第19話

文字数 11,278文字

 ※

 太陽は空高く昇り、焼けた風が吹き抜ける。
 イーシンは病院近くの店で昼食を注文し、ローストチキンとスープとパンが載ったトレイを手に一番端のテーブルに座る。
 店内はイスラエル中央部で起きた爆撃でもちきりだった。
 一週間前、イスラエル軍が中央部を中心に政府の中枢機関やイスラエル軍の情報機関の他、橋や発電所といったインフラ設備を数時間に渡り爆撃した。
 指揮命令を出した中将とは連絡が取れず、爆撃命令を遂行する将校と阻止しようとする軍関係者が軍事施設敷地内で銃撃戦を起こし死傷者が出た。
「攻撃システムのエラー」、「指揮官がとち狂った」、「クーデターだ」
 と、いろいろな説が飛び交った。
 好機と見たのか、ガザを実効支配する武装組織はロケット弾を数百発以上発射し、イスラエル軍はその十倍の火力で応戦していた。
 都市部上空は煙幕に包まれ、イスラエル各地で爆発が起きた。
「戦争だ」、「世界大戦だ」、「世界の終末だ」と陸路や航路で国外へ脱出する市民が続出した。
 この辺りも騒然としていたが、爆撃は主に中央部と北部の人口密集地で行われ、ここ砂漠地帯は安全だと理解すると、住民はテレビがある店や集会所に集まり、軍や政府を批判し始めた。
 今も店内は軍と政府に対する賛否が飛び交い、テレビの音はかき消されている。
「よう」
 マルクが同じメニューが載ったトレイを置き、向かいの席で食べ始める。
 イーシンは無言でパンをちぎり、口に入れる。
 マルクはぺろりと平らげると大きな体を背もたれに預け、騒ぎ立てる客を眺める。歯に挟まったらしい、口をもごもごと動かし、小指を口の奥に突っ込む。
「ちょっと、他でやりなさいよ。汚いわね。食べ終わったんならさっさと行けば」
 マルクは口に突っ込んだ小指をぬっと出して、言った。
「好きで休んでいるんだ、ほっとけ」
 イーシンはマルクをガン見した。
「こんなうるさい店でよく落ち着けるわね。あんた、耳がおかしいんじゃないの」
「お前がだんまりだから、うるさいのが安心するんだ。暇潰しにアーロンのヤローを締めあげてやろうと思ったら、どこにもいやしねえ」
「……アーロンは、いないわ。カーニヒの所に行ったんじゃない」
 イーシンはスープを口に運ぶ。マルクがずいっと顔を寄せる。
「俺らのことをチクるぞ。行かせてよかったのか」
「イスラエル軍が自国を爆撃し、指揮命令を出した中将は行方不明、爆撃を実行した将校クラスも数十人が姿を消した。行方をくらませた中将の代わりに参謀総長代行と国防相が責任を取り、相次いで辞任。首相は知らぬ存ぜぬの一点張り。
 カーニヒはイスラエル軍の尻拭いでこちらまで手を回す余裕はないでしょうよ。来たら来たで返り討ちにしてやるわ」
「そうこなくっちゃっ」
 マルクは胸を反らしガハハと笑った。
「……食事が終わったわ。外で話しましょう」
 イーシンは空になった食器をカウンターに戻し、店を出た。
 マルクと二人、病院の外にあるベンチに腰かける。ひさしがあるおかげで直射日光を免れるが、日中の砂漠はとにかく暑い。十分と過ごせる環境ではないが、どちらもすぐには話さなかった。
 イスラエル軍の誤爆があった後、アーロンと話した内容を、シエナから聞いた話も含め、マルクに伝えた。怒鳴り散らすか、アーロンを殴りに行くかと思ったが、マルクは一言、「そうか」と言ったきり二階へ上がって行った。
 イーシンからするとマルクもいつもと様子が違う。
「……ウェインは、あの女が見ているのか」
 マルクは眼前に広がる砂漠を眺め聞く。
「シエナさんがつきっきりで看てくれているわ」
「そうか」
 会話が終わってしまった。仕方なく、イーシンはずっと心に秘めていたことを口にした。
「ライナスがホテルに来た時、貴方、『火薬の臭いがする』って言ったじゃない。あの時、もっと真剣に聞いておけばよかったわね……」
 返事はない。相槌もなく、店の喧騒しか聞こえない。イーシンは隣を見た。
