第17話

文字数 5,856文字

 時計は夜の七時を回る。
 アーロンとマルクは夕食をすませ、二階の部屋でそれぞれ休憩中だ。イーシンも食堂と売店が一つになった店で夕食をすませ、病室に戻った。
 シエナはウェインが治療を受けている病室の前に二つ並べた椅子の一つに座り、動かない。
 イーシンはチャンク(肉と豆を煮込んだ料理)と三つ編み型のパンが入った紙袋をシエナに差し出す。
「夕食がまだでしょう。近くのお店で買ってきたの、食べて。二階の部屋とシャワーを貸してくれるから、もう休んで」
 シエナは紙袋を受け取らず、ウェインが治療を受けている扉を見つめる。
「ここにいます。ウェインさんが目を覚ますまで待ちます」
 イーシンは曖昧に笑った。シエナの手を取り、紙袋を持たせる。
「私が見ているわ。ウェインが目を覚ましたら教える。シエナさんは休んで。あなたまで倒れたらウェインが悲しむ。私も悲しい」
 シエナは両手に持たされた紙袋に視線を落とす。沈んだ表情で紙袋を受け取り、黙って二階へ上がって行った。
 イーシンはため息を一つつき、シエナが座っていた隣の椅子に腰かける。
 ウェインはいつ目を覚ますか分からない。もしかしたら、もう駄目かも……。
 とは、言えなかった。
 心臓が動いているのが不思議な状態だ。
 窓の外をそれとなく眺める。
 巨大な月が夜空に浮かんでいた。月光が明るく、星は見えない。
 いつも騒がしいマルクもウェインの状態を察したようで、いつもなら「全然足りん」と文句をつける豆と肉を煮込んだスープとパンを無言でたいらげると、さっさと二階に上がって行った。
 イーシンはぼんやりと月を眺める。
 ふっと影が差し、アーロンが隣に座る。
「……シエナさんと交代したばかりだから、まだいいわよ」
 アーロンが怪訝そうに顔を近づける。イーシンは上体を反らし避けた。
「なによ」
「……大丈夫か。イーシンが『分かったことがあったら教えて』って言ったんだぞ」
 イーシンは視線を横に流し、ああ、と小さく呟く。
 完全に忘れていた。
 三日間徹夜しぶっ倒れたアーロンを車に乗せ、メモを手に車を走らせる道中、いびきをかくアーロンを揺さぶり起こした。
「シエナの居場所以外に分かったことがあれば教えて」
 アーロンは、「……あとに、……して……。……たのむ……」と黒目を引っくり返し、ガクンと眠りに落ちた。
 メモに書かれた場所に近づき、アーロンを叩き起こし、シエナを探し当て、ウェインを病院に連れて行った。
 ――……そういえば、シエナさんにも話を聞いていない。
 イーシンは会話もそこそこに紙袋を渡し、シエナを二階へ行かせたことを悔やんだ。
 どうも、頭が働かない。ぼんやりと靄がかかっている。
 イーシンは額を押さえる。
「忘れていただろ」
 アーロンは恨みがましくイーシンをじっと見る。
 イーシンは答えず、話を促す。
「……何か分かったなら、教えて」
 アーロンは背中を向けぶつぶつ言っていたが、座り直し、話し始める。
「まず、シエナの体内に埋め込まれた送信機についてだ。従来のタイプと違い、送信された信号はGPS衛星が受信し、位置を測定できるようになっていた。このタイプは受信範囲に制限がなく、地球上のどこにいても居場所を特定できる。監視対象者の行動を常時把握できるだけでなく、監視対象者が行動範囲を逸脱した場合は送信機を通して体内に電流を流し処罰できる。だが、この方法は人権侵害の観点からいまだ実現されていないはずなんだ。ここで疑問が一つ。
