第16話

文字数 8,943文字


 ※

「ちょっと、本当にこの辺りなんでしょうね。いないわよ」
 イーシンは双眼鏡を車の窓から突き出し、目を凝らす。
 周りは砂、岩、窪み、砂、丘、丘、石……しか見えない。
 双眼鏡で見渡しても人のいる気配はない。
「砂漠に人がいると思う。自殺行為よ」
 同じく、双眼鏡で反対側を探しているアーロンにイーシンは不満をぶつける。
 アーロンは双眼鏡を覗きながら、
「確かだ。イーシンの推測通り、シエナに送信機が装着されている。他の犯罪者とは異なる特殊な信号だ。その信号をたどればこの辺りで間違いない。移動速度から推測して、徒歩だ。俺が三日三晩かけてアメリカ軍のセキュリティを突破して入手したんだ、信じろ」
 イーシンは十言(こと)、二十言、百言ぐらい反論したかったが、今は見つけるのが先だ。双眼鏡を覗き込み、少しでも動く物はないかと目を凝らす。
 東の地平線から太陽が昇り、一時間が経とうとしている。気温は急速に上がり、日中になれば四十度近くに達する。それまでになんとしてでも見つけなければ。
 双眼鏡でくまなく辺りを見渡すが、やはり目に映るのは、岩、石、丘、石、岩、窪み、……砂……。
 ウェインは右肩と両脚を負傷し、歩くのが精いっぱいの状態だ。例えシエナが一緒でもこの砂漠を歩いて乗り越えられるとは思えない。敵が同伴していたらなおさらだ。
 焦りが募る。
 アーロンにはほぼ徹夜で三日間、シエナの居場所を探らせた。目の下真っ黒で魂が抜けかけたアーロンは、殴り書きのメモを掲げ、
「……シエナの居場所が……、……分かった……」
 と、テーブルに突っ伏した。
 ひったくったメモには緯度と経度しか記されていなかった。
「こんなんじゃわからないわよっ」
 マルクと二人でアーロンを揺さぶる。
 アーロンは目を閉じたままうわごとのように「……ち……ず……」と一言呟き、完落ちした。
 地図にはマジックで黒い点を付けていた。イスラエル南部にある、ネゲブ砂漠。
「ああっ」
 マルクは素っ頓狂な声を上げ、イーシンは絶句した。
 マルクは眠りこけるアーロンを肩に担ぎ、イーシンはリュックを背負い、パソコンを脇に抱え、地図とメモを手に、レンタルした四輪駆動車で出発した。
 そして今、イーシンは座席の真ん中に置いたノートパソコンの画面に顔を突き付け、白い印が表示された場所を確認する。
「まだわかんねぇのか」
 マルクはハンドルを荒っぽく叩き、イラついている。
「ああっ」イーシンは声をあげた。
「ここよ、すぐ近くだわ。もっとゆっくり、速度を落として、南に向かって……」
 緯度と経度、地形も、この辺りにぴったりと重なる。
「だから言っただろ。いるのは確かだ、探せ」
 アーロンが双眼鏡で窓の外を見ながら声を張り上げる。
 アーロンの情報収集力は信じるが、表示されているのはシエナの居場所だ。もし二人が一緒にいなかったら、もしくはシエナを救出できてもウェインの居場所を知らなかったら、ウェインを探し出す望みはぐんと低くなる。
 シエナとウェインが一緒にいることを信じ、イーシンは懸命に探した。
 車はゆっくり、人が歩く速度で動く。
 大きな窪みが点在し、ごつごつとした岩があちこちに突き出る。岩盤が突き出たような大きな岩もあれば、子どもの背丈ほどの小さな岩が二つ三つ寄り集まったものもある。
 岩が死角になり探しにくい。捜索に躍起になっている今は、岩も石も人に見える。
 イーシンは焦れた。
「おい、まだ見つからねえのか」
 焦っている時に限ってマルクがせっつく。
「うるさいわねっ、探しているわよ。あんたは運転に集中してっ」
「なんだとっ」
