第20話

文字数 6,117文字

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 ホームの子どもたちは朝食をすませ、それぞれの部屋で勉強をしている。ふだんなら学校に行く時間だが、今、学校は休校になっている。
 十日ほど前、イスラエル軍の誤爆で各地が被害を受けた。暴動や衝突で落ち着かない日々が続いた矢先での出来事だった。
 市中はパニック状態になり、地方へ逃げる車列で渋滞し、車を停め検問する兵士に市民が発砲する事件も起きた。自警団と称した若者が車の窓から銃を突き出し雄たけびを上げ、時に閉店した店の窓を叩き割っていた。
 強盗や暴力事件が後を絶たず、銃を肩に提げた兵士が街を巡回し取り締まっている。
 テレビは暴動や誤爆の映像ばかりで子どもたちは落ち着かず、おねしょや夜泣きが増えた。
 マザーたちで相談し、テレビを消し、子どもたちを庭には出さずホームの中で過ごさせることにした。
 午前中は勉強や課題をさせ、午後からはリビングでお絵描きをしたり、絵本を読んだり、ダンスをしたりと、子どもたちを楽しませる工夫をした。
 今は昼食の時間まで、大きな年齢の子どもたちはそれぞれの部屋で勉強し、小さい子どもたちはリビングでマザーに教わりながら書き取りや足し算をしている。エディもその一人だ。
 エディは小さな声で「九歳」だと教えてくれたが、このホームへ来る前は治安の悪い場所で暮らしていたらしく、ろくに学校へ行っていなかったという。
 エディは小さな子どもたちに交じり、書き取りと簡単な計算をしている。
 リビングでお勉強をする子どもたちを尻目に、アンディは汚れた洗濯物に取りかかる。
 インターフォンが鳴り、小さな画面越しに訪問者を確認する。
 アメリカ空軍の軍人だった。
 アンディは開けるか開けまいか、躊躇する。
 先日、エディはこの男を見て酷く怖がった。軍人だからと思っていたが、それ以外にも理由があるらしく、男が帰ってからもしばらくの間エディは不安定だった。
 いくら身分が確かな軍人とはいえ、エディに悪影響を与える人物をホームに入れていいものかと迷う。
「アメリカ空軍大佐アイゼン・カーニヒです」
 男はインターフォン越しに名乗った。
 書き取りをしていたエディは手を止め、強張った表情でこちらをじっと見る。
「アンディ、どうして開けないの」
 他のマザーが近づいてくる。返答に困るアンディを軽く押しのけ、マザーが扉を開ける。
「あら、まあ」
 マザーはカーニヒを見るや、高い声を上げた。
 アンディはマザーの反応に深く共感する。プラチナブロンドの髪に、透き通ったアイスブルーの目が印象的な男性だ。濃紺の制服がこれまたよく似合って、絵本に出てくる氷の王様そっくり。渋くてかっこよくて、言うことなし。
 エディの付き添いで初めてカーニヒに会った時、教会の鐘が鳴り、ウェディングドレスをまとった自分が目に浮かんだ。我に返り、……いくら私がパートナー募集中だからって相手は将校、釣り合わないわ……と、甘い夢想を追い払った。
 カーニヒは玄関に立ち、リビングにいるエドウィンに向かって言う。
「エドウィン、今からウェイン・ボルダーの所に行く。会いたければ今から十五分以内に準備をしろ」
 状況が呑み込めないマザーの代わりにアンディが口を挟む。
「あ、あの、突然何を。エドウィンは……」
「行くっ、行くよっ。すぐに準備する」
 エドウィンは部屋の奥へすっ飛んで行き、アンディは突然の訪問に腹を立てた。
「突然来られても困ります。それにどこへ行くつもりですか」
 アンディは玄関の入り口で待ち構えるカーニヒに文句を言う。
 カーニヒは事務的に答える。
「イスラエル各地で起こった混乱の事後処理に追われ、今日、ようやく時間が取れました。今からウェイン・ボルダーという女性の所に向かいます。エドウィンも行くならばと声をかけた次第です。準備は十五分あればできるでしょう」
