第18話

文字数 12,638文字

 ※

 カーニヒはイスラエル軍中将リュディック・タイラーの邸宅を訪れる。
 護衛の類はおらず、インターフォンを鳴らす。
 しばらく待った後、「はい」と低くくぐもった声がした。
「アメリカ空軍大佐カーニヒです。突然のご訪問をお詫びします。お聞きしたいことがありまして軍司令部へ連絡をしたのですが、今は自宅療養中とお聞きし、こちらにお伺いしました」
 再び長い間があり、「どうぞ」と、ドアの鍵がカチャリと開く。
 ドアの向こうには誰もおらず、別室でドアの開閉を操作しているらしかった。
 セキュリティ機能を兼ね備えた集中制御システムを取り入れているのだろう。ここから見えるだけでも監視カメラが三台、玄関先と二階バルコニーの軒先、駐車場に取り付けられている。
 邸宅周辺や道路に不審者が現れれば即座に警報が鳴り、セキュリティサービスに通報される仕組みだ。
 中将ともなれば四六時中、兵士が数人護衛に付く。休日は邸宅に常駐し、通勤は運転手を兼務し、仕事場では脇に控え、片時も離れない。カーニヒ自身、大佐という役職にあり、護衛二人が常時付き従っている。今も、少し離れた場所に待機させている。
 ここには護衛の影がない。家人がいる気配もなく、ひっそりとしていた。
 長い廊下の照明が点灯し、光に導かれるように扉を開ける。
 ホームシアターがある広いリビングの向こう、酒類を並べた棚を背にソファに腰かけ、グラスを傾ける中将リュディックがいた。
 室内はカーテンが引かれ薄暗く、重苦しいほどにシンとしている。
「……失礼します」
 カーニヒは周囲を警戒し、ゆっくりと近づく。
 リュディックはグラスに口をつけ、こちらを注意深く観察していた。
「アポイントもなしにプライベートの時間に邸宅へ押しかけるとは、よほどのご用向きなのでしょうな、大佐」
 リュディックはウィスキーのボトルを傾け、空になったグラスに注ぐ。
 ――……昼間から、酒か……。
「突っ立っていられると落ち着かない。座られよ」
 リュディックはグラスを持った手で真向かいの席を勧める。
 カーニヒはソファに腰かける。
「なにか、言いたげだね」
 リュディックはグラスを口につけ、カーニヒをじっと見る。
「……今は市中が落ち着かない状況です。とっさの事態に対処できるよう、お酒は控えられてはいかがですか」
 リュディックは鼻で笑った。
「休養中に酒を飲んで責められるとは。アポイントもなしで自宅に来る方がよほど失礼だ」
 リュディックは愉快そうにグラスを傾ける。
 カーニヒは強い違和感を抱いた。
 随分、雰囲気が違う。もっと、物腰が柔らかい、終始笑みを絶やさない人物だった。
 今はプライベートだからか、突然の訪問者に不快感を示し、ぞんざいな態度を崩さない。
「……護衛は、いないのですか」
 カーニヒは最初に抱いた違和感を口にした。
 リュディックはグラスから口を離し、突き刺すように睨む。
「護衛の二人は、遣いを頼んで外出中だ。心配はご無用。この家のセキュリティは万全だ。爆撃でもされない限り安全です」
 リュディックは取ってつけたように笑う。グラスをテーブルに置き、ソファに深く身を沈める。
「……それで。アメリカ空軍大佐が、他国軍の、それも自分より格上である参謀総長の居宅にアポイントなしで乗り込んでくる理由をお聞かせいただこう」
 カーニヒは襟を正し、発言する。
「以前、司令部会で中将は、『サイードの残党による新たなテロ計画がある』と発言し、『それを突き止めるためシエナとウェインを囮にする作戦』を提案しました。後日、中将は司令部会でライナスを協力者として紹介し、出席者に作戦への理解を求めました」
「……それが」
 リュディックは気だるげにソファにもたれ、話を促す。
 カーニヒは体をやや前傾し、リュディックの顔を見据え、話を続ける。
