 医師の発言はどれもつかみどころがない。
 医師は視線を上げ、シエナの心を読んだように付け加える。
「私のことならいくらでもお話しますよ。断言できるのは、私はシエナの敵ではない、ということです。ですから、気を楽にして過ごしていただければと思います」
 シエナは冷たく痺れる指先を強く握り、問うた。
「ウェインさんは、どうなのですか」
 医師が聞き返すように首を傾ける。
 シエナはもう一度問うた。
「『ウェイン・ボルダーに会いたくありませんか』と、私に聞きました。ウェインさんを捕えているのでしょう、私と同じに」
  “思い出した”というように医師ははっとし、考えるように虚空を眺める。
「ウェイン・ボルダーはハサドが監視していますから、なんとも。ですが、ハサドは手を負傷しています。手荒なことはできないでしょう」
 シエナは食い下がる。
「ハサド、という人がウェインさんを捕えているのですね。その、ハサドという人はどういう方ですか」
 ライナスは曖昧な笑みを浮かべた。せっかく言わずにいてあげたのに、わざわざ聞きたいですか、と言いたげに。
「ハサドの弟はサイードの指示で旅客機を乗っ取り聖墳墓教会に突っ込む予定でした。ハサドは弟可愛さにサイードの計画から降りるよう引き止めたようですが、ハサドの弟はサイードに心酔していたのか、イスラエルに報復できるなら己の命などどうでもいいと思ったのか、ハサドの忠告を聞かず自爆攻撃を選びました。結局、聖墳墓教会を破壊するという目的を達成できずにイスラエル軍に旅客機ごと撃ち落とされました。
 弟が無駄死にしたハサドにとってサイードはもちろん、イスラエル軍とアメリカ軍は憎むべき敵です。サイードへの報復を強硬に唱えたのはハサドです」
 シエナは穏やかに語る医師を信じられない思いで見つめた。
「そんな、そんな人にウェインさんを任せたのですか」
 医師は困ったように首を傾けた。
「そんな人、といいますが、ハサドの弟はサイードの忠実な部下でした。偽名を使っていましたが、貴方もご存じのはずです」
 シエナは黙った。黙らざるを得なかった。
「顔を極力さらすな」という夫の命令で、夫の部下は下位の者から腹心に至るまで、指導者である夫の前であっても覆面をしていた。
 体格や声、姿勢、話し方、歩き方、……そのようなものからシエナは幹部を見分けていた。例えすれ違っても、きっと分からない。
「エルサレム襲撃計画は、サイードが各方面から協力を要請し、何年もかけて準備をしました。資金と労力はもちろん、アメリカとイスラエルの目をかいくぐりサイード自らも危険を冒し綿密に準備をしました。計画に加わった者の中には財産のほとんどをなげうち、身内を犠牲にした者もいます。その計画がサイードの軽はずみな行動のせいで中途半端な結果に終わってしまった。
 サイードへの憎しみを掻き立てる者は大勢います。ハサドもその一人です。サイードを憎悪する者たちにとってウェイン・ボルダーは格好の餌食でしょう。ウェイン・ボルダーは『サイードの想い人』であり、サイードの計画をアメリカ軍に伝え計画阻止へ多大な貢献をしてくれましたからね。今回の誘拐はサイードへの報復を強硬に唱える仲間への配慮です」
 『サイードの想い人』
 医師の口から出た言葉はシエナを打ちのめした。分かっていたけれど、改めて突きつけられた。
 お前はお飾りの妻(おんな)だ。本当に愛されているのはウェインだ。お前ではなく、ウェインを痛めつける方がサイードの痛手になる、と。
 シエナは固く目を閉じ、身体を硬くした。
 分かっていた。元夫がウェインさんの写真を大事そうに持っていた時から。人嫌いの夫がウェインさんのために離れを整え、迎えに行った時から。
 腹心ですら恐れる夫に毅然と立ち向かい、意志を曲げなかった女性。
 夫の傍にいていいのは、夫に愛されるのはこういう女性だと、思い知らされた。
 私はウェインさんの美しさを羨んでいた。指導者である夫に対峙する気高さを妬んでいた。夫に愛されたあの女性を憎んでいた、――……アノオンナサエイナケレバ……、と。
