第36話「“本当の”いい子」

文字数 1,218文字

 僕はハンカチを渡し、母は彼女の頭を撫でた。
辛い思いをしたんでしょう。
彼と同じ理由です。
 彼女はハンカチで涙を拭い、声を震わせながら答えた。
でも、“優しい心を持っている”というのが分からないんです。その日は世界なんて滅んでしまえと思ったし、それからは生きる事もどうでも良くなって、この世の全てに意味なんて無いと思うようになったんです。
    自分の発言に気づいた彼女は慌てて付け足した。
ごめんなさい。ひどいこと言っちゃって。
いいのよ。
 母は再び彼女の頭を撫でた。
“だからこそ”あなた達は優しい心を持っているのよ。
 母は順番に僕と彼女の顔を見た。
どういうことですか?
 多くの人はね、人や動物が悲しい目に遭っていることを知っても見て見ぬふりをしてしまうの。自分も苦しくなるのが怖くて、考えることを止めてしまうのよ。

 そういうのってどう思う?

ひどいけど、自分を守るためには仕方ないとも思います。人ってそういうものだから。
そうね。

でもあなた達は違った。


優しい心を持っているからこそ、動物達の悲しい現実から目を背けず本気で受け止めた。本気で悲しんだ。だから世界が嫌になってしまった。そうじゃない?

 気がつくと僕も泣いていた。母の目からもまた涙が流れていた。泣いている我々3人に気づいた他の客は驚いていたが、見て見ぬふりをして再び猫カフェでの時間を過ごし始めた。
 私もあなた達と同じように、動物のことを想って苦しんだ。そして同じように考えていた夫と出会って結婚したのよ。


 お互いにそれぞれ別の仕事をしていたんだけど、お金を貯めてから退職してこの猫カフェを始めたのよ。

 泣いている彼女の膝の上で茶トラ猫も鳴いた。いつの間にか僕と母の膝にもそれぞれ猫が乗っていた。僕達はしばらく黙って猫を撫でた。
ごめんなさいね。せっかく遊びに来てくれたのに邪魔しちゃって。
とんでもないです。

お母様の話を聞いて私は救われました。

それなら良かったわ。
 母は安心したように微笑みながら言った。
あなた達は“本当の”いい子よ。

 そう言い残すと母は厨房に戻った。彼女は僕の手を握り、赤くなった目で僕を見つめて微笑んだ。それから僕らは1時間ほど猫達と遊んで幸せな時間を過ごした。


 閉店の時間になったので僕らは荷物を持って出口に向かうと、受付で両親が並んで待っていた。僕らは鞄から財布を取り出した。

いいのよ、お代なんて。
 母は我々の支払いを断り、父は微笑みながらその様子を見ていた。
でも、悪いですよ。
家族みたいなものじゃない、私達。
 僕と彼女は顔を赤らめて下を向いた。
いいからあなたは彼女を送ってあげなさい。
 母から背中を押されて僕らは店を後にした。
また来てね。
 母はこらに手を振りながら言った。僕らは並んで歩き、自然と高校時代のバス停に向かっていた。お互いに話したいことが多すぎて上手く言葉をまとめることができず、黙って手を握りながら歩いた。
この道を歩いていると、昔を思い出すわね。
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登場人物紹介

“不完全”な僕。世界から色が消え、ただ時が過ぎるのを待っている。

”完全”なクラスメイトの女の子。僕とは真逆の存在。

僕の母。父と2人で猫カフェを経営している。

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