第10話

文字数 5,893文字


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 シエナはサンドイッチと紅茶が並べられた食卓に着く。
 テーブルの向かいにはライナスが着席し、ライナスは優雅な仕草で紅茶に口をつける。
 捕らわれの身ということを忘れそうなほど静かで穏やかな昼時だ。
「……私を、拷問しないのですか」
 シエナは食事には手を付けず、独り言のように聞いた。
「サイードを恨んでいるのでしょう。私を痛めつければ少しは気が治まるのではないですか。そうしないのは、……私が無力で、心を患った、哀れな女だからですか」
 ライナスはゆったりと笑んだ。籠からオレンジを取り、ナイフでむき始める。
「私は貴方を特別待遇しているつもりはありません。貴方を無力で哀れな女性とも思っていません。シエナはこういう穏やかで静かな環境にいた方が心休まるでしょう」
 ライナスは切ったオレンジをシエナに差し出す。シエナは受け取らなかった。
「シエナは過去に、武装組織に家族を殺され、凌辱され、顔を焼かれた。家を焼かれ、村を焼かれ、全てを失っている。そこをサイードに助け出された。
 貴方がサイードに促されるがまま捕虜を殺したのは、彼らが貴方の村を焼いた組織の残党だったから。サイードへ反逆を企てた部下を殺したのは、サイードが治めていた村を焼き尽くしたから、でしょう」
 ライナスはオレンジをシエナの皿に載せ、確かめるような視線を向ける。
 シエナは体中の熱が引いていくのを感じた。
「つまり貴方は、過去を想起させるような状況に陥らなければ破壊行動に走らない。そう、私は理解しています。これは私の策略です。厚遇されていると引け目を感じる必要はありません」
 シエナは言葉を失った。
 ライナスはどこまで知っているのだろう。診察でも話していない内容がライナスの口からすらすらと出てくる。サイードから聞いたのか、それともサイードの妻でしかない自分のことをアメリカ軍は調べ尽くしているのだろうか。
 ライナスはいったい、何者なのだろう。
 己の心の内も、過去も、罪も、何もかもを見透かされている気がした。
「食が進まないようですね。少しでも食べないと体に障りますよ」
 ライナスはシエナの皿を取り、サンドイッチをナイフで一口大に切り分ける。
「どうぞ」
 またシエナの前に置く。
「私はサイードの計画には加わっていませんが、サイードには相通ずるものを感じています。サイードは神の存在に懐疑的だった。私は人間そのものに疑問を抱いています」
 シエナは皿に手を付けず、ライナスの話に耳を澄ます。
 ライナスはここではないどこかへ心を浮遊させるように、宙へ視線をさまよわせる。その姿はかつての夫を思い出させた。
「パレスチナ・アラブ人とイスラエル・ユダヤ人はなぜ長年争っているのか、私はずっと疑問でした。『パレスチナ人はパレスチナの土地に住むアラブ人(アラビア語を話す人)』、イスラエルの法で『ユダヤ人はユダヤ教を信じる者、もしくは母親がユダヤ人である者』と定義されているように、実はどちらも民族も人種も、宗教すら関係ありません。
 パレスチナ人にもユダヤ教を信じる者はいましたし、ユダヤ人の中にもイスラム教を信じる者、ユダヤ教を信じない者がいます。『イスラエルは神が与えた土地である』というシオニズムの考えに反発するユダヤ人もいるのです。
 イスラエルは世界中に離散したユダヤ人が『神が約束した土地』へと寄り集まり、当時のシオニスト指導者が『本人の二世代前後に一人でもユダヤ人がいる者』を半ば強引にかき集めた国です。
 そのため同じユダヤ人でも欧米系、アフリカ系、アジア系、アラブ系と、外見も言語も文化も異なります。そういう意味ではとても曖昧な基準で区分けされていると言えます。
 にもかかわらず、イスラエルは軍を動かしてまで『帰還させた』エチオピア系ユダヤ人を外見や文化水準、割礼の方法等の違いからイスラエル国民とは認めず、一定の条件を課しました。ユダヤ人がユダヤ人を選別しているのです。
 また、イスラエルは、パレスチナ人を一方はアラブ系国民として「二級市民」的に扱い、他方は居住地を破壊し、虐殺し、追放しました。イスラエルによるパレスチナ人の『民族浄化』は約七十年経った今も続いています。
 ユダヤ人は約二千年前に国を追われ離散しました。十二世紀以降からイスラエル建国までの永きに渡り、ヨーロッパのキリスト教世界から迫害を受け、虐殺され、排除されてきました。そのユダヤ人が今度はパレスチナを侵略し、その土地に住むパレスチナ人を虐殺し、迫害する。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、同じ神を崇める者同士が、――人を殺してはならぬ――という最も基本的な教義すら守れず戦っている。長年、幾度も繰り返される暴力の応酬は、聖地エルサレムの膝元であってもなくならない。それどころかより一層酷くなっている。数千年も前から、神の威光が残る聖地が争いの火種になっているのです。