 承認されていない体内へ埋め込むタイプの監視システムを、なぜ本人の同意なく、シエナに採用したか。シエナは刑務所に収監され常時監視されていた。通常なら送信機を取り付ける必要がない。シエナが刑務所を離れることを前提に取り付けたとしか考えられない。問題は、いつ、誰が、なんのために取り付けたか、だ」
 イーシンはぼんやりと答える。
「カーニヒね。ライナスがシエナさんを連れ出した後、カーニヒが引き継いだと聞いた。送信機を取り付けるとしたらその時。意識がないシエナさんにカーニヒは注射器で送信機を埋め込んだ」
「俺も同じ意見だ」
 イーシンは続ける。
「足首、もしくは手首に巻き付ける通常の送信機を使わず、体内へ埋め込むタイプを選んだ理由は、ライナスに気づかれないため。カーニヒとライナスは完全な協力関係にはない」
「そうだ」
 アーロンはまた大きく頷いた。
 イーシンは更に続ける。
「ウェインの両手首、両足首、そして首にも拘束の痕があった。ウェインの拘束を外し、銃を奪い、ウェインを連れ出す、シエナさん一人では難しい。ライナスがシエナさんとウェインを逃がした、と私は考えている」
「俺も同意見だ」
「シエナさんはウェインを支えながら砂漠を歩いて逃げたのよね。敵が大勢いた場合、シエナさんとウェインが逃げた時点ですぐに追いつかれて連れ戻されると思うの。無事に逃げおおせたことを考えれば、ウェインとシエナさんを監視していたのはライナスを含めごく少数。もしかしたらライナスとハサドの二人しかいなかったのかもしれない」
「……うーん、逃がすなら、なんで誘拐したんだ」
 アーロンは頭をガシガシと掻く。フケがパラパラと散った。
 イーシンは椅子ごと横へ飛びのいた。
「お風呂入ったっ、シャワー浴びたっ。汚いわよ」
 アーロンがじっとりと恨めしそうにイーシンを見据える。
「三日三晩働かされたうえこんな砂漠の端っこまで連れて来られたんだぞ。シャワーを浴びる暇があると思うか」
「ここに着いてから今まで何をしていたのよ。シャワーを浴びる時間ぐらい――」
「寝てたんだよっ」
 アーロンの声がシンとした通路に響く。しまったとばかりにアーロンは口を塞いだ。
 イーシンはフケがかかっていないかと腕をささっと払い、アーロンから離れた位置で話を戻す。
「シエナさんとウェインを逃がした理由、ね。ウェインは誘拐されてから身体を拘束され、食事も水もろくに与えられていない。旅客機を爆撃された仕返しとも取れるけれど、それだとシエナさんをさらう理由が分からない。新たなテロ計画に使う目的ならウェインを衰弱するまで放置する理由がない。サイードへの報復ならウェインだけでなくシエナさんも拷問するだろうし、ただ殺したいだけならとっくに殺していたはず。行動に一貫性がないのよね。ライナスとハサドの思惑が決裂したとも考えられるけれど、……思いつきで誘拐したんじゃないかしら」
「はあぁ」
 アーロンが口をあんぐりと開ける。紙くずを投げたら入りそうだ。
 イーシンは考え事をするように頬に手を遣り、アーロンの口に入れるゴミが落ちていないか探した。……残念ながら見当たらない。
 イーシンはアーロンに顔を向け、ずばり聞いた。
「結局、ライナスは何者なの」
 アーロンは腕を組み、うーんと唸る。
「それが、何にも出てこない。不思議なくらいにな」
 イーシンは疑いの眼差しでじぃっと見る。
「情報収集のプロが調べても分からないの」
 アーロンは身ぶり手ぶりで弁解する。
「本当に何も出てこないんだ。ライナス・シュルツについて調べたが、テロリストの片鱗もないし、イスラエル軍関係者であった経歴もない。三年間の兵役は終えているが、これはイスラエル国民の義務だ。特別おかしいことじゃない。家族にも軍関係者はいない。ごく一般的な家庭に育ち、兵役を終えた後、国立大学に進み、医師になったごく普通の一般人だ。患者の評判もいい。