 マルクは怒鳴り、ぶつくさ文句を言っていたが、イーシンは完全無視し、双眼鏡を覗き込む。
「待って、あそこ。あれなに」
 視界の端に映ったものを双眼鏡で追いかける。
「とめて、車を停めて」
 車が停止する。イーシンは双眼鏡を覗き、さっきの物体を探す。
 地面から突き出た岩のすぐそばに薄茶色の布が目に留まった。砂と同化して気づかなかった。岩陰で何かが動く。
 一人は黒髪、もう一人は毛布を被り横たわっているが、きっと金髪だ。
「いた、二人いるわ。きっとシエナさんとウェインよ。あの突き出た小さな岩の近く」
「しゃあっ」
 マルクが車を急発進させる。九十度方向を変え、急加速する。
 弾みでイーシンは横っ面をシートにぶつけ、小さく呻いた。

 イーシンは車から飛び出し一目散に駆け寄る。
 はたと、足を止めた。
 岩陰にうずくまっていたのは、顔に火傷の痕があるシエナだった。シエナの背後にウェインが毛布をかけられ横たわっている。
 シエナは両膝立ちになり銃口をイーシンに向けていた。両手で銃を構え、瞬きをせず、表情は険しい。
 明らかにこちらを敵と認識していた。
 アーロンとマルクが一足遅く追いつく。
 シエナはマルクとアーロンにさっと目を走らせ、しかし、イーシンに向けて銃を構える。
 イーシンは片手でアーロンとマルクを制し、呼吸を整える。
 シエナは小柄でか弱い女性に見えるが、十人近い男たちを撃ち殺している。現場を見ていないが腕は確かだ。下手に動けば、即あの世行きだ。
 シエナは英語を話せなかったはず。イーシンは両手を軽く上げ、アラビア語で話しかける。
「私はイーシン。ウェインの仲間よ。こちらの大男はマルク、こっちはアーロン。あなたたちを助けに来たの。私たちは味方よ、信じて」
 シエナは警戒の色を込め、イーシンを見据える。
「安心して。私たちはウェインの仲間なの。あなたたちを助けにきたのよ」
 イーシンは努めて落ち着いた口調で説明する。
「……ウェインさんの、仲間……」
 シエナは小さく呟き、視線を揺らす。信じていいのか迷っているようだった。
 無理もない。
 サイードが治めるイラクの村が襲撃され、撃たれたシエナを病院に運んだ時、シエナは意識不明の重体だった。シエナにとってイーシンとマルクは、もちろんアーロンも初対面だ。
 イーシンは静かな口調で説明を続ける。
「イラクの村で、サイードの部下に銃で撃たれたシエナさんをウェインが助けたのは知っているかしら。意識がないシエナさんを病院に運んだ時、私たちもいたのよ。私たちはウェインの仲間で、誘拐されたあなたたちを助けに来たの。……信じて」
 シエナは戸惑いの色を浮かべ、落ち着きなく視線を動かす。やがて、銃を下ろした。
 どうやら信じてもらえたようだ。
 イーシンはほっとし、ウェインに目を遣る。
 さっきからウェインが動かない。この暑さの中、毛布をかけられている。
 シエナがウェインを振り返り、毛布の上からぎゅっと抱きしめる。
 ウェインは目を開けない。
「……ちょっと、見せてもらえる……」
 イーシンはかけられた毛布をそっとめくる。ぎくりとした。
 白い。髪も顔も唇も白く、目の周りだけ黒ずみ、老婆のようだった。肌は粉が吹き、唇はひび割れ皮がめくれ、頬の肉は削げ黒ずんでいる。頬骨が浮き、顎が尖り、顔が痩せて小さくなっていた。
 首に巻き付くように黒く太い痣がくっきりと残り、黒くなった首から頬へ伸びる血管が青く浮いていた。瞼は固く閉じピクリとも動かない。
 まさか。
 イーシンは毛布の中に手を入れ、ウェインの手を握る。冷たい、氷のようだ。頬に触れ、首に触れる。芯まで冷えきっていた。
 手首にも黒い痣があり、腕は痩せて細くなり、肘から手の甲まで伸びた血管が浮き出ていた。