「先ほど、私の部下が人質二人を監禁していたと思われる場所を突き止めました。人質二名は消息不明、ライナスともう一人、ハサドも行方をくらませています。潜伏先だったと思われる建物は爆破され、瓦礫の下から人体の一部と思われるものが複数見つかりました」
 リュディックは顔色一つ変えない。
「……ご存じでしたか……」
 リュディックは片頬を上げて笑い、気だるげに答える。
「遣いにやった護衛から先ほど報告があったよ。それでこの通り、やけ酒だ」
 リュディックはグラスにウィスキーを注ぎ、氷が入ったガラスの水差しを傾け水を足す。カラカラと手でグラスを揺する。
「……破壊された建物は地下シェルターが埋設された二階建てのコンテナハウスでした。ソーラーパネルが設置され、貯水タンクと浄化装置も備えられていました。テロリストの残党がイスラエル軍とアメリカ軍の監視をかいくぐり、砂漠にあれほど行き届いた建物を造れるものでしょうか」
「……何が言いたい」
 リュディックはカーニヒを見据える。
 カーニヒは一番聞きたかったことを口にした。
「……中将は何を根拠に、新たなテロ計画があると主張したのですか。現状、どれほど調べてもテロ計画は一向に判明せず、敵の正体も、具体的な人数も分からない。……本当は最初から新たなテロ計画はなく、サイードの残党もいなかった。それを中将がさも大きな計画があるかのように吹き込み、敵がいるように見せかけたのではないですか」
「はっ。私がなんのために」
 リュディックが愉快そうに声をあげた。
「二人の誘拐に関わった人物はハサドとライナスの二名。ハサドはガザ地区出身、ライナスはヨルダン川西岸地区出身、どちらもパレスチナ問題に由来する場所です。中将、貴方はヨルダン川西岸地区、もしくはガザを攻撃する大義名分をつくろうと、新たなテロ計画があるとでっち上げたのではないですか」
 リュディックはさも愉快そうに笑いだす。手に持ったグラスが揺れウェイスキーがこぼれる。
「カーニヒ大佐は表情に乏しく人形のような男だと思っていたが、なんとなんと、実に想像力が豊かだ。これだから人間は面白い」
 リュディックはグラスをテーブルに置き、また笑う。酒で濡れた手をナプキンで拭い、ソファに体を沈める。
 カーニヒはテーブルに置かれたナプキンを一瞥し、リュディックを冷ややかに見つめる。
「私は、サイードの残党を捕え新たなテロ計画を阻止すれば、聖地襲撃事件を阻止できなかったアメリカとイスラエル、両国軍の汚名をそそげると思い、アメリカ軍監視下にある二人をアメリカ軍の信用を傷つけてまで誘拐させた。それが実は、アメリカとは何ら関係のないパレスチナ問題を強制的に終わらせるために仕組まれた、中将、貴方の計画だったのなら黙認できません」
 リュディックは考え込むように額を押さえる。肩を震わせ、喉を震わせ、くぐもった声を漏らす。声が次第に大きくなり、たまりかねたように顔を上げて笑う。
 室内に明るい笑い声が響き渡る。
 異様な雰囲気にカーニヒは隠し持った銃に手を伸ばし、油断なくリュディックを注視する。
 リュディックはソファにもたれ、くっ、ふっ、ふふっ……、としゃっくりのように肩を震わせ、楽しげな声を漏らす。二度、三度、深く息を吐き、“失礼”と言うふうに片手を上げ、テーブルのグラスに手を伸ばす。ぐびぐびと喉を鳴らし、ふうーっと大きく息をつく。
 笑い疲れたようにソファにぐったりとなり、ぼんやりした表情で話を促す。
「どうぞ、続けて」
 ――……この男は、いったい。
 カーニヒは忍ばせた銃に触れ、腰を浮かす。手の平がじっとりと汗ばむ。視線はリュディックから一ミリたりとも逸らさない。
「……反論がなければ、私の推測通りと受け取ります。よろしいですか」
 リュディックは笑みを浮かべ黙っている。カーニヒは注意深く続ける。
