第2話

文字数 13,247文字


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 イスラエル
 中東に位置し、国土は狭く、日本の四国程度(占領地を含む)。南北に細長く、丘陵地帯の北部、海岸地帯の中央部、乾燥地帯の南部の、三つの地域に別れる。
 中央部は全人口の約六十パーセントが集中し、テルアビブを中心に経済の中核となっている。また、北部と中央部は比較的過ごしやすい地中海気候で、南部は非常に暑く、砂漠地帯では八月ともなると日中四十度を超える。
 (主に『イスラエル基礎データ 外務省』を引用)


 二〇一七年 七月 イスラエル中央部 テルアビブ
 地中海を一望できるクリプトン・テルアビブホテル 最上階。
 白を基調としたリビングルームのソファでイーシンは足を伸ばし、エメラルドグリーンに透き通った地中海を眺める。
 プライベートバルコニーに出れば波の音や海の匂いを楽しめる。五つある寝室もそれぞれ趣向を凝らし、大理石のバスルームもゆったりと浸かれて申し分ない。
 平時であれば――。
「退屈ねぇ」
 リー・イーシンは液晶テレビのチャンネルを次々と変える。どのチャンネルもエルサレム襲撃事件の映像とイスラエル各地で起こっている衝突や暴動の報道ばかりだ。
 初めは興味津々で見ていたイーシンだが毎日だとさすがに飽きる。見る物がないと悟るとテレビを消した。
「いったい、いつになったら帰れるのかしら」
 エルサレム襲撃事件が起きてから一か月近くが過ぎた。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地エルサレムが無数のドローンに攻撃される映像がSNSを介し世界中に流れ、襲撃事件直後から、「世界の終わりだ」と国外へ脱出しようとする市民が空港に殺到し、空港を警備する武装警察との間で衝突が起きた。
 それだけでなく、エルサレムを攻撃するドローンには星条旗やイスラエル国旗がついていたことで、「エルサレム襲撃はイスラエルとアメリカの陰謀だ」というデマがこれまたSNSで広がり、国内だけでなく国外でも暴動や衝突が勃発した。
 その時は、“あらあら。でも、もう少し待てば落ち着くでしょう” と暢気に構えていたのだが、事態はさらに悪化した。
 『神殿の丘』を含むイスラム教地区の被害が他の地区に比べて大きかったことと、アラブ人の乗客が半数以上を占める旅客機がイスラエル軍によって撃墜されたことで、イスラエル周辺のアラブ諸国が次々にイスラエルを非難した。
 パレスチナ自治区ガザを実効支配する武装組織はイスラエル領土内にロケット弾を数百発以上撃ち込み、イスラエル側はそれら全てを対空システム等で撃墜し、報復として数千発のミサイルをガザへ発射した。
 この紛争で、イスラエル側は三人の兵士が死亡、ガザにおいては三百人以上の死傷者を出した。そのほとんどが民間人で、そのうち六割以上が子どもだった。
 紛争が始まってから三日後、エジプトの仲介でイスラエルとガザは停戦に合意した。
 イーシンは、“これでようやくアメリカに帰れるわ”と一人、カクテルで乾杯した。ところが――。
「報復という名の虐殺だ」、「アラブ人の命も大事」
 イスラエルのミサイル攻撃でガザの民間人が多数死傷したことに一部のイスラエル市民が反発し、首相官邸や主要な高速道路でデモ行進を行なった。
 催涙弾を用いてデモを解散させようとする軍隊と、火炎瓶や石を投げ応戦するデモ隊との衝突が連日報道されている。
 騒ぎに乗じ、街中でも強盗や略奪が頻発している。
 現在、日中・夜間ともに外出禁止令が出され、空港は閉鎖されている。
 当然、アメリカに帰る予定は延期になり、状況が落ち着くまでホテル待機となった。
「南部のネゲブ砂漠に離着陸スペースを設けたら帰れるんじゃないの」
 イーシンはアメリカ空軍大佐アイゼン・カーニヒに電話したが、昨今の暴動や衝突でアメリカ軍にも外出制限がかかっているらしく却下された。
 イーシンはアーロン・スタイナーにも電話をしたが、