「……なに、その顔……」
 マルクが目を真ん丸にして鼻の穴を広げていた。鼻の下を伸ばし、どんぐりまなこをイーシンに近づける。もはやゴリラじゃなくてロバだ。
 マルクは間抜け面を目と鼻の先で右に傾け、左に傾ける。
「腹立つからその顔、やめてくれない」
「……お前、そんな細けぇこと気にしてたのか。意外と繊細な奴だったんだなあ」
 間抜け面でしげしげと見られ、こめかみが引きつる。
「もう、あんたには何も言わない」
 イーシンはプイッとそっぽを向いた。
「ウェインが元気になったら、三人でぱあーっと遊びに行こうぜ」
 マルクは椅子にふんぞり返り、妙に落ち着いた口調で言う。
 今度はイーシンがマルクをまじまじと見た。
「いつもはウェインのことになると怒るのに、優しいのね。どうして」
 マルクは砂漠を眺め、言った。
「へこんでいる奴、追いつめてもしょうがねえだろ。誰のせいでもねえよ。俺も責め立てて悪かったな。……ウェインが自分の意志でお前を助けた。生きるか死ぬかは、運に任せるしかねえ」
 不意に、涙が滲んだ。イーシンは眩しいふりをして額に手をかざし目元を隠す。
 マルクの言葉にホロリとくるほど弱っているのかと、自分でも驚く。
 職業柄、人の生き死には数えきれないほど見てきた。同僚や仲間の死も目の当たりにした。
 危険を承知で兵士という職業を選んだのだ。戦場に出て、紛争地に赴いて、死を覚悟しない方がおかしい。仲間の死は辛くはあるが、本人の意志なのだから仕方がない。他人がとやかく言うことじゃない、と割り切っていた。
 今回だって、ウェインが自分を助けなければ、本人が決めた結果だと割り切れるはずだった。
 自分を庇ったことでウェインが生死の境をさまよっている。その事実に、自覚する以上にダメージを受けていた。
 イーシンは手を下ろし、雲一つない空を見上げる。からっからに乾いた風、灼けた大地、降り注ぐ光線、まばゆいほどの風景……。
 睡眠不足でしょぼしょぼする目にはこたえる。眠気と怠さとストレスはピークに達し、限界がきていた。
 ――……死んだら、恨むわよ、……ウェイン……。
 イーシンはサングラスをかけ空を眺めた。

 ウェインはぼんやりと暗闇を見つめる。
 地下室で拘束され、水も食料も与えられず、意識を失った。それから……、……記憶が曖昧だ。
 眠りに落ちる度に締め上げられる首の圧迫感が、ない。
 後ろ手に腕を捻じる力も、ない。跪かされ、痛みも痺れも感じなくなった脚は今、すっと伸びている。
 臓腑が煮え溶ける飢えも、喉が灼ける渇きも、消えている。
 首の引き攣りも、肩の軋みも、背中の硬直も、悪寒も吐き気も息苦しさも、無くなっていた。
 拘束はとかれている。
 ――……私は、……死んだのか……。ここは……。
 口元に吹き付ける湿った気体が心地よく、鼻を通り、喉を潤し、胸を通る。
 シュー、シュー……。マスクが鼻と頬にピタリと張りつき、ゴムで耳に固定されていた。規則正しい機械音、腕に繋がれた細いチューブ……。
 固めのシーツの上に横たわり、毛布がかけられていた。薬品の匂い……。
 ……ここは、病院……。
 ――……助かったのか、……私は……。……どうして……。
 起き上がろうとしたが、体は動かない。
 全身の緊張を解き、ぼんやりと暗闇を眺める。
 ――……夢を、見ていた。
 光は届かず、流れも、音もない海の、さらに深みへ堕ちていく夢。
 体は動かず、声も出ず、痛みはなく、苦しくもない。
 無音の闇に身を委ね、安らかに沈み逝く。
 しっとりした冷たい流れに導かれるまま下へ、下へと吸い込まれていく。わずかに残った灯火が消え、微かに感じていた熱も失せようとした時、私の手を誰かがつかんだ。
 流れから引き千切られるように浮上し、闇の深淵が急速に遠のく。礫が全身を打ち、流れが刃となって肌を裂き、水圧が分厚い壁となって体を押し上げ胸を圧迫する。痛みと息苦しさで全身が弾けた時、眩い光が差した。
 砂混じりの風が唸り、夜が佇む。
