第135話
文字数 4,340文字
美鈴は打たれた頬に手を当てたまま、顔を伏せていた。長い髪が顔に掛って、その表情はわからなかった。
「刑事さん、手を離して下さい!あの子はもっと痛い目に遭ったんですよ?あの子がどれだけ痛い思いをしたか、少しは思い知るといいんだわっ!」
「奥さん駄目です。そんな事をしても、何にもならないでしょう。この人は犯人じゃないわけだし」
その言葉に、博子はキッと刑事を睨みつけた。
「この人が犯人じゃなくても、この人がやらせたんじゃないですか?自分の弟を使って」
志水は博子の言葉は尤もだと思った。志水だって、彼女を理子と同じように打ちつけてやりたい思いに駆られていた。そして、目の前にあの男がいたら、死ぬまで殴っているに違いない。
隣に座っていた雅臣がフラッと立ち上がった。
「神山先生……」
雅臣のその呼びかけに、美鈴が初めて顔を上げた。憔悴しきった顔をしている。縋るような目をして蒼ざめた唇を震わせていた。怯えているように見える。
「君がやらせたのか」
雅臣の声は低く、そして冷めていた。瞳は異様な程冷たい。
雅臣の問いかけに、美鈴は激しく首を振った。
「ごめんなさい、…ごめんなさい……、まさか、弟がこんな事をするなんて」
美鈴の目から涙が落ちた。
「こんな事をしてまで、君は俺が欲しかったのか」
「違います、違います」
「何故、理子にこんな事をした。何故、俺じゃないんだ」
「違います、私は何も……」
美鈴は泣きながら、しきりに首を振っている。
「そうか。俺に復讐するには理子を酷い目に遭わせるのが一番効果的だもんな。俺はどんな目に遭っても平気だが、理子が傷つく事ほど堪える事はない」
雅臣の声は淡々としていた。だが、その声が徐々に震えて来た。
「彼女は、…俺の全てなんだ。理子がいなかったら、俺は生きてはいけない。彼女が死んだら、俺は後を追うだろう。誰も彼女の代わりにはなれないんだ。それなのに、どうしてそれを解ってくれないんだ。何故、こんな事をしたんだ……っ」
声が震え、体も震えていた。そして冷たかった瞳は、底なしの井戸のような、深い闇に変わっていた。
それを見て志水は、胸を錐で揉まれているような痛みを感じた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
美鈴はそう言いながら、床にひれ伏した。
「あ、あたしの、せいです……。あ、遊びに来た弟が、…あたしの様子がおかしいのに気付いて……、それで、先生との事を話したんです。…でもあたし、弟に何も指図なんてしてません。……ふ、復讐なんて、そんな事……。ただ、…ただ、あまりにも悲しかったから……、自分の気持ちが…治まらなかったから…その感情を…弟にぶつけてしまいました。…あの子とは昔から仲が良くて…本当は、優しい子なんです。だから、だから、私の姿を見て……あんな事をしたんだと……。本当に、本当にごめんなさい。すみませんでした」
地べたでひれ伏して泣いて謝る美鈴を、雅臣は感情の無い瞳で見下ろしていた。その姿はあまりにも痛々しい。
冷たい空気が、希望の無い暗く澱んだ空気が、その場を支配しているように志水には感じられた。
一体、これからどうなるのだろうと、漠然と思った時、バタバタと騒がしい足音が聞こえ、「蒔田先生!」と叫びながら走って来る一団の姿が見えた。
理子の家族だった。
「先生!一体、これは、どういう事なんです!」
理子の父、宗次が、雅臣に激しく詰め寄った。
「申し訳ありません」
雅臣は体を二つ折りにして深々と頭を下げた。
「僕のせいで……こんな事に」
母の素子は、泣き腫らした顔を真っ赤にして、雅臣に掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
「どうして、こんな事になるのっ!!なんで理子がこんな目に遭わなきゃいけないの!みんな、みんな、あんたと結婚したからでしょう。だから、あんなに反対したのにっ!さっさと離婚しろって、口を酸っぱくして言ったのにっ!」
雅臣はその場で土下座をした。
どんなに謝っても、許される事じゃない。だが、そうせずにはいられなかった。
「本当に、申し訳ありません……」
「謝って済む事じゃないでしょっ!あんたのせいで……あんたのせいでっ!」
素子はそう言いながら、土下座をしている雅臣の背中を叩きだした。
「母さん、やめなさい!」
宗次が止めに入ったが、素子の力が強く止められない。
そこへ、雅臣の母の博子が入ってきて、雅臣の背中の上に覆いかぶさった。
「やめて下さい。この子を痛めつけないで」
雅臣は自分を庇う母に対し、申し訳なさで胸が一杯になった。それと同時に、庇わないで欲しいとも思った。理子が受けた痛みに比べたら、こんな事は何でも無い。
素子の怒りは尤もだ。自分が彼女だったら同じ事をするだろう。自分の娘がこんな目に遭って、その原因がその夫だったら、許せるわけが無い。どんな責めを受けようと、拒む権利などある筈が無い。
「奥さん、お止めなさい。彼が悪いんじゃない」
丸山刑事がそう言って、素子を止めた。
さすがの素子も、丸山の力には敵わないようだ。だが、丸山を睨みつけると、「あんたは誰なのっ」と叫んだ。
「私は目黒署の丸山と言います。今回の事件の担当です」
刑事の言葉に、素子は驚いて力を抜いた。