 胸の奥、閉じ込めていた傷が開く。溜まった膿がどろどろと流れ、ぶすぶすと傷口を焦がす。
 シエナは深く俯き、強く手を握りしめる。
 感情は捨てたはず。悲しみも、怒りも、希望も、全て、捨てたはずだった。なのに、夫の、サイードの名を聞くだけで過去へと引きずり戻される。ウェインという名を耳にするだけでどす黒い感情が湧きあがる。
 それがたまらなく苦しかった。
 何を勘違いしたのか、医師は穏やかに語りかける。
「大丈夫ですよ。ウェインは元軍人です。なまなかなことでは死なないでしょう。ハサドにも安易に近づかないよう、釘をさしています。すぐにどうこうはならないでしょう」
 ――……死んでしまえばいい。消えてしまえばいい。ウェインさんも、夫サイードも、私も。みんな、みんな死んでしまえばいい。二度と、その名を聞かなくてすむように。二度と思い出さなくていいように。
 シエナは冷たい両手を固く握りしめ、一点を睨みつける。
 医師はカップを置き、居ずまいを正す。
「後日、ウェインのところへお連れしますよ。まずは召し上がって下さい」
「……会いたく、ありません。どうなろうと気になりません」
 シエナは冷たい手を握りしめ、一点を睨む。震えが止まらぬ手を強く、強く握る。恐れか、怒りか、喜びか、他のもっと違う感情からか、身体が震えてしょうがない。
「……顔色が悪い。部屋を用意してあります。少し休みましょう」
 医師は立ち上がり、シエナに手を差し出す。シエナは頑なに己の手を握り、問うた。
「……私をさらって、何が聞きたいのですか。私の何が、……知りたいのですか……」
 シエナは口にしたことを後悔した。元夫を彷彿とさせる医師からまともな答えが返ってくるとは思えない。例え答えてくれても理解できるとは思えない。
 意外にも、医師は表情を曇らせた。
「……私のことはなんでも話すと、言ったばかりでしたね。……隠しごとはできる限りしたくありません。嘘もつきたくない。言葉に偽りがあれば、貴方を連れてきた意味がなくなる。私は貴方と話がしたいのです」
 シエナは言葉の真意をはかりかねた。
 医師は手を下ろし、物憂げに述懐する。
「私は貴方のことをずっと前から知っています。いいえ、私だけでなく、サイードに関心を持つほとんどの者は知っています。サイードも隠すそぶりはありませんでした。サイードは計画を成功させるために自ら囮役を演じ、己の存在自体を隠しませんでしたから。サイードが部下の反対を押しきってまで妻を娶った話は、私たちの間ではかなり話題になりましたよ。『顔に火傷の痕がある、呪われた女』。その時からずっと、私は貴方に興味を抱いていました」
 シエナは信じられない思いで医師の言葉を聞いた。
 医師は困ったように小さく笑う。
「サイードは私たちの世界では有名です。サイードが自ら救い出し、妻にと望んだ女性を一目見ようと、私は一度サイードの元を訪れたことがあります。覆面をしていて貴方は気づかなかったでしょうが、サイードは歓待してくれましたよ。私だけでなく、ウェインの誘拐を発案した知人も貴方を見に行ったそうです。他にもサイードの元を訪れた者はいたと思います」
 シエナは血の気が引くのを感じた。知らないうちにテロリスト達の注目を集めていた事実に衝撃を受ける。
 この身を辱め、貶め、絶望と憎悪を植え付けた者たちと同じ輩が覆面の向こうからこちらを窺っていた、すぐそばで。自分は何も知らず男たちに茶をもてなし、夫サイードは知っていて黙っていたと知り、ドロドロとした苦い澱が腹の底で噴きこぼれる。
 医師は思い出を辿るように、どこか上の空で続ける。
「誘拐を発案した知人は貴方を『サイードの袖に隠れ身を守る擬態女』と酷評していましたが、私は一目見て、違う印象を受けました。貴方の中にあるモノ、貴方の奥深くに宿るものを。サイードがシエナを見初めた経緯を知り、それは確信に変わりました」
 ゾワッ、全身が粟立つ。心臓に楔を打たれたような衝撃と息苦しさに襲われ、冷や汗が滲む。
