第4話
文字数 3,903文字
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黒カビが生えたコンクリートの部屋。窓はなく、灯りは通路から入る照明を頼りに寝起きする。
硬いベッドに薄汚れた寝具、小さな洗面台と仕切りのない便器、食事用のトレイを置く小さな棚、それで全てだった。下着は三日に一回、黄ばんだ囚人服とシーツは一週間に一回、洗濯した物と交換される。
寝起きするスペースしかない、窮屈な牢獄。
天井に取り付けられたカメラが常に囚人を監視する。
就寝の時間以外はベッドに腰かけ、壁のシミを見ている。食事はトレイが通るくらいの細い隙間から受け取る。カートで運ばれてくる食事の数は常に一つ、同じフロアから声はせず、ひっそりとしている。他の囚人はいないようだった。
外から施錠され、出られるのは一日十五分の運動と三日に一度の入浴、そして三日に一度の診察の時だけ。
巡回する監視員が二人、鉄格子の扉ごしに目を光らせる。
「四十六番、出ろ」
私は扉の前に立ち、両手首を差し出す。
監視員がガチャンと重い音をさせ、鉄の格子扉を開ける。
私は手錠をかけられ、二人の監視員に挟まれ、診察室に向かった。
「気分はどうですか。朝食は食べられましたか。……シエナさん」
シエナは口を閉ざす。
いつも番号で呼ばれ、命令されることに慣れてしまっている。
医師は初めて会った時から番号ではなく名前を呼び、命令ではなく、優しく尋ねてくる。
それがシエナには過ぎた待遇だと思えた。テロリストの妻である自分には……。
診察室は天井に監視カメラが取り付けられ、医師の背後にはマイクが固定され、カメラとマイクを通し、診察の様子や医師との会話は別室にいる監視員に届く。
診察中は手錠を外されるが、中から鍵はかけられず、扉の外には常に銃を携帯した監視員が二人控え、ほんのわずかな物音でも飛び込んでくる。
診察室とは名ばかりの犯罪者を尋問する部屋だ。
医師はそれを知っているはずなのに、尋問するどころか、気遣ってくれる。診察の度に医師は持参した紅茶を手ずから淹れてくれる。
囚人にお茶をふるまい、尋問もせず、会話を楽しむ。
この医師は解雇されるのではないかと、シエナは医師の処遇を案じた。
しかし、医師は変わらず三日に一度シエナと面会し、とりとめのない会話をする。
温かい言葉を、労りの言葉を、かけてくれる。
イラクの村で銃撃を受け、一命をとりとめた。病室のベッドの上でようやく体を起こせるようになった頃、迷彩服を着た男たちに連れ出され、この刑務所へ連れて来られた。移動中、窓は塞がれ、説明もなかった。
ここがどこか、シエナは知らない。
連れて来られた理由は、夫サイードが武装組織の指導者で、大きな事件を起こしたから。シエナもまた、夫の悪事を見て見ぬふりをし、そればかりか、何人もの男たちの命を自らの手で奪った。
死刑になってもおかしくはないし、むしろ、死刑にしてほしい。ずっと、そう願っている。
毎日繰り返される長時間の尋問は、『サイードの計画を知っていたか』、『お前はどんな役割を担っていた』、『サイードがどこへ逃げたか心当たりはあるか』など、シエナには答えられない質問ばかりだった。
黙っていると怒鳴られ、脅され、髪を引っ張られた。
尋問中に幾度、気を失ったか分からない。激しい尋問は昼夜を超えて続き、時間の感覚も、痛みすら感じなくなっていた。
ベッドに腰かけ、黒ずんだ壁を眺め、一日を過ごす。静寂に浸るように、暗闇に沈むように、心を空っぽにして。
全く反応しない女が精神的に病んでいるように見えたのか、尋問は和らぎ、時間も驚くほど短くなった。そして、三日に一度の精神科医による診察が行われた。
精神科医は夫のことを聞き出そうとはせず、お茶を淹れ、穏やかな時間を与えてくれる。
この医師が来てから、シエナはずっと息がしやすくなった。
暴力と暴言は止み、穏やかな時間が流れる。……けれど、医師と会う日は心がざわついた。
ぽっかりと空いた穴に風が吹き抜け、さざ波が立つ。爪で引っかかれるような痛みに、シエナはじっと耐えた。
今更優しい言葉はいらない。希望はいらない。もう、終わりにしたい。
シエナは診察の度に硬い声でお願いした、――「私は罪を犯しました。名前は捨てました。番号で呼んでください」と。
今日も同じ願いを口にする。
「名前は忘れました。番号で呼んで下さい」
医師はいつものように、やんわりと断る。
「名前はあなたがあなたであるという証です。番号でいい人間なんて一人もいませんよ。シエナとは『美しい』という意味だそうですね。貴方にぴったりだと思います」
見え透いた嘘に、シエナは深く俯く。