「……ガザを攻撃するつもりなら、余計な画策はせず、初めからイスラエルの作戦として遂行すればいい。アメリカ大統領か国務長官がイスラエル政府を非難はするだろうが、制裁はできない。アメリカ軍も介入しない。……中将、シエナとウェインをさらわせ、アメリカ軍を巻き込んだ理由をお聞きしたい」
 リュディックは機嫌よく肩を回し、首を回す。
「なんだ、想像力豊かな奴だと見直したのに、やっぱり頭はカチコチだな。俺がイスラエルのために動くわけないだろ」
 声が、若い。中将は五十手前のはず。それにこの話し方。
 カーニヒは立ち上がると同時リュディックに銃を突き付けた。
「お前は誰だっ。中将ではないな」
 狙いをリュディックの額に定め鋭く問い質す。
 リュディックはグラスを口に運び、のんびりした口調で話す。
「銃を下ろせよ。話が聞きたいんだろう。何をびびっているんだ、丸腰の相手に」
 手をひらひらさせ、けらけらと笑う。
 カーニヒは銃口を突き付け、殺意を込めてリュディックを見据える。
 リュディックはグラスを片手に陽気に答える。
「人質をさらったのはサイードへの嫌がらせ。サイードへの報復、それ以上の意味はねえよ。ハサドが『サイードのせいで弟が死んだ』って泣きつくもんだから、憂さ晴らしにサイードが惚れているあの金髪女をくれてやったんだ。イラク女はライナスが欲しがったからやった」
 カーニヒはリュディックを凝視する。
「ハサドは性格はクソだが、技能は一級でな。あいつのおかげで俺はすんなりイスラエル軍中将リュディック・タイラーというおえら様になれたってわけだ。俺だけじゃねえ、三十人以上の仲間がイスラエル軍将校にすり替わっているぜ。ついでに言うと護衛二人とハサドとライナスも本人に成りすました偽物だ」
 リュディックの偽物は悪戯っぽくウィンクする。
「……たわ言を……」
 声が掠れる。冷や汗が噴き出し、銃を握る手が震える。
 頭では否定しながら、目の前の男が真実だと肯定していた。
「信じなくたっていいぜ。ハサドって野郎は本物からもう一つの本物を作り出せる。すごかったぜ。俺も施術してもらう前に見たけど、死んだそいつの髪の生え際から胸までをきれいに剥がして顔を取り出すだけじゃなく、二の腕から爪の間まで剥がして指紋を取り、無数に這う静脈を一本一本ピンセットでめくるんだ。眼球を抉り出し光を当ててルーペで観察し、喉を裂いて声帯を切り取る。そうやって体のあらゆるパーツを部分ごとに細かく切り分けて防腐処理をするんだ。それら全てに手を加え、もう一つの本物を作りあげる。
 いつもピーピー泣いている男が、俺でも吐き気を催すほどの行為を顔色一つ変えないでやるんだ。あれはぶったまげたねぇ。天は二物を与えず、ってやつかな。
 おかげで俺のこの顔も、虹彩も、指紋も、静脈も、全てセキュリティチェックで『本物』と証明されるんだ。テロリストの俺が軍事施設内を堂々と歩けるなんて爽快だぜ。ハサドさまさまってとこかな」
 カーニヒは酷い眩暈に襲われた。銃を握る手の感覚が遠のき、己が立っているかすら自信がない。己が聞いている話がそのままの意味通り耳に入っているのかさえ疑わしく、銃を手にその場に立つ、それだけで精一杯だった。
「ばらしたってかまわないぜ。どうせお前が言ったって誰も信じない。機械が『本物』だって判定しているものをお前が違うと言ったって誰が信じる。声だって、今俺がネタバラシで声を変えなきゃ分からなかっただろ」
 カーニヒは反論できなかった。
 リュディックと対面で話したことは何度もある。イラクに出向く前は週に一度は顔を突き合わせていた。エルサレム襲撃が現実味を帯びるとイラクとエルサレムを繋ぐオンラインでの会議が主流となり、無線機、電話、マイクを通しての会話がほとんどだった。
 エルサレム襲撃事件が終わった後は、旅客機を撃墜した責任を負いリュディックは自宅謹慎の身となり、処分を無視し司令部会に出てきた時も特に違和感を抱かなかった。