 ハサドも同じだ。ガザ地区出身で、引きこもり傾向がある二十代男性。弟とは五年以上前から疎遠になっている。住まいは電気が通っておらずテレビや電話もない。携帯も契約していない。
 旅客機を乗っ取り撃墜されたハサドの弟、ジャミルについても調べてみた。五年以上前にガザを離れてから一度もガザに帰った形跡がない」
 イーシンはアーロンに疑いの目を向ける。
「……ハサドは五年以上疎遠になっている弟の死を嘆き、誘拐を計画したってわけ」
 アーロンは首をすくめた。
「確かにおかしいよな。ハイジャックしたメンバーはまだ報道されていない。ハサドはどうやって弟が飛行機をハイジャックして聖墳墓教会に突っ込むことを知ったんだろうか。弟が手紙か、仲間に言伝を頼んだのかな」
 イーシンは冷ややかな視線を向ける。
「仲の悪い兄に近況報告をすると思う。それもテロ計画を。仲間に知られたら兄弟もろとも抹殺されるでしょう」
「だよな」
 アーロンはひょいと肩をすくめた。
「他にも引っかかることがあってだな」
「なに」
 アーロンが目をつぶり、「……うーん……」と唸り、前屈みになる。言おうか言うまいか、悩んでいるようだ。
「早く言いなさいよ」
「……新たなテロ計画があると言い出したのは、イスラエル軍中将リュディック・タイラーなんだ。カーニヒ大佐にライナスを紹介したのもイスラエル軍中将リュディックだ。中将はどこでその情報を入手したのか、これもいくら調べても分からない。
 俺はサイードに関しては誰よりも情報を掴んでいる自信がある。その膨大な情報量と情報収集力を買われてアメリカ軍と協力関係になった。
 『元アメリカ中央情報局(CIA)所属アーロン・スタイナーは、情報収集力にかけては他の追随を許さない。アーロン・スタイナーはアメリカ空軍大佐の依頼を受け、アメリカ軍と協力し、エルサレム襲撃事件を調査する』。
 カーニヒ大佐がそうイスラエル軍に俺を紹介してくれたおかげで、俺は司令部会の議事録を読むことができるんだ」
 イーシンは自慢し始めたアーロンを白い目で見る。
 アーロンは慌てて続ける。
「カーニヒ大佐がいなけりゃ、アメリカ軍内部の情報を引き出した俺はとっくに刑務所の中だ。死ぬまでずっとな。カーニヒ大佐が俺の能力を評価して、『アメリカ軍に協力するなら不問にする』と言ってくれたんだ。イスラエル軍にもこのことは伝えていない」
「……へえ、それは良かったわね……」
 イーシンは完全にしらけた。
 アーロンはムキになる。
「だから、イスラエル軍にも俺みたいなのがいるんじゃないか。アメリカ軍が裏事情を知らない、イスラエル軍と協力関係にある奴が。それがライナスとハサドなんじゃないかと」
「さっき、ライナスはごく普通の一般人、ハサドは引きこもりって言ったわよ」
「だから、実は凄腕のスナイパーだとか、二重生活を送るスパイだとか、生き別れた双子がいる、とか……」
 イーシンは呆れた。
「本人に成りすました全くの別人って方がよっぽどしっくりくるわ」
 ガタッ。アーロンは腰を浮かし、わなわなとイーシンを指さし、叫んだ。
「それだっ。それだよ、イーシン。間違いない。絶対そうだ。テロリストが化けた偽物だよ」
「声が大きいっ」
 シィッとイーシンは人差し指を口に当てる。
 アーロンは頬を上気させ、イーシンの両肩をがっちり掴む。目がギラギラし、妙に汗ばんでいる。