 シエナがうずくまり、震えていた。暗闇で一人、背を向け、泣きじゃくっていた。
 ――…………あれは、……夢……。
 体が軽い。動かないのが不思議なくらいだ。意識ははっきりとしている、記憶をたどれるくらいには。
 声は、出るだろうか。
 口を少し開け、喉を意識し、腹に力を入れる。
「……ぅ……」
 暗闇に人の気配を感じる。
 張って固くなった首を傾け、視線を動かす。
 暗闇にシルエットが浮かぶ。黒髪の女性が、ベッドの端に頭をのせ眠っていた。
 シエナだった。
 ――……………………。
 ゆっくり、シーツの上に手を滑らせ、指を伸ばし、シエナの柔らかく繊細な髪に触れる。
 指先を通し、温もりが伝わる。
 ――……シエナが、…………助けてくれたのか……。……一人で、……あの監禁場所から……、……ライナスから……。
 私を暗闇から引き上げてくれた手は、シエナだったのか。
 シエナは強いな、と思った。
 控えめな態度からは想像ができないほど、小さな体にはかり知れない熱量と力を秘めていた。
 ――……あり、……が……とう……。
 思いは声にならず、宙に溶ける。
 ウェインはシエナの髪に触れたまま、目を閉じた。

 シエナは目を覚まし、ベッドの端から体を起こす。
 病室が明るい。朝だ。いつの間にか眠ってしまっていた。
 毛布からウェインの手が出ている。シエナはウェインの手に触れ、温かく滑らかなその手にほっとし、毛布の中へそっと入れる。
 ウェインの顔を覗き込む。顔色はいい。肌はきめ細やかで、唇もほんのりと赤く、目を開けないのが不思議なくらいだ。
 シエナは静かに呼びかける。
「……ウェインさん、……目を、開けて下さい。イーシンさんたちが心配しています。……どうか、早く起きて……」
 金の睫毛が微かに震える。白い瞼がゆっくりと開き、銀の双眸が覗く。
 ウェインが目を開いた。
「……ウェ、……イン、……」
 応じるようにウェインが一度、瞬きをする。
 シエナの目元がぴくと震える。唇が震え、喉が引くつき、言葉にならない。
 シエナは口元を両手で覆う。
 溢れる涙にウェインの顔が滲んだ。

 イーシンは二階の一室で眠れぬ夜を明かした。
 カーテンを開け、地平線を昇る巨大な太陽を眺める。
 今日も長い一日になりそうだ。
 ドンッ、ドンドンドンッ……。部屋の扉がけたたましく鳴る。
「イーシンさんっ、ウェインさん、ウェインさんがっ」
 イーシンは最後まで聞かず、隣室のマルクも飛び出し、一階ウェインの病室へ走った。
 開けっぱなしの扉の前でイーシンは足が止まる。
 ドクンッ。心臓が跳ね上がり、鼓動が速くなる。
 病室のベッドで、足をこちらに向け横たわるウェインの、腰の位置から胸の辺りまで視線を動かし、酸素マスクをつけた顎から鼻を注視し、さらにその先、ウェインの目元へ視線をずらす。
 イーシンは瞠目した。
 目が、開いていた。まどろむような、気だるそうな、とろんとした目。
 だが、確かに開いていた。
 マルクはつまづきながら駆け寄り、ベッドの柵を掴み、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。シエナもマルクの後ろに控え、涙をこぼす。
 イーシンは病室に一歩、二歩と足を踏み入れ、立ち尽くした。
 ウェインはイーシンに顔を向け、小さく手を上げる。微笑ったようだった。
 イーシンもつられて微笑む。
「……おかえり、なさい……」
 イーシンはぽつりと呟いた。

 ウェインが意識を取り戻し、十日が過ぎた。
 経過は順調で、ベッドから起き上がり、点滴は外れ、食事を取れるまでに回復した。ウェインは自主的にリハビリを始めている。
 医師エバンも舌を巻いていた。
「あの状態からここまで回復するなんて、奇跡じゃ。彼女の献身的な愛の賜物だ。彼は世界一の幸せ者だなぁ」
 診察を終えた医師エバンはにっこりと笑う。
 ――……治療していて気づかなかったのかしら。
