第86話
文字数 3,849文字
「神山先生…」
「蒔田先生。お待ちしてました。一緒に来て下さいますよね」
雅臣は躊躇したが、とにかくここで立ち話というわけにもいかないし、美鈴とはちゃんと話し合うべきだろう。
「わかりました」
美鈴は車で来ていた。授業が午前中だけだったので早退したと言う。
「今日は学校を引けた後、病院へ行ってきたんですよ」
車を出して暫くしてから美鈴が言った。
「病院?」
「総合病院です」
総合病院?理子が入院している病院だ。
「どこか悪いの?」
雅臣が不安げに聞いた。
「ええ。心が」
美鈴はそう言うと笑った。
その笑みに、雅臣は何か怖いものを感じた。
車はどうやら彼女のマンションに向かっているようだった。矢張り、そこで話すしかないのか。
その後二人は何も話さず、車の中には重苦しい空気が流れていた。
やがて思った通りに彼女のマンションに着き、雅臣は彼女の部屋へ通された。この間来た時と変わらず、すっきりとした部屋だった。
美鈴は黙ってお茶を淹れ、雅臣の前へ置いてから隣に座った。
「先生。私、理子さんに会ってきたんです」
「えっ?」
総合病院と聞いた時、嫌な予感がしたが。
「電話がかかってきた時、先生は『理子』って呼んでたでしょ?すぐに奥様の名前だとわかりました。タクシーに乗る時には『総合病院へ』っておっしゃってたから、そこに入院しているとすぐにわかりました。病院へ電話をしたら確かにそこに入院してらしたので、今日行ってきたんです」
「なぜ?」
雅臣の声が僅かに震えた。
理子は会ったのか。一体、どう感じ何を思ったんだろう?
「なぜ、って、先生と別れてくれるようにお願いしに行ったんです」
雅臣は驚愕した。
何を言ってるんだ、この女は。
「君は、本気なのか?」
「先生、何を言ってるの?本気に決まってるじゃないですか」
「僕は君に言った筈だ。僕が愛しているのは妻だけだ。君には申し訳ないが、君の気持ちには応えられない」
「蒔田先生、そんな事を言わないで。彼女は、離婚はできないけど不倫はいいって言ったのよ。だから自分の気持ちに嘘をつくことはないわ」
「彼女がそんな事を言うわけがない」
雅臣は冷たく言い放ったが、美鈴はあざ笑う。
「先生、嘘じゃないわよ。不倫に関しては、私達二人の問題だって言い放ったのよ。彼女って冷めてるのね。最近の若い子はドライよね」
そうか。
美鈴の言葉を聞いて、雅臣は理子の言った事がわかった。そして、理子がすっかり自分を取り戻している事を悟った。
「あの子、教え子だったんですってね。本人から聞いて驚きました。蒔田先生が教え子となんて…。先生はきっと、若いあの子に疲れたのよ。大人と子供過ぎるわ」
美鈴の言葉に、雅臣はフッと笑った。
「あいつは、聡明な女だ。君も彼女と話してそう思っただろう?若いなんて関係ない」
雅臣の態度は冷たく、美鈴は納得がいかない。
まるで、二人が親しくなる前の、美鈴の存在なんて眼中に無かった頃のようだ。
どうしてこんなにも冷たい?あんなに優しかったではないか。あんなに美鈴を求めてくれたではないか。
「先生、どうしてそんなに冷たいの?」
今まで、冷たい態度を取っていても笑っていた美鈴だったが、今は泣いていた。
「これが本来の僕なんだ。愛する女にしか興味は無い」
「そんな事言わないで。私は一番じゃなくてもいいです。蒔田先生が疲れた時に、癒されに来てくれるだけでもいい。時々私を可愛がってくれれば、それでいいんです」
美鈴は雅臣に抱きついた。
「君をそんな気持ちに駆りたててしまったのは僕だ。だから僕は君への罪悪感から、君を強く拒否できない。でも、だからと言って君を受け入れる事もできない。できれば君の方から離れて欲しい」
雅臣の言葉に美鈴は頭を振った。
「いやっ!」
美鈴は顔をあげると、雅臣の顔に近づいてきた。
雅臣は美鈴を突き放した。
「先生、お願いです。私を抱けないなら、それでも構いません。抱かなくても、触る事はできるでしょ?キスくらいはできるでしょ?その手で、その舌で、私を喜ばせてくれるだけでいい。先生にそうされるだけで幸せなんです。だから…」
美鈴は懇願する。
ここ数か月の時間、夢のようだった。また、以前のように何事も無いような関係に戻るのは嫌だ。辛すぎる。
「それが駄目なら、ただ会ってくれるだけでもいいです。これまでのように、時々会ってくれれば」
だが雅臣は冷たく突き放した。
「できない。君とはもう会う気はない。君には本当に申し訳なかったと思っている。僕は最初から最後まで、一度も君を愛した事はない。君の優しさに癒されたのは確かだが、それだけなんだ」
その言葉を受けて、美鈴は号泣した。
「酷いわ!そんなに彼女を愛してるなら、何故私の所に?酷過ぎる」