 私は思うのですよ。聖地があるがためにこれらの非人道的な行為が行われ続けてきたならば、『聖地は必要ないと思いませんか』と。
 同じ神を信じる者同士が、憎み合い、殺し合い、奪い合う。彼らに聞きたくなります、『神は必要ですか。信仰自体、無意味ではありませんか』と」
 夢うつつに語っていたライナスがシエナに視線を向ける。
 シエナは反論できなかった。
 シエナの祖国も十年以上、神の名の下に戦争をしていた。田畑は荒れ、穀物は育たず、食うや食わずだった。そんな暮らしでも一日を無事に過ごせたことを、家族とともに神に感謝した。
 けれど、銃を持った男たちに家族を殺され、己の尊厳を奪われ、顔を焼かれた時、自分は神という遠い存在より、サイードに救いを求めた。
 ライナスは同意と捉えたのか、または返答を期待していないのか、上の空で語る。
「信仰だけでなく、思想も、法も、善悪の範疇すら、簡単に覆る。歴史もまた、時の為政者の思惑で容易に書き換えられる。事実は一つでも、記憶や過去は人によって異なる。加害者から見た記憶と被害者から見た記憶、被害者同士ですら一人一人違う。容易にすり替わるものをなぜ人は信じたがるのか。固執するのか。私には不可解でなりません」
 ライナスは籠からオレンジを一つ手に取り、指先で弄ぶ。
 シエナはライナスの手をじっと見つめ、聞いた。
「……信仰も思想も無意味と思っているなら、なぜテロリストになったのですか」
 ライナスは嬉しそうにシエナを見つめる。やっと答えてくれたと喜ぶように。
「違いますよ。私はテロリストでも何でもありません。全てを懐疑的に見る、少しひねくれた人間です。……そうですね、正義の仮面をかぶり権力を振りかざす為政者よりは、己の持てる力を駆使して世界を引っくり返そうとする無謀な者に、私は好感を持ちます。為政者にとって都合が悪い無謀な者がテロリストと呼ばれるのです」
 ライナスはオレンジを弄ぶ。
「……また、テロが起こるのですか」
 ライナスは首を傾げる。
「さあ、どうでしょうね。サイードに報復しようとする者、新たな計画を画策する者、傍観する者……、人それぞれです。私はテロが起ころうが起こるまいがどちらでも構いません」
「……他人事なのですね……」
 シエナは口にして、腑に落ちた。ライナスはいつも穏やかに語っていた。執着も、熱意も、怒りも感じられない、柔和な表情で、穏やかな口調で、幼子に夢物語を聞かせるように。
 ずっと違和感があった。今、やっと分かった。他人事なのだ。どうでもいいと思っている。何もかもが自分とは関わりがない遠い出来事だと。アメリカ軍基地から囚人を連れ出す危険を平然とおかし、アメリカ軍の追跡を警戒する様子もない。ライナスは己の命すらどうでもいいと思っているのかもしれない。
 ライナスは自身の内側を探るようにぼんやりとした表情で動かなくなる。やがて、微かに苦笑を漏らす。
「そうかもしれません。私は、怒りや憎しみに囚われ、復讐に突き進む者を数多く見てきました。歴然とした戦力の差があってもなお戦いを挑み、殺しては殺されての繰り返し。何度も何度も飽きることがない。そうすると、こう考えるようになりました。『貴方がたのやっていることは全て無駄なのではないですか。同じことを繰り返して飽きませんか』と」
 ライナスは反応を見るようにシエナに目を配る。
 シエナはドキリとした。
 両親を、弟を殺した男たちを恨んだ。己を辱め、顔を焼いた男たちを憎んだ。憎みながら己の破壊衝動をひた隠しに生きてきた。恐怖と憎悪と絶望を抱き、息を潜め生きてきた。
 ライナスは怒りも憎悪も、痛みも恐怖も慟哭も全て無駄だと言っているのだ。復讐すら無意味だと。
 いつも、切り裂かれる痛みがあった。胸が潰れるほどの苦しさに耐えた。腸(はらわた)が千切れる辛さに這いつくばった。
 辛くて、苦しくて、痛くて、悲しくて、どうにかなりそうだった。狂えば楽になれるのに、死んでしまえば終わりにできるのに。そう思いながら、一日、一日を、やっとの思いで生きてきた。
 それを、全て無意味だと、ライナスに否定された。
 虚(うろ)と化した己の内部が真っ二つに裂け、すきま風が吹く。
 涙は出ない。小さなため息が漏れた。
 ライナスは半眼を閉じ、体をやや左に傾けた姿勢で動かない。半分眠っているようであり、とてもリラックスしているようでもある。
「この世界に確かな物は何一つ存在しません。生まれ、家庭環境、教育、社会……、長年己を取り巻いていたものによってそう思わされているだけで、それすら一つのきっかけで空しく崩れてしまう。