 医師は、どこまで知っているのだろう。サイードは、元夫はどこまで話したの。
 『この男たちはお前が生まれ育った村を襲い、家族を殺し、お前を辱めた』
 サイードはそう言い張り、捕らえた男たちを処刑しようとした。
 処刑される男たちの誰も、シエナは知らなかった。初めて見る顔ばかりだった。男たちは直接シエナに手を出した奴らではなかった。
 しかし、「復讐は連鎖する」とサイードに銃を持たされ、シエナは男たちを射った。射ち殺して、しまった。……思い出したくもない、……後悔しかない、過去……。
 銃の重みが、吹き飛んだ頭が、べとつく血が、血だまりに沈む肉の塊が、目に焼き付いている。
 己の存在とともに消し去りたい記憶だ。隠してきた罪を暴かれ、醜い本性を見抜かれ、血の気が引いていった。
 医師はシエナをなだめるように優しく打ち消す。
「サイードは貴方の中に宿る破壊衝動に惹かれたようですが、私は違います。私は、人生が根底から覆されるような目に遭ってなお、凶悪な衝動を他者にも己にも向けることなく、その身に閉じ込める貴方に興味が湧いたのです」
 シエナは不信感を露わに医師を凝視する。
 医師は念を押すように、もう一度言った。
「そう、貴方は己を殺さず、他者をも殺さなかった。ただ、貴方を傷つける者、過去を想起させる者にのみ、その刃を向けるだけでした」
 医師は不思議な笑みを浮かべる。
「私はサイードの計画には加わらず、また今回の誘拐にも与するつもりはありませんでした。けれど、知人からウェインをさらってハサドに与える話が出た時、『それならばシエナを私に下さい』と要望しました」
 シエナは呆然と、医師が紡ぐ言葉を聞いた。
 医師が嘘偽りなく語っているのは、分かる。しかし、話の内容が、霧を掴むように、水をすくうようにあやふやだ。
 医師はどこかすっきりした表情で言った。
「貴方を無理やり連れてきた償いにはなりませんが、ハサドが許すならば、ウェインの心臓を止める役割は貴方にさせてあげますよ。それでは足りないというなら、ウェインを処理する前に時間を取ります。不満でも恨みごとでもぶつければいい」
「……な、にを……」不穏な言い回しに声が掠れる。
 医師は微笑み、はっきりと頷いた。

 ウェインは息苦しさに目を覚ます。
 首にはめられた金具に体重がかかり、首を圧迫していた。
 上体を起こすと、ジャラッ、張っていた鎖が音を立てて背中に垂れる。
 腰をひねり、顔を後ろへ向ける。
 首の金具は壁の上部に取り付けた金具と鎖で繋がっていた。
 後ろ手に手錠をかけられ、両足首も膝を折り曲げた形で枷をはめられ、足枷と手枷の鎖部分を交差させているようだった。
 両手を動かせば両足が引っ張られ、膝を伸ばそうとすれば両腕が捻じられる。
 どれくらい意識を失っていたのだろう。
 大腿から足の裏まで痺れと痛みで力が入らず、体を支える膝が揺れる。繋がれた手はかじかみ、金具で皮膚が擦れる。肩が軋み、背中は強張り、腹に差し込むような痛みを覚える。
 息を吐く度に胸がギシギシと軋み、唇が震える。
 喉が灼ける渇きに、身動きできない苦痛に、突き上げる吐き気に、冷や汗が流れる。
 薄暗く窓一つない、コンクリートの一室。天井の三か所にカメラが取り付けられ、壁面にかけられたランプが辺りを照らす。
 人の気配はせず、物音もしない。食料もなく、水もなかった。
 ランプの灯りは囚人の精神衛生を考えてではなく、三つのカメラで監視するためだろう。
 ――……イーシンは、助かったのか。
 エディがいるホームへ向かう車中、助手席にいた男がスプレーを噴射した。男の手を封じ指の骨を折り、男を運転席に引き倒した反動でイーシンに体当たりし車外へ突き飛ばした。
 自分は逃げられない、それならイーシンだけでも、そう思い。
 イーシンは無事だったろうか。戦闘経験があり、狙撃の腕もたつ。外見も言動もうさん臭いが、あれで数々の修羅場をくぐってきた。滅多なことでは死なないと思うが……。
 ――……勝手なことをしたと、怒っているかもな。
