第102話
文字数 3,578文字
第14章 母と娘
「理子ちゃん、どう?体の方は?」
蒔田家に到着して顔を合わせた博子の第一声だった。
「大丈夫です。姿勢によって傷口が少し痛かったりしますけど、体調は悪く無いです」
理子は笑顔でそう答えた。
「ごめんなさいね。大変な時に病院へ行けなくて」
博子は申し訳なさそうな顔をした。
理子が病院へ運ばれる少し前から、博子は京都へ行っていた。大がかりなお茶のイベントが有ったからで、ちょうど理子の退院日である昨日、帰宅したのだった。
「いえ、気になさらないで下さい。お仕事だったんだし、私は別に命に関わるような事でも無かったんですから」
そう言う理子を、博子は優しく抱きしめて来た。
「本当に、ごめんなさいね。随分、痩せてしまったわね。あなたをずっと一人ぼっちにさせてしまって、申し訳無かったわ」
理子は博子の腕の中で首を振った。
そんな理子の髪を博子は優しく撫でた。
理子は込み上げて来るものを感じた。優しい温もりに優しい声。優しい言葉…。
「二人とも、取り敢えず中へ入ろうよ」
雅臣が二人に声をかけた。確かに、玄関先である。
「そうね。中へ入りましょう」
博子は少し涙ぐんでいた。そんな博子を見て理子の胸は熱くなる。
三人は食堂へ入った。雅人と紫が食卓の準備をしていた。
「いらっしゃい。どう?調子の方は」
紫が明るくそう言った。
「大丈夫です」と理子も明るく答えた。
雅臣の部屋で目を覚ました後、理子は雅臣から夕飯は実家で食べないかと言われた。理子が眠っている間に電話があったらしい。
退院したばかりで本調子じゃないだろうし、退院祝いもしたいから、との事だった。
「じゃぁ、乾杯しましょうか」
「退院おめでとう!」
義父雅人の掛け声の後、皆で乾杯した。
食卓の上には、色とりどりの御馳走が並んでいる。
「すごい、美味しそう」
理子は目を輝かせた。
「何だか、作り過ぎちゃったんだけど、良かったかしら?」
博子が心配そうに理子の方を見た。そんな博子に雅臣が「大丈夫だよ」と答えた。
「入院中に大食漢になったんだよな?理子」
冷やかすような笑みを浮かべて言う。
「酷いですね、いつもいつも。でも、大丈夫です。食べれますから」
理子は横目で雅臣を睨みながら、博子にはにこやかに言った。
「どうやら、いつもの二人に戻ったようね」
二人の様子を見て、紫が言った。深い優しさを湛えた表情をしていた。
理子はそんな紫に、照れくさそうな笑みを浮かべ、雅臣の心は喜びに満ちていく。
楽しい食事の時間だった。
理子一人が加わっただけで、蒔田家の食卓は随分と明るくなる。
理子と言う人間は不思議だ。
恥ずかしがり屋で遠慮深いのに、何故か蒔田の家族達と自然と馴染んでいる。最初からこうだった。図々しさは微塵も感じられない。自然と馴染み、自然と和む。
雅臣が何の抵抗も無く、自然と理子を受け入れていたように、蒔田の人間達も初対面の時から自然と彼女を受け入れていた。
「実はね、理子ちゃん」
食事も終わりを迎えようかと言う頃に、博子が言った。
「今夜からお宅に暫く泊めて貰おうかと思ってるんだけど…」
とても済まなそうに言う博子に、理子は驚いた。
「えっ?あの…」
どう答えたら良いのか戸惑っていたら、博子が言葉を続けた。
「お父さんとね。喧嘩しちゃったの。娘が入院しているって言うのに、何故すぐに戻って来なかったのかって」
博子の言葉に理子は驚いて雅人の方を見た。雅人は優しい笑みを浮かべている。
「お父さんの言う事も尤もなんだけど、でも私も立場上、どうしても帰る事ができなくて…。本当にごめんなさいね」
博子は涙ぐんだ。
「そんな。お義母さんは全然悪くありません。ただの盲腸だったんですから、責任ある大事な仕事を放り出して来る必要なんて全く無かったんですから」
理子は涙ぐむ博子を見て、慌てた。
「ありがとう。でも、みんな仕事で、あなたの世話をする人間が誰もいなかったでしょう。あなたも昼間は寂しい思いをしたんじゃなくて?」
「そんなの。小さい子供じゃないんですから大丈夫でしたよ。お義姉さんだって来てくれましたし」
博子の様子に、理子はどうしたら良いのかわからなくなった。
「でもね。お父さんに、出てけって言われちゃったの」
博子の言葉にギョっとした。
「なんで、そんな事を」
