第13話

文字数 8,571文字

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 シエナは机の引き出しを一段、一段開ける。ペンやペーパーナイフを取り出し、引き出しの奥に手を入れ探る。椅子を動かし、机の下を覗き込み、ソファの隙間、ベッドの下をくまなく探す。
 シエナは二階ライナスの部屋に忍び入り、ウェインを拘束している金具の鍵を探していた。
 ライナスは一階のダイニングキッチンで料理をしていた。ダイニングテーブルに作ったばかりの料理を並べ、奥の部屋をノックする。ハサドという人の部屋だ。
 並べられた食器は二つずつ。ライナスはハサドと二人で夕食を取るつもりだ。
 探すなら今しかない。
 シエナは二階にあるダイニングキッチンを手始めに、バスルーム、用意された自分の部屋を探し、最後にライナスの部屋を探した。
 机の引き出しには何もなかった。椅子の下、ソファの隙間、ベッドの下にもない。
 ライナスがそろそろ戻ってくるかもしれない。気持ちばかりが焦る。
 シエナは苦し紛れに絨毯をめくった。
 何も出てこない。
 ――……これだけ探しても見つからないなら、もう一人の男が持っているのかしら……。
 時間がない。こうしている間にもウェインさんが……。
 シエナは仕方なく、二階のダイニングキッチンで見つけた麻袋に役に立ちそうな物を詰め込み、戸棚から水差しとコップを取り出す。水差しに蛇口で水を注ぎ、音を立てないよう慎重に階下へ下りる。
 一階のダイニングから話し声が聞こえる。まだ、ライナスとハサドは食事中のようだ。
 シエナは地下扉の把手をつかみ、音を立てないようゆっくり開ける。
 扉の向こうは真っ暗だった。
 シエナは暗がりに足を踏み入れ、音がしないように慎重に扉を閉じた。

 ランプの灯りが切れたらしく、ねっとりとした闇が佇んでいた。
 シエナは鍵を探している時に見つけた懐中電灯で足元を照らし、一段、一段、階段を下りる。
 覆いかぶさるような闇に、沈黙がこもる。
「……ウェイン、さん……」
 呼びかけても返事はない。
 声が闇に吸い込まれていく気がした。
 シエナは懐中電灯を手前から奥へ、右から左へ動かす。丸く照らされた明かりの中心にウェインが現れる。
 さっき見た時と同じ、後ろ手に繋がれ、跪かされ、首を鎖で繋がれていた。
 下を向き、動かない。
「ウェインさん」
 シエナは懐中電灯を地面に置き、明かりに照らされたウェインに駆け寄る。
 ウェインは固く目を閉じ、呼びかけても反応しない。
 シエナは持ってきたコップに水差しの水を注ぎ、ウェインの口元に持っていく。
「ウェインさん、これを飲んで下さい。水です」
 コップをウェインの口元に持って行くが、ウェインはピクリとも動かない。
 シエナは指を水で濡らし、ウェインの唇をなぞる。
「痛っ」
 指の腹に薄い線が二本すうっとでき、じわりと赤く滲む。
 シエナは訝り、俯き加減のウェインの髪をそっと上げる。プップップッ、顔に張りついた髪が抜けシエナの指に絡んだ。抜けた髪の毛にかさぶたのような皮膚片がついている。
 ヒッ。シエナは声にならない悲鳴をあげ、指に絡まった髪を払い落とす。髪がはらはらと床に落ちた。
 動かないウェインの横顔をシエナはおそるおそる覗き込む。
 シエナは息を呑んだ。
 肌がやすりをかけたようにぼろぼろで、頬や顎の皮膚が剥がれていた。剥けた部分が黄色い膜を張り光沢を帯びる。唇はひび割れ皮がめくれ、反り返る。指が切れたのはひび割れた唇が刃のように固くなっているせいだ。襟や肩、胸元が剥がれた皮屑で白くなり、……塗料が剥がれた土人形を思わせた。
