第5話

文字数 3,534文字


 ※

 ハサドは包帯が巻かれた右手に視線を落とし、すすり泣く。
「……ひどいや、ライナスの奴……、……俺を置いて行くなんて……」
 ぐすっ、ぐすっ、と鼻をすすり、分厚く巻かれた包帯に鼻先を付け、鼻水を拭く。
 地下一階地上二階建てのコンテナハウスは、人質を監禁する場所として用意してもらった。周辺は砂漠が広がり、遠くまで見渡せる。敵が来てもすぐ逃げられるし、人質を殺しても第三者に銃声を聞かれる心配はない。
 ハサドは地上一階一番端の自室に閉じこもり、すすり泣いていた。
 ライナスとともにサイードが惚れた女をさらい、この建屋に連れてきた。
 ライナスが眠りに落ちた女を抱え地下へ下りて行く間、ハサドは地下扉がある部屋の椅子に座り、ずきずきと痛む手を庇っていた。
 右手の小指と薬指が赤く腫れあがり、痛みがどんどん強くなっていく。作業に取りかかる以前の問題だ。
 地下から戻ってきたライナスに手を見せて訴える。
「女に掴まれた手がこんなに腫れてる。痛くてたまらない。使えなくなったらどうしよう」
 ライナスは真剣な顔つきで腫れた手を診る。
「いたっ、痛いよっ」
 ハサドは手を引っ込めた。
「……小指と薬指が折れていますね。骨はずれていないようですが、痺れはありませんか」
「おっ、折れ、てるの。痺れはないけど、どうしよう、手が使えなくなったら仕事ができなくなる」
「痺れがないなら神経は傷ついていないと思います。骨が変形しないよう固定しましょう」
 ライナスは二本の指を整復し、包帯を厚く巻く。
 ハサドは放心状態で包帯が巻かれた手に視線を落とす。
「その手では不便でしょう。熱が出るかもしれません。誰か一人、解熱鎮痛剤を持たせて寄こします。身の回りの世話はその者にさせて下さい」
「病院に連れて行ってよ。手が動かなくなったら仕事ができなくなるよ」
 ライナスはやんわりと言う。
「動かさなければくっつきますよ。念のため、医療に心得のある者を寄こします」
「病院に連れて行ってよ。変な治り方をしたら一生仕事ができなくなる」
 ハサドは必死に訴える。
 ライナスは包帯を巻いた手を両手で包み、諭した。
「この姿で行けば、すぐさま捕まります。そうなれば右手どころか命がなくなりますよ。それでも行きますか」
 ライナスはハサドの目を覗き込む。
 ハサドは押し黙った。
 ――……正体がばれたら、銃を持った兵士や警察が捕まえに来る。デュクランも怒る。ううん、仕事で関わった奴らも口止めしに来る。……まさか、ライナスまで……。
 身震いし、ちらりと上目遣いでライナスを見る。
 ライナスは柔和な笑みで、「大人しくしていて下さいね」と頷いた。
 立ち上がるライナスを、ハサドは慌てて呼び止める。
「行かないで。ここにいてくれよ。あんなおっかない女と二人きりにさせる気。あの女は俺の手をこんなにしたんだよ」
 ハサドは包帯を巻いた手を見せて訴える。
 ライナスは目を細め、口角をわずかに上げた。微笑でも苦笑でもない、困っているようでも、ごまかしているふうでもない、笑みですらないかもしれない、本心が見えない表情だった。
「ウェイン・ボルダーは右肩と両脚を負傷し思うように動けません。それに両手足と首を金具で拘束しています。不用意に近づかない限り心配ありません。反抗するようであれば首に繋いだ鎖を引っ張って下さい。大人しくなりますよ」
「でも、でもっ」
 言い募るハサドをライナスは遮る。
「私はもう一人の人質を見なければなりません。もう、意識が戻る頃です。早く行かなければ」
「……俺が、俺がそっちの女をみるよ。ライナスはここにいてあの凶暴な女をみてよ。それでいいだろう」
 玄関を見ていたライナスの目が、ゆっくり、ハサドを見下ろす。
 薄闇の中、ライナスの片目が光る。
 ヒッ、ハサドは悲鳴を上げた。背中を丸め、ガタゴトと椅子ごと後ずさる。
「……交代はしません。シエナは私が担当します。一人では心細いでしょうから、介助を寄こします。それまで我慢してください」
 ハサドは椅子の上で膝を抱えて丸くなり、頑として言い張った。
「嫌だ、他の奴は嫌だ。俺を虐めるもの。ライナスがいい。ライナスでなきゃ嫌だ」
 返事はなく、物音一つしない。ハサドはそろりとライナスを窺う。
 ライナスは感情のない人形のような顔でハサドを見下ろしていた。片方の目が白く光る。
 ライナスはスーツのポケットから黒い革手袋を取り出し、キュッと手にはめ、銃を持つ。
「な、……なに……」
 ハサドは怪我をしていない左手で椅子の背もたれにしがみつく。
 ライナスはくるりと向きを変え脱衣所に行くと白いバスタオルを持って戻ってきた。
「手に余るなら私が片付けます」
「……か、かたづけるって……」
 ライナスはハサドの脇を通りすぎ、無機質に言った。
「壁が汚れないようタオルを頭に巻き付けて撃ちます。帰りに砂漠に捨てて行きます」
 ライナスは銃を持つ手の脇に白いタオルを挟み、地下に通じる扉に片肘をつき鉄製の地下扉を開けた。
 ハサドは叫んだ。
「う、撃たなくていい。撃たないでっ」
 ハサドは椅子の上で丸くなり、ぶるぶる震える。
 ライナスは片膝をついた姿勢で扉の向こう、地下を見ていたが、やがて、扉を閉める。
 ライナスは銃を内ポケットにしまい、ハサドに近づく。
 ハサドは椅子にしがみつき、包帯を巻いた手で頭を庇う。
「ヒッ、やめて、やめ……」
 ライナスはタオルをハサドに被せ、無言で立ち去った。
「ヒ、ヒッ、ヒッ……」
 ハサドは慌ててタオルを床に投げ捨て、椅子の上で縮こまり震えあがった。