「テレビ見てるだろ。エルサレム襲撃の後でイスラエル国内は大混乱だ。こっちはいっぱいいっぱいなんだ。いいホテルなんだろ。ゆっくりしてりゃいいじゃないか」と切られた。
「あ、あんたがここに連れてきた張本人じゃないっ」
 イーシンは切れた受話器に怒鳴った。
 思い出したらまた腹が立ってくる。
 ――次会ったらひっ捕まえてバリカンで丸坊主にしてやる。
 一流ホテルの名にふさわしく窓から望む景色も食事もサービスも申し分ない。とはいえ、引きこもる生活が続けば嫌になる。テレビも映画も飽きた。毎夜ホテル内で行われていたコンサートは休止が相次ぎ、街中の店が閉店している。
 ――……することないって、退屈……。
 イーシンはソファで大きく伸びをした。
 マルク・サンチェスは小テーブルにビールやらウィスキーを並べ、コップでぐいぐい飲んでいる。冷蔵庫の中の酒類を全部飲み干す気らしい。
 自室で飲めばいいものを、「話し相手がいないとつまらん」とリビングに酒を並べ、飲んではイーシンに絡んでくる。
 図体のでかい男がリビングに居座り、日がな一日飲んだくれてはちょっかいをかけてくるのだ、うっとうしいことこの上ない。
 ウェインはというと、リハビリと称し、水の入ったペットボトルを手に腕を曲げ伸ばししている。今日のリハビリは理学療法士が来てもうすんでいるのだが、自分の中でノルマを決めているらしく、全身汗だくになるまで黙々と続ける。
 リハビリのプロじゃないから分からないが明らかにやり過ぎだ。
 イーシンは、
「あんまり無理すると悪化するんじゃないの。やめておきなさい」と止めた。
「まだ、余裕はある。動かせば動かすほど調子がいい」
 ウェインは意に介さない。
「そう思い込んでいるだけじゃないの」と口を酸っぱくして言っても聞かない。
 しばらくしてウェインは壁伝いに自室へ消え、タオルと着替えを手に、やはり壁伝いにシャワールームへと消えた。
 イーシンは、“しばらくはウェインの介助をすることになるだろう”と覚悟していたが、ウェインは食事も着替えも一人でこなした。特に包帯が取れてからは、車の運転以外は何でもできそうだ。
 一ヵ月ほど前、ウェインは右肩と両脚を銃で撃たれ病院に担ぎ込まれた。数日もするとウェインは医師や看護師の反対を押し切りホテルへ移動し、リハビリと称し自ら体を鍛えている。今は包帯が取れ、「動きやすくなった」と杖に頼るのを止め、自力で歩く練習を始めている。
 この短期間であの状態からよくここまで回復したものだと、イーシンは内心、驚嘆していた。
 ……ウェインって鉄でできているんじゃないかしら……、と真剣に思う。
 部屋のドアが三回鳴った。来客だ。
 マルクは酒を注ぐ格好でぼやっとし、ウェインはシャワー中だ。
 もちろん、怪我人に対応させるつもりはないし、酔っぱらいを出すのは論外だ。
「私が出るわ」
 イーシンは立ち上がりドアを開けた。
 スーツ姿の男が立っていた。四十代前半といったところか。金髪を品よくまとめ、澄んだ青い目、表情は明るく、全体的に柔和な印象を与える。
「突然の訪問をお許しください。私はライナス・シュルツといいます。ヨルダン川西岸地区にあるヤッシャー病院に勤めている精神科医です。ある患者についてご相談したいことがあり、カーニヒ大佐の紹介でこちらにお伺いしました」
 内ポケットからパスポートと身分証明書(ⅠDカード)を取り出し、イーシンに提示する。IDカードは「一級市民」であるイスラエル国籍のユダヤ人を示していた。
 イーシンは応じた。
「聞いています」
 数日前、アメリカ空軍大佐カーニヒから携帯に連絡があった。
「ウェイン・ボルダーに会いたいという人物がいるので対応をお願いします。詳しい話はその人物から聞いて下さい。名はライナス・シュルツ。以前、ウェイン・ボルダーが助けた少年を受け持っている精神科医です」
「私じゃなく直接ウェインに連絡したら、どう」
 イーシンはカーニヒが嫌いだった。
 カーニヒも素っ気なく答える。
「体が不自由な怪我人を電話に出させるのはどうかと思いまして。元気そうならなによりです。ウェイン・ボルダーにかけ直します」