 顔は青ざめ、目の周りは落ち窪み、頬は削げ、濃い影を落とす。頬骨が突き出て顎は尖り、ぼろぼろになった皮膚一枚下に顔の骨格が透けて見えるようだった。
 髪は麻糸のようにけば立ち、金具で繋がれた首は黒く、手錠をかけられた両手首は指先まで青黒く変色し、分厚い手袋をはめたように腫れていた。
 ……もしかしたら、足も……、という不安がよぎったが、怖くて確かめられなかった。
 ウェインは固く目を閉じ、動かない。
 どれくらいこの状態で繋がれていたのだろう。髪から足先まで砂埃を被り、睫毛にも砂埃が溜まる。髪も肌も服も白いのに、痩せこけた頬へ伸びる血管が青く透き通っていた。
 その姿はかつて見た、砂漠に埋もれた死体を思い起こさせた。
 シエナはコップを落とし、すとんと尻もちをついた。水が床に黒く広がる。
 シエナはガタガタと震えだす。涙が溢れ、口元を手で強く押さえる。
 ――……だめ、ウェインさんが死んでしまう……。
 体は震え、涙が頬を濡らす。シエナはウェインににじり寄り、ウェインの肩を揺する。肩が痩せて、服の上からでも骨の感触が手に伝わる。
 服がだぶついているのは急激に痩せたから。そう思うと、涙が止まらなくなる。
 シエナはウェインの肩を強く揺すった。
 ウェインは目覚めない。
「ウェインさん、目を開けて下さい。ウェインさんッ」
 声が地下室に反響し、その大きさにシエナはビクッとなった。
 地下の暗さに改めて気づく。懐中電灯が照らす範囲以外は、漆黒だった。
 シエナは暗闇から目を離せなくなる。
 全身の力が抜け、ぺたりと座り込む。
 シエナは夜が恐ろしかった。暗闇はおぞましい記憶を呼び起こし、あるはずのない幻影を見せつける。
 暗闇が迫ってくる。伸び上がり、膨らみ、意思を持って向かってくる、獲物を呑もうと。
 歯がカチカチと鳴り、涙が止めどなく流れる。
 目の前が暗黒に包まれた。

 十七歳だった。
 内戦続きで畑は荒れ、数か月かけて育てた穀物は収穫を待たずに枯れた。わずかに採れた作物を売りに町に出た父は戦闘に巻き込まれ、右足を切断する大怪我を負った。
 故郷を離れ国外へ逃れる住民もいたが、歩けない父と幼い弟を連れ、言葉も文化も異なる国で、暮らしを一から立て直す勇気はなかった。それに、周辺の国でも戦争が続き、安心できる場所はどこにもなかった。
 私は年の離れた弟を背負い、働けなくなった父の代わりに、母と二人で荒れた畑を耕した。
 食うや食わずの暮らしだった。それでも父がいて、母がいて、幼い弟と眠りにつく日々は幸せだった。
 山菜が採れ、久しぶりに家族で夕食を囲んでいたあの日、銃を持った男たちが家に押し入った。
 止めようとする父を撃ち、叫ぶ母を銃で殴り、小さな弟を床に叩きつけた。
 半狂乱になって泣き叫ぶ私を男たちは引き倒し、手足を押さえつけ、砂糖に群がる蟻のように私の体を貪った。
 ぬめぬめする舌が頬を舐め、舌を尖らせ唇の隙間をこじ開けようとする。唇を引き結び、歯を食いしばる私を、男は殴打した。打たれた頬が熱く、耳鳴りがし、唇の端から血が滴る。太い舌が歯を押し開き、口の中へ押し入る。ねばねばした男の唾液が口腔内に溢れ、喉の奥を滑り落ちていった。
 手首が折れそうなほど強く押し付けられ、大きな体にのしかかられ、首筋を舐められ、胸の先を弄られる。息を殺し耐える間も、ごつごつした手が左右から伸びてくる。胸を握り、脇腹をつねり、脚を噛む。引っ張られた髪がぶちぶちと音を立て、ばらばらと抜ける。
