第120話

文字数 4,213文字


 校長は雅臣の話しを聞いて、表情を硬くした。
 修学旅行と中間テストが終わって、生徒も教師も一息ついている、そんな時だった。

「申し訳ありません。校長には、何くれとなくお世話になっておきながら」

 謝る事しかできない。

「他にご存じの先生はいらっしゃいますか。例えば諸星先生とか…」

「いえ。まだ誰にも話していませんので」

「そうですか……」

 最初は、諸星に相談しようかと思っていた。自分の気持ちは半ば固まってはいたものの、どこか拭いきれない感情があったからだ。
 だが、理子の父親と話しをした事で、それも無くなり、自分の気持ちは完全に決まった。

「蒔田先生のお気持ちはわかりました。あなたの人生なんだから、あなたの自由です。ただ私の気持ちとしては、残念でたまりません」

 人生は長い。
 色々な事がある。
 子供達も色々だ。毎年毎年、カラーの違う子供たちが入学してくる。だから大変だ。だが、変化がある分、いつも良いとは限らない変わりに、いつまでも悪いとも限らない。

 今年の子供達が教え甲斐が無いからと言って、来年もそうだとは言えない。
 そうやって毎年毎年、色んな子供達を自分は見て来た。今はこの職業に就いて良かったと思っている。

「だから君だって、今は辛くても、いずれ良かったと思える日が必ず来ると私は断言できるんですが、君にも君の考えや思いがあるでしょうからね」

 そう言って優しく微笑む校長を見て、雅臣の胸は痛むのだった。
 この学校に来て、自分に好意を寄せてくれた先生方との人間的な交流を、どんなに有難く思った事か。だからこそ、その事が最後まで雅臣を引き止めていたのだった。

 校長の言葉はよくわかる。わかるから、途中で辞める事に抵抗を感じていた。やり始めた事を途中でやめるのは自分の性分に合わない。
 それでも、雅臣の気持ちは既に決まっている。胸は痛むが、心は揺れない。
 色々な事を考えて、総合的に見て判断した最善の結果だ。

「本当に申し訳ありません。教職に就きながら、研究活動も続けていけると安易に考えていたんです。ただ、ここでは色々な事を勉強させて貰って良かったと思っています。校長先生には大変お世話になりましたし、尊敬していますから、せめて校長が異動されるまでは、と思ったのですが…」

「そうですか。そうおっしゃって貰えると嬉しいですね。ですが、矢張りそれからでは遅いのでしょう。自分自身で進むべき道を見つけられたのなら、それが一番です。あなたの人生ですからね。私は一緒に働けないのが残念ではありますが、応援しますよ」

「ありがとうございます」

 雅臣は深々と頭を下げた。
 いつでも、この校長はわかってくれる。こんなに深い人はいない。そう思うからこそ、頑張ってこれたし、胸が痛むのだった。

「今年の三年生、宜しくお願いしますよ」

「はい。全力投球で頑張らせて貰います」

 全てをやり切って、悔いが残らぬように頑張ろうと、雅臣は固く決意した。


 校長に退職の件を伝えたと聞いて、理子は雅臣がはっきりと方向転換した事を改めて実感した。
 雅臣の決めた事に異論は無いものの、それでも一抹の寂しさは拭えない。

 新任教師として赴任してきてからの日々が思い返される。
 クールで素敵な姿は、今でも目に焼き付いている。
 もう、あの先生はいなくなっちゃうんだ……。
 高校教師で無くなっても、先生は先生なのに、どうしてこんなに寂しく思うのか。

「どうした?」

 もう義母の博子はいない。だから今は二人きりだ。

 博子は理子の傷も痛まなくなり、すっかり体力を取り戻したのを見届けて、蒔田の家へ戻った。博子がいなくなって暫くの間、理子は寂しくて仕方無かった。

 優しい母と共に過ごした日々。
 ずっと、あの人の懐の中にいたいと思った。
 だが、そういうわけにもいかない。

 理子がすっかり元気になったのを見た雅臣が、母に家へ戻るように言ったのだった。理子はできたら、もう少し一緒にいたいと言ったのだが、いつまでも親に甘えているのも良く無いと諭された。

 確かに、まだ若いとは言え、結婚した以上は独立した大人だ。やむを得ない時に頼る事はあっても、不必要に頼るのは良く無いのかもしれない。

 雅臣の問いかけに、理子は力なく微笑んだ。

「もう、先生が先生じゃ無くなっちゃうのか、って思ったら、ちょっとだけ寂しい気がして来ちゃって……」

 雅臣は明るい笑顔になった。

「じゃぁ、先生って呼ぶの、もしかしてやめるのかな?」

「えっ?」

 思いも寄らない雅臣の言葉に、理子は驚いて雅臣の顔を見た。楽しそうに笑っている。

「だって、先生じゃ無くなるんだから、そう呼ぶのも変じゃないの?」

 もしかして、別の呼び方をされたいのだろうか?