 黒くなった手首に指を当て、脈をはかる。……分からない……。
 乾いて粉がふく口元に手をかざし、呼吸を診る、……分からない……。
 体温が極端に低い。この砂漠にいてなお……。
「ウェインさんを助けて下さい」
 シエナがイーシンの腕に手を置き、アラビア語で訴える。
 ずっと泣いていたのか、赤く腫れた目に涙が滲む。
 ――………………。
 医者でなくても分かる。一刻を争う。否、助からないかもしれない。
 イーシンはウェインを毛布で包み、抱き上げた。顔をしかめる。
 軽い。
 背中の筋肉はごっそりと落ち、肋骨が腕に当たる。抱き上げた拍子に皮膚がぽろぽろと落ちる。
 ゾワリと、悪寒が走る。怒りか、動揺か、恐れか。全身の毛が逆立ち、うなじがピリピリと痺れる。
 ――…………怪我で動けないウェインを、……よくも、ここまで……。
 衝き上げる嫌悪感に吐き気を覚える。
 シエナが毛布の端を整える。
「……アーロン、シエナさんを、お願い……」
「あ、ああ」
 自分でも驚くほど硬い声でアーロンに告げ、停めてある車へと急ぐ。
 何の反応も示さないウェインに、イーシンは抱く手に力を入れた。

 一番近い病院をカーナビで探し、車を走らせる。
 イーシンは後部座席にウェインを横たえ、持ってきた毛布で二重にウェインを包み暖める。
 アーロンは片言のアラビア語と身ぶり手ぶりでシエナに取り付けられた送信機の説明をしていた。
 シエナはアーロンに言われるがまま袖を腕までめくり、スカートをめくってふくらはぎを見せる。
 アーロンはテレビのリモコンのような形の探知機をシエナにかざし、全身をくまなくチェックする。シエナの左手首を執拗にさする。シエナは俯き、じっと耐えていた。
 シエナはムスリム(イスラム教徒)だ。こんなふうに親族以外の男性に肌を見せることも、触れられることにも慣れていないだろう。そろそろ止めてあげないと可哀そうだ。
 イーシンはアーロンに聞いた。
「シエナさんに取り付けられた送信機は見つかったの」
 アーロンはシエナから手を離し、困惑した表情で「あー」と首をガシガシ掻く。
 アーロンから解放され、シエナはほっとした表情で自分の手首をさすっていた。
「見つかった、んだが……」
 アーロンは言葉を濁し、鞄をごそごそと漁る。青いリストバンドを出した。
「送信機は左手首の皮下にある。おそらく注射器で埋め込んだんだろ。ひとまず、これを着けてもらって信号を遮断する」
「ああっ、マジかっ」
 運転中のマルクが素っ頓狂な声を上げる。
 イーシンはアーロンに聞いた。
「送信機自体を止めることはできないの」
「俺は体内に埋め込まれた送信機を壊したことがない。どんな影響があるか分からないんだ。まずは信号を遮断し、後で物理的に送信機を体外へ取り出してから破壊した方が安全だ。このリストバンドは信号を遮断する金属板が入っている。薄くて軟らかい材質だから痛くない。もしもの場合を考えて作っておいた」
「……わかったわ」
 イーシンはアラビア語でシエナに伝えた。
「左の手首に位置を知らせる送信機が埋め込まれているの。アメリカ軍に知られないようにそのバンドを付けてほしい」
 シエナは知らなかったらしい。
 アーロンに差し出された青いリストバンドをじっと見つめ、自分の左手首を何度もさする。
 信じてくれたようだ。シエナは青いリストバンドを受け取り、左の手首に巻いた。
 アーロンが付け加える。
「腕の確かな整形外科医に頼んだ方がいい。痕が残らないように取り出してくれる。俺は医者じゃないからな」
「……そうね……」
 アーロンを連れてきて正解だった。シエナの居場所を突き止め、ウェインを見つけ出せた。アーロン手製のリストバンドでシエナの手首に取り付けられた送信機もひとまず効果はなくなった。