 私はこらえきれず悲鳴を上げた。
 一瞬、男たちは手を止め、充血した目で見下ろす。のしかかっていた男が涎を垂らし、ニヤアと笑った。
 男は荒い息でズボンを膝まで下ろし、赤黒く屹立したものを露わにする。凍りつく私を、男はいたぶるように眺める。
「はやく、やれ」他の男たちが急き立てる。
 男は私の内腿に手をかけ脚を大きく押し開いた。左右に開いた両脚を高く持ち上げ、大きな体でのしかかる。体をよじり抵抗する私の両脚の狭間に硬いものを押しつけ、ぐりぐりと強く押し、一気に突き上げた。
 ッツアッ。裂かれる痛みに身をよじり、泣き叫ぶ。
 歓声が上がり、男は狂ったように何度も激しく突き上げる。
 貫かれる度に食いしばった唇から悲鳴が漏れ、涙が流れる。
 男たちは狂喜し、私を代わる代わる責め立てた。男たちの汗が顔に滴り、唾液が胸を濡らす。
 男たちが腰を動かす度に体が上下に揺さぶられ、己の内側がちゃぷ、ちゃぷと耐え難い音を立てた。
 喉は枯れ、涙は乾き、私はなぶられるまま天井を見ていた。
 男たちは一人、また一人と離れ、家族で囲んでいた食事を食べ始める。
 私は全裸で横たわり、ぼんやりと天井を見ていた。
 両脚の狭間がズキズキと痛み、腹の奥が痛くて重くて、何より、下腹部や内腿に溜まった男たちの体液が気持ち悪かった。
 顔が、首が、胸が、身体中が痛くて、男たちの唾液と汗でべとつく。どろりと、両脚の狭間から熱いぬめりが流れ、尻を伝う。おぞましさに血の気が引いた。
 横たわる私に、焼けた火かきが赤く輝く。
 男たちはニタニタと笑い、私を見下ろす。真っ赤に焼けた鉄の棒を近づけ、私の顔に押し付けた。
 アアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーッ。
 火かきを押し当てる男の腕を強く握る。男は力を緩めず、私は叫び両手指の爪が食い込むほど男の腕を握る。男に突き飛ばされ、床を転がる。顔を手で覆い壁にぶち当たり、壁を伝い男たちの歓声から逃げる。隅に体をぶつけ、顔を庇ったままぐるぐるとそこらじゅうを逃げ回った。
 悲鳴と歓声が耳に響く。片隅に体を押し付けガタガタ震え、顔から立ち昇る白い煙に、肉が焦げる臭いに、狂乱する。
 ヒッ、ヒッ、ヒッ、喘ぐような悲鳴が喉を衝き、滂沱の涙を流す。白い気体となって涙が蒸発し、瞼がずるりと剥ける。顔を覆った手に血肉がべっとりとついた。
 痛みや熱さより生きたまま顔を焼かれる衝撃に絶叫する。
 男たちの歓声が私の悲鳴と重なり合う。
 血に染まった手がぶるぶる震える。全身の毛が逆立ち、鼓膜が裂けるほど喉が擦り切れるまで泣き喚き、ガチガチ鳴る歯で絶叫する。
 額から血が噴き出す。
 私は発狂し、泣き叫び、血を吐いた。

 シエナは地べたに座りこみ泣いていた。
 ……とうに、心は壊れていた。体はボロボロだった。顔を失い、子を成せなくなった。
 暗闇を恐れ、己を忌み嫌い、男たちを憎み、世界を呪った。汚れた身体を引きずり、くすぶる憎悪をひた隠し、子を失くす悲しみを繰り返した。
 夫だけが救いだった。
 夫だけが、焼け爛れた顔を「美しい」と言ってくれた。汚れたこの身体を愛してくれた。己の醜い衝動すら、「素晴らしい」と讃えてくれた。夫の愛撫に応えられぬこの身に、夫に繋がる新たな命を宿せぬこの私に、夫は過分な愛情を注いでくれた。
 その夫を奪った女……。
 シエナは振り返り、背後にいるウェインをじっと見る。
 〈サイードを奪ったウェインをなぜ助けるのですか〉