 イーシンは三週間世話になっている医師に控えめに訂正した。
「あの、ウェインは女性です」
 医師は明るく笑い、「知っとるよ。冗談だ」と片目をつぶった。
 ――……この、医者……。
 イーシンは頬を引きつらせた。

 イーシンはいつもの店で昼食を取る。
 シエナはウェインに付き添い、マルクは「がっつり食える店を見つけた」と、車で出かけて行った。
「あんた、最近よく見るけどあの病院にかかっているのかい」
 店主が料理を皿に盛り、聞く。
「ええ、まあ。友人が……」
 イーシンは言葉少なに答える。
 ここの店主はよくしゃべる。しゃべらないと動けないのかと思うくらい、料理をしている時も、勘定をしている時も、休んでいる時も、ずっとしゃべっている。
 イーシンは料理に唾が入らないか、気が気でなかった。
 イーシンもおしゃべりは嫌いではないが、この店主に引っかかるとしばらく帰れそうにないので、できるだけ避けていた。
 今日は客足が鈍く、店内に客はイーシンを含め二人だけ。目を付けられないか冷や冷やしていた。
 店主は料理を盛った皿をトレイに載せ、言った。
「あの病院はやめとけ。俺のばあちゃんが危篤になった時、あの医者、ずっと横で下らん冗談ばっかり飛ばして、じいちゃんがカンカンになって怒鳴っていた。すぐに謝りゃあいいものを、あのでかい目ん玉うるうるさせて、『しんみりしているようじゃから元気づけようと思ったんじゃ』とほざきやがってよ。ばあちゃんが持ち直したからいいけど、家族が生きるか死ぬかって時に笑えるかってんだ」
 イーシンは心当たりがありすぎる話に、つい聞き入ってしまった。
 近くの席で食事をしている客が暴露する。
「病院の二階、元は短期入院の患者用だったんだけどよ、夕方になったら医者も看護師も帰るんで患者だった俺のいとこがぶちギレて文句を言ったんだ。そしたら、『安息日は働いたら駄目なんじゃ。何かあったら電話してくれれば……』、だとよ。安息日関係なくいつでもどこでも休んでやがるくせになに言いやがるんだか。大体あいつ、安息日安息日ってユダヤ教徒じゃねえだろ。みんなあのやぶ医者がイスラム教徒だって知っているぜ」
 店主が鼻で笑った。
「イスラム教徒でもないだろ。酒飲んでいるのを見たぞ。問い詰めたら『これは水じゃ。断じて酒ではない』とあのくりくり目玉をくるくる回してたぜ」
 ぶはっ、客が口の中の物を盛大に吹き出す。
「おい笑わすな、吹いちまったじゃねえかっ」
 客がテーブルにぶちまけた物を手でかき集めながら続ける。
「そんなんで、ほとんどの患者が別の病院に移って行った。看護師も調理師もずいぶん辞めて行ったぜ。来るのは何も知らないよそ者だ」
「……な、なるほど……」
 思い当たることばかりでイーシンはめまいを覚える。
 店主と客は声をそろえて止めを刺した。
「あの医者はどうかしている、やめとけ」
「…………そう、します……」
 イーシンはがっくりと肩を落とした。

 イーシンは食事をすませ、アース本社CEOロバート・ロッシュに連絡を取る。
 ロバートにウェインが順調に回復していることを報告し、ジェット機の手配を取り付け、イーシンは元気を取り戻した。
 意気揚々と病院に戻る。
 食事の後らしく、シエナが重ねた食器を載せたトレイを手に、二階へ上がって行くのを見た。
 最近はシエナが二階にある炊事場で簡単な調理をしてくれるようになった。元は、入院患者のために調理師が使っていたそうだが、今は調理師はおらず、炊事場は埃がかぶっていた。
 シエナは看護師に使用の許可を得て、炊事場を使えるように掃除した。冷蔵庫が使えたため、マルクは車で毎日のように出かけては食材を買い足していた。空っぽだった冷蔵庫は、今や、大量の野菜と肉類の他、ゼリーやヨーグルト、チーズやケーキでいっぱいだ。
 ウェインとシエナに精がつくようにとのマルクなりの気遣いだろうが、明らかに多すぎだ、シエナは冷蔵庫を開ける度に表情を曇らせていた。