 言い方がいちいち癪に障る。
「……結構よ。承りました。それで、その精神科医はいつ来られるのかしら」
「『先約が入っているので少し遅れるかもしれませんが、〇日の午前十時三十分頃にお願いできれば……』と言っていました。仕事が終わり次第、そちらに向かうそうです」
「……そう、分かったわ……」
 カーニヒがホテルを訪れウェインに会ったのは約三週間前。あの時はウェインがカーニヒに会いたがっていたから二人きりにさせた。しかし、何を話したのか、イーシンがホテルに戻ると、ウェインはリビングのソファに座り、暗い表情で押し黙っていた。
 二人きりにさせない方がよかった、とイーシンは後悔した。
「あのムッツリスケベ、ウェインにいやらしいことをしたに違いない」
 マルクは鼻息荒く、指の関節をバキバキと鳴らしていた。
「あんたじゃあるまいし」と否定したけれど、カーニヒはウェインを敵視していた。心身ともに弱っていたウェインに厳しい発言をしてもおかしくない。
 それ以降、カーニヒからアメリカ帰国が延期される電話が一度あったきり音信はなく、イーシンが電話をした時も素っ気なかった。やっとかけてきたかと思ったら、「人と会ってくれ」と用件だけを言い、電話を切った。
 イーシンはカーニヒに不満を募らせ、不信感も抱いていた。カーニヒから依頼された人物への応対は自然と素っ気ないものになる。
 ライナスの後方にスーツ姿の男がもう一人、通路の壁にべったり張り付くように立っている。中肉中背、肌は浅黒く、黒髪を目の下まで垂らし、前髪の隙間から黒い目がじっとこちらを窺っている。
 ……アラブ人のようだが……、イーシンは首を捻った。
 ライナスはイーシンが見つめる方へ顔を向け、「ああ」と頷く。
「治安が悪化しているので護衛を付けるよう、カーニヒ大佐から言われまして。私は遠慮したのですが……」
 ――……ボディガードにしては……。
 ライナスはボディガードを隠すようにイーシンの前に立つ。
 イーシンが滞在しているホテル周辺はアメリカ軍から派遣された兵士二人が見張り、ホテル最上階フロアにもイーシン達の護衛としてアメリカ軍兵士が二人張り付いている。それとは別に、ホテル入り口には金属探知機が設置してあり、ホテルが雇ったガードマンが荷物検査を行う。
 それらを通過して来たということは、アメリカ空軍大佐カーニヒの紹介なら当然だが、身分と身元ははっきりしているということだ。
「……どうぞ、お入りください」
 イーシンはライナスを招き入れる。ライナスのボディガードは通路の壁で突っ立ち、入ってこない。
「ありがとうございます」
 ライナスは鞄を両手で抱え入室する。広さに驚いたのか、目を丸くし、口を半開きに部屋を見渡す。
 ブロンドの髪を柔らかに整え、白い肌、陽光に透ける青い目は爽やかで、いかにも女性にモテそうな外見だ。カーニヒが取り次ぐのだから、医師としての腕も確かなのだろう。
 ウェインは既にシャワーを終え、窓際の椅子に腰かけている。リビングのソファは柔らかすぎて立ち上がりにくいと、ウェイン用に硬い座面の肘かけ椅子を窓際に置いてある。ウェインはその椅子に腰かけ、窓の外を眺めている。髪は乾き、服も着替え、小ざっぱりしている。
 初めの頃は、あまりに早い入浴タイムに、着替えを忘れて出てきたのかとイーシンは思った。窓際の椅子に腰かけ読書を始めるウェインに、イーシンはビックリして立ち上がった。
「出てくるの早すぎでしょ。ちゃんと洗った、よくすすいだ。シャンプーとコンディショナーは使ったの」とウェインの髪をかき混ぜ、首を触り、頭の匂いを嗅ぐ。
 ウェインは血相を変えて体をよじり、動く左手でイーシンを突き放した。
「触るな、洗った」
「俺も確かめてやる」
 下心丸出しで両手を伸ばし迫ってくるマルクを、ウェインは一喝した。
「来たら殴る」
 マルクはピタリと止まり、しゅんとしてテーブルに戻り、ちびりちびりと酒を飲んだ。
 ウェインが退院して間もない頃、ウェインが思うように動けないのをいいことに、マルクは「俺が介助する」と言ってベタベタと触っていた。