 ――……なぜ、私はウェインさんを助けようとしているのだろう……。
 このまま放っておけば、手を出さずとも、死ぬ。このまま何もしなければ、勝手に死んでくれるのに、どうして私は……。
 シエナは涙を流し、呆然とウェインを見つめた。
 ウェインの唇が動いた。
 ――……………………。
 シエナはウェインの横顔をぼんやりと見つめる。蒼白な肌に青い血管が透ける頬は不気味で、……どこか幻想的だった。衰弱してもなお美しい女に胸がざわつく。
 唇が動く、今度ははっきりと。
 ――…………。
 シエナは上体を傾け、首を伸ばし、ウェインの口元へ顔を近づける。
 砂埃が積もり白くなった睫毛が震え、微かに瞼が開いた。
 ドクンッ。心臓が跳ねる。
 薄く開いた瞼の隙間から覗く目は濁り、虚ろで、何も映していない。今にも閉じてしまいそうだった。
 シエナは息を呑んだ。もう少し待てば……、そんな思いがよぎって。
 干からびた唇が、また動く。何を言おうとしているのか、聞こえない。
 シエナは少し、ほんの少しだけウェインの唇に耳を寄せ、唇の動きを、声にならない言葉を聞き取ろうとした。
 …………二……ゲ……ロ……。
 唇から漏れた吐息に混じる、微かな音。聞き逃しても不思議ではないほど、小さな吐息。
 けれど、
 確かに聞こえた、――逃げろ、と。
 シエナはウェインの横顔をひたと見つめる。目は澱み、視線は合っていない。薄く開いた目は今にも閉じてしまいそうだった。それでも。
 ――……私に、……逃げろと……。
 こんなに酷い目に遭って、意識も定かでない状態で、それでも、逃げろと。
 ……私に……、……こんな、私に……。……どうして……。
 シエナは深く項垂れる。ぎゅっと顔をしかめ涙を絞り、顔を上げる。
「ウェインさんも一緒です。ここから逃げましょう」
 ウェインは反応しない。
 衰弱が激しい。早く、早くここから出ないと。
 ウェインを拘束する金具が光る。鍵はない。
 ――……何か、切る物を……。
 ギィーッ。扉が開く音がした。コツ、コツ……。誰かが階段を下りてくる。
 シエナは息を呑み、隠れることも逃げることもできず、暗闇を見つめた。
「食事を持って行ったのですが、部屋にいないものだから探しました。ここに居たのですね」
 シエナはビクッと体を震わせる。
 地面に置いた懐中電灯の向こうに “なにか”がいる。
 ライナスだと思うのに、……声が違う。いつもの穏やかに澄んだ声ではなく、ゾッとするほど冷たい。柔らかさも、温かみも感じられない、無機質な声。
 暗闇からライナスが現れる。片目が光っていた。
 何の感情も表わさない、人形のような表情に、シエナは戦慄する。
 ライナスは仮面のような表情で唇を薄く開く、――嘲笑うように。
「シエナに、こそ泥の真似事ができるとは知りませんでした。……探し物はこれですか」
 チャリッ。ライナスは鍵の束を見せ、口角をわずかに上げる、――嗤うように。
 声音は変わらず、冷たく、硬い。
 首筋を冷たい汗が伝い、呼吸が速くなる。シエナは気取られまいと冷たく痺れる手を握りしめ、ライナスの目を真っ直ぐに見る。
 不意にライナスは上を向き、顔を左から右へ動かし、天井を眺める。仰向いたまま首を微かに傾け、視線をシエナに向ける。気だるげに、醒めた目で問う。
「それ、助ける必要、ありますか」
 それ。ウェインのことだ。
 ガラクタを見る目つきに、足元から頭のてっぺんへ悪寒が突き抜ける。心臓を鷲掴みにされ、肺を握られたような衝撃に全身の熱がサーッと引いていく。