 ――……気づかなかった、全く。
 カーニヒは突きつけられた事実に愕然とした。
「……本当の中将は、どこだ。……殺したのか」
 自分でも驚くほど、声が上ずっていた。
 リュディックはぽかんとした顔でカーニヒを見上げ、人差し指で自分の鼻を指す。
「なに、パニクッテルの。中将は俺、俺だよ。司令部会で初めて大佐とお会いした時からずっと、俺が中将だ。お分かり」
「……では、聖地襲撃の時は既に入れ替わっていた、のか」
 リュディックはほろ酔い加減で笑う。
「ご名答。といいたいところだが、もうちょっと前からかな」
 カーニヒは絶句した。リュディックを呆然と眺める。
 聖地襲撃事件の前から入れ替わっていた、だと。ウェイン・ボルダーと仲間二人にイラクで初めて会った時にはもう入れ替わっていたというのか……。
 カーニヒは足元から崩れ落ちそうになった。
 イスラム教の聖地『神殿の丘』を守っていた武装警察は敵機の襲来に恐れをなし早々に逃げた。イスラム教地区の守りが明らかに手薄だった。イスラエル軍は多数のアラブ人が乗っていた旅客機を躊躇なく撃墜した。
 聖地襲撃を阻止する作戦の総指揮官は中将リュディック、作戦の失敗は全てこの男の企みだったのか。
 カーニヒは呆然自失で目の前の男を見下ろす。
「おいおい、なんか、俺をすごい悪者に思ってねえか。エルサレム襲撃事件は周辺のアラブ諸国とパレスチナ側が計画を信じず、武力も兵士も出さなかった結果だろ。逆に、『聖地に一つでも傷をつければ報復する』って俺たちを脅していた。エルサレム襲撃はイスラエルとアメリカの自作自演だって、心底決めつけていたじゃねえか。旅客機撃墜は俺じゃなく、他の指揮官が指示したんだ。俺はただまじかでショータイムを楽しんでいただけよ」
 カーニヒは銃を向けたまま、耳に入ってくる悪夢のような事実に翻弄されていた。
 ――……テロリストが、イスラエル軍中将に成りすまし指揮を執っていた、のか……。
 リュディックはカーニヒを見上げ、わざとらしくため息をつく。
「あんたらがゴキブリ同然に見下している俺らテロリストだって、あんたらと何一つ変わらない人間なんだぜ。ほら、目もついてりゃ、鼻もついているだろぉ」
 リュディックは愉快そうに人差し指で自分の鼻の頭をぽんぽんと叩く。
 銃を持つ手が怒りに震える。煽られている、と分かるのに、怒りを抑えられない自分がいた。
「軍人は特別、軍人は裏切らない、軍人に悪い奴はいない。なんて、まだ本気で思っていそうだな。イラクの訓練場を襲撃された時に懲りなかったのか。軍内部にも、政府高官にも裏切り者がいた。俺たちがテロリストだと知っていてイスラエル軍内部に招き入れた軍人もいるんだぜ。……それでも、軍人という肩書に夢想を抱いているわけ」
 カーニヒは頬が熱くなった。胸を焼き切るほどの怒りを必死に抑え込む。冷静であらねば敵に侮られる。
 リュディックは冗舌に続ける。
「まあ、お前みたいにおめでたい勘違いヤローがいるおかげで、俺たちはすんなり敵の懐に潜り込めたんだ。感謝しねぇとな。ライナスの馬鹿野郎に言わせりゃあ、『人間というものは窮地に追いつめ、薄皮一枚剥がしても、本心はそうそう分からない。人の心はそれだけ奥深く、変化するものです。一つの枠に押し込めても歪んだ形で噴き出す。人はそれを裏切りと呼びますが、ただ思うがまま、望むところへ流れついた結果です』、なんだとよ。要するに、信じる方がマヌケだってよ」
 リュディックは吹きだす。
 カーニヒは反論一つできなかった。
 リュディックはしなやかな身のこなしでテーブルを乗り越えカーニヒが構える銃を押し下げる。意地悪く笑い、カーニヒに囁く。
「俺は今、すこぶる機嫌がいい。教えてやるよ。今回の計画は、イスラエル首相も国防相も知っているんだぜ」
「……ッ…………」