 始めのうちは、「いりません」、「結構です」と控えめに(?)断っていたウェインだったが、一向に止まない過剰なスキンシップに業を煮やし、「いらないと言っているだろっ」と不満を爆発させた。
「やっとウェインが打ち解けてくれた」
 マルクは喜び、ことあるごとにウェインに絡むようになった。その度にウェインは怒り、マルクは更に調子に乗る、――悪循環だった。目に見えてウェインが不機嫌になる回数が増えた。
 ――ウェインもお風呂くらい、ゆっくり浸かればいいのに。仕事をしていた時の習慣が抜けないのかしら……。
 ウェインは民間軍事会社に勤めるアース社員だった。その前は、アメリカ陸軍に所属していた。兵士だったころの習慣が身についているらしく、日本の訓練所にいた時もウェインはシャワーを脱衣から着替えまで五分以内ですませていた。今もかかってせいぜい十五分だ。
 毎日一時間近くバスに浸かり、「いつまで入っているんだ。さっさと出てこい」とマルクに怒鳴られるイーシンには全くもって不可解だ。
 ――……今日はお客様がいるからいいけれど……。
 ライナスは窓際にいるウェインに「ハロー」と小声で挨拶し、リビングで酒盛りをするマルクをはたと見つめ、見てはいけない物を見てしまったというふうに、すっと目を反らす。
「おい、俺は無視か。挨拶はどうした」
 赤ら顔のマルクにすごまれ、ライナスは慌てて自己紹介する。
「す、すみません。私はライナス・シュルツ、精神科医です」
 イーシンは頬を引きつらせる。
「あの馬鹿は視界に入れなくていいわ」
「なんだとお、もういっぺん言ってみりょ」
 酔いすぎだ、ろれつが回っていない。イーシンはマルクを無視し、自己紹介をする。
「私はリー・イーシン、窓際にいるのがウェイン・ボルダーよ」
 ライナスはウェインに目を向け、「……ウェイン・ボルダー……」と呟く。
 ウェインはゆっくり窓際を離れ、椅子や壁を伝いこちらに来る。
 ライナスは瞬き一つせずウェインをじっと見つめる。イーシンは不審に思い、ライナスを横目で観察した。
 ウェインはライナスのそばまで来ると握手を求める。
「ウェイン・ボルダーです。はじめまして」
「ライナス・シュルツです。お会いできて光栄です」
 ライナスはすっと手を出し握手に応じると、笑顔で付け足した。
「貴方がウェイン・ボルダーさんだったのですね。女性と聞いていましたからおかしいなとは思っていたのですが……。すみません、男性に見えました」
 ぷっ、イーシンは吹き出した。
「……あ、いえ、そういう意味じゃなく、その、あの」
 言い淀むライナスに、ウェインは仏頂面で「……よく、間違われます」と答えた。
 ウェインは黙っていても不機嫌に見える。顔のつくりはいいのだが滅多に笑わないし、愛想も良くない。今も怒っているわけではないのだが、少しはムッとしただろうが、無表情で口数が少ないから機嫌を損ねたように見え、ライナスは青くなる。
「違うんです。美しい方だとは思ったのですが、威厳があるものですから。厳めしいというか、迫力があるというか……」
 ライナスは墓穴を掘っていると気づいたらしく、いっそう青ざめる。
「……す、すみません」
 ライナスはポケットからハンカチを取り出し、額を拭き、鼻筋を拭く。
「おおまえは、ぶああかか」
 マルクが話に割り込んできた。
「酒くさっ」
 イーシンは鼻先を手で払い、顔を背ける。
 マルクがとろんとした目でライナスを見据え、ウェインの肩を抱く。
「てめえはどこに目を付けてんだ。こおんな美人が他にいてたまるかってんだ。見ろ、この見事な金髪、波打つさまはライオンのたてがみのよう。ギラつく灰色の目に睨まれたらふぬけヤローは尻尾巻いて逃げていく。何よりっ、鍛え抜かれたこの体。それでいてしなやかな筋肉。隠しようのない気の強さ。まるで戦いの女神さまだっ」
 酔っ払いマルクが片膝をつきウェインに向けてバッと両手を伸ばす。
「いよっ、我がアテネ。きらきらきらー」と手をひらひらさせる。
 ウェインが顔をしかめる。恥ずかしさからか、怒りからか、顔が真っ赤だ。
「もう、いい加減にしなさい」
