第15話

文字数 4,432文字


 ※

 風が出てきた。
 足元の砂がさらさらと流れ、腰に下げた懐中電灯の灯りがゆらゆらと揺れる。
 シエナは息を切らし、歩き続ける。
 腕は痺れ、力が入らない。首も肩も、背中も腰も、痛い。
 ウェインの濡れた髪が冷たい風にさらされ、シエナの首筋に触れる。掴んだウェインの腕は冷たく、体も冷えきっている。暑い日中を過ごす薄い服ではウェインの凍えた体は温まらない。
 弱りきったウェインを連れ出してよかったのかと、シエナは後悔した。
 ――……どうしよう、死んでしまう。……このままじゃ、私ももたない。
 風に砂が混じり疲れた体をむち打つ。軟らかい砂地を一歩進む度に、二人分の体重が膝にかかる。
 ウェインが重い。どんどん重くなっている。
 シエナは経験から知っていた、――死んだ人間は重い、と。
 シエナは耳を澄まし、ウェインの息遣いを聞き取ろうとした。ウェインの胸元に触れる体の右半分に意識を集中させ、鼓動を感じ取ろうとした。
 吐息は聞こえず、鼓動も感じ取れない。
 ウェインは固く目を閉じ、シエナが小石につまずいても、ガクンと体がずり落ちるだけだった。
 静かすぎて、怖い。まるで……。
 よぎる不安に身がすくむ。
 ――……私しか、ウェインさんを守れない。
 そう言い聞かせても、冷えきった体は動く気配がない。固く閉じた目は睫毛一本動かない。目と鼻の先でも吐息を感じ取れず、歩く度にずり落ちるウェインに、シエナは言いようのない恐れを抱く。
 ……もう、しんでいるかもしれない……。
 今、手を離せば、置いて行けば、この重みから解放される。
 手がかじかんで、腕が痺れて、力が入らない。首が、肩が、背中が、腰が、両脚が、膝が、ふくらはぎが、足の裏が、痛くて支えきれない。
 呼吸を一つする度に胸が縮み、体が悲鳴を上げる。
 手を、離してしまおうか。誰もいない。責める人はいない。大丈夫、誰にも分からない。
 骨ばった腰を支える手を少し浮かせれば、細い腕を掴む指を少し緩めるだけで、この苦しみから解放される。それだけで、……望みどおりになる。
 ウェイン・ボルダー。
 今、必死に支えているこの女性を憎んでいた。関わりたくないと、顔も見たくないと、死すら願っていた。美しく、気高く、強い、女性。
 自分にないものばかり持っていた。ちっぽけな自分とは違いすぎて惨めになった。
 その人は今、髪も肌もぼろぼろで、痩せ細り、自分よりもはるかに弱く、脆く、消え入りそうだった。
 今手を離せば勝手に死んでくれる。置いて行くだけで、死ぬ。心の底から憎んだ女性がこの世からいなくなる。
 そう分かっていて、手を離せなかった。歩みを止められなかった。
 ……ずっと、闇の中で空を見ていた。美しいものを妬み、輝くものを呪い、暗闇に沈む醜い己を憎んだ。
 己だけが惨めで苦しいのだと、己以外のもの全てが光の中にいる気がしていた。
 けれど、闇に沈む己の足元に、己よりもはるかに弱く、儚いものがいた。抗う術もなく、静かに沈んでいった我が子と同じ……。
 母の胎(はら)に宿れず、人の形を成さず、母の腕に抱かれることもなく流れ堕ちた子どもたち。触れることも、泣くことも、視ることもできず、名前すら与えられず逝ってしまった。
 床にくずおれたウェインは体を丸め、両手を後ろに向け、脚を折り曲げ、薄く目を開けていた。その姿が血だまりに沈む我が子に、打ち捨てられた幼い弟に重なった。
 だからなのか、手を離せなかった、歩みを止められなかった。
 諦めてしまえば簡単に死んでしまうと分かるから。
 自分にしか、守れないと分かるから。
 ――……こんな、わたしにしか……。