理子は雅人を再び見た。先ほどと同じように優しい顔をしている。その雅人が理子の視線を受けて言った。
「私はね。気持ちの問題を言ってるんだよ。雅臣が君にした仕打ちを思うと、申し訳無い気持ちで一杯になる。雅臣のせいで、君はしなくてもいい手術をする事になってしまったんだ。そう思うと、何があっても駆けつけて、世話をしてやるのが当たり前だ」
「お義父さん…。そんな事をおっしゃらないで下さい。先生は何も悪くないんです。先生を拒んで、先生に寂しい思いをさせてしまったのは私だし、手術する事になったのも私自身のせいで、他の誰のせいでも無いんですから」
明るかった食卓が、俄かに沈んだ雰囲気になってきた。それぞれの思いが交差しあっている。そんな場の雰囲気を感じて、理子は急に悲しくなってきた。いつも明るく優しい家族が、自分のせいでこんな風になるのが居たたまれない。
雅臣は、そんな理子の心の変化を敏感に感じ取った。そして、このままではまずいと思った。
「理子。父さんと母さんはさ。結局のところ、君の役に立ちたいが為に、こんな事を言ってるんだよ。喧嘩したように装ってるだけなんだ。そう言わないと、君が遠慮すると思ったんだろうね」
「えっ?」
理子は不思議そうに雅臣を見た。
「あの…、どういう事ですか?」
理解できないでいる理子に優しく微笑みかけた後、雅臣は両親に向かって言った。
「二人とも、やり過ぎ。二人の様子に、理子が自分に責任を感じて、居たたまれない気持ちになっちゃってるじゃないか」
雅臣の言葉に、両親は互いに顔を見合わせた。
雅臣は理子の方に向き直って言った。
「実は母さんが、君が本調子になるまで、暫くの間うちへ手伝いに来たいって言うんだ。泊まりがけでね」
理子が眠っている間に、実家から電話があった。夕食の誘いだったが、その他に、母の博子が暫く泊まり込みで家事の手伝いをしたいと言って来たのだった。
たかが盲腸だし、若いから治りも早いだろう。だから最初は雅臣も断った。だが、母は執拗だった。
「専業主婦ならともかく、理子ちゃんも明日から大学へ行くんでしょう?元々、学業と家事の両立は大変だったのに、病み上がりだもの。無理して治りが遅くなっても困るし。第一、随分と痩せちゃって基礎体力だって落ちてるでしょうから、疲れやすくなっている筈よ」
「でも、お義母さん…」
「遠慮しなくていいのよ。元々、最初からお手伝いに行きたかったのよ。でもマーが、二人の新婚生活を邪魔されたくないって言って嫌がったものだから遠慮してたの。だけど今回は事情が違うでしょう?それとも、やっぱり姑なんかに出しゃばって来られたくない?」
理子は思いきり首を振った。
「先生…」
理子は戸惑いの表情を浮かべて雅臣の方を見た。そんな理子にそっと微笑むと、「今回は甘えたらいいんじゃないのかな」と言った。
「俺も、正直なところ、母さんの申し出に助かったと思ったんだ。盲腸とは言ったって、君は色々あって心身ともに疲れてる。そこへ持って来ての手術だったんだ。順調に回復に向かっているとは言え、明日から大学と家事に追われるのはシンドイと思う。俺も、少しでも君の負担を減らしてやりたい。大学の勉強の方だって遅れてるだろうから、取り戻さなきゃならないしな」
理子の胸は熱くなった。
良いのだろうか。素直に受け入れても。
「そうやって理子が遠慮するのが目に見えてるから、二人して喧嘩を装って、理子が受け入れざるを得ないような芝居を打ったのよ」
紫が笑いながら言った。
「じゃぁ、お義父さんは『出て行け』とおっしゃってないんですか?」
理子がみんなの様子を窺うように言うと、他の四人は明るく笑って頷いた。
そうなのか。
なんだか、自分ひとりが馬鹿をみたような気がしてきた。
だがその一方で、家族の思いやりに感謝せずにいられない。感謝せずにはいられないが、その好意を素直に受け入れる事に戸惑いがある。
自分の親ですら与えてくれなかったのに、他人からこんなに親切にされる事が信じられない。勿論、雅臣の家族を疑っている訳ではない。疑っている訳ではないのだが、血の繋がらない嫁の自分に、この人達はどうしてこんなに優しく親切なのだろうと思わずにはいられない。
「もうね。荷物は用意してあるのよ。だから、今すぐにでも、一緒に出れるわよ」
博子の言葉に理子は目を見張った。それから笑うと、「やっぱり先生のお母さんですね。強引だわ」と言った。
