第11話

文字数 5,357文字


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 ギィーー、ガタンッ。金属音が静寂を裂き、暗闇に沈む空気を震わせる。
 ウェインは体を震わせ、細い息を吐く。ズキズキと痛む両目を薄く開き、耳を澄まし、気配をうかがう。
 硬い靴音をさせ、誰かが階段を降りてくる。革靴の音だ。それとは別に軟らかい足音が聞こえる。一人ではなく、二人。
 ウェインは息を潜め、近づく二つの足音に全神経を集中する。
 足音が止まる。人の気配はするが、痛みで目が思うように開かない。
 乾いた眼球が瞼の裏で傷つかないよう慎重に、もう少しだけ瞼を上げる。
 やっと現れた敵だ、見逃すまいと全神経を研ぎ澄ます。
 姿は見えない。目は今にも閉じようとする。
 背後から覆いかぶさる睡魔に必死に抵抗し、辛うじて開いた目で、いまだ姿を見せぬ敵の気配を探る。
 容赦なく襲う睡魔に首がぐらぐらし、頭の芯が焼ききれる。意志に反し、瞼が落ちていく。
「さあ、ここにあなたが会いたがっていた人がいます。そこからでは見えないでしょう。もっと近くに」
 聞き覚えのある声に、堕ちかけた意識が記憶とともに甦る。
 ――……この、こえ、……。
 ウェインは目を押し開く。ザリッと目に激痛が走り、まばゆい光が弱った目に射し込み、一瞬、昏倒した。
 錐(きり)で目を抉られ、巨大なペンチで頭蓋を締め上げられる痛みを振り切り、ウェインはカッと目を開く。痛みと睡魔で意識が混濁するなか、歯を食いしばり、目を見開き、暗がりを凝視する。
 ランプの灯りの向こう、暗闇から姿を現したのはライナス、ではなく、小柄な女性だった。
 ――…………………………。
 目に映る者と、記憶に残る人物が重なるまで長い時間がかかった。
 額から目元にかけてある火傷の痕、真っ直ぐに伸びた黒髪、瞳孔と虹彩の区別がつかない黒い目、少女と見間違う細い肢体…………。
 間違いなく、シエナだった。
 ライナスがシエナの傍らに立ち、シエナの細い肩を抱き寄せる。
 ライナスは笑みを浮かべ、ウェインを見下ろす。
 ……シ、エ、ナ……。
 唇を動かすが、声にはならず、干からびた喉にすきま風が通る。
 ウェインは呆然とシエナを見つめ、再び唇を動かした。
 ……な、ぜ……。
 下顎にはりついた舌を吐息が削る。声を発する力は既に失っていた。
 ウェインは己の目に映る光景が信じられず、ただ、ただシエナを見つめる。
 ライナスはシエナの肩を抱き寄せ、嘲笑う。
「シエナ、ここは空気が悪い。上で休憩しましょう。昨日、いい茶葉を見つけたんです。お淹れします。きっとシエナも気に入ると思います」
 ライナスは嘲りの笑みでウェインを一瞥し、シエナの肩を抱き、灯りの向こうへ消えた。
 扉が重い音を立てて閉まる。
 地下室は再び、静寂に閉ざされた。

「ウェインはずいぶん驚いていましたね。亡霊でも見たような顔でした。あれだけ驚かれるとつい、意地悪をしたくなりました」
 ライナスは笑って抱き寄せていたシエナの肩から手を離す。断りなく体に触れた非礼を詫び、昼食の準備を始める。ライナスはお湯を沸かす間も上機嫌だった。
 シエナは袖をぎゅっと握り、頼んだ。
「……ウェインさんを、……出してあげてください……。……あのままでは、死んでしまいます……」
 自分でも驚くほど声が震えていた。動揺を隠せないでいた。
 あの美しかったウェインさんが、組織を率いる夫の隣に立っても遜色がなかったウェインさんが、見る影もなかった。
 波打つ金の髪はささくれ、銀にも光る灰色の目は赤く濁り、浅く焼けた肌は蒼ざめていた。均整の取れたしなやかな体躯はどこにもなく痩せ細っていた。
 いつから拘束されていたのだろう。目の周りは黒ずみ、頬はこそげ落ち、顎が尖り、顔が小さくなっていた。唇は白くひび割れ、皮膚一枚下を這う青い血管が首から頬にかけて透けて見えた。
 変わり果てたウェインにシエナは声を失った。
「……ね、がい、です……。ウェインさんを、……解放してください……」
 シエナの頬を熱いものが伝った。
 ライナスは茶器を揃える手を止める。ガスを止め、興ざめしたように冷ややかに言う。
「……意外ですね。貴方が泣いてウェインの命乞いをするとは……。憎んでいる、まではいかなくても、庇う理由が分かりません」
 シエナははっとし、おそるおそる己の頬に触れる。指先が濡れた。
 涙など、忘れた。もう、泣くことはないと思っていた。
