第110話
文字数 4,369文字
理子が取りに行っている間、博子はティーカップの中の冷めた紅茶を半分程飲んだ。
ふと美鈴の方を見やると、彼女のカップは全くの手つかずだった。理子の方のカップを見ると、殆ど無くなっていた。それを見て、博子の口の端が緩む。
博子は、理子は、肝心なところでは太い子だと思った。
思いきりがいいのだろうか。それとも覚悟ができているのか。
病院で神山美鈴と二人きりで対峙した時の様子を聞いた時にも、強い子だな、と感心したのだった。
博子はカップを置いて、声を掛けた。
「あなた、どうあっても雅臣から愛される事はないわよ」
そう冷たく言い放つ。
その言葉に、美鈴は大きく目を見開き、そして震えた。
「ど、どうしてそんなこと…」
見開かれた目から、大粒の涙が零れ落ちて来た。それを見て博子は、可哀想にと思った。だがそれでも、この女性の味方になってやる事はできない。
理子がアルバムを持ってやってきた。それを受け取ると、博子は表紙を開いた。
雅臣がいた。大学の卒業式の時の写真だ。友人達と笑っている。
多くの女性達に囲まれている写真もあるが、女性と一緒に映っている写真は、どれも表情が硬い。ツーショット写真は無かった。雅臣が嫌ったのだろう。
クラスやゼミの仲間や教師達との写真が多く貼ってある。
博子はそのアルバムを美鈴の前に差し出した。
美鈴は驚いている。
「どうぞ、ご覧になってみて。雅臣のアルバムよ。大学卒業時の写真から始まってる」
目の前に差し出されたアルバムを見ながら、美鈴は
手を出しかけたまま、そのまま受け取って良いのか困惑している。
「さぁ、遠慮しないで。ここに雅臣が映ってるから」
博子の言葉に、美鈴はアルバムを手に取った。
膝の上に置いて、恐る恐るといった感じでアルバムの角に指をかけると、めくった。
美鈴は、目に飛び込んで来た雅臣の写真を見て、目を輝かせた。嬉しそうな表情を見せている。自分の知らない雅臣の姿を見れて嬉しいのだろう。ページをめくるペースがゆっくりだった。
だが、鼻歌でも洩れてきそうな嬉々とした表情が、いきなり変わった。
その様子を見て、博子は、正月の理子とのページだろうと、すぐに察しがついた。
あの時を思い出す。
綺麗な着物姿になった理子を、眩しそうに見ていた息子。
必死になって理子の姿を写真に収め、その後、理子との写真を父に撮って貰っている時の表情は、親の自分ですら見た事の無い、豊かさに溢れていた。
いつも澄ました顔をしているのに、歓びが溢れ出て
理子の事が好きでたまらない、と言う思いがはっきり伝わってきた。そのストレートな感情の表出が写真からも見てとれる。
美鈴の手が震えていた。
「どう?そんな顔をあなたの前で見せた事があるかしら?傷ついた心が、あなたのお陰で幾分癒された事は確かだと思うの。その点では、私からもお礼を言うわ。でも、結局、そこまでなのよ。あなたと居ても、雅臣はそんな風に心の底から幸せそうに笑う事はない。その前の写真を見て来て、はっきりと違う事がわかるでしょう?親ですら、そんな表情を見たのは初めてだったのよ。そして、理子ちゃんの許に戻って来た今も、同じように幸せそうに笑ってるの。雅臣には、理子ちゃんだけなのよ。他の誰も、変わりにはなれないの」
美鈴は暫く写真を凝視した後、静かにアルバムを閉じると立ちあがった。
「私…、これで失礼します」
小さい声でそう言うと、バッグを持って走るように玄関へと向かった。それを追おうとした理子を制して、博子が後を追った。
美鈴は玄関で靴を履くと、一端周囲を眺め、博子と目が合うと軽くお辞儀をし、「失礼しました」と言って外へ出たのだった。
その様子を見つめて、博子はホッとした。
だが、彼女はわかってくれたのだろうか?
写真を見てショックを受けたのはわかった。居たたまれなくなったのだろう。だが、彼女の今後が気になる。このまま黙って引き下がってくれるのだろうか。
リビングへ戻ると、理子がカップを片づけているところだった。博子は慌てて駆け寄る。
「私がやるから、あなたは座ってて」
「でも…」
「いいから。あまり物を持たない方がいいわ。お腹に負担がかかるでしょ?」
「すみません。じゃぁお願いします」
理子はそう言ってソファに座った。少し硬い表情をしている。対峙している時は冷静で堂々としていたが、矢張り気が張っていたのだろう。本当は不安で一杯だったに違いない。
その晩、食事が終わった後に、博子は美鈴が訊ねて来た事を雅臣に話した。雅臣はそれを聞いて驚愕した。
「あなた、本当に浅墓な事をしたわね。気持ちはわからないでもないけど、相手が悪かったわ」
母の言葉に、雅臣は唇が震えているのを感じた。
まさか自分の留守中にここへやってくるとは思いもしなかった。
愛人にしてくれだと?理子から美鈴の部屋へ通うように説得しろだと?