 カーニヒは金縛りにあったように動けなくなる。リュディックに両肩を押さえられソファに座らされる。銃を取り上げられても抵抗できなかった。
 リュディックは銃をリビングのはるか向こうに放り投げ、ソファに座り直し、グラスを手にする。
「もちろん、あのじじい連中は俺らがテロリストだなんて知らねえよ。俺が、中将を殺して、中将に化けている偽物だってこともな。
 たいていの奴は余計なことをするから失敗するんだ。俺は中将に成りすまして、爆撃の指示ができればそれでよかったんだ。それが一番シンプルで成功率が高い。時期が来るまで、中将として目立たず大人しくしていようと自重していたわけよ。だから難癖をつけられて自宅待機を命じられても大人しく従った。
 ハサドがピーピーうるさく言わなきゃ、なーんもするつもりはなかった。あいつには世話になったし、それにブチギレていらんことされてもかなわねえ。敵側に全部ぶちまけられたら、俺たちは全員極刑だ。だからハサドをなだめる目的であの金髪女をくれてやったんだ。まあ、いい暇潰しになるかと考え直したけどな。
 ライナスに『サイードが惚れている金髪女をハサドにやることになったから協力しろ』と言ったら、ライナスの野郎が『それではシエナを私に下さい』と言いだしやがった。『二人もさらうなんて無理だ。しかもイラク女はアメリカ軍基地内の刑務所にいるんだろ』って俺は反対したんだ。ライナスの野郎、そこで引き下がるかと思ったら意外に粘っこくてな。
 『では、司令部会で地下の映像を流し、「サイードの残党が新たなテロ計画を企てている。新たな計画を阻止するため、二人を囮にし、敵の動向を突き止めましょう」と提案してはどうですか』って勧めるんだ。『自分から計画を暴露する馬鹿がいるか』と俺は渋ったが、命令を出す時になってジジィどもに邪魔されてもかなわんからな、保険のつもりでその案に乗った。反対されても『ああ、そうですか』と引き下がりゃあいいし」
 リュディックはカランと氷の入ったグラスを回し、薄黄色の透き通った液体を飲む。
「ライナスのヤローを褒めるつもりはねえが、あいつは人が何を一番欲しがっているかを瞬時に見抜く。そこを上手くつついてたぶらかす能力はピカイチだった。中身が空っぽな奴ほど人が欲しがる物に敏感なのかもな。俺にハサドを引き合わせたのもあいつだ。……何にも興味を持てない、女にも興味ない不能かと思ったら、イラク女にのめり込んで姿を消しやがった。女をどうしようと、用意してやった建屋を壊そうと構わねえ。俺の計画さえ邪魔しなけりゃな。だが……」
 リュディックは手にしたグラスを指が白くなるほど強く握り、ギリッと歯ぎしりする。
「瓦礫の死体がハサドだったら、百パーセント、ライナスの仕業だ。その時はライナスを必ず見つけ出して、コロス」
 一点を睨み、断言する。唇の隙間から白い犬歯がちらりと覗いた。
 リュディックは首をぽきぽきと鳴らし、髪をグシャグシャにかき混ぜ、宙を眺める。思い出したように「ああ」と呟き、話を再開する。
「まあ、でな。ライナスに言われた通り、俺はイスラエル政府のお偉い様にこう持ちかけたのよ。『ガザを一掃する大義名分があります』ってよ。
 イスラエルはエルサレム襲撃事件を防げず、世界中から非難されている状態だ。名誉挽回したいし、国内の暴動も治めたい。『襲撃事件の首謀者サイードの残党を捕え、しかもガザを攻撃できる口実が作れるならこんないいことはない』ってイスラエル政府のおえら様は飛びついたわけだ。
 人質二人はサイードの妻と想い人、ハサドはガザ出身で弟はエルサレム襲撃の実行犯、ライナスはヨルダン川西岸地区出身、大義名分づくりには持ってこいってわけよ。
 『エルサレム襲撃事件の残党であるライナスとハサドは、サイードの命令で、アメリカ軍に囚われている女二人の逃亡に手を貸した』ってな。ライナスとハサドがアメリカ軍監視下から人質二人を連れ出した事実さえあれば、四人の生死は関係ない。