 砂が混じった風のせいで星は消え、月の光は遮られ、闇は一層濃くなっている。
 暗闇が怖い。
 一人なら逃げ出している。全部かなぐり捨てて走り出している。目を瞑り、耳を塞ぎ、泣き叫んでいる。きっと一人なら、動けなくなって震えている。
 体に触れる感触が、両肩にかかる重みが、自分を支えてくれていた。一人ではないと、この現実に引き止めてくれる。幻影を遠ざけ、暗闇から引き戻してくれる。
 ――……ウェインさんだけでは無理。私だけでも無理。二人でなければ夜の砂漠を越えられない。
 シエナはウェインの腕をしっかりと掴み、ウェインの腰を支える手に力を込め、腰に吊るした懐中電灯の灯りを頼りに、一歩、また一歩と進んだ。

 風が吹き荒れ、砂を巻き上げる。砂が混じった冷たい風が体を打つ。
 足はもたつき、ウェインを抱え直す。少しの窪みにバランスを崩し大きくよろけ、倒れまいと膝を付く。ウェインの体を肩で支え、震える膝に力を入れ、立ち上がる。
 シエナは歩き続けた。
 懐中電灯の灯が小さな岩を照らす。高さはシエナの背丈にも満たない、幅は両腕を広げたくらい。
 シエナは岩陰を懐中電灯で照らし、毒虫がいないか確かめる。甲虫が何匹か逃げていったが、サソリの類はいなかった。
 岩陰にゆっくりとウェインを横たえ、自分も座り込む。
 風が止んだ。
 岩陰は小さい。出来る限り岩に身を寄せ上体を低くしていないと、砂混じりの風が容赦なく吹きつける。
 もう、動けない。足は棒のようで、腕は力が入らず感覚もない。指は曲げた形で強張り痺れる。何より、さっきから寒くて震えが止まらない。風とともに吹きつける砂が思った以上に堪えていた。
 昼からずっと食べ物を口にしておらず、シエナは疲れと寒さで震える手で麻袋をあけ、毛布を取り出す。
 横たわるウェインを毛布でくるみ、持って来た水差しの注ぎ口を恐る恐るウェインの口に当てる。
「ウェインさん、口を開けて下さい」
 注ぎ口を乾いた唇に押し当て、ゆっくり傾ける。
 ウェインはぐったりし、口の端から水がこぼれ落ちる。シエナは慌てて袖でウェインの口元を拭い、しっとりと濡れた髪を丁寧に拭いた。
 ウェインを毛布でくるみ直す。
 ――……これから、どうしたら……。
 星は見えない。今どこにいるのか、どちらの方向に向かえばいいのか、全然分からない。
 ライナスは車で三時間以上かけ南に向かい、あの家に着いた。来た道を辿るように北へ向かえば良かったのだろうか。けれど、車で三時間の道のりを徒歩で、それもウェインを抱え歩き通す自信はなかった。ウェインが耐えられるとも思えなかった。
 例え歩き通せても安全な場所に辿り着けるかどうか。ライナスがいた隠れ家だ、敵と鉢合わせるかもしれない。
 ――……私は、どうすれば……。
 砂漠を越えようとしたこと自体、無謀だった。砂漠のどの辺りかも、砂漠の広さも、この国の地形も分からない。ましてや自分はサイードの妻。敵に見つかれば殺され、アメリカ兵に捕まれば刑務所に逆戻りだ。
 懐中電灯の灯が弱い。今にも消えそうだ。
 シエナはスイッチを二回、三回、四回と押し直した。
 懐中電灯の灯がフッと消える。
 シエナは慌ててカチカチとスイッチを押す。いくら試してもつかない。
 電池切れだ。
 シエナは懐中電灯を両手で握り、呆然とする。
 ドクンッ。心臓が跳ねる。
 ドクン、ドクンと鼓動が速くなり、呼吸が乱れ、ギュッと喉が絞まる。鼓動は激しくなる一方なのに、息が吸えない。額に冷や汗が滲んだ。
 ――……落ち着かなきゃ……。
 シエナは肩を上下させ、ゆっくりと深呼吸をする。胸を震わせ、喉を震わせ、祈るように呼吸を整える。息苦しさは増し、冷たい汗が幾筋も頬を伝う。