 アンディは鼻息荒く言い返した。
「軍隊じゃあるまいし、こちらにも都合というものがありますでしょう。それにエドウィン一人で行かせるなんて。エディは大人の、それも貴方みたいな軍人を怖がるんです」
 カーニヒはにこりともせずに言う。
「ならば、貴方もくればいい。マザー・アンディ。お噂はかねがね耳にしております」
「わ、わたしっ」
 突然、見目麗しいカーニヒに名前を呼ばれ、アンディは胸が高鳴った。
 ――顔が良くても中身が問題なのよ。惑わされちゃダメ。
 アンディは心の中で淡いときめきを打ち消す。
「こなくていいっ、そいつは敵だっ」
 エディが立っていた。
「そいつはお姉ちゃんをさらった奴の仲間だ。アンディは来ないで」
 エディはカーニヒを指さし声を張り上げる。
 アンディはカーニヒを見上げ、エディを見つめ、カーニヒを見る。
 カーニヒは弁解一つせず、どこか冷ややかな目でエディを見下ろし、エディは目をぎらつかせカーニヒを睨みつけている。
「エ、エディ」
 エディは顔を背け、ずんずんと早足でアンディの前を通りすぎ、無言で靴を履く。
 困惑するアンディを残し、エディは一人で出て行こうとする。
 アンディはとっさにエディの襟首を引っ張った。
「ぐえっ」
「私も行くっ」
 エディは襟に指を入れ引っ張り返し、驚きの表情でアンディを見上げる。アンディは襟首をつかんでカーニヒに言った。
「私も行きます。エディ一人では行かせません」
 カーニヒは顔色一つ変えない。
「あと七分で出発します。遅れたら置いて行きます」
「んまっ」
 アンディは思いっきりカーニヒを睨みつけ、隣でおろおろしているマザーにエディを預け、部屋中を走り準備した。

 アンディは息を切らせ、エディとともに軍事車両に乗り込む。
 既にエンジンがかかった状態で、カーニヒと部下と思われる兵士が二人、そして運転手が席に着いていた。
 アンディとエディが後ろの座席に座るやいなや、車は走り出す。
 車内はシンと静まり返り、緊張感に包まれる。
 エディは押し黙り、アンディは居心地悪くリュックから水筒を取り出し、「エディ、お茶は飲む」と勧める。
 エディは首を横に振った。
 前の席に座るカーニヒが説明を始める。
「ウェイン・ボルダーは生き埋めになったエディを瓦礫から救い出した女性です。重傷を負い、南部にある病院で治療を受けています。意識を取り戻し、順調に回復しているという情報が入ったので今から向かいます」
 エディは深く俯き、カーニヒが話している間も決して顔を上げなかった。
 カーニヒは気づいているのかいないのか、前を向いたまま言う。
「エディ、私は軍人だ。死角からの攻撃にも対処できるよう訓練している。ここにいる護衛二人も同じだ。相手が子どもであろうと、近くにいる者が巻き込まれようと、手加減はしない。それらを考え、慎重に行動しろ」
 エディはアンディのスカートを強く引っ張る。深く俯き、表情はアンディには見えない。
 アンディは言葉の真意が分からずエディの肩を抱き、プラチナブロンドの髪を見つめる。
 カーニヒは続ける。
「病院にはシエナがいる。サイードの妻だった女だ」
 エディがビクッと震える。アンディのスカートを掴む手がぶるぶる震えだす。
「どうしたの、エディ……」
 アンディはハッとした。エディは目をぎらつかせ、目尻に細かな皺を刻み唇を固く引き結ぶ。アンディが見たこともない険しい表情でシートの一点を、その向こうにいるカーニヒの背中を睨んでいた。
「シエナはウェイン・ボルダーを助けた、殺すな。お前の村を焼き払ったのはサイードの部下であり、シエナではない。その男たちも全員死んだ。それでも気がすまないなら軍隊に入り、兵士となって戦え。感情のままに殺せば奴らと同じ、獣だ」