 今までだってイスラエルは散々言いがかりをつけてはガザを攻撃してきた。大義名分、口実づくりはお手の物ってわけよ。
 おえら様方にとっちゃ、パレスチナ問題は喉に刺さった魚の骨だ。
 神が約束した我々の土地にいつまでも住み着く害虫を駆除したい。国外に出せば害虫は更に増殖する、それは避けたい。害虫がロケット弾をぶっ放すだけでなく、もっと大々的な攻撃をしてくれれば、我々は総力を挙げて反撃し数日で壊滅できるのに、って思ったとしても不思議じゃない。
 ユダヤ人にとっても、パレスチナ人は壁の向こうにいるやばい奴。自爆攻撃が趣味のイカレた連中。下手に関わったら何をされるか分からない。ずっと壁の向こうに押し込めておけばいい、出来るなら一人残らず消えてほしい。子どもでも関係ない、泥棒の子は泥棒ってわけさ。
 エルサレム襲撃と国内外の混乱をパレスチナ側のせいにすれば、ガザを攻撃しても文句は言われないだろうって、考えたかどうかは知らんが、政府のおえら様方も、軍の幹部連中も、『女二人の連れ出しが完遂した時点でガザ地区への爆撃を許可する。時機を見て実行せよ』と承認した。……つまり、ガザを攻撃する作戦はイスラエル政府も軍も了承済みで、お前一人が騒いでも止められないってわけ」
 リュディックは期待に満ちた目でカーニヒの顔を覗き込む。
 カーニヒは薄く笑い、襟を正した。
「……なるほど、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございます」
 リュディックは怪訝な顔でカーニヒを見つめ、“頭、おかしくなった”と聞くように己のこめかみを指さしくるくると回す。
 カーニヒはふっと笑った。冷ややかにリュディックを見やる。
「予想を超えるお話でしたので少々混乱しましたが、頭はしっかりしています。ご安心を。詳しい事情を話していただいて無事に帰してもらえるとも思っていませんが、その点、いかがですか」
 リュディックは楽しそうに体を左右に揺らした。
「そうだなぁ、『中将の自宅に銃を持って侵入した』って、この場で射殺してもいいけど、ただ殺されるのを待っているような殊勝な奴にも見えねえな。『中将に殺される』って、遺書でも書いてきたか」
 リュディックは底意地悪く笑う。
 カーニヒは冷ややかに笑う。
「遺書は書いてきておりませんが、私が死ぬことがあればイスラエル軍に駐留するアメリカ軍を撤退させるようにと、アメリカ国防総省に進言しています」
 リュディックは鼻で笑う。
「アメリカ空軍大佐一人死んだくらいで駐留軍を撤退させるかあ。それより他国軍の参謀総長を殺そうとしたとんでもない大佐として歴史に残るんじゃねえの」
 カーニヒは落ち着き払って答える。
「私の部下はそれほど無能ではありません。私が死ねばイスラエル軍中将の自宅に私が乗り込んだ理由を突き止めようとするでしょう。それに、ウェイン・ボルダーをさらったことで、彼女の仲間はアメリカ軍とイスラエル軍を疑っています。私が死ねばその疑いは一気にイスラエル軍に向く。誘拐を企てた貴方にね。ウェインの仲間は手強いですよ。貴方が思う以上に……」
 リュディックは「ふーん」と興味なさげに呟く。
「まあ、作戦が終わればさっさと退散するつもりだから疑がわれてもかまわねえけど。……でも、あともうちょい、待ってくれない。これから計画を実行に移すよう指示したいし、あのでっかいスクリーンで作戦の様子を観たいしさ。そのためにわざわざ高い酒とつまみを用意したんだ。うーん、一時間半。だめなら一時間、黙っていてくれるならここで一緒に観せてやるけど、……そこんとこ、どう、無理そう」
 臆面もなく聞いてくる。カーニヒは冷笑を浮かべ首を横に振った、「無理ですね」と。
「ま、そうなるわな」
 リュディックは頭をバリボリ掻き、グラスに残ったウィスキーをグイッとあおる。
