第163話
文字数 3,843文字
二月に入ってすぐに冬期の試験が始まった。
夏期の試験よりも難しいと感じたが、事前に雅臣から色々と受けたアドバイスがとても役立った。
自分のような者が東大に合格し、そこで何とか頑張れているのも、すべて雅臣のお陰だとつくづく思うのだった。
雅臣と出会う前の自分と出会ってからの自分を考える。
もうすぐ出会ってから三年になる。
振り返れば、怒涛のような日々だった。
中学へ入る前までは、引っ込み思案で臆病者だった。
中学へ入って世界が広がり、新しい出会いによって変化した。枝本との出会いと別れは、ひとつの切っ掛けだったと思う。の後も何度かの出会いと別れを繰り返し、高校生になった。
中学時代の僅か三年の間に、自分は大きく変わったと思う。それでも、根底の部分でどうしても変化できないものを自覚していた。
そして、世界が広がれば広がるほど、拘束されている自分が辛くなった。もっと色んな事を経験したい。その思いは強くなる一方なのに、もがけばもがくほど、自分を縛り付ける縄の締め付けがきつくなってゆくように感じるのだった。
何度も友人や仲間達からの誘いを断り、事情を説明し、その度に「過保護な親」だと批判的に言われる。
普段から、自分の心の内で親を批判していながらも、他人から批判されると何故か傷つく。
ポーカーフェイスになったのは、いつ頃からか。
いじめを受けた頃に心を閉ざすようになり、周囲のクラスメート達から大人しくて消極的と言うレッテルを貼られて、それを逸脱するような行為や表情をすると冷やかされ、それならそれで、そういう自分でいようと感情を表に出さないようになった。
自分を守る為に、静かに周囲を窺うようになった。
そうして、ポーカーフェイスがいつの間にか板に付くようになったのだった。
おまけに自分の視覚視野がどうやら人よりも広いと悟ってからは、自分のポーカーフェイスの上手さを嬉しく思うようになった。
音楽が好きで、ロックが好きだった事もあり、英語の学習に力を入れた。
将来、プロモーターになって、海外のミュージシャンを沢山日本に呼びたい、と高校に入学する頃に思っていた。そんな時に、アメリカの姉妹高への留学の話しが持ちあがった。高校一年の時だった。
自分の将来も踏まえて、是非行きたい。行って向こうの文化や息吹に直接触れて、生きた英語を身につけたい。
そう思って応募したのに、母の猛反対にあい、潰された。
英語で身を立てると言う将来に対しては賛成している母ではあったが、女の子を治安の悪いアメリカへ行かせるなんて、とんでもないと烈火の如く叱られた。
そんな親の猛反対を押し切ってまで、飛び出す勇気が無かった。臆病者の性質だけは変わらない。
そして、それを機に英語への情熱も薄れてしまった。前ほど勉強に身が入らなくなった。
それに中学の時よりも、理数がとても難しいと感じた。最初はそれなりに頑張ったが、思わしい結果が出ない。そうして、自分が好きで得意な国語や社会の勉強と読書に多くの時間を費やすようになったのだった。
母は経済的な理由と、親としての見栄で国立進学以外は認めないと言う。
だが、長年の付き合いで、親の思惑は分かっていた。口ではそう言っても、最終的に私立しか入れないようなら、行かすに違いない。
母のプライドからすると、浪人はさせないだろう。そうなったら現役で入れる私立しかない。教育家の母が娘に高卒で就職させるなんて有り得ない。
そんな時に、雅臣と出会ったのだった。
こんな未来が待っていようとは、夢にも思わなかった。
そもそも、こんな自分が先生から愛されるようになるとも思っていなかった。
先生は何故、私を好きになってくれたんだろう?