 夫に捨てられ、心は乾ききり、空洞のような体だけが残った。枯れ木のような体を引きずり、死を待った。夫に愛されていなかったと悟ったあの日に、希望も、期待も、救いも、執着も、未練も、あらゆるものを捨てた。
 ――……どうして、私は泣いているの……。……泣いて、夫を奪った女性を救ってくれと、懇願しているの……。
 自分にはない美しさを羨んでいた。夫と対峙できる強さを、気高さを、妬んでいた。姿を消した時、これで夫を惑わす者はいなくなったと安堵した。……自分で自分が分からない。
 ライナスは残酷な事実を突きつける。
「サイードはエルサレムを去る直前、ウェインと一緒にいました。エルサレム襲撃を邪魔したウェインを殺さず、愛の言葉を囁き、口づけまでしていましたよ。映像がありますが、シエナが傷つくと思い見せませんでした。貴方が唯一の拠り所としたサイードはウェインを選んだ。そのウェインをなぜ、助けたいのですか」
 シエナは震える手で口元を押さえる。手に触れる唇が冷やりとし、唇から漏れる嗚咽混じりの吐息が震える。
 ライナスは気づいていた。
 私がウェインさんを憎んでいたことを、死ねばいいと思っていたことを。知っていて、会わせようとした。
 胸の奥からフツフツと湧き上がる激情に、両の手を強く口元に押し当てる。
 敵ではないとうそぶき、よき理解者であるがふうを装い、ライナスは嘲笑っていた、――夫に捨てられた私を、打ちひしがれる私を。
 衰弱したウェインさんを見せて私がどういう反応をするか、どういう表情をするか、隣で秘かに笑っていたのだ。
 ……なぜ、私は同じ過ちを繰り返すのだろう。
 ろくに知りもしない相手を、ただ優しい言葉をかけられただけで、笑顔を向けられただけで、簡単に堕ちてしまう。一番苦しい時に、一番助けてほしい時に手を差し伸べられた、ただそれだけの理由で……。
「……次は、わたしですか……」
 シエナは口元から手を離し、震える声を絞り出す。
「……ウェインさんが死ねば、……次は私を拷問するのですか……」
 シエナは涙が頬を伝うままに視線を上げ、ライナスを睨む。下ろした両の手をぎゅっと握り、もう一度、問う。
「次は私を殺すのですか」
 ライナスは目を見張り、戸惑いと気遣いが入り混じった表情でシエナを見つめる。
 シエナは視線を逸らさず、涙を拭わず、ライナスを睨んだ。
 ライナスはすっと視線を反らし、右目の下を人差し指でこする。
「……以前も言いましたが、ウェインはハサドが管理し、シエナは私が担当しています。ハサドは貴方に手を出せません。また、私もシエナを害するつもりはありません」
 シエナは両の手を固く握り、問うた。
「ハサドという人は弟をサイードに殺されたのでしょう。私はサイードの妻でした。ウェインさんが死ねば次は私が標的になってもおかしくありません。貴方もそのつもりで、私を次の犠牲者にするつもりで、ここに連れてきたのでしょう」
 口に出した疑いは真実に思えた。
 味方のふりをして、私を守ると言って、本当は新たな生贄として仲間に渡すつもりでここに連れて来た。この男は嘘つきだ。甘い言葉で信用させ、平然と裏切る。夫サードと同じ。そして私は同じ罠に一度ならず二度までもかかっていた。
 一番救いがほしい時に差し伸べられた手を、それが誰の者か確かめもせず遮二無二しがみついた。懲りもせず。
 ――……私は愚かだ。
 心底、己の浅はかさを呪う。
 ライナスを信じた己が惨めで、恥ずかしくて、悲しくて、いたたまれなくて、消えてしまいたかった。
 熱いものが頬を伝う。熱くて、痛くて、どうしようもなくて、服が千切れるほど胸を掻きむしる。
 ライナスが穏やかな声で語りかける。
「お互いの人質には手を出さない。ハサドと私の間には取り決めがあります。ハサドがもし、貴方に危害を加えようとすれば、私もウェインを害します。生きていれば原形を留めない方法で殺し、死んでいれば修復不可能なほど解体します。その方がハサドにとって痛手になりますから。……ウェインの体に爆弾を取り付けて吹き飛ばす方法が一番手っ取り早いでしょうね」
 場を和ませようとしたのか、おどけた調子で首をすくめる。
 シエナは信じられぬ思いでライナスを、ライナスの口元を見つめる。
「ハサドはある分野では天才的でしてね。本物そっくりの偽物、いいえ、本物からもう一つの本物を作り出せます。死んだ者の姿を生前そのままに甦らせるだけでなく、死者を生きていた頃そのままの姿で半永久的に残せる。その技は神がかり的なほどで、外見はもちろん、虹彩の加減、静脈の一本一本まで、寸分の違いなく再現できるのです。