 昼食を終えたウェインは体を起こし、マルクも食事から戻ってきていた。
 イーシンは嬉々としてウェインに報告する。
「民間軍事会社アース本社社長のロバート・ロッシュがジェット機を派遣してくれるって。ベッドも医療機器も完備だから安心して。医師と看護師も付けてくれるわ。貴方のパスポートも貴重品も持っている。それに乗って帰りましょう。カーニヒに任せていたらいつになっても帰れないもの」
 ウェインはもの言いたげにイーシンを見つめる。
 “あら、何かしら”、イーシンは真っすぐに見つめ返す。
 ウェインが切り出した。
「私は、置いて行ってくれ。ここに残る」
「なんですって」
「なんだとっ」
 イーシンとマルクがハモる。
 ウェインは小さく笑い、真顔で続ける。
「私とシエナが誘拐された件はアメリカが絡んでいる。私の疑いは晴れていない。アメリカ軍は私をサイードの一味と見なしている」
 イーシンは絶句した。ウェインは力なく笑う。
「隠さなくても分かる。アメリカ軍基地内からシエナを連れ出す、アメリカの協力なしにはできない。アメリカはそれほど愚かではないし、無力でもない。私はアメリカ軍に属していたから分かる。アメリカ軍は、おそらくイスラエル軍も、私をサイードの協力者と判断し、わざと敵に誘拐させたんだ。……シエナと監禁場所で会った。その時に確信したよ」
 ウェインは深いため息を漏らす。
 泣きはしない。苦笑もしない。愚痴の一つもない。ただ、酷く疲れた様子で虚空に視線を漂わせる。
「……知っているなら、余計ここにいては危ないわ。世界有数の民間軍事会社アースが貴方を迎え入れてくれる。アメリカとイスラエルの謀略を暴き、貴方の無実を証明してくれる。あなたは称賛されて当然なのよ。己の身をていしてサイードの襲撃を阻止したんだから。アメリカとイスラエルに一般市民の貴方をテロリストに売り渡した罪を償わせるのよ」
 ウェインは虚空を見つめ、小さく首を横に振った。
「アメリカとイスラエルを敵に回したら、一生逃げ続けることになる。それはご免だ。イーシンとマルクなら大丈夫だ。アースが背後についてくれる。二人はサイードに誘拐された被害者だ。サイードと少なからず因縁がある私とは違う」
 ウェインは疲れきった様子で視線を落とす。
 イーシンは俯くウェインの髪を睨みつけた。
「……地下の映像を観たわ。なんで黙っていたの。言ってくれていれば誘拐は防げたのよ」
 責める口調になってしまい、イーシンは口をつぐんだ。
 地下の映像を観ていれば、呑気にアメリカ軍の指示を待たなかった。やすやすと誘拐されなかったし、ウェインが危地に陥ることもなかった。一言、話してくれてさえいれば警戒を怠らなかった……。
 ウェインは、ぽつり、ぽつりと話す。
「……言おうと、……したんだ……。……何度も……。カーニヒ大佐と、イーシンには、……伝えなければと……。…………すまない……」
「…………」
 エルサレム襲撃事件の後、ウェインがカーニヒに何度も電話をかけていたことを、イーシンは思い出した。
 ウェインはひどく憔悴していた。地下から自力で脱出し、病室のベッドで泣き崩れていた。カーニヒと二人きりで会ってからは、ずっと塞いでいた。
 知っていた。気づいていて、聞こうとしなかった。そっとしておいた方がいいと、思って……。
 ……言い訳だ、聞けなかったのだ。
 打ち明けられても受け止められないと、寄り添えないと分かっていた。慰めの言葉一つかけてやれないと分かっていたから、そういう雰囲気にならないよう、わざと明るく接していた。
 自分もウェインと同じだ。
 ウェインが監禁されていた時の状況を、シエナが自ら話してくれるまで聞こうとしなかった。
 ウェインがどんな目に遭い、あんな状態に追い込まれたのか。自分の失態でウェインを危険にさらした。それを思い知らされるのが怖くて、辛くて、聞こうとしなかった。
 ウェインの苦しみを見て見ぬふりをし、己の過失に向き合おうとしなかった自分に、ウェインを責める資格はない。