 癇癪を起こすイーシンが目に浮かび、小さく苦笑いする。
 二人いるうちの一人は指をへし折った。鎖で繋いだのは、ライナス。
 なぜ、私をさらった。背後に誰がいる。ライナスはサイードに関わる者か。……カーニヒ大佐の紹介で来たと言っていたが……。
 ざれ言か、それともライナスはアメリカ軍内部に潜り込んでいるのか。カーニヒ大佐は気づいていないのか。そこまで愚鈍だったろうか。……もし、知っていて協力したなら……。
 ……そんなはずはない……。疑心を振り払う。
 カーニヒ大佐はテロリストを憎んでいる。アメリカに盾つく者を憎んでいる。軍と国に忠誠を誓う、生粋の軍人だ。カーニヒ大佐は無実だ。
 ……ほんとうに、そうか……。ぷくりと疑心が生ずる。
 あの時、ホテルのリビングで二人きりで話した時、カーニヒ大佐は何と言った。
 『アメリカの敵となる者は全身全霊をかけて叩き潰す』
 憎悪をたぎらせ、カーニヒはそう断言した。
 〈我々は無限だ。二百年、五百年、千年経とうと途切れることなく、この地が滅びるまで、世界各地、あらゆる場所で生まれ続ける〉
 そう言ったサイードと、
 『アメリカはテロに屈しない。何千何万の蛆虫が湧き出ようと必ず根絶やしにする。アメリカにはその力がある』
 そう断言したカーニヒが、写し絵のように重なった。
 その瞬間、
 〈アメリカと我々は合わせ鏡、似た者同士だ〉
 サイードの言葉が雷鳴のように轟いた。
 己を支えていた礎が音を立てて崩れていった。
 どっしりした大きな岩盤だった。天高くそびえ立ち、ひび一つなく生気に満ち溢れた柱でもあった。疑いようのない信念、目指すべき理想、己のあるべき姿……。まばゆい要素で凝縮され、ひ弱な自分を支えてくれた。
 戦争が長びき、戦友が次々と倒れ、国が一つ荒廃した。救うべき人々に憎悪の目を向けられ、石を投げられても戦った。正義の先にある平和を信じて――。
 戦争は終わらず、犠牲者は増え続けた。国土は荒れ果て、戦いは激しくなった。己を支えていた揺るぎない信念はひび割れ、欠けていった。ボロボロになった礎の最後の一欠けらが壊れないよう、必死に守ってきた。
 己の生きる意味だった、安らぎを与えてくれる場所だった、互いの命を預け合える強い絆があった。
 それが跡形もなく崩れ去った。
 自分は何のために戦い続けてきたのか。何を信じ、よりどころにしてきたのか。親友の死を振り切り、己の命をかけ、戦友の死を乗り越えてまで守ろうとしたものは――――。
 まだ十代だった、学生でもなかった。二十代だった、結婚もしていなかった。
 大学に行きたいと言っていた親友は、戦場での体験を苦に自死した。
 今年のクリスマスは家族と過ごしたいと語っていた戦友は、路上に仕かけられた爆弾であっけなく散った。
 多くの仲間が心身を損ない、命を落とした。
 彼女たちの、彼らの死を背負い、国を守るため、軍を守るため、平和のために戦った。彼女たちの弔いになると信じて、第二、第三の彼らを生まないためと信じて。
 ――戦争を終わらせるために、守るために戦ったんだ。殺すためじゃない。
 ……それなのに、どうして、大佐であるあなたがテロリストにかさなるのですか。
 しんゆうは、せんゆうは、なかまは、なんのためにしんだのですか。
 …………ワタシハ ナニヲシンジレバ ヨカッタノデスカ…………………………。
 熱いものが込みあげ、じわりと視界が滲む。抑え込んでいた感情が溢れ出し、弱った精神を切り刻む。
 小さく息を吐き、静かに目を閉じる。
 ――……もう、何も考えたくない。
 このまま、しずかに逝くのもわるくない。
 なぜさらわれたのか。ここがどこかも、敵の正体も目的も何も知らないまま、余計なことは考えず、ただ静かにその時を待つ。……それでいい……。
 静かな呼吸を繰り返し、暗がりに沈む。
 一滴の涙が、ぽとりと落ちた。

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