 エディはカーニヒの背中を睨みつけ、唇を噛み締める。スカートを掴む手がわなわなと震え、強く噛んだ唇から血が滲む。
「……エディ、どうしたの……」
 エディのただならぬ様子に不安を覚え、アンディはエディの肩を強く抱き寄せる。
 ……っく、ひっく、っく……。エディは大粒の涙をこぼし、泣き始める。スカートを握る手を離し、両の拳で濡れた頬を拭う。
「エディ、大丈夫……」
 キラリと、何かが光った。
 アンディはそれに目を止め、「あっ」と悲鳴を上げた。
 エディのズボンのポケットにナイフの柄が覗いていた。

 シエナは近くの店で遅い昼食をすませ、病院に戻る途中だった。
「ゆっくり休憩してきて」
 イーシンにそう言われたけれど、一人で外食をするのは初めてで、緊張して味がよく分からなかった。それに、時間が遅く客は少なかったけれど、お店の人が店内に響く声でずっと話しているものだから落ち着かず、食事もそこそこに出てきてしまった。
 病院の前にジープが一台停まっていた。星条旗がついた軍事車両だ。
 シエナはどきりとし、立ちすくんだ。
 軍服を着た男性二人が車から降り、少し遅れて白金の髪に薄水色の目が人目を引く男性が姿を現す。白金の男性は胸に勲章をいくつも下げていた。
 アメリカ軍の将校だと、シエナは思った。
 白金の男性を守るように軍服の男性二人が背後に付く。
 三人の男性から遅れて、大きな目が愛らしい少年が女性に付き添われ出てきた。
 将校と思わしき白金の男性はちらりとシエナを見ただけで、二人の部下とともに病院の中へと入って行った。
 少年と女性が後に続くと思われたが、少年はシエナをじっと見て、動かない。
 ――……火傷の痕が怖くて、病院に入れないのかしら。
 シエナは自虐的な思いにとらわれ、来た道を戻ろうとした。
「待って」
 少年は大声で呼び止め、シエナに駆け寄る。
 少年は額に玉粒の汗をかき、視線をせわしなく動かす。何かを伝えようとしている。シエナが黙っていると、少年はぎゅっと目をつぶり大きな声で言った。
「お姉ちゃんを助けてくれて、ありがとう」
 それだけ言うと、少年はくるりと向きを変え、女性の元へ戻って行く。
 女性に付き添われ病院へ入って行く少年を、シエナは目で追った。
 ――……ウェインさんの知り合い、かしら……。
 シエナは一人、病院の外のベンチに腰かける。
 軍事車両を目にした時は、再びあの収容所に戻されることを覚悟した。けれど、あの将校らしき白金の男性は一度こちらをちらりと見ただけで素通りして行った。
 ――……気づかなかったのかしら……。
 私がサイードの妻であると知らないのかしら。こんなに醜い女が聖地を襲撃したテロリストの妻だとは思いもしないのかもしれない。
 自虐的な思いに胸が痛む。
 今、姿を消せば逃げられるかもしれない。監視者はいない。病院の前を通行人が行き来するが、シエナに気を止める様子はない。今なら誰も気づかない。
 ――……でも、どこに……。
 帰る場所も、テロリストの妻であった自分を受け入れてくれる場所もない。
 ――……私は、あの鉄格子の中で生きるしかない。
 あの人たちが出てきたら一緒に行こう。「私はサイードの妻です、連れて行って下さい」と頼もう。私には檻の中がふさわしい。
 不意に、色とりどりの花が視界を覆った。
 シエナは驚き、花束を払うことも、声を出すこともできない。
「シエナ、ご無事でなによりです」
 花束を下ろし、男性が声をかける。艶のある黒髪を耳が隠れるくらいに伸ばし、左目は鮮やかなグリーン、右目は視力を失っているのか、白く光る。
 年齢は二十代後半くらいだろうか。物腰が柔らかく、物言いも丁寧な男性で、白いシャツにグレーのパンツを身にまとう。
 初めて見る男性だが、どうしてだろう、既視感がある。