 イスラエルに来るはめになった張本人ではあるけれど、後でお礼はしっかりさせてもらうけれど、今は感謝しかない。
 病院が見えてきた。二階建てのコンクリ建屋だ。こじんまりしていて、病院というより診療所という方がふさわしい。
 事前にウェインの容態を伝え、了解も得ているが、……適切な治療をしてくれるかどうか、疑わしい……。
 横たわるウェインは固く目を閉じ、身じろぎ一つしない。
 贅沢は言っていられない、一刻も早く診てもらわないと。
「おい、行くぞ」
 マルクが後部座席のドアを開ける。
 イーシンはウェインを抱き、病院の玄関をくぐった。

 点滴を施されるウェインを見届け、イーシンは待合室に戻る。
 マルクとアーロン、そして一人離れて座るシエナに分かるよう、アラビア語と簡単な英語を交え説明する。
「ウェインは体の全機能が低下しているらしいわ。医師に言わせると、生きているのが不思議だそうよ。栄養と薬を点滴し、意識が戻るのを待つしかないと」
 マルクは拳を握り、額と眉間に太い皺を作る。アーロンは神妙な顔で黙り、シエナは青ざめていた。
 イーシンはシエナを怖がらせないよう腰を屈め、目線を低くし、静かに声をかける。
「シエナさん、あなたも診てもらった方がいいわ。あいつらに捕らえられていたんですもの」
 シエナは大きく首を横に振った。
 イーシンはシエナの隣に腰かける。
「シエナさん、ありがとう。あなたがウェインを助け出してくれなければ、ウェインはとっくに死んでいたわ。感謝します」
 イーシンは静かに頭を下げる。シエナの手を取り感謝を伝えたいが、シエナは男性を恐れると聞いた、怯えさせるだけだと思いとどまる。
 シエナを怖がらせず感謝を伝える方法が、これだった。
 イーシンは頭を下げ、目を伏せる。重ねて礼を言った。
「心から感謝します」
「止めてください」
 シエナが鋭く言った。
「やめて、ください」今度は請うように。
 イーシンは頭を上げる。目が合い、シエナは視線を逸らした。
 シエナは深く俯き、声を絞り出す。
「……私に、お礼なんて言わないでください。……私は、……私は……」
 シエナは怯えたように体を強張らせ、小さな肩を震わせる。なにか、葛藤しているようだった。
「……疲れたでしょう。近くにお店があるそうだから、何か買ってくるわね。二階の病室を使っていいそうよ。シャワーもある。シエナさんは休んで」
「私はここにいます。ウェインさんが目覚めるのを待ちます」
 シエナは膝に置いた手を睨み、口をつぐむ。
 頑として動かないつもりだ。
「…………そう……」
 イーシンはぼうっと突っ立ているマルクとアーロンの腕をしっかと掴み、病院から連れ出した。

「おい、一人にしていいのか。危ないんじゃないか」
 マルクが後ろを振り返りつつ、渋々といった体(てい)でついてくる。
 イーシンは答えなかった。
 シエナに聞きたいことは山ほどある。誘拐され、どのような監禁状態だったのか。敵は何人いて、どんな場所に監禁されていたのか。ウェインと別々に監禁されていたのか、それとも一緒だったのか。どうやってウェインを連れ出したか。ウェインだけ、どうしてあれほど衰弱しているのか……。
 シエナは掠り傷一つ負っていない。健康面になんら問題はないようだった。なぜ、ウェインだけが、あんなに……。
 監視者の違いだろうか。ライナスか、それともハサドか。誰がウェインをあんな目に……。
 抱き上げたウェインの体は驚くほど軽く、全身の筋肉が落ちていた。痩せた体は強張り、関節も硬くなっていた。首と両手首、両足首がうっ血していた。