 ライナスは再び上を向き、首をほぐすように回す。表情は見えない。両腕をだらりと下ろし、動かなくなる。電池が切れた人形を思わせた。
 いつも穏やかに振る舞うライナスとは違う、全くの別人がそこにいた。
 シエナは悟った。
 これが本当のライナスなのだ。安心させるために紳士を装っていただけで、こちらが本当のライナスなのだ。今までの優しさは偽りで、今、目の前にいるライナスが本当の姿なのだ、と。
 ――……勝手に、私が期待していただけ……。この人ならと……。
 シエナは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。そうしないと泣きそうだった。
 シエナは震える足で立ち上がり、隠し持っていたナイフを構える。前の家を発つ前に、ライナスの目を盗み、キッチンから持って来た果物ナイフだ。
 シエナは両手でナイフを握り、刃先をライナスに向ける。
「……鍵を、渡して下さい。ウェインさんを助けます」
 ライナスは首をぐるりと回し、仮面のような顔を向ける。
「可愛い武器をお持ちですね。私は銃を持っています。立ち向かえるとでも」
 ライナスはシエナに銃口を向け、手の中でチャリチャリと鍵束を弄ぶ。
 感情の一片も、ためらいも感じられない、仮面のような表情。石ころでも見るような醒めた目だった。
 シエナは刃先をライナスへ向け、強く言う。
「鍵を、鍵を渡して下さいっ」
 震える手でナイフを構え直す。声はヒステリックで、膝は情けないほど震えている。怖かった。怖くてライナスを直視できなかった。荒い息を繰り返し、目を眇め薄く開いた瞼の向こうに立つライナスを見据える。
 はぁっ、はぁっ、はぁっ……、息を吐き出す音が暗い地下に響く。
 ライナスは鍵の束を弄び、気だるげに、不思議そうにシエナを眺める。
 ライナスは鍵の束を持つ手を下ろし、銃口はシエナに向けたまま、ゆっくりと近づく。
「……分かりませんね。どうして助けようとするのですか。貴方は家族も尊厳も失い、サイードだけを頼りに生きてきた。その最愛の夫はウェインに想いを寄せ、貴方は捨てられた。サイードは戯れで貴方を傍に置き、躊躇なく捨てたのです。貴方は何もかもを失い、この世界に絶望し、全てを憎んだ。……それが、……どうして……、よりにもよって、夫を奪ったウェインを助けようとするのですか」
 シエナは答えられなかった。ナイフを構え、近づくライナスに刃先を定める。
 ライナスが一定の距離を保ち、立ち止まる。銃口はシエナに向けたまま。
「……そうしていると、毛を逆立てた猫のようですよ。……私が、怖いですか……」
 シエナは答えなかった。荒い呼吸を繰り返し、ライナスを見据える。
 ライナスはすっと視線を反らし、考えるように首をわずかに傾ける。表情は、ない。
 やがて、手の中で弄んでいた鍵の束を握り、銃口を下げた。
「……ご安心を。私は貴方に危害を加えません」
 ライナスは銃と鍵の束をポケットにしまい、敵意はないと示すように両手の平を見せる。
 表情が温かさと柔らかさを感じさせるものに戻り、声は穏やかなそれへと変わる。
「……シエナ、いったんここを離れましょう。ウェインは怪我で左手しか動かせない。衰弱も激しい。助けても無駄です」
 落ち着いた口調だが、有無を言わせぬ響きがあった。
「さあ、こっちへ」
 ライナスは手を差し出す。
 シエナは叫んだ。
「嫌ですっ。私はウェインさんを助けます」
 ズボンのポケットから覗く鍵を認め、シエナはライナスに刃先を向ける。
「それを、鍵を渡してください。ウェインさんを解放します」