 イーシンはマルクの両手をグイッと下ろす。
 マルクはよろけた拍子にイーシンの腕をガシッと掴み、ライナスの前に立たせ、イーシンの肩ごしに酒臭い息を吐く。
「こっちは男に似せた偽物、オ〇マだ。体は細く手足は妙に長いが顔はデカいし、口もデカい。毎日毎日少ない髪を毛染めしてせっせとブラシで整えちゃあいるが、俺から見たら無駄な努力だ。将来は立派なつるっぱげだ」
「これは元から黒いのっ。薄毛でもないから。失礼なこと言わないでちょうだいっ」
 イーシンはマルクの手を振り払い、突き飛ばした。
「と、ととと……」
 マルクは前のめりになって大きくよろけ、ライナスに抱きつく格好で動かなくなる。
「そこらへんに転がしておいてっ」
 イーシンは腹立たしく言い放つ。
 ライナスはマルクを支えながら、「……あの、重い、です……」とイーシンに助けを求める。マルクはスンスンと鼻を鳴らしライナスの首や肩を嗅ぐ。
「ちょっと、離れなさいよ。迷惑でしょ」
 イーシンがマルクの肩を掴み引っ張る。マルクはすんなりと離れ、……ぼそりと呟いた。
「火薬の臭いがするな。なんでだ」
 イーシンはハッとし、ライナスを見る。
 マルクはライナスの手首を捻じる。酔っ払っていても傭兵としての勘は働くようだ。
「いっ、いたい」
 ライナスは顔をしかめながら、
「分かりません、分からないです」と実に素直な受け答えをする。
 イーシンはフォローした。
「……アメリカ軍兵士がボディガードとして付いて来ているから移り香じゃないの」
「ぬあにいっ」
 マルクが乱暴にライナスの手首を捻じ上げる。
「いたっ、痛いですっ」
「こいつ、あのすけこまし野郎の手下かっ」
 すけこまし野郎とはカーニヒのことだ。マルクは、大好きなウェインをカーニヒが横取りしようとしている、というとんでもない勘違いからカーニヒが大嫌いなのだ。イーシンも別の理由でカーニヒを好きになれない。……が、八つ当たりでマルクの餌食にされるライナスはかわいそうだ。
「やめなさい。ヨルダン川西岸地区にある病院に勤めているお医者さまよ。カーニヒの手下じゃないわ」
「…………」
 しぶしぶといった様子でマルクは手を離し、ライナスに睨みをきかせる。
「医者が何の用だ」
「それで、私たちに何の用かしら」
 マルクとハモり、同類と思われないかしらと、イーシンは恥ずかしくなった。
「ああ、そうでした」
 ライナスは手首をさすり、鞄を持ち直す。
「実はウェイン・ボルダーさんにお願いがあって来たのです」
「……ウェインに……」
 イーシンはウェインを振り向く。
 ウェインは真摯な態度で応じ、
「ウェインと呼んでください。お話をお聞きしましょう」とリビングのソファに移動する。
「ありがとうございます」
 ライナスはソファに腰かけ、鞄を脇に置く。
「よしっ。俺も聞いてやる」
 マルクは絨毯の上に胡坐をかき、くだを巻く。
「さあさあ、話せ。くだらん話だったら外へほうりだしてやる」
 威勢はいいが目はとろんとし、体はゆらゆらと左右に揺れる。揺れが気持ちいいのか、にへらとしまりなく笑う。
 ほっとくと眠りこけそうだ。
 話の最中に隣でグースカといびきをかかれてはたまらないだろうが、わざわざマルクを引っ張って別室に移動させる気にもなれない。
 中身同様、筋肉の塊に剛毛が生えた品位の欠片もない外見だ。まさしく巨大なゴキ〇リ。触れるのも嫌だ。……それに、今のウェインを一人にさせるのは気がかりだった。カーニヒの紹介で来た客ならなおさらだ。
 ――……本当は一緒に聞きたいけれど……。
 ライナスはウェインを指名している。
「……私は、隣の部屋にいるわ」
 真剣な表情で向かい合う二人と、今にも眠りこけそうなマルクを残し、イーシンは自室に退こうとした。
 意外にもライナスに引き止められた。
「リー・イーシンさんも同席をお願いします」

「ウェイン・ボルダーさんにお願いというのは、私が担当する患者に会っていただきたいのです。名前はエドウィン、私はエディと呼んでいます。推定九歳か十歳の少年です」
 ライナスはウェインを真摯に見つめ話を続ける。