 おそらく誘拐されてから一度も飲食を与えられず、身動きが取れない状態で拘束されていたのだろう。
 急激な体重減少、カサカサに乾いた皮膚、低体温、徐脈、蒼ざめた肌……。内臓だけでなく脳にも損傷を起こしているかもしれない。
 極度の脱水状態に長時間さらされると人間はもって五日と聞く。誘拐されてから一週間が経つ。いつ心臓が停まってもおかしくない。
「どうした、ウェインはそんなに悪いのか」
 マルクがイーシンの顔を覗き込む。
 イーシンは返答に詰まった。
 ウェインは毛布にくるまれマルクは見ていない。抱き上げたのはイーシンで、マルクは触れていない。マルクは車を運転していたから気づいていない。もし、ウェインの状態を目にしていたら……。
 イーシンは頬に手を当て、波立つ感情をなだめる。手がやけに冷たくて、自分自身、酷く動揺していることに気づく。
「おい、ウェインはどうなんだ」
 マルクが眉間に太い皺を作り、怒ったようにイーシンに詰め寄る。
 〈ウェインは助からないかもしれない〉という言葉を辛うじて呑む。
「……医師に、任せるしかないわ。シエナさんが落ち着いたら、話を聞かせてもらいましょう。休憩を取って交代で付き添いよ」
「あの女はほっといていいのか。敵に狙われているんだろ」
「……その心配はないわ」
「なんでだ」
 マルクが間髪入れず聞く。
 イーシンは説明する気力がなかった。てみじかに言う。
「敵は、シエナさんがウェインを連れ出すのを承知で銃を持たせて逃がしたってことよ」
「どういう意味だ」
 マルクは太い両眉を寄せたり引き上げたりする。
「自分で考えなさい」
「おっ、おいっ、こらっ。ちっとも分からんぞ」
 マルクを無視してイーシンは近くの店に向かった。
「お前、説明しろ」
 マルクはアーロンの襟首を締めあげていた。

 病院は玄関を入ってすぐ待合室と受付窓口があり、待合室の右側にある通路に沿って一番手前の診察室兼処置室を含み三部屋が並ぶ。
 二階は二人用の病室が三部屋と共用のシャワーが設けられ、洗濯機と小さな炊事場もある。ウェインは一階一番奥の病室で治療を受けていた。
 意識はまだ戻らない。
 医師であり病院長でもあるエバンはウェインを見るなり、「生きとるんかの」とほざいた。
「なんですって」
 目を吊り上げるイーシンに、エバンは丸っこい目玉をくるりと上に向けた。
「ああ、この辺りは砂漠じゃからの。よく熱中症や脱水症の患者が運ばれてくるけん、慣れとる。わしの得意分野じゃ、心配せんでええ」
 エバンはぷっくりした頬にえくぼを作った。
 イーシンは殺気を込めてエバンに詰め寄り、
「よろしく、お願いします」と圧をかけた。
 医師のエバンはカー〇ル・サンダースが縮んで日焼けしたような容姿だ。一見、人当たりがよさそうに見えるが……。
 昼前になると、医師のエバンは白い口髭をさすり、こうのたまった。
「今日はどうしても外せん用事があるで、夕方には帰らしてもらう。看護師もおらんから、何かあったら電話してくれ」
 ――重体の患者を置いて帰るってそれでも医者なの。
 イーシンは襟首を締め上げてやりたかったが、元からこの病院は入院応需になっていない。強引に治療を頼んだのはこちらだ。帰るなとは言えない。
 それに、点滴を施す看護師から事前に聞かされていた。
「ここの院長、やる気がないんで夕方には帰ると思います。私も家庭がありますので残れません。ですからやり方を教えますので覚えて下さい」
 看護師のマイアは薬液の交換方法、体の拭き方、病衣の替え方等を丁寧に教えてくれた。
 シエナは真剣に看護師の説明を聞いていた。
「ウェインさんは女性なので私がします」
「あ、わたしも……」