雅臣の顔は苦痛に歪んだ。
そのつもりではなかったが、結果的には弄んだことになる。
「すまない。本当にそれしか言葉が無い」
雅臣はそう言うと、泣いている美鈴を後にして部屋を出た。
雅臣はタクシーに乗り込むと理子に電話した。
既に六時を過ぎている。どうやら一緒に夕飯を取れそうにない。コールサインが二回鳴ったところで繋がった。
「先生?」
曇りのない理子の声を聞いて、胸が熱くなった。
「今、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。どうかしたんですか?」
「ちょっと用事が入って、今からそっちへ向かうところなんだ。悪いが食事は一人で済ませてくれないか?」
「わかりました。じゃぁ、先に食べて待ってますね」
「ああ。じゃぁ、後でな」
早く逢いたい。それしかなかった。
美鈴には本当に悪い事をしたと思っている。だが、深い関係になったわけではない。時々会って食事をしたり展示会へ行っただけだ。
好きだと言ったわけでもないし、そういう素振りを見せた覚えはない。
ただ安心感はあった。だから、ほっとした表情は何度も見せてはいただろう。だが、それだけだ。
美鈴の方が雅臣への思いを強くしただけで、二人で盛り上がったわけではないのだ。
そう。盛り上がったわけではない。
だが、彼女の部屋に入り、彼女を抱こうとした。だから、妙な希望を持たせてしまったのだろう。
これまで、どこまでも女には冷たい雅臣だったから、今度のような事は初めてだった。矢張り身から出た錆としか言いようがない。
車は三十分ほどで病院へ到着した。
急ぎ足で病室へと向かう。
病室に入ると、理子がちょうど食事を終えたところだった。
「あっ、先生」
理子は笑っていた。その笑顔が眩しかった。
「今、食事が終わったところです。惜しかったですねー」
「そうだな」
雅臣は理子の終わった食器を片づけた。
「あっ、すみません。もう自分でできるのに」
「気にしなくていい。立ってるついでだから」
「先生、食事は?」
「急いで来たから、まだなんだ。どうするかな。帰ってから適当に食べるか」
「それなら、いいものがありますよ」
理子はにんまりと笑って、引出しから紙袋を出した。
袋には「米山ベイカリー」とプリントしてあった。
「これは?」
「昼間、お義姉さんがお見舞いに来てくれて、二人で食べろって、これを置いて行ったんです」
「姉貴が?」
「はい。何でも評判のパン屋さんらしいですよ。…あっ、美味しそう」
袋を覗いて、理子が可愛らしく笑った。
「理子、君まだ食べる気か?」
確か、夕食の食器はどれも綺麗に
「いけませんか?お義姉さんは二人でって言ったのにな」
「いや、いけなくはないが、太るぞ」
理子はそれを聞いてむくれ顔で言った。
「だって先生、太れって言ったじゃないですか」
「限度ってものがある。大食漢になっても知らないからな」
「それは大丈夫です。これくらいじゃぁ、大食漢にはまだまだ程遠いですよ。だから先生、コーヒー淹れて一緒に食べましょうよ。私はココアで」
「ココアぁ~?」
雅臣は仰天した。しっかり食事を摂ったのに、ココアを飲むのか。しかもパンを食べながら。
「だって、夜はコーヒーを飲んじゃいけないって言われてるし」
「君、コーヒーはいつもブラックだし、甘い飲物は基本的に苦手じゃなかったか?」
「そうなんですけど、ココアを飲みたくなる時だってありますよ」
理子の言葉に雅臣は呆れた。
「しょうがないヤツだな。でもココアは駄目だ」
「どうしてですか?」
「血糖値が上がり過ぎる。良くないよ。ノンカフェインの麦茶が適当だな」
そう言うと、雅臣は自分にはコーヒーを、理子のカップには麦茶を注いだ。
「ちぇっ」
不服そうに舌打ちした理子を可愛いく思う。
二人でパンをつまむ。パンは全部で五つあった。理子は食事をしたんだから、一つで終わりだろうと思っていたのに二つも食べた。
「ちょっと、食べすぎじゃないかぁ?食べないのも心配だが、食べ過ぎも心配だなぁ」
「よくわからないけど、今日は何故かとってもお腹が空いちゃって、病院の食事だけじゃ物足りなくて」
「珍しく運動でもしたのか?本ばっかり読んでるのが飽きて」
「いいえ。ずっと病室にいました。でも今日は来客続きだったから、それでかな」
理子の「来客」という言葉にビクっとした。
そうだ。昼間、美鈴がここへ来たんだった。
理子がいつもと変わらず明るいので、その事を忘れていた。まさか美鈴が嘘をついたわけではあるまい。
「理子。…今日、来たんだろう?神山美鈴が」
「ええ。来ましたけど、先生はどうしてご存じなんですか?」
理子は平然としている。
「俺の所にも来たんだ。」
「えっ?」
雅臣の言葉に理子が顔を上げた。