 ――……どうしよう……、こんなところで発作が起きたら……。
 懐中電灯を握る両手の平が汗でびっしょりと濡れる。こめかみが脈打ち、火傷の痕が疼く。息苦しさとともに額の痛みも増していく。
 ――……どうして……。
 シエナは絶望的な思いに駆られ、天を仰いだ。
 ぎくりとする。
 暗闇が、佇んでいた。
 星はなく、月はおぼろで、漆黒の海が広がる。風を切る音が悲鳴のようで、吹きつける砂が礫のようで、シエナはカタカタと震えだす。
 おぞましい過去が首をもたげる。
 荒い息遣い、舌が這う感触、鼻を衝く体臭、引き裂かれる痛み、顔から煙が立ち昇り、血がべっとりとついた……。
 両の手が、両腕が、肩が激しく震え、握りしめていた懐中電灯を落とした。
 忌まわしい記憶が耐え難い幻覚を伴ってまざまざと甦る。
 己の内に閉じ込めたどす黒い感情に呑まれ、自身が跡形もなく闇に溶けてゆく錯覚に襲われる。
 ぶるぶると震える両の手を強く握り、冷えた唇に押し当てる。
 がちがちと鳴る歯を強く噛み、声を殺し、うずくまる。
 漆黒の闇が、吹き荒ぶ風が、打ち据える無数の砂が恐ろしく、身を硬くし、息を殺す。
 夜明けはまだ先。風は止まない。
 シエナは引きつる瞼を固く閉じ、歯を食いしばる。
 つっと、裾が引かれた。
 シエナはビクッと震え、両の手を強く、強く口に押し付け、がたがたと震える。
「……シ、……エ……ナ……」
 シエナはハッとし、まさかと振り向く。ウェインが目を開けていた。
「……ウェ、……イン……さん……」
 ウェインはこちらに体を向け、かけた毛布を片腕で上げる。
 “入れ”と、言っていた。
 シエナは動けなかった。
 死ねばいいと、見殺しにしようとした。ライナスとともに鎖で繋がれたウェインを見ていた。裏切り者と思われて当然だった。それなのに、意識がはっきりしない状態で「にげろ」と囁き、今また、こうして自分に手を差し伸べる。
 この人のそばにいると、己のちっぽけさを、狡さを思い知らされる。あまりにも違いすぎて打ちのめされる。自分もこうありたいという理想を突きつけられ、決してそうなれない現実を思い知らされる。
「……ウェインさんが……、……かぶっていて下さい。……私は、大丈夫です……」
 シエナはウェインに背を向け、己の体をかき抱く。
 ウェインの顔を見られなかった。こんな醜い自分は見られたくなかった。
「……シ、エ……ナ……」
 言葉は続かない。唸るような風の音がいつまでも続き、シエナはわずかに顔を向ける。
 ウェインはまだ毛布を上げ、こちらを見ていた。
 暗闇の中にいてなお、頬は青白く浮かび、開けた目はぼんやりと滲む。
 気遣うような、語りかけるような、労わるような目で、シエナを見つめる。
「……ウェインさん、……毛布を、かぶって下さい。……体が、冷えます。お願いですから……」
 涙がこぼれた。目の縁を手の甲で拭う。拭ったそばから涙がこぼれる。
 シエナは指で、手の甲で、袖でしきりに顔を拭う。泣いていると思われたくなかった。
 濡れた頬をこすり、流れ落ちるものを袖で拭く。
「……お願いですから、……ほうっておいて下さい。……やさしくしないで……」
 ウェインは答えず、シエナを見つめる。
 涙は止まらず、シエナは幼子のようにしゃくりあげる。
 ウェインは何も言わない。
 シエナは嗚咽し、両の手で涙を拭いながら立ち上がり、ウェインが上げた毛布の中へ体を横たえる。
 ウェインがシエナを毛布で包む。
 シエナはウェインの腕の中で泣いた。
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