 シエナは答えず、花束を受け取らず、男性を見上げた。
 異性を見つめるなど、はしたない行為だ。いつもならしない。する勇気もない。男性が怖かった。けれど、初めて会ったはずなのに、なぜだろう、懐かしさがこみあげる。
 ひたと見つめるシエナに、男性は照れたように笑う。
「この姿でお会いするのは初めてですね。ライナス、と言えば分かりますか」
「ラッ」
 シエナはとっさに己の口を両手で塞ぐ、目はライナスに釘付けだった。
 ライナスはふっと笑った。
「このまま去ろうとも思ったのですが、まだ答えを聞いていませんでした」
 ――…………こたえ……、なんの……。
 シエナは己の口を手で塞いだままライナスを見つめる。
 ライナスは一度頷き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「シエナは、絶望の先に何を見出しましたか」
 シエナは口を塞いだままライナスをひたと見つめる。
 何も思い浮かばない。何か答えなければと思い、もう一度思い巡らす。
 やはり、答えは出なかった。
 シエナは手を下ろし、ゆっくりと、しかしはっきりと、首を横に振る。
「……私には、何も、見えませんでした」
 なにも見えなかった。
 暗闇は変わらず恐ろしい。突然、理由もなく泣きたくなる。無性に寂しくて死にたくなる。何かに縋りつき、全てを憎み、あらゆるものから心を閉ざしたくなる。
 …………けれど……。
 胸の辺り、腹の奥に温かな熱を感じる。裂けて空洞になった己の内側にとめどなく湧き出る温かなもの。枯れることなく己の内部を満たし、溢れ続ける、――泉。
 今この瞬間も確かに感じる。
 これをなんと名付ければいいのか、分からなかった。だからもう一度、首を横に振った、“わからない”と。
「そう、ですか」
 ライナスはなぜか、満足そうに笑った。花束をシエナへと差し出す。
 理由が分からないまま花束を受け取るシエナに、ライナスは上体を大きく屈め、シエナの耳元に唇を近づける。
 シエナは息を呑んだ。ライナスの吐息と体温が己の髪を通し耳に伝わり、頭が真っ白になる。鼓動が早鐘のように打ち、顔が熱い。
 夫以外の男性から至近距離で囁かれたことはない、花束を贈られたのも初めてだ。
 ライナスは立ち上がり、シエナを優しく見つめる。
「本当はシエナを連れて行きたかった。戻っても囚人として扱われるくらいなら、私と共にいた方がいいと。ですが、シエナはやはり光の中がよく似合う」
 ライナスは眩しそうに笑った。
「お元気で、シエナ」
「まっ」
 シエナはとっさにライナスの袖をつかんだ。シエナははっとし、手を離す。
 私は、何を。引き止めてどうするつもり。……でも……。
 シエナは恥ずかしさのあまり消え入りたくなった。
「カーニヒは言葉通り、『英雄の命を救った勇敢な行動を称え、シエナを解放する』そうです。あなたはもうすぐ自由の身です」
 解放、自由の身……。
 シエナは弾かれるように問うた。
「あなたは、あなたは誰なのですか。名前は、本当の名前は――」
 ライナスは、“おや”というふうに、シエナを見つめる。すっと辺りを伺い、「聞こえませんでしたか」と、もう一度シエナの耳元に唇を近づける。
 シエナは驚きのあまり硬直する。嫌悪感はない。怖くもない。それどころか、深く沁みいるような安らぎと温もりを感じる。夫サイードに対しても抱いたことがない感覚。
 ライナスは髪に息がかかるほど近くでシエナに囁き、こう続けた。
「私の名前です。次、お会いする時は別の姿でしょうから、私だと分かるように、シエナだけに教えます。……私はシエナの味方です。これからも、ずっと」
 ライナスは華やかな笑みを残し、立ち去った。

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