ここではニカブで顔を隠すことは許されなかった。部屋と称する監獄に鏡はない。だから、額から目元にかけて酷い火傷の痕があることを忘れていた。
額はしこりができ、瞼は引きつり欠けている。火傷が残る顔を目にした誰もが嫌悪感を露わに眉をひそめるか、顔を背けるか、険しい目で注視した。
医師の言葉は、シエナの顔に二度と治らない醜い傷痕があることを思い出させた。
医師は少し間を置き、穏やかな口調で言う。
「美しさは姿形だけでなく、精神にも表れます。シエナさんは外見も美しいですが、内面はそれ以上に素晴らしいと、私は思いますよ」
――……美しい、私が。姿形だけでなく、心も……。
胸を、冷たい風が吹き抜ける。
元夫サイードもよく『シエナは美しい』と口にしていた。うっとりするように笑み、熱い眼差しで妻である私を見つめた。しかし、最後は私を捨てていなくなった、――夢を叶えるために。
医師は重ねて言う。
「シエナさんは美しいですよ。誰もが絶望するような状況で、あなたは希望を失っていない。一見か弱そうで、実はなにものにも侵されない強さを秘めている。私はそこがとても美しいと思います」
喉がつかえるような気持ち悪さと、身震いするような寒気に襲われる。
何もかも分かっているかのような口ぶりは元夫サイードを彷彿とさせた。
何度も醜いこの顔を見つめ『美しい』と囁いた夫、その度にシエナは強い違和感を覚えた。夫は目の前にいる私(現実)ではなく、ここにはない何か(幻影)を見ているのではないかと怖くなった。それと同じ感覚を今、目の前の医師に感じている。
シエナはわずかに視線を上げ、医師を盗み見る。医師は小首を傾げたが、秘密を打ち明けるように目配せをした。
「……実は、私はあまり人の造形に興味がないのです。美醜に疎いというか。顔形、声、地位も名声も、私にとっては何の意味もなしません。例えどれほど美しい容姿でも、老いや事故で簡単に失われる。どんなに美しい声もいずれ衰える。地位や名誉も死んでしまえば、いいえ、仕事を退けば過去になる。
目に見えるものはもちろん、目に見えぬものも全て、移ろいやすく儚いもの。私にとっては意味をなさないのです」
全てを包み込むようでいて、全てを突き放すような物言いは、優しいようでいて、虚しい。
――……全てが意味をなさないのならなぜ私を美しいと、私の内面を美しいと語るのですか。私の何を知っているというの。
医師は優しく微笑みかけてくれたが、シエナは目を反らした。
医師を取り巻く温かな空気、緩やかな時間、労りの言葉、穏やかな会話……、何もかもがシエナは苦手だった。
全てを失った。神も、一欠けらの救い(夫)も、夫への愛情も執着も、何も残っていない。
虚ろだった。
医師は唐突に尋ねる。
「サイードに会いたいですか」
シエナは首を横に振った、強く、大きく。
「では、ウェイン・ボルダーに会いたくありませんか」
シエナははっとし、穏やかに笑む医師を食い入るように見つめる。
「……ウェ、イン、……」
医師は笑みを浮かべたまま、こくりと頷く。
「ウェイン・ボルダーはサイードが消息を絶つ直前まで一緒にいました。サイードはウェイン・ボルダーの右肩と両脚を撃ちながら命までは取らなかった。……あなたを捨てた夫が、姿を消す直前、ウェインと何を話したか。彼女から直接聞きたくはありませんか」
シエナは弱々しく頭を振った。
「……どうでも、……いいことです。……聞きたく、ありません。会いたく、ありません」
ウェイン・ボルダー。
元夫サイードに愛され、殺されかけた人。波打つ金の髪、月光を思わせる銀の瞳、凛とした佇まいの美しい女性だった。赤金の髪、トパーズの瞳を持つ夫にふさわしい。何より、夫と対峙するほどの強さと気高さを併せ持っていた。
髪も目も、肌も黒い、顔に火傷の痕がある私とは違う。夫の罪を知りながら遮二無二しがみついた私とは正反対の人。
――……やはり、生きていた。
あれは夢ではなかった。
死の世界へ落ちかけた私を呼んだ。死の淵から目覚めた私の傍に立っていた、心配そうな顔で。
夢ではなかった。
シエナは体を硬くし、目の前に置かれた茶器を見つめた。
医師が腕時計を見る。
「次の約束があります。そろそろ行かなければ……」
診察の終わりを告げられ、シエナはほっとした。
今日はいつもより短い時間だったにもかかわらず、酷く疲れた。
触れられたくない部分を探られ、思い出したくない記憶を呼び起こす質問が多くて……。
シエナは目を伏せ、医師が退室するのを、監視員が入ってくるのを待った。
医師は席を立ったまま動かない。部屋の外に待機している監視員も入ってこない。
シエナは訝り、顔を上げる。
シューッ……。白い気体を浴びた。
「……あっ……」
医師は小さな缶がついた透明のマスクを口に当てていた。
視界が霞み、意識が遠のく。
医師は穏やかに笑んでいた。