「刑事さん、あなたに私達親の気持ちがわかりますか。この男は、教師でありながら、高校生だった娘を誑かして肉体関係まで結んで、卒業と同時に親の反対を押し切って結婚したんです。娘はまだ十代なんですよ?世の中の何も解らないまま、この男を信じて一緒になって。一生守るとか言いながら、散々娘を傷つけて、とうとうこんな事になって。大事な娘をこんな目に遭わされて、黙ってろって言うんですかっ」
素子は涙を流しながら吐き出すようにそう言った。
雅臣に覆いかぶさっていた博子が立ち上がった。
「もう、止めて下さい。もう、雅臣をそれ以上、傷つけないで下さい。今度の事で一番傷ついているのは息子なんです。だから、お願いします」
博子はそう言って、頭を下げた。
そんな彼女に素子は目を剥いた。
「何言ってるの!一番傷ついたのは理子じゃないの。あなたの息子はここに、のうのうとしているじゃないの!息子可愛さに、何て事を言うのっ。折角、東大に入ってこれからだって時に、脳に障害だなんて。娘の一生は台無しよ……」
素子は声を上げて泣き出した。
そんな彼女を、宗次と優子がそっと抱え込む。
二人の顔も悲しみに覆われていた。
「おかあさん……」
雅臣は顔を上げると、素子に呼びかけた。
「おかあさん。本当に申し訳ありません。幾ら詫びても詫びきれないし、許されるとも思っていません。もし……、もし、理子が障害を負うような事になったら、僕は自分の一生をかけて償います」
雅臣の言葉に、宗次が驚いた顔をした。
「償うって君、一体どうやって償うと言うんだ……!」
宗次の頬も涙で濡れていた。
「彼女の状態が少しでも良くなるように、治療に全力を尽くします。看病も、日常の世話も、全て僕がします。一生彼女を助けていきます」
「そ、そんな事……、できるものですかっ。…あなたはいつも口ばっかり…。男には仕事があるのに、……妻の世話なんてできる訳が無い。…そんな事より、今度こそ離婚して下さい。理子の世話は私達がします。あなたは慰謝料の為に、一生働き続ければいい」
素子は泣きながら、そう訴えた。だが、雅臣はその要求を飲む訳にはいかない。
「おかあさん。僕はどんな責めも負います。ですが、理子と離婚する事だけは受け入れられません。僕達は約束したんです。死以外では別れる事は無いって。僕は誰に何と言われようと、彼女の傍を離れるつもりはありません。介護も、誰にも頼みません。仕事は、彼女の傍にいながら出来る仕事にします。もし、金銭的に困るような事になったら、不甲斐ないですが、その時は両親の世話になるつもりです」
雅臣はそう言って、母の顔を見た。その目をみて、博子は優しく微笑み頷いた。
「吉住さん。理子ちゃんはうちの娘でもあるんです。だから、私達は理子ちゃんの為に出来る限りの事をするつもりです。ですからどうか、離婚させるなんておっしゃらないで下さい」
博子は涙を拭いながらそう言った。
だが素子は強面のままだ。
「あなたが自分の息子が可愛いのと同じように、私達だって娘が可愛いんです。あなたの息子と結婚してからと言うもの、娘がどれだけ傷ついてきたのか、わかって言ってるんですか?相手はまだ未熟な子供なのに、大人であり、教師でもあるあなたの息子がしてきた事を考えたら、そんな事は言えないでしょう。大体、親なら早すぎる結婚を止めるのが普通でしょうに」
そう責める素子に、博子は動じる風でもなく答えた。
「二人は深く愛し合っています。それが、単に若さから来る一時的なものでない事を私達は確信したからこそ、許しました。確かに結婚してから二人の間には色々ありましたが、その度に二人で乗り越えてきたんです。理子ちゃんは私に言いました。『先生のそばにいる事が一番の幸せだ』って。私にとっては理子ちゃんは他人ですが、血は繋がっていなくても本当の娘のように可愛く思ってるんです。だから、あの子の幸せが雅臣のそばにいる事であるなら、そばにいさせてやりたいんです。そばにいさせてやって下さい」
「た、他人のあなたに、そんな事を言われたくないっ。その時はそう言っていたとしても、今はどうなのかしら。あなたの息子のせいでこんな目に遭って、懲りてるかもしれない。恨んでるかもしれないじゃないですか」
向きあう二人の間に、丸山刑事が割って入った。
「まぁまぁ、皆さん。もう少し落ち着いたらどうです。お気持ちはよくわかりますが、まだ理子さんが障害を負うと決まったわけじゃないんだ。兎に角、検査が終わるまでは、静かに待ったらどうなんです」
丸山の言葉を誰も聞いてなどいないかのように、其々が其々の感情に押し潰されそうになっていた。
素子は涙を流しながら博子を睨みつけ、博子はそんな素子の視線を真っすぐに受けたまま毅然とした態度を崩さず、宗次と優子は哀しい顔のまま母の肩を抱いていて、雅臣は床に正座したまま虚ろな目で二人の母親を見ていた。
そして、志水は涙に濡れた頬で事の成り行きを茫然と見つめ、美鈴は壁際で床の上に突っ伏していた。
まるで、ドラマのワンシーンが一時停止したかのような、時間がそこで止まってしまったかのような、誰もが全く身動きしないままの状態が暫く続いた後で、それを破るように、唐突にガラガラと大きな音が辺りに響いて誰もがハッとした。
全員が一斉に音のする方へと顔を向けた。
二人の看護師と医者が、ストレッチャーと共にこちらに向かっていた。