「それだ、それだよ。どうりで調べても出てこないはずだ。俺の腕が鈍ったのかと心配してたんだ。俺の情報収集力は変わってない、健在だ。あはっ、あはは……」
 アハハとアーロンは上向き、ぐっとこぶしを握り、椅子にどっかりと座る。
「なんだあ、そうかあ。偽物かあ」足を組み、何度も頷く。
 ――……この期に及んで自分の心配。相変わらずクズね。
 イーシンは呆れて怒る気力も出ない。
 アーロンはくつろいだ様子で頭をボリボリと掻き、フケをパラパラと落とす。
 イーシンは慌てて肩や腕に飛んできたフケを払い、椅子の肘置きを払った。
「じゃあ、なに、ハサドの死んだ弟も別人が化けた偽物だったわけ。ハサドもライナスも。そんなそっくりさんが都合よく何人もいる。上手く変装したって生体認証技術に秀でたイスラエル軍とアメリカ軍のセキュリティシステムをかいくぐるなんて不可能よ」
「いやっ、でも、絶対そうだって。テロリストがライナスとハサドを装って行動しているって考えないとつじつまが合わない。どんだけ調べても二人とも本当にごく普通の一般人なんだ。二人は幼馴染だったとか、ハサドがライナスの患者だったとか、接点もない」
 イーシンは半ば呆れて言った。
「いいの。ライナスとハサドが本人を装ったテロリストだとしたら、イスラエル軍中将もテロリストの可能性が高いってことよ」
「What?(なんだって)」
 アーロンがあんぐりと口を開けた。
 イーシンは意地悪く笑う。
「『新たなテロ計画がある』。そう言ってイスラエル軍中将がライナスをカーニヒに紹介したんでしょう。充分、怪しいと思うけれど。もしかしたら他にも何人かいたりして」
 アーロンが蒼白になる。
「カーニヒ大佐が危ない」
「大丈夫でしょう。例え中将がテロリストだとしても、表立ってアメリカ空軍大佐をどうこうできると思えない」
「そうは言っても、カーニヒ大佐が危険なのに違いはないだろ」
「カーニヒのことはどうだっていい。新たなテロ計画もね。今は、ウェインの回復が最優先よ」
 アーロンはおろおろする。
「大変だ、カーニヒ大佐に知らせないと」携帯を手に立ち上がる。
 イーシンは銃口をアーロンの脇腹に押し付けた。
「……え、な、なに、……なんの、冗談、……」
 アーロンが震える手で脇腹に押し付けられた銃を指さす。
 イーシンは薄く笑った。
「あなたがカーニヒに連絡したら、私たちの居場所がバレるでしょう。大人しく座っていてちょうだい」
 アーロンは青ざめ、すとんと椅子に座った。

 シエナは眠れなかった。
 ベッドから起き出し、ランプを手に階下へ下りる。
 一階一番奥の病室の前に並べた椅子に、男性が二人座っている。
 イーシンとアーロンだ。
 アーロンは椅子から転げ落ちそうなほど体を大きく傾け、いびきをかいている。
 イーシンは静かに座っている。月明かりに照らされ、静寂に浸るイーシンはどこか近寄りがたかった。
 シエナは立ち止まり、気づかれないようにと息を凝らす。
 目が合う。
 イーシンは何も言わず、顔を背ける。
 入っていい、と許された気がした。
 シエナは扉を開け、ウェインがいる病室に入った。
 室内は照明が消され、手に持ったランプの灯りがやけに明るく感じられた。
 テーブルにランプを置く。
 オレンジ色の灯りが青ざめた顔を照らす。
 窪んだ目、削げた頬、尖った顎、……小さくなった顔にまとわりついた黒い首が、不吉だった。
 ――……もっと早く、助けていれば……。
 ごめんなさい。
 シエナは涙をこぼし、祈る。
 ――……ウェインさん、どうか、生きて……。
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