「カーニヒ大佐の依頼を受け、私がエディの担当になったのは二週間前です。初めは全く言葉を発さず、最近ようやく自分の名前を教えてくれました。その彼が先日、自分の名前以外の言葉を発したのです。ウェインさん、あなたの名前です」
 真剣な表情で聞いていたウェインは改めてライナスに視線を定める。
「…………その少年は、……もしかして……」
「私は『ウェインという人物に心当たりはありますか』と、カーニヒ大佐に聞きました。カーニヒ大佐は『エドウィンは武装勢力に壊滅された村の生き残りで、その彼を助けたのがウェイン・ボルダーという女性です』と言いました」
 ウェインは目を見張り、やがて穏やかな表情を浮かべた。
「……カーニヒ大佐から、少年が口を閉ざしていることは聞いています。そうですか、彼は自分の名前を言えるようになったのですね。……エドウィン……」
 ウェインは少しほっとしたように口元を緩める。イーシンはウェインの様子を横目で窺う。ライナスは早口になる。
「ウェインさんは間もなくアメリカに帰国されるそうですね。カーニヒ大佐から聞きました。その前にエディに一度会っていただきたいのです。できれば、エディがいるホームに来ていただけませんか」
 沈黙を守っていたイーシンは小さく手を上げ質問した。
「ドクター.ライナス、今日あなたがここにエディを連れてくればウェインが出向く手間は省けたのではありませんか」
 ライナスは表情を曇らせ言い淀む。
「……そう、できればいいんですが……。エディは大人の男性を、特に銃を持った兵士を極度に怖がります。彼はアメリカ軍基地内にあるホームにいます。日常的に軍用車両が走っていますし、軍服を着た兵士も往来しています。エディの村は武装した男たちに襲われたと聞いています。エディにとっては過去を思い出させる辛い環境です。
 エディはホーム敷地内から出ようとしません。学校にも行っていないのです。物音に敏感で、市街地の治安が悪化している今の状況では、とてもここに連れて来られる状態ではありません。
 エディは私に心を開いているわけではないんです。その彼が、あなたの名前を口にする。ウェインさんに会うことで彼に何かしらの変化があればと。……少しでも彼が心を開くきっかけが欲しいのです」
 イーシンは黙るしかなかった。隣のウェインを窺う。
 ウェインは真っすぐにライナスを見つめる。
「行きます。エディに会わせてください。私も彼に会いたい。お願いします」
 ライナスは身を乗り出し、頬を紅潮させた。
「ありがとうございます」
 ――……やっぱりね……。
 話の流れからこうなるとは思った。
 イーシンはソファに体を沈める。
 ウェインはエルサレム襲撃事件の後、ずっと精神的に不安定だった。カーニヒと二人きりで会ってからは輪をかけて塞いでいた。
「カーニヒ大佐からイラクで助けた少年とシエナの処遇を聞いた」
 ウェインはそう教えてくれたが、それ以外にも何か言われただろうことは、ウェインの憔悴しきった様子から容易に想像できた。
 ウェインは平静を装っているつもりのようだが、元から少ない口数がめっきり減り、いつも思いつめた表情で窓の外を見ている。かと思えば、鬱積した感情を紛らわすかのようにリハビリに専念する。
 今日、ライナスが「ウェインに相談に来た」と告げた時点で悪い予感しかしなかった。自分が助けた子どもに会ってくれ、と頼まれて断れるウェインではない。それどころか動かない体を引きずってでも行く。とても今の自分が他人を慮る状態でなくても、だ。
「エディはどこにいるのですか」
「すみません、エディの居場所は口外を固く禁じられています。ただ、ここから車で二時間もかかりません。……ウェインさんのご都合はどうですか。できるだけ早い方が嬉しいのですが」
「では、今から行きましょう」
「今から、ですか」
 ライナスが驚きの声を上げる。
「早い方がいいでしょう」
「……それは、助かりますが……」
 二人で話を進めている。
「……私も行くわ」
 イーシンはぼそりと言った。
「ウェイン一人では心配だわ。私もついて行く」