 イーシンは許すとも、許さないとも言わず、一言だけ口にした。
「あなたは軍人じゃないし、アース社員でもないんだから報告する義務はないでしょう」
 ウェインは肯定も否定もせず、黙っていた。顔を上げ、イーシンを見つめる。
「私の代わりに、シエナを連れて行ってほしい」
「なんですって」
 イーシンはまなじりを吊り上げる。
「シエナはサイードの妻だったが、詳しいテロ計画は知らされていなかった。サイードの妻になった経緯もシエナの村が他の武装集団に襲われ、ただ一人生き残ったところをサイードに助けられた。サイードの仕事に積極的に関わったことはなく、逆にイラクの村を襲撃したサイードの部下に立ち向かった。
 シエナが監獄に入れられる理由はない。連れて行くなら私ではなく、シエナを連れて行ってくれ」
 睨みつけるイーシンを、ウェインは静かに見つめ、頼んだ。
「カーニヒ大佐には私から説明をする。だから、シエナを頼む」
 イーシンはふうっと息をつき、理解できないというように首を横に振る。
「迎えは来る。それまでに体調をできる限り整えておいて。ここは入院患者を受け入れていないの。いつまでも居たら迷惑でしょう」
 イーシンは背を向け、病室を出た。

 シエナが戻ってきた。
 いつもと違う空気を感じてか、シエナはぴたりと立ち止まる。
 マルクは居心地悪そうに退室し、ウェインとシエナの二人きりになる。
 ウェインは体の向きを変えようと腰をひねり、シーツの上で足を滑らせる。
 シエナがさっとウェインの足を抱えベッドの下に下ろす。
「……ありがとう……」
 ウェインはシエナに向かい合い、動く左手でシエナの手を取り、ずっと伝えたかった思いを口にする。
「……シエナ、改めて礼を言いたい。私を助けてくれて、ありがとう。意識が戻るまで、ずっと看護してくれていたと、聞いた。そして今も、私に付き添ってくれている。シエナの勇気と献身が私を生き返らせてくれた」
 ウェインはシエナの手の甲に額をつけるように深く頭を垂れる。
「私が今、生きて、ここにいるのはシエナのおかげだ」
 シエナの手を取り、頭を垂れ、重ねて感謝の言葉を口にする。
「心から感謝します」
 全てを言葉にするのは難しすぎた。ライナスの手を逃れ、あの監禁場所から死にかけた自分を抱え砂漠を歩いてくれた。心身ともに疲れきっていただろうに、つきっきりで看病してくれた。そして今も献身的に尽くしてくれる。自分には到底できない。
 どれほど心細く、恐ろしかったか。
 ウェインは暗闇にうずくまり泣くシエナを思い出していた。
「……止めて下さい」
 シエナが手を引く。ウェインが触れた手をもう一方の手で強く握り、ギュッと顔をしかめる。今にも泣きだしそうだった。
「……私は、私は、貴方が死ねばいいと、思っていました。助けるつもりなんて、なかった。今でも、どうして助けたのか、分からない。感謝されることなんて何一つないんです」
 シエナは顔を背け、声を震わせる。
「……私は、ウェインさんを、恨んでいました。ずっと。夫に愛されたあなたが、憎かった」
 シエナは背を向け、嗚咽する。
 ウェインは静かな声でシエナの背中に語りかける。
「サイードが愛しているのはシエナです。私ではありません。彼は同情で人を傍に置くほど優しくはありません。人を寄せつけないサイードが唯一傍に置いたのは、シエナ、貴方を愛していたからです」
 信じられない、というようにシエナは背を向けたまま何度も首を横に振った。
 ウェインは穏やかに話す。
「嘘ではありません。私は昔の彼には憧れていましたが、今のサイードは愛せない。私は彼の妹の命を奪った負い目がある。けれど、それを抜きにしても今の彼は愛せない」
 シエナは背中を向け、頑なに俯いている。聞こえてはいるようだ。
 ウェインは続けた。
「それに、サイードが私に向ける感情は愛情ではなく、あれは――――」
 不意に、言葉が途切れる。
 黒い靄がかかり、思考がぷつりと切れた。