「理子ちゃん、どう?体の方は?」
蒔田家に到着して顔を合わせた博子の第一声だった。
「大丈夫です。姿勢によって傷口が少し痛かったりしますけど、体調は悪く無いです」
理子は笑顔でそう答えた。
「ごめんなさいね。大変な時に病院へ行けなくて」
博子は申し訳なさそうな顔をした。
理子が病院へ運ばれる少し前から、博子は京都へ行っていた。大がかりなお茶のイベントが有ったからで、ちょうど理子の退院日である昨日、帰宅したのだった。
「いえ、気になさらないで下さい。お仕事だったんだし、私は別に命に関わるような事でも無かったんですから」
そう言う理子を、博子は優しく抱きしめて来た。
「本当に、ごめんなさいね。随分、痩せてしまったわね。あなたをずっと一人ぼっちにさせてしまって、申し訳無かったわ」
理子は博子の腕の中で首を振った。
そんな理子の髪を博子は優しく撫でた。
理子は込み上げて来るものを感じた。優しい温もりに優しい声。優しい言葉…。
「二人とも、取り敢えず中へ入ろうよ」
雅臣が二人に声をかけた。確かに、玄関先である。
「そうね。中へ入りましょう」
博子は少し涙ぐんでいた。そんな博子を見て理子の胸は熱くなる。
三人は食堂へ入った。雅人と紫が食卓の準備をしていた。
「いらっしゃい。どう?調子の方は」
紫が明るくそう言った。
「大丈夫です」と理子も明るく答えた。
雅臣の部屋で目を覚ました後、理子は雅臣から夕飯は実家で食べないかと言われた。理子が眠っている間に電話があったらしい。
退院したばかりで本調子じゃないだろうし、退院祝いもしたいから、との事だった。
「じゃぁ、乾杯しましょうか」
「退院おめでとう!」
義父雅人の掛け声の後、皆で乾杯した。
食卓の上には、色とりどりの御馳走が並んでいる。
「すごい、美味しそう」
理子は目を輝かせた。
「何だか、作り過ぎちゃったんだけど、良かったかしら?」
博子が心配そうに理子の方を見た。そんな博子に雅臣が「大丈夫だよ」と答えた。
「入院中に大食漢になったんだよな?理子」
冷やかすような笑みを浮かべて言う。
「酷いですね、いつもいつも。でも、大丈夫です。食べれますから」
理子は横目で雅臣を睨みながら、博子にはにこやかに言った。
「どうやら、いつもの二人に戻ったようね」
二人の様子を見て、紫が言った。深い優しさを湛えた表情をしていた。
理子はそんな紫に、照れくさそうな笑みを浮かべ、雅臣の心は喜びに満ちていく。
楽しい食事の時間だった。
理子一人が加わっただけで、蒔田家の食卓は随分と明るくなる。
理子と言う人間は不思議だ。
恥ずかしがり屋で遠慮深いのに、何故か蒔田の家族達と自然と馴染んでいる。最初からこうだった。図々しさは微塵も感じられない。自然と馴染み、自然と和む。
雅臣が何の抵抗も無く、自然と理子を受け入れていたように、蒔田の人間達も初対面の時から自然と彼女を受け入れていた。
「実はね、理子ちゃん」
食事も終わりを迎えようかと言う頃に、博子が言った。
「今夜からお宅に暫く泊めて貰おうかと思ってるんだけど…」
とても済まなそうに言う博子に、理子は驚いた。
「えっ?あの…」
どう答えたら良いのか戸惑っていたら、博子が言葉を続けた。
「お父さんとね。喧嘩しちゃったの。娘が入院しているって言うのに、何故すぐに戻って来なかったのかって」
博子の言葉に理子は驚いて雅人の方を見た。雅人は優しい笑みを浮かべている。
「お父さんの言う事も尤もなんだけど、でも私も立場上、どうしても帰る事ができなくて…。本当にごめんなさいね」
博子は涙ぐんだ。
「そんな。お義母さんは全然悪くありません。ただの盲腸だったんですから、責任ある大事な仕事を放り出して来る必要なんて全く無かったんですから」
理子は涙ぐむ博子を見て、慌てた。
「ありがとう。でも、みんな仕事で、あなたの世話をする人間が誰もいなかったでしょう。あなたも昼間は寂しい思いをしたんじゃなくて?」
「そんなの。小さい子供じゃないんですから大丈夫でしたよ。お義姉さんだって来てくれましたし」
博子の様子に、理子はどうしたら良いのかわからなくなった。
「でもね。お父さんに、出てけって言われちゃったの」
博子の言葉にギョっとした。
「なんで、そんな事を」