 あえてウェインの方は見ずに言う。隣からウェインの視線をビシバシ感じる。
「ウェインは怪我人なの。付き添いが必要だわ。駄目って言うなら行かせない」
 イーシンはごり押しする。
 マルクは当然の如く絨毯の上で大の字になり、剛毛が生えた下っ腹を出し、いびきをかいている。留守番決定だ。
 ライナスは目を輝かせイーシンに言った。
「イーシンさん、是非、ご同行をお願いします」

 イーシンが最上階フロアにいる護衛二人に「今から出かける」と伝えると、護衛二人は目に見えて慌てだした。
「指示を仰ぎますので室内で待機して下さい」
 護衛の一人がその場でどこかに電話をかける。繋がらないらしく、二度、三度とかけ直し、ついに携帯を手にがっくりと肩を落とした。
 ライナスは護衛二人に告げる。
「カーニヒ大佐には連絡し了解を得ました。心配ならついて来て下さい」
 イーシンとウェインは出かけ、マルクは部屋に残る。突然の外出と、護衛対象が二手に分かれることが混乱の一因らしい。護衛二人は身振り手振りをつけ早口でやり取りしている。はたから見ると喧嘩しているようだ。
 ライナスのボディガードはぽかんとした表情でしばし成り行きを見ていた。
 ライナスは言った。
「先に行ってホテルの玄関に車を回してきます。ウェインさんとイーシンさんはゆっくり来て下さい」
 ライナスは早足でエレベータへ向かい、ライナスのボディガードも慌てた様子でついて行く。二人はエレベータにさっと乗り込み、降りて行ってしまった。
 こちらの護衛二人は顔を突き合わせあれこれ言い合っていたが、結論が出たらしい、一人はフロアの定位置に戻り、一人は「付き添います」と敬礼した。

 ウェインは右肩と両脚を怪我している。壁伝いで歩けるくらい回復しているとはいえ長時間の歩行は負担が大きい。イーシンはウェインの右側後方に立ち、寄り添う。
「すまない」
 ウェインは左手で杖を巧みに使い、小さな歩幅でゆっくりと歩く。
 イーシンはウェインをロビーのソファに座らせ、車が来るのを待った。付き添いの護衛がやや離れた位置でホテルの外を確認している。
 ――……アメリカに帰る日はいつになるのかしら。
 ライナスはカーニヒと話をしたようだ。アメリカ帰国の話はしていなかったか、後で聞いてみよう。ライナスが知らなくてもアメリカ軍基地に行くのならアメリカ軍幹部に会えるかもしれない。
 サイードの妻、シエナのことも気にかかる。サイードに置いて行かれたうえ、サイードの部下に殺されかけた。ウェインはエディ(エドウィン)だけでなく、瀕死の重傷を負ったシエナをも助け出していた。
 シエナは一命を取りとめ、しかし、意識を取り戻してもほとんど話さず、反応もしなかったという。
 ウェインはシエナの様子を「……空洞のようだった……」と漏らした。
 精神を病んでいるかもしれないシエナが適切な治療を受けているか、疑わしい。エルサレム襲撃事件の首謀者サイードの妻だ。敵地アメリカ軍内部で拷問にあっていてもおかしくはない。
「車が来ました」
 イーシンが顔を上げると、ホテルの外を見ていた護衛が報告に来た。
「あ、ありがとう。行きましょう」
 イーシンはウェインに手を添え、ホテルの外へ歩き出した。

 ライナスは後部座席のドアを開け、イーシンはウェインを先に座らせる。
 ライナスは運転席に座り、助手席にライナスのボディガードが、後部座席にはウェインを挟む形でイーシンと護衛が座った。
 ライナスが運転しながら声をかける。
「ここから約二時間かけホームへ向かいます。途中で休憩を取りましょう」
 街中は閑散とし、銃を肩に提げた警察と兵士が路上に立つ。検問所を通る度にライナスは車を停め、IDカードを提示していた。
 車が走り出し検問所が遠のくと、決まってライナスは申し訳なさそうに弁解した。
「いつもならイスラエル国旗がついたナンバープレートは何事もなく通過できるんですが……。早く日常に戻ってほしいものです」
 ライナスはバックミラー越しに困ったように笑う。
 イーシンは曖昧に頷いた。