 どす黒い煙はずっと溜まり続けていた。胸を塞ぎ、肺を侵し、力を奪い、感覚を遠ざける。
 ずっと、水底へ沈む息苦しさがあった。いつもどこか薄暗く、指一本動かすのも億劫だった。手足をだらりと垂らし、首をもたげ、暗がりに漂う。ずっと、そうしていられれば、どれほど楽だったか……。
 静かな人だった。他者と交わらず、自分の世界を持っていた。身内にすら己の胸の内を明かさない、孤高の人だった。妹だけは遠くから見守り、時に手を差し伸べる優しさを持っていた。
 かつての彼と同じ顔、同じ声、同じ仕草で昔を語り、妹の名を口にする。
 昔の彼と同じ真摯な眼差しで想いを打ち明けたサイードは、しかし、笑みを浮かべ、私の両脚を撃ち抜き、肩を撃った。
 同じ過去を共有している甘えだったのか、楽しかった日々の未練か、彼なら私の悲しみを理解してくれるはずという期待か、彼は妹をまだ愛しているという思い込みだったのか…………。
 胸の奥深く、心の奥深くにあった彼と私を繋ぎ止める「何か」が、あの時、ぶつりと切れた。
 両脚を撃たれ、肩を撃たれ、血を流しうずくまる私を、サイードは嗤って見下ろしていた。銃を突きつけ、執拗に口づけ、見せた顔は、……禍々しくも美しかった。
 濡れて光る金の瞳、きらめく赤い髪は、悦びに打ち震えていた。
 昔の彼(ダリウス)はこの世にはいない。目の前にいるのは全くの別人。人ですらない、彼(ダリウス)の記憶を持った、別の何か。
 そう、思い知らされた。
 自分に向けられたもの、あれは、純粋な悪意だった。
 嬲(なぶ)り、蹂躙し、破壊する行為を一途に愉しむ、濁りのない悪意。
 ウェインは拭いようのない疲労感と空虚感に頭を垂れ、瞼を伏せる。
 虚空に散らばる千切れた記憶を寄せ集め、繋ぎ合わせ、まとまりがつかぬまま言葉を紡ぐ。
「……サイードが、私に向ける感情は、敵に向けるそれです。どうすれば私が動揺するか、苦痛を感じるか、知っているのです。もし、私が彼になびけば、途端に興味を失くすでしょう。……シエナが思うようなものではありません」
 それだけ言って、言葉を切る。
「……敵でもいいではありませんか。『いらない』と言われるくらいなら、敵でもいい、私は必要とされたかった」
 シエナは背中を向けたまま顔を覆い、細い肩を震わせる。
 ――……こんなに小さな体で、私を助け出してくれたのか。
 ウェインは震えて泣くシエナをぼんやりと見つめ、自分を抱きしめる腕を、自分を支える細い肩を思い出していた。
 声を出せず、意識も朦朧とする中、確かな温もりと力強さで自分を包んでくれた。
 死の淵へ沈む私を引き上げてくれた。
 全てを諦めた私に、“もう一度、生きてみようか”と、思わせてくれた。
 こんな私でも必死になってくれる人がいるなら……。
 不意に熱いものが込みあげ、ウェインはすっと目を伏せる。
 弱さの中に激しさを、優しさの中に強さを内包し、絶望の中であってもなお希望を見いだす。そんな彼女だからこそ、サイードは連れて行かなかった。
 ウェインはそう感じた。
「……シエナが、平気で人を殺せたなら、サイードは貴方を必要としたでしょう。けれど、貴方はどれほど苦境に立たされようと、むやみに人を傷つけなかった。死へ逃げることもなかった。シエナが優しく、強かったからです。……だから、サイードは貴方を連れて行かなかった。光に背を向けて歩くあの人にとって、暗闇のただ中にいても光を見失わないシエナは、惹かれながらも決して相容れぬ存在だった」
 ウェインはシエナの背中を見つめ、もう一度言った。
「サイードはシエナを愛しています。それは本当です」
 シエナは息をするのも忘れたように微動だにしない。
 ウェインはシエナの背中を見つめ、改めて思いを言葉にする。
「……助けてくれて、ありがとう……」
 シエナは背を向けたまま、一度だけ、頷いた。

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