 突如、シャッターが続けざまに下り室内が真っ暗になる。一瞬、カーニヒはそちらに気を取られた。
 リュディックが口に含んだ酒を吹く。
 ボッ、霧状の液体が炎となりカーニヒを襲う。ライターに火をつけたのだ。
 カーニヒは横手に飛びすさりナイフを投げる。残り火に照らされたソファに刺さり白い羽根が暗闇に舞う。
 どこからか声が降る。
「てめえはここで死ねっ」
 カンッ、硬い物が床に落ち、ゴロゴロ……、音を立てて転がる。
 シュウー……、暗闇に銀色の霧が噴き出す。細かな粒子が放射状に拡がり白銀に煌めく。
 まずい、カーニヒは肘の内側で鼻と口を塞ぎ、腰を低くし噴出する霧から離れる。銃は取られナイフは投げた。暗闇に視線を走らせ部屋の外へ脱出を図る。
「ライナスが小賢しい真似してむしゃくしゃしていたんだ。てめえをぶっ殺して、イスラエル全土を火の海にしてやる。ついでに大御所気取りのジジィどもも血祭りにあげてやらぁっ。てめえはあの世で指咥えて見てやがれっ」
 リュディックは哄笑する。呼応するように白銀の霧が煌めく。
 グフッ。喉を衝く刺激に咳が止まらなくなる。口元を強く押さえ、体を折り咳き込む。舌が膨れ歯を押し開き、喉が腫れ気道を塞ぐ、……息が、できない。
 部屋の間取りを思い出し、己の位置と扉までの距離を推し測る。扉は三つ、一番近い扉は……、リュディックが腰かけていたソファの右奥。だが、逃げる動線にリュディックがいれば終わりだ。
 ――リュディックはどこだ。
 カーニヒは暗闇に目を凝らし、リュディックを、出口に繋がる扉を探す。
 その間にも白い霧が噴き出し、舞い上がり、ちらちらと浮遊する。夜空に浮かぶ満天の星のごとく白銀に瞬き、暗闇を仄かに照らす。
 眼球が眼窩を押し上げ、火花が散る。反射的に目を閉じるが、無数の針で突かれるような痛みに涙が止まらなくなる。
 口元を覆う腕ががくんと落ち、ぐらりと体が傾ぎ前のめりに倒れる。ゴッ、額を床に打ちつけ突っ伏す。力が入らず、起き上がることも、口元を塞ぐこともできない。瞼の裏を白い光が明滅し、頬に冷たい床の感触を感じながら、ガスが噴き出す音を聞いていた。その音も急速に小さくなっていく。
 ヒューーーーーッ、ドォンッ……。
 轟音と地響きを立て、ドオッと爆風がなだれ込む。カーニヒは吹き飛ばされ反対側の壁に激突した。体がバウンドし、床に叩きつけられる。
 土石混じりの暴風が吹き荒れシャッターが折れ曲がり、窓を突き破り、カーテンが引き千切れ、シャンデリアが粉砕する。ソファやテーブルが横殴りに飛んでくる、カーニヒはすんでのところで避け、ソファとテーブルが立て続けに壁にぶつかりバンッ、パンッと砕ける。カーニヒは破片を全身に浴びた。
 無数の土石がスクリーンを直撃し、オーディオを破壊し、壁を穿つ。バキッ、バキバキッ、岩盤が割れるような音を立て天井に亀裂が入る。天井が大きくたわみ残ったシャンデリアの一部ごと柱を押し潰し、崩落した。
 砕けた土石が空高く跳ね上がり、ザーーッ……、土砂が大量に降り注ぐ。
 衝撃が止み、風が止み、土砂がぱらぱらと落ちる。
 伏せていたカーニヒは顔を上げた。
「だれだっ、こんなことをしたやつはッ」
 リュディックの声だ。残念ながら、無事だったらしい。
 リュディックは崩落した瓦礫の上に立ち、ガスマスクを投げ捨てる。
「クソッ」
 リュディックはカーニヒを睨みつけ舌打ちし、獣のごときすばやさで割れた窓の向こうへ姿を消した。
 爆風でガスは消し飛んだらしい。口腔内の腫れは治まり、すっと息が胸を通る。舌はまだ痺れるが、気になるほどではない。目の痛みもなく、視界は明瞭だ。
 カーニヒは数分前まで壁だった場所に座り込み、室内だった現場を眺める。
 部屋中、大量の土砂と砂埃にまみれ、床に積もる土砂に混じりコンクリ片やガラス片が陽光を受けきらきらと輝く。砂埃がそよ風に流されくるくると舞う。