 人通りはほとんどなく、道幅の広い道路脇には軍用車両が駐停車し、銃を持った兵士が辺りに目を光らせている。
 建物が立ち並ぶ合間を縫うように灰色の高い壁が連なる。パレスチナ自治区とイスラエルを分離する壁だ。街中に突如現れる壁はぶしつけで、異様だ。ホテル最上階からもよく見えた。
 初めてイスラエル市街に出た気がする。
 イスラエルに来てすぐエルサレム襲撃に備え、神殿の丘に配置された。エルサレム襲撃事件の後は外出禁止令が出され、ほとんど外に出ていない。

 一九四七年、国連総会がパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する決議を採択し、翌一九四八年にイスラエルが国家樹立を宣言する。
 同一九四八年、イスラエルは、『イスラエルはユダヤ人国家』にするため、パレスチナの村々を破壊し、そこに住むパレスチナ人を虐殺、土地を追われたパレスチナ人は国内外で難民となった。約七〇年間で難民となったパレスチナ人は五六〇万人、そのほとんどがヨルダン川西岸地区やガザをはじめ周辺諸国に避難し、難民キャンプで生活をしている。
 イスラエルは周辺のアラブ諸国と四度に渡る中東戦争を起こし、一九六七年第三次中東戦争でエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区及びガザ地区を占領する。占領した土地に家やマンションを建て、イスラエル国民を住まわせる『入植地政策』を開始。
 一九九三年に結んだオスロ合意によってヨルダン川西岸地区(エルサレム旧市街を除く)とガザ地区はパレスチナ暫定自治区として認められたが、二〇〇〇年九月、イスラエルとパレスチナが再び衝突(第二次インティファーダ)し、和平プロセスは停滞。
 イスラエルは一九六七年から始めていた『入植地政策』に加え、二〇〇二年からはパレスチナ側を侵略する形でヨルダン川西岸地区に分離壁を建設し、二〇〇七年にはガザ地区を『軍事封鎖』し、物流と人流を遮断する。
 イスラエルと、ガザ地区を実行支配する武装組織ハマスとの間で断続的に衝突が続いている(パレスチナ問題)。
 (注)イスラエルは入植地に住むイスラエル国民(入植者)を守る名目で軍隊を投入し、パレスチナ人の家や畑を破壊。パレスチナ人を投獄、拷問し、その土地から追放している。イスラエルのこうした占領政策は入植地を拡大しながら今現在も続いている。
 (『イスラエルを知るための六〇章』、『ぼくの村は壁で囲まれた』を引用及び参考)

 ホテルに籠っている時間があまりにも退屈だったため、インターネットで調べた知識だ。それまでは『ユダヤ教徒とイスラム教徒の争い』と思っていたが、正確には『イスラエル人とパレスチナ人の領土問題』らしい。
 中央部アシュケロンを抜け、ガザ地区にほど近い南部の都市スデロットを通り過ぎる。スデロットは先日ガザから発射されたロケットが着弾したと報道されていたが、これといった被害は見当たらなかった。
 郊外に出、家屋がまばらになる。兵隊や警察の姿は見えず、検問所も見当たらない。
 車は更に南下する。
 イーシンは荒野を眺めながら疑問を口にした。
「……ホームは砂漠にあるの」
「……いえ。……そうですね、そろそろ休憩しましょうか」
 ライナスが言った途端、……シューッ……、白い気体が後部座席に充満した。
 ぐらっと、視界が反転し体が傾く、とっさに助手席のヘッドレストを掴む。
「イーシンッ、逃げろッ」
 ウェインが助手席に手を伸ばし、助手席にいる男がもがいている。死角になり見えないがウェインが男の動きを封じているようだった。
 猛烈な眠気に首がガクンと落ち、瞼が勝手に閉じていく。イーシンは目が開かないままロックを解除しドアノブを引く。
「ギャッ」
 野太い悲鳴とぶつかる音が聞こえ、車が左右に振れ急ブレーキをかける、弾みでイーシンは体をドアに打ちつけ、ドンッ、誰かに突き飛ばされた。
 体がふわっと浮き、ガンッ、肩を強打し、ゴロゴロ転がり気絶した。

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