「先生…は、もしかして名前とかで呼んで貰いたいんですか?」

「別にそういう訳じゃない。名前とは限らないじゃないか」

 理子は首を傾げる。

「君、もしかして鈍くなった?」

 雅臣の言葉にムッとした。

「酷いこと、言わないで下さい。先生が嫌なら別に止めたっていいですよ。他に呼ばれたい名称があるなら、はっきり言ったらいいじゃないですか」

 赤くなって興奮している理子を見て、雅臣はクククと笑っている。理子はそれが余計に癪にさわった。
 すっくと立ち上がると、スタスタと足早に自分の部屋へ向かった。

「おい、理子、どこへ行くんだ」

 背後から声を掛けられたが、無視してリビングを出た。

「こら、待ちなさい…、待つんだ」

 雅臣が追いかけて来て理子の腕を掴んだが、理子は力を振り絞って振り払うと、自室に入った。
 その理子の後を追って、雅臣がノックをしてから返事を待たずに入って来た。

「理子、何怒ってんだよ」

 理子は自分の机の椅子に座って、雅臣の方に背を向けた。雅臣の口から溜息が洩れるのが聞こえて来た。

「争い事が嫌いな理子さん。それなのに怒りっぽいんだな」

「茶化さないでよ!」

 理子は振り向いて、そう言った。声が大きく口調も強い。雅臣は驚いた顔をした。

「なぁ。何でそんなに怒ってるんだよ」

「あなたの方こそ、鈍くなったんじゃないの?」

 理子は意地悪そうに言った。
 だが、自分の中に冷静な自分がいる。馬鹿な事をしていると批判している自分が。

 雅臣は再び溜息をつくと、理子の部屋の中を見まわした。
 考えてみると、自分はあまりこの部屋へ入る事が無かった。
 結婚前の彼女の部屋と雰囲気がどことなく似ている。
 同じ人間の部屋なんだから当たり前と言えば当たり前だが、家具も、家具の配置も違うのに、雰囲気が似ているのは、どちらも若い女の子らしさが薄いからなのかもしれない。

 前の彼女の部屋には、飛行機のコックピットのポスターが貼ってあったが、この部屋にそれは無い。その代り、友人の岩崎が撮った、渓谷の鉄橋の上を走る鉄道の写真が飾ってある。
 机の上はノートパソコンと写真立てが有るだけだ。
 写真立ての写真は、雅臣だった。一緒に暮らしているのに、机の上に置いてある。それは雅臣も同じだった。雅臣も自分の机の上に、正月に初めて二人で撮った写真を飾ってある。

 理子の表情は固かった。唇が微かに震えているように見える。 雅臣は椅子に座る理子の前に跪き、その手をそっと取った。理子は驚いて戸惑いの表情を浮かべた。

「ごめん。俺が悪かったなら謝る。だから機嫌を直してくれないか」

 優しい目でそう訴えられて、理子は胸が痛くなった。
 優しい言葉と視線が心に突き刺さる。そんな風に優しい目で願い事をされると、突っぱねる事ができない理子だった。

「ごめんなさい…。私にとっては、先生はずっと先生なの…。だから…、なんだか急に寂しくなってきちゃって。先生が先生でなくなるのが…」

「馬鹿だな。俺が教師を辞めたって、俺は俺なのに」

「わかってます。でも…、私…」

「わかった」

 雅臣が力強くそう言ったので、理子は不思議に思って雅臣を見た。変わらず優しい顔をしている。

「俺が悪かったよ。茶化したりなんかして。君の友達が来た時に、話題になったよな。あの時に俺が言った言葉は、今も変わらないよ。俺は君に先生と呼ばれるのが好きなんだ。だから、君がそう呼びたいと思う限り、ずっとそう呼んでくれ」

「いいの?本当に」

「当たり前だろう?この二年半、ずっとそう呼ばれて来て、今更変わるのもな。たださ。たまにはさ。別の呼ばれ方で呼ばれるのもいいかな、と思っただけなんだよ」

「わかりました。じゃぁ、やっぱり、はっきり言わなかった先生が悪かった、と言う事ですね」

「あのさぁ…」

「俺が悪かったって、今さっきおっしゃったじゃないですか」

「そうだけどさ…」

 雅臣の、呆れて戸惑うような表情を見て、理子は可笑しくなった。

「先生が悪いんです。鈍いとか酷い事を言った上に、人を馬鹿にしたように笑うんですもの」

「それで怒ったの?いつも俺に言われてる事なのに」

「そうです。いっつも、いっつも、そうやって私を馬鹿にして面白がって、いい加減、堪忍袋の緒が切れたんです!」

 理子が頬を膨らませると、雅臣は笑った。

「わかった。本当に俺が悪かった。君がさ。あんまり可愛いものだからさ。つい、からかいたくなっちゃうんだよ」

 そう言われて、理子は赤くなる。
 そんな理子の頬に、雅臣の手が伸びて来た。
 そっと触れられて、ドキリとする。
 親指が理子の唇に触れ、なぞり出す。それだけで理子は胸が高鳴り、興奮してくるのを感じた。

「理子…、この態勢、ちょっと辛い。寝室へ行かないか?」

 低くて甘い声で囁かれ、体がカーッと熱くなって来る。だが理子は首を横に振った。

「何故?俺、君が欲しいよ。抱きたい…」

 切なく甘い顔が理子を見つめる。

「だって…、先生には仕事が、私には勉強があるじゃない…」

 平日だから、それぞれに翌日の準備がある。
 理子の場合は、朝、学校へ行く前に多少時間があるからまだいいが、雅臣の場合はそうもいかないだろう。
 理子の言葉を無視するように、雅臣は理子の脇の下に手を入れると、立たせた。

「先生?」

「心配しなくても、俺は大丈夫だから。君だって、同じだろう?」

 そう言って理子の唇を塞いだ。
 雅臣は理子を強く抱きしめてきて、重なる唇も激しい。この性急さに、理子は戸惑った。
 矢張り、先生自身、退職を告げた事で幾らかでも心が乱れているのだろうか。
 そんな風に感じた。
 結局、抱きあげられてベッドへ運ばれ、深く激しく愛されたのだった。

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