 シエナと看護師に注目され、イーシンは両手をもじもじさせる。
「……私も、大丈夫(心は乙女)だから、サポートするわ」
 微妙な空気が流れ、イーシンは恥ずかしくなる。熱くなった頬を両手で押さえ、「きゃっ」と肩をすくめた。
 シエナと看護師はフリーズした。
 看護師のマイアは経験に基づいた知識があるらしく、作業をしながら論理的な説明をまじえ実践的なアドバイスをしてくれる。テキパキと手際もよく、非常に頼もしい。
 看護師のマイアが言うには、医師のエバンは診療所から数百メートル離れた自宅に住み、診療時間中でも度々家に帰る、そうだ。
 看護師はこう付け加えた。
「うちの院長はあてになりませんので、何かありましたら私に連絡下さい。親類に腕利きの医師がいますのでそちらに頼みます」
 そして夕方、診療時間終了五分前になると、医師エバンは鞄を肩に提げ帰ろうとしていた。
 通路にいたイーシンはマイナス三〇度の眼差しでエバンを見送る。
 エバンは黒くて大きな目をくるんと動かし、白い顎髭をさすり、朝と同じセリフを口にした。
「二階はあいとるから自由に使ってくれていいからの」
「……ありがとうございます。……たすかります……」
 イーシンは棒読みで礼を言った。
 実際、車で寝泊まりすることを考えれば非常に助かるのだが、どうにも素直に喜べない。
 図々しくもエバンは本心からの感謝と取ったようで、ぷっくりした頬にえくぼを作る。
「いやいや、ちょうど空いとったから気にせんでええ」
 エバンは白髪を撫で、恥ずかしそうに声を潜める。
「……実は、二階はわしの秘密の恋を育む部屋でな。変なものが出てきても気にせんでくれ」
 返答に苦しむイーシンに、エバンは「冗談だ。わしは愛妻家だ」とウィンクした。
「――――」
 イーシンは殺気を込めて拳を握った。
 ウェインが深刻な状態で冗談を口にする神経が理解できない。
 イーシンは深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせてから、エバンに尋ねる。
「警察には、知らせないんですか」
 ウェインの状態を診れば、普通の医者なら即座に犯罪絡みだと判断し警察に通報する。
 エバンは理由を聞かず、治療を優先してくれた。そして何も言わず、二階の部屋を貸してくれるという。好意はとても有り難いが、なぜ、という疑問が浮かぶ。……裏があるのではないか、と……。
 エバンはにこやかに言った。
「あんたらはあのハンサムな患者を助けたいんじゃろ。それでいい」
 エバンはただでさえ膨らんだ頬をさらに膨らませ笑みを作る。黒くて丸い目がふさふさの白い眉の下できらきら輝き、とても嘘をついているようには見えない。
 ――……私、どうかしてた。……こんな、いい人を疑うなんて……。
 イーシンは目頭を押さえ、素直に礼を言う。
「ありがとうございます」
 エバンは黒くて大きな目をくりっと動かし、白い口髭をさする。イーシンの袖を引っ張って通路の端に連れて行き、ひそひそと話す。
「それで、相談じゃがの。わしには妻と息子が四人、娘が三人おる。いくら人助けとはいえ金を稼がんと大事な家族を養えん」
「……ええ、そうですね」
 イーシンは何事かと、真面目に相槌を打つ。
「……お前さんは、カネは持っとるんかの」
「はい、多少は……」
 イーシンは正直に答える。
「そうか、そうか」
 エバンは安心したように胸を張る。
「では、二階の部屋の使用料もつけておくから、よろしく頼むよ。安くしておくからの」
 エバンはにんまり笑い、ぽってりした腹を揺らし帰って行った。

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