理子は雅人を再び見た。先ほどと同じように優しい顔をしている。その雅人が理子の視線を受けて言った。
「私はね。気持ちの問題を言ってるんだよ。雅臣が君にした仕打ちを思うと、申し訳無い気持ちで一杯になる。雅臣のせいで、君はしなくてもいい手術をする事になってしまったんだ。そう思うと、何があっても駆けつけて、世話をしてやるのが当たり前だ」
「お義父さん…。そんな事をおっしゃらないで下さい。先生は何も悪くないんです。先生を拒んで、先生に寂しい思いをさせてしまったのは私だし、手術する事になったのも私自身のせいで、他の誰のせいでも無いんですから」
明るかった食卓が、俄かに沈んだ雰囲気になってきた。それぞれの思いが交差しあっている。そんな場の雰囲気を感じて、理子は急に悲しくなってきた。いつも明るく優しい家族が、自分のせいでこんな風になるのが居たたまれない。
雅臣は、そんな理子の心の変化を敏感に感じ取った。そして、このままではまずいと思った。
「理子。父さんと母さんはさ。結局のところ、君の役に立ちたいが為に、こんな事を言ってるんだよ。喧嘩したように装ってるだけなんだ。そう言わないと、君が遠慮すると思ったんだろうね」
「えっ?」
理子は不思議そうに雅臣を見た。
「あの…、どういう事ですか?」
理解できないでいる理子に優しく微笑みかけた後、雅臣は両親に向かって言った。
「二人とも、やり過ぎ。二人の様子に、理子が自分に責任を感じて、居たたまれない気持ちになっちゃってるじゃないか」
雅臣の言葉に、両親は互いに顔を見合わせた。
雅臣は理子の方に向き直って言った。
「実は母さんが、君が本調子になるまで、暫くの間うちへ手伝いに来たいって言うんだ。泊まりがけでね」
理子が眠っている間に、実家から電話があった。夕食の誘いだったが、その他に、母の博子が暫く泊まり込みで家事の手伝いをしたいと言って来たのだった。
たかが盲腸だし、若いから治りも早いだろう。だから最初は雅臣も断った。だが、母は執拗だった。
「専業主婦ならともかく、理子ちゃんも明日から大学へ行くんでしょう?元々、学業と家事の両立は大変だったのに、病み上がりだもの。無理して治りが遅くなっても困るし。第一、随分と痩せちゃって基礎体力だって落ちてるでしょうから、疲れやすくなっている筈よ」
「でも、お義母さん…」
「遠慮しなくていいのよ。元々、最初からお手伝いに行きたかったのよ。でもマーが、二人の新婚生活を邪魔されたくないって言って嫌がったものだから遠慮してたの。だけど今回は事情が違うでしょう?それとも、やっぱり姑なんかに出しゃばって来られたくない?」
理子は思いきり首を振った。
「先生…」
理子は戸惑いの表情を浮かべて雅臣の方を見た。そんな理子にそっと微笑むと、「今回は甘えたらいいんじゃないのかな」と言った。
「俺も、正直なところ、母さんの申し出に助かったと思ったんだ。盲腸とは言ったって、君は色々あって心身ともに疲れてる。そこへ持って来ての手術だったんだ。順調に回復に向かっているとは言え、明日から大学と家事に追われるのはシンドイと思う。俺も、少しでも君の負担を減らしてやりたい。大学の勉強の方だって遅れてるだろうから、取り戻さなきゃならないしな」
理子の胸は熱くなった。
良いのだろうか。素直に受け入れても。
「そうやって理子が遠慮するのが目に見えてるから、二人して喧嘩を装って、理子が受け入れざるを得ないような芝居を打ったのよ」
紫が笑いながら言った。
「じゃぁ、お義父さんは『出て行け』とおっしゃってないんですか?」
理子がみんなの様子を窺うように言うと、他の四人は明るく笑って頷いた。
そうなのか。
なんだか、自分ひとりが馬鹿をみたような気がしてきた。
だがその一方で、家族の思いやりに感謝せずにいられない。感謝せずにはいられないが、その好意を素直に受け入れる事に戸惑いがある。
自分の親ですら与えてくれなかったのに、他人からこんなに親切にされる事が信じられない。勿論、雅臣の家族を疑っている訳ではない。疑っている訳ではないのだが、血の繋がらない嫁の自分に、この人達はどうしてこんなに優しく親切なのだろうと思わずにはいられない。
「もうね。荷物は用意してあるのよ。だから、今すぐにでも、一緒に出れるわよ」
博子の言葉に理子は目を見張った。それから笑うと、「やっぱり先生のお母さんですね。強引だわ」と言った。