 国境や国土は災害や紛争の結果いかんで変動し、国も統合されては消滅する。人種や国籍は六世代、いいえ四世代遡れば、先祖がどこに住んでいたか、どこから来たか、答えられる人は少ないでしょう。本人が、『私は〇〇人だ』と信じているだけです。容姿一つとっても同じです。顔も、髪の色も、手足も、数分後にも変わらずあるという保証はない。
 持っていて当たり前、信じて当たり前のことなど何一つないのに、人は見かけに騙され、立場に浮かれ、地位に惹かれ、役割に縛られる。心もまた然り。愛した者に裏切られれば憎しみに変わるように、感情も、信念も、状況によって絶えず変化する。人の本質など脅し追いつめ、手足を切り落としても、死ぬ瞬間、否、死んだ後ですら掴めはしない。私にとってこの世にあるもの全てが移ろいやすく、儚いものなのです」
 シエナは一言も言い返せなかった。
 二番目でもいい、愛されるならと、夫の傍にいられるならと、ウェインさんを受け入れようとした。子どもが産めない私の代わりにウェインさんを妻にするよう、夫に薦めもした。夫が去った後も夫の帰りを待った。夫の部下に銃で撃たれ死を覚悟した時、夫に捨てられたのだと痛感した。生死をさすらっても帰ってこない夫に、愛されていなかったと思い知らされ、夫を心底憎んだ。
 ライナスは、夫への愛も、未練も、憎しみも、絶望も、何もかもが無意味だと断じている。
 シエナはそれが酷く悲しかった。他の誰よりも、ライナスに言われたことが辛くて、虚しかった。
「私は貴方がどう変わっていくのか、とても興味があります」
 ライナスはどこか夢見がちにシエナを見つめる。シエナは力なくライナスを見返す。
「ほとんどの者が復讐に駆られ暴力へと走り、時には精神を病み自殺しました。鬱憤や憎悪の矛先を他者や己に向ける、――攻撃も自殺も復讐の一種だと私は考えています。サイードもその一人だったのでしょう。サイードは『絶望から復讐が生まれる』と言った。私は他者や自己を攻撃するほどの情熱は持てず、ただ流れに身を任せ生きてきました。
 シエナ、貴方はサイードが姿を消し、本当の意味で全てを失った。人々が絶望と称する状況の中から、貴方がどう脱するのか、それともこの状況に留まり続けるのか、全く違った別の方向へ行くのか、私はそれを見届けたいのです。
 この感情が愛かどうかは分かりません。しかし、全てに懐疑的で傍観していた私が、誘拐の発案者に協力するほどシエナに関わりたいと思った。そしてそんな自分に満足している。この心境の変化に私自身が一番驚いています」
 ライナスはオレンジを両手で包み、満足そうな笑みを浮かべる。
 シエナは複雑な思いでライナスを見つめ、ふと、まばたきをする。
 ライナスの姿に影が重なる。緑がかった暗い影に何かが透けて見える気がした。
 ライナスは腕時計に目を落とし、「そろそろ、私は失礼します」と自分の茶器を片付け始める。
「シエナはもう少し食べていてください。私は出かける準備をします」
「……どこへ……」
 ライナスは晴れやかに笑った。
「明日、ウェインに会わせてあげますよ」
 シエナはドキリとした。
「……私は、会いたくありません」
 自分の声が耳の奥で反芻する。つっと冷たい汗が頬を伝った。
「今会わなければ一生会えないかもしれませんよ。それでも……」
 ライナスは含みをもたせ、言葉を切る。
 シエナはカップに視線を落とし、琥珀色の液体を見つめる。
 怯えて縮こまった、ちっぽけな自分が映っていた。

 強い日差しと白く輝く大地に目がくらみ、シエナは目をしばたたく。
「シエナ、外出は久しぶりでしょう。助手席は日が当たりますから、後ろに座って下さい」
 ライナスが後ろのドアを開け、シエナは大人しく後部座席に座った。
 シエナは無言で窓の外を眺める。
 日はまだ高く、冷房がぬるく感じるほど暑い。どこまでも岩石と砂が広がる、砂漠だった。
 見慣れた風景。元夫と住んでいた場所も砂漠だった。
 ずきりと胸が痛む。
 ――……誰にも会いたくない。特に、夫が愛したあの女性(ひと)には。
 会えば辛くなる。あの美しさに、気高さに、自分がいかに惨めでちっぽけな存在か思い知らされる。
 あの強さがあれば、あの男たちから家族を守れた。辱めを受けることも、顔を焼かれることもなかった。
 私にウェインさんのような気高さがあれば、生き恥をさらす前に潔く死を選んでいた。夫にすがりつき、罪を重ねることもなかった。
 私にないものばかり持っている女性(ひと)。
 私が望むもの全てを備えた女性(ひと)。
 車は砂を巻き上げ疾走する、――あの女性がいる場所に向かって。
 車から飛び降りようかと、走って逃げようかとも考えた。けれど、どこにも行くあてはない。あの暗く、狭い檻の中しか……。
 ――……会うのが怖い。会えば、私は、……どうなるか…………。
 シエナは冷たく痺れる手を固く握りしめた。

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