その思いは未だに理子の中に疑問として残ったままだ。
ただ、何の理屈も無く互いに惹かれあったと言う事は事実だと思う。
そして、怖くて見せられなかった理子の中にあるものを、次々に取り出しては理解し受け入れ、癒してくれた。
それでも理子は怖かった。
変化が急激だったからだ。
長い時間をかけて溜めこんでいたものを、一挙に吐き出させられるのは辛い。
しかも相手は愛する人だ。愛する人だからこそ、見せたくない部分もある。
もっとゆっくりと時間をかけて、少しずつの変化であったなら、受けた痛みも少なくて済んだかもしれない。
だが、こうして振り返ってみると、一挙にここまで来れて良かったと思うのだった。
がむしゃらに突き進み、走り続け、途中で何度も走るのを止めたいと思いつつも、ここまで頑張って来れた自分を今は誇らしく思う。
今、試験を受けながら、その手応えを嬉しく感じるのだった。
*****
「試験のできは、どうだった?」
「うん。まぁまぁかな……」
試験最終日の午後、クラスで打ち上げ会が開かれた。
場所は渋谷のライブハウスである。
去年の十二月に忘年会で使った店だ。ライブハウスは六時からの営業なので、午後からの三時間ほどを貸し切りにしてもらえた。
みんな晴れ晴れとした顔をしている。
「理子は春の歴史ゼミに申し込んだよね?」
志水の問いかけに、理子は頷いた。
「ええー?申し込んだのぉ?」
大きな声を出した愛理に志水が胡散臭そうな目を向ける。
「何でそんなに驚いてるの?当たり前じゃないか」
「だって…。理子、大丈夫なの?」
「うん。心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫だから」
二人のやり取りに納得がいかないと言った顔で、志水が口を挟んだ。
「理子の頭の事なら、もう心配いらないよ。この前の検査で太鼓判押されたって事は君も知ってるだろうに」
冬休み明けの検査で、何処にも異常は無く、心配はいらないと医者から言われた。
検査後の問診で、休み明けに学校で起きた事を念のために話したが、精神的なものから来た事で、それも乗り越えたのなら大丈夫だと、医者は自信げに言ったのだった。
それを聞いた時の、志水の表情が理子の心に僅かに引っ掛かる。
志水は、深く息を吐き、大きな重荷を下ろしてホッとしたような安堵の表情を浮かべた後で、僅かに寂しげな笑みを浮かべたのだった。
その笑みを見て、理子の胸に切ない気持が湧いた。
病院を出て渋谷まで来た時、紫が三人で軽く何か食べて行かないかと言ったのだが、志水はそれを断って、一人で先に田園都市線に乗って去って行った。
そんな志水を見送った時の紫の表情も、どこか寂しげで、その事も理子の心に引っかかる。
紫と二人で美味しいスィーツの店に入って、評判のケーキを食べている時に、自分の心に浮かんだ疑問をぶつけてみたが、いつも明快な答えを返してくれる義姉が、何故かこの時は「理子の気のせいよ」と言って、話しをそれで済ませてしまったのだった。
翌日、大学で会った志水は、いつもと変わらぬ彼だった。
矢張り、自分の気のせいだったのか……。
「あたしが心配してるのは、その事じゃないわよ。先生の事よ」
愛理の言葉に、志水は不審そうな顔をした。
そして、愛理が冬休み中にスキーへ一緒に行く事を誘った時に、理子に断られた事情を話し、それを聞いた志水は不審げな顔から呆れ顔に変化したのだった。
「先生としての最後の仕事をそばに居てサポートしてあげたいって、理子言ったじゃない。だから、今度のゼミも行かないものだと思ってたのに」
「そんな、責めるように言わなくても……」
そばで聞いていた美香が言った。
「だって…、あたし達との旅行は行かないのに…」
涙声になっている。
「君、可笑しいんじゃないの?友達と遊びに行くのと、ゼミへの参加とは次元が違うじゃないか。同等に扱って僻むのはお門違いだ」
志水の言う事も尤もだが、言い方があまりにも冷たくて批判的だからか、愛理は泣きだした。
志水は辟易とした表情で溜息を吐いている。美香も呆れた顔をしていた。さすがに泣きだすとは思っていなかったようだ。
理子は愛理の肩にそっと手を乗せた。
「愛理…、ごめんね。本当はね。参加するつもり無かったの。愛理に話したように、先生のそばでサポートしてあげたかったから。でも、先生に反対されちゃって。絶対に行かなきゃ駄目だって」
「そんなの、当たり前だよ。あの人の言うことは正しいよ」
半ば怒ったような顔で言う志水に、理子は「ちょっと黙ってて」と言った。
「先生は今月がとっても忙しくて大変なの。だから、ゼミがもし今月だったとしたら、先生に言われても私、申し込まなかった。でもゼミは三月でしょう?先生もまだ何かと忙しいけど、卒業式の後だから少しは落ち着くから。だから先生の説得に折れたんだ。この間も言ったけど、新年度になったら、絶対に一緒に行くから。だから、ね?泣かないで?いつも笑顔で元気な愛理が好きなのに、泣かれたら困っちゃうよ」
「理子ぉ~、ごめん~」
と言いながら、愛理は更に大声で泣き出して理子に抱きついてきた。自分よりも背の高い愛理を、理子は抱きしめながら背中をさすった。
何か有ったのだろうか。愛理がこんなにも泣くなんて。
「理子…、ほんとにごめんね…。あたしの事、嫌いにならないで?」
泣き声が小さくなってから、鼻を啜りながら愛理が言った。
「何言ってるの。嫌いになんか、なるわけないじゃない」
「だって、志水君の言う通りだもの。ゼミと友達との旅行を同じように思う方が可笑しいのに、それなのにあたしったら……。でも、本当に悲しかったのよ」
愛理は訥々と自分の事を話しだした。