 つい一時間ほど前の出来事だ。
 ハサドは地下室の扉がある部屋から離れた一階一番端の自室に避難し、一人すすり泣く。
「ひどいよ。俺は手を怪我しているのに、置いていくなんて。あんな凶暴な女、どうしたらいいんだ」
 包帯を巻いていない手の甲で目元を拭う。
 小型テレビをテーブルに置き、椅子の上で膝を抱え、画面を注視する。
 地下室に取り付けた監視カメラは三台、二十四時間三六〇度監視できるタイプで、地下室をくまなく見渡せる。拡大すれば女の表情も、首と両手足に繋いだ金具もはっきりと見える。
 画面に女の姿が映る。
 女は壁を背に、両膝を開き跪く形で、頭を垂れていた。女の首にはめた金具の鎖が真っすぐに壁の上部に取り付けたU字型の金具と繋がる。
 後ろ手に手枷をはめ、膝を折り曲げた形で両足に足枷をはめ、四肢だけでなく身体も自由に曲げ伸ばしできないよう、足枷と手枷の鎖部分を交差させている。
 これなら、あちこち移動できないのはもちろん、横になって休むこともできない。
 まだ薬が効いているようだ、目は閉じている。
 ――…………。
 ハサドは包帯を巻いた手に触れ、上目遣いで画面に映る女をじっと見る。
 波打つ金の髪、今は閉じているが日に透けると銀色に変わる目、形のいいシャープな唇、きめの細かい肌……、容姿は文句のつけようがない。今まで携わってきた作品の中でもトップクラスだ。
 ……だけど……。
 催眠ガスを吹き付けた手を掴んだ女の形相は……、獰猛な肉食獣、猛り狂った虎そのものだった。
 金の髪は逆立ち、カッと開いた眼は殺気を放ち、焼き尽くさんばかりの怒気。肩が盛り上がり、上腕が膨れ、腕の筋肉が隆起し、手の甲から指にかけ長い腱が鋼線となって走り、万力と化した手で指をへし折った。
 悲鳴を上げる俺を、女は折れた指を掴んで容赦なくライナスにぶつけた。
 女はまだ目を閉じているが、ひとたび目覚めれば――。想像するだけで恐ろしい。
 猛獣の世話なんて誰ができる。餌を与える前にこっちが食い殺される。
 こんな手じゃ何もできない。猛獣を手なずけることも、皮を剥いで商品にすることも、ましてや作品にするなんてできっこない。されるがまま、やられるがままだ。
 だからか、怖くて、心細くて、仕方がない。
 ――……やっぱりライナスに殺してもらえばよかった。……でも……。
 ライナスは怒っていた。
 いつも穏やかで、優しいライナスが。いつも俺の能力を褒めてくれた、「ハサドの技は神の領域に達している」とまで賞賛してくれた。
 うじうじした性格を嫌がらず付き合ってくれた、「その繊細さがあなたの強みです」と励ましてくれたあのライナスが……。
 あんな怖いライナスは初めてだった。撃たれるかと思った。
 あのまま地下へ行かせていたら、女を殺した後、俺を殺したかもしれない。
 思いすごしじゃない。ライナスは地下への扉を閉じた後、女に被せるはずだったタオルを俺に被せて立ち去った。気遣いの言葉一つ、別れの挨拶一つしないで……。
 ぐすっ、ぐすっ……。
 ハサドはすすり泣く。
 包帯を巻いた手に、ぽと、ぽと、と涙が落ちた。

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