非常識にも程が有る。
普段は大人しいのに、こんな大胆な行動に出るとは。
「もし本当に、彼女と浮気していたとしたら、家庭崩壊ね。ああいう子とは不倫もできないわね」
母のその言葉に、雅臣は理子を見た。理子は優しい微笑みを浮かべていた。
「理子、ごめん。俺のせいで、君に嫌な思いをさせてしまった」
理子は首を振る。
「仕方のない事です。美鈴さんがおっしゃったように、私がしっかり先生を捉まえておかなかったのが悪かったんですから。ずっと逃げて放っておいたから…」
「それは違う」
雅臣は強い口調で否定した。
「俺の弱さのせいだ。君のせいじゃない。君への愛は変わらなかったのに、他の楽な女を求めてしまった。俺が悪かったんだ」
「まぁまぁ、そうお互いに自分を責めても仕方ないでしょ。もう済んだ事よ。それよりも、これからどうするかじゃないの?」
博子の言葉は尤もだ。
だが一体、どうしたら良いのだろう。
「俺はちゃんと、自分の気持ちを彼女に伝えた。誤解を与えてしまった事も詫びた。他にどうしたらいいのかわからないよ」
一体、どうしたら彼女は納得してくれるのだろうか?
今まで女の方から見限られていただけに、こんな経験は初めてだ。
考えてみると、自分から別れを告げたのは望だけだが、そう言えば望も暫くはゴネていたし、結婚式の二次会の時にも文句を言われた。
等しく女に冷たい男なのに、その男の方から呼び出されて激しく抱かれていたのだから、望からすれば嬉しい事だったに違いない。
そこに愛が無いことは分かっていても、他の女達とは扱いが違った。だからそこに期待が生じていたのかもしれない。それがいきなり、別れを告げられたのだから納得できないだろう。しかも、雅臣の方から別れを言いだす事自体も初めてだったのだから尚更だ。
それでも望は愛されていない事はわかっていたし、雅臣がどんな男かも知っていたから、不承不承ながらも承知した。
冷たく拒否する雅臣にしつこくしても、嫌われるだけだと分かっていたからだ。
だが美鈴は違う。そういう雅臣を知らない。
最初の頃は、雅臣も冷たく接していた。
偶然、王朝展で会って食事をし、それがきっかけで研修会の後も親しく話すようになった。
展覧会などがあると、美鈴の方から誘って来て、それに付き合い、食事もした。
だが、それ以上の関係では無かった筈だ。
彼女の笑顔に癒されたのは確かだし、惹かれる部分もあった。だが、異性として好意を寄せたわけでもなければ、そういう態度を示した事も無い。
それにも
しかも、流れとは言え、彼女を抱こうとした。そんな事をすれば、相手も自分に好意を持っていると思っても不思議ではない。
悔やんでも悔やみきれない。
幾ら自分を見失っていたとは言え、そこまでしてしまった自分が情けない。
「先生、ここは取り敢えず、暫く様子を見るしか無いんじゃないですか?」
理子は落ち着いていた。
「美鈴さんを可哀想に思うんですけど、結局は美鈴さんの心の問題だと思うんです。諦めきれない。結局はそれですから。あの人がいくら先生を求めたところで、先生の気持ちが変わるわけじゃないんだし、そしたらやっぱり最終的には諦めるしかないじゃないですか。時間はかかるかもしれないけど、最後にはそこへ落ち着く事になると思いますよ」
「理子…」
どうしてそんなに、落ち着いていられるのだろうか。
「人の気持ちはどうにもならないです。私達がどんなに美鈴さんに同情して申し訳ないと思っても、彼女の願いを叶えてあげようと思っても、私の先生への気持ちも、先生の私への気持ちも変えられない。そして美鈴さん自身の気持ちも、他人には変えられない。そうしたら、本人自身が自分の中で決着をつけるしかないんです」
「君の言う通りだが、彼女に通じるかな」
「通じるとかの問題じゃなくて、いつかはあの人自身で気付く事だと思います。私達はそれを待つことしか出来ないんじゃないかな」
理子の言葉に、「そうねぇ」と博子が言った。
結局、周囲の人間は何も出来ない。
雅臣は、理子の言葉に心が少し軽くなった気がした。
女に冷たい雅臣だが、美鈴の事に関しては多少なりとも罪悪感があったのだった。
取り敢えず、この話しは終わりにして雅臣は風呂に入った。
「理子ちゃん。今日は大変だったわね」
博子は改めて理子に言った。
「いえ。おかあさんが居てくれて本当に良かったです」
「そうね。私もそう思うわ。だけどあなた、案外落ち着いてたじゃないの。驚いたわよ?」
「そうですか?」
理子は小首を傾げた。
「あら。自覚ないの?」
「はい」
真面目な顔で頷いている。
「それよりおかあさん。美鈴さんにアルバムを見せて、残酷じゃ無かったですか?」
「残酷?」
博子はそんな風には思っていなかった。あなたと理子は違うんだ。雅臣にとっては理子しかいないんだ、と言う事をハッキリ分からせた方が良いと思っただけだ。
「あんなに悲しい事は無いと思うんです。あんな風に見せつけられたら…」
理子は目を伏せた。悲しそうな顔をしている。
「でも理子ちゃん。ああまでしなかったら、あの人はいつまでも分からないままだったと思うわよ。マーは、一般的な男とはちょっと違うでしょ?あの人にはそれが分からないから、いつまでも一縷の望みを捨てきれないでいた。そして、ああしなかったら、それがこの先もずっと続く事になる。その方が悲しくないかしら?」
「そうですね。でも、あの人はきっと、立ち直るまでに長い時間がかかるような気がします…」
呟くように言う理子の肩を博子は抱いた。
「あなたがあの人の心配をする事は無いのよ。彼女も大人なんだから」
博子の腕の中で理子はコクリと頷いた。