「……シエナ、ウェインから離れて下さい。ウェインに関われば、私とハサドの取り決めは無効になります。ハサドが貴方に危害を加えても、私は貴方を守れません」
 ――…………。
 ライナスが上を向いていたのは監視カメラを気にしていたからだと、シエナは気づいた。裏切ったも同然の私を、ライナスは怒っていてもなお、気にかけてくれるのかと、胸が痛んだ。
 けれど、ここで引くわけにはいかない。
「構いません。私はウェインさんをここから連れ出します」
 ライナスが笑いをこらえるように顔を歪める。
「周りは砂漠です。女性の足で越えるつもりですか。死にかけたウェインを担いで」
「……ここにいれば、ウェインさんは助かりません。私の力では貴方がた二人からウェインさんを守れない。死んだ後もハサドという人に誇りを汚されるくらいなら、ここを出た方がましです。ウェインさんならそう思うはずです」
 シエナは断言した。
 ライナスはシエナをぼんやりと眺めていたが、突如、つかつかと歩み寄る。
「来ないで、……あっ」
 カランッ。
 シエナが向けたナイフをライナスは軽く手で払い、ウェインの傍らに膝をつく。
「止めてっ、何をっ」
 ライナスは無言でポケットから鍵を取り出し、ウェインを拘束している金具を外した。
 ウェインが静かにくずおれる。
 ウェインは薄く目を開き、虫の息だ。痩せ細り、服がだぶつく。首は黒く太い痣が残り、繋がれていた手足は黒く変色し腫れていた。拘束が取れても両手首は後ろに向き、両膝は跪く形で曲がっている。
「……ひどい……」
 改めてウェインの状態を目にし、シエナは口元を押える。
 ライナスはウェインの肩を掴み仰向けにし、ウェインの口を指でこじ開ける。水差しの注ぎ口を咥えさせ、水を流し込んだ。
 コポコポコポ……。
 ゴボッ。ウェインの体が大きくはねる。
 ライナスはウェインの顎を掴み、何事もないように水を注ぎ続ける。
 ゴボッ、ゴボッ、ゴボッ……。
 ウェインは顔を背ける素振りをし、手を弱々しくあげる。
 ゴボォッ。
 大量の水が口から溢れる。注ぎ口が外れ、ウェインの顔と髪を濡らし床に流れ落ちる。
 ライナスが手を離した。
 ゴボッゴボッゴボッ……。
 ウェインは地面に伏し激しく咳き込む。地面にしがみつくように突っ伏し、小刻みに震える。
「なにをっ。なにをするのです。ウェインさんっ」
 シエナはライナスとウェインの間に割って入り、ウェインの背中をさする。肋骨のごつごつした感触が手に伝わった。
 ウェインはぐったりと横たわり、ヒュー、ヒュー……、と、掠れた息を繰り返す。薄く開いた目は虚ろで、焦点は定まっていない。
「ウェインさん、大丈夫ですか。ウェインさん」
「水は与えました。どれくらいもつかはウェイン次第です」
 立ち上がり、ハンカチで手を拭うライナスを、シエナは呆然と見上げる。
 背中を向け立ち去るライナスは、しかし、くるりと振り向き、床に何かを置いた。
「せん別です。……幸運をお祈りします」
 ライナスは薄く笑い、階段を上って行った。
 暗闇に光るそれは、――銃だった。

 シエナは麻袋を肩に提げ、ウェインを支え、家の外へ出る。
 暗闇が眼前に広がり、生温い風が肌を撫でる。
 澄んだ夜空に大きな月がひと際明るく輝き、無数の星が煌めく。
 腰に提げた懐中電灯が足元を照らす。
 ――……大丈夫……。
 シエナは足元を照らす灯りを、夜空に輝く満天の星を、ひと際明るい大きな月を見つめ、歩き出した。
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