 つい先ほどまで豪邸だったとは思えないありさまだ。血相変えて逃げていく中将の後ろ姿がやけに可笑しかった。
 カーニヒは笑みをこぼした。

 爆音がはるか遠くで聞こえる。
 カーニヒは立ち上がり、制服についた砂を払い落とす。念のため、残ったガスを吸い込まないようスカーフで口元を覆い外へ出る。
「大佐、お怪我は」
 待機させていた護衛二人が駆け寄ってくる。
「……とくに……な……」
 声がしゃがれている。ガスを吸った影響だ。スカーフで口元を押さえ咳を数回し、声を整える。
「大佐、大丈夫ですか」
 護衛二人が青くなっている。
 ガスを吸ったのかと、カーニヒは護衛の二人を心配したが、突然の出来事に驚いているだけのようだ。
「ガスが漏れている。口を覆っておけ」
「はいっ」
「はいっ」
 スカーフで鼻と口を覆った護衛二人に事情を聴く。
「中将は先に脱出した。何があった」
「それが、突然爆弾が降ってきて――」
「…………」
 突然の爆発が中将の偽物の仕業でないとしたら、誰が……。
 爆発音がまた遠くで響いた。
 ポケットに入れた無線機が鳴る。
「カーニヒだ。何が起こっている」
「イスラエル国内がミサイル攻撃されています。場所は広範囲に及び、指揮命令を出した中将には連絡が取れません。本部は混乱しています」
 “そうだろうな” と、カーニヒは思った。中将はテロリストが化けた偽物で私を殺し損ねて逃げていった、とは、とりあえず黙っておくことにした。
 今は事態の収拾が先だ。
「イスラエルのどこが攻撃されているか分かるか。敵は、ミサイルの発射地点は」
 電波の乱れか、答えが返ってこない。
 カーニヒは苛立った。
「どうした、分かっていることがあるなら言え」
「そ、それ、が……。敵は、イスラエル軍です。イスラエル軍がイスラエル国内に向かってミサイルを発射しています」
 カーニヒはあ然とした。
「間違いないのか」
「ありません。イスラエル軍基地内からミサイルが発射されています。首相官邸、政府機関、検問所、発電所、イスラエル情報機関も攻撃を受けています」
 カーニヒはようやく事の重大さを理解した。
 『イスラエル全土を火の海にしてやる』
 リュディックの目的はガザ地区ではなく、イスラエル全土だったのか。だが、リュディックは爆撃を受け明らかに動揺していた。リュディック自身の計画なら自分がいる邸宅を攻撃目標には入れない。では、一体誰が……。
「カーニヒ大佐、アメリカ軍はどう対処しましょうか。命令を出してください」
 カーニヒは大きく深呼吸をし、静かに言った。
「攻撃に備え、臨戦態勢を取って待機しろ。アメリカ軍はアメリカ軍基地及びアメリカの関係機関が攻撃されない限り、動くな。静観しろ」
「何もしないんですかっ」
 泡を食ったような声だ。
「かまわない。イスラエル軍が自国の領土を攻撃しているんだ。クーデターとしてもイスラエルの問題だ。こちらは下手に介入せず、静観すること」
「……り、了解しました。命令に従い、アメリカ軍は攻撃されない限り、静観します」
 はっきりした答えの後、通信が切れた。

 カーニヒは半ば夢うつつのような心地で爆撃を受けた邸宅を眺める。
 陥没し土砂が積みあがった庭、大きくへしゃげた二台の高級車、一階の屋根は大きく抉れ、窓側の壁は吹き飛び、剥き出しになったコンクリから鉄筋がツタのように垂れ下がっていた。
 シャッターは紙くずのようにくしゃくしゃになり、部屋の中はハリケーンが発生したかと思うほど散乱していた。
 ――……中将の偽物でないなら、いったい誰が……。
 まさか。
 一人思い浮かび、立ちすくむ。
 ……まさか、な……と、カーニヒは全壊した邸を見上げた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み