 私は彼の作品を見せてもらったことがあります。ホルマリンの水槽に沈められたその女性は生前も美しかったのでしょうが、死して水中に沈む彼女は、人とは思えぬほど美しかった。
 青い闇の世界で、足首まで伸びた金の髪が光のヴェールとなって広がり、一糸まとわぬ肌は青白い光を放ち、……とても幻想的でした。金の睫毛から覗く白い目は青みがかり、艶やかな白い唇は微笑みを湛えていました。表情はどこまでも静かで気品に溢れ、さながら水底に棲む女神のようでした。
 美醜にこだわらない私ですが、彼の作品を思い出すと今でも笑みがこぼれます」
 いつの間にか、シエナは棒立ちでライナスの話を聞いていた。現実味がない、とても怖いおとぎ話を聞かされる子どものような心境だった。涙は止まっていた。
 ライナスはきまり悪そうに笑った。
「分かりやすく言うと、ハサドは生きた者も死んだ者も思いのままに楽しめるという、特異な性質の持ち主なのですよ。ですから生死にかかわらず、ウェインがハサドの手中にある限り、シエナに危害が及ぶ心配はありません。それにハサドは今、片手を負傷し、細かい作業はできません。手の怪我が治るまでウェインを生かしておくでしょう、作品にできませんからね。……まあ、あれでは大した作品にはならないでしょうが……」
 ライナスはくっと口元を引き締める、――笑いを噛み殺すように。
 ゾワッ。悪寒がシエナを貫く。おぞましさに視界がぐるりと回り、倒れまいとテーブルに手をついたが、ぐにゃりと肘が曲がり、膝が抜け床にくずおれる。床に両手をつき、力が入らぬ腕で体を支える。
 床がぐらぐらと揺れ、どくんどくんと鼓動が胸を突き上げる。動悸が激しくなり、呼吸が速くなり、息苦しさが増していく。
 シエナは胸を強く押さえ、懸命に息を吸う。
 ――……息が、……いきが……できない……。
 シエナはぎゅっと唇を引き結ぶ。唇が、冷たい。ぞくぞくする寒気に、酷くなる息苦しさに、喉を押さえ、首筋を押さえ、頬を押さえる。
 手が、腕が汗ばみ、小刻みに震える。酷くなる一方の息苦しさに冷たい汗がぽたぽたと床に滴る。ぐっしょりと濡れた両の手で小刻みに震える喉元を押さえ息を細かく吸い込む。
 顔が、痛い。額の傷がズキズキする。
 濡れた手で頬を触り、額の傷に触れる。
 べっとりと、血が付いた。
 シエナは悲鳴をあげた。もう一方の手で血を拭い取る。両手に赤が広がり、パニックに陥る。
 はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……。呼吸が乱れ、目に映るものが急速に色を失くしていく。手についた血が、絨毯の緑が、白い床が、灰色に変わっていく。
 シエナは絨毯をさすり、床に手を這わせる。手に付いた血が黒いシミに代わっていた。
 己の息遣いが耳の中で反響し、ザーーッと雑音が流れる。
 足音が大きく反響し、床が大きく振動し、何かが近づいてくる。
 《しいいえなああー、だああああいいじょううぶでええすうかあああ……》
 シエナはがたがたと体を震わせ、ぐらぐらと揺らぐ首を上げ、目を極限まで開く。
 ライナスに似たモノが立っていた。
 顔は靄がかかり、身体の輪郭しかわからない。全身灰色で、巨大な泥人形にしか見えなかった。
 ヒトガタはゆらゆらと揺れながら、声らしき音を発する。
 《……ダアアアアイイジョウウブデエエスウカアアア……》
 ヒトガタの腕がぐにゃりと曲がり伸びてくる、――シエナに向かって。
 シエナは金切り声をあげた。
 両手で耳を塞ぎ、床に突っ伏す。
 塞いだ手をすり抜け、ヒトガタの声が耳に届く。
≪……シィイイエェエエェナアァアア……≫
「いやぁっ、やめてっ」
 冷たい汗が噴き出し、耳が潰れるほど強く塞ぎ、ガチガチと鳴る歯を噛みしめる。
 ――……やめて、やめて、やめてやめてやめてやめてっ……。
 心の中で唱える、 “やめて”と。
 床に映る影がゆらゆらと揺らめく。
 シエナは短い悲鳴をあげ、強く、強く耳を塞ぎ、床にうずくまる。
 目は閉じているのに、瞼の裏で、残像がぐにゃぐにゃと蛇のようにうねる。
 ――……やめて、やめて、おねがい……。
 シエナは必死に耳を塞ぎ、床に突っ伏した。
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