第5話
文字数 3,636文字
「諸星先生。味って、どういう意味ですか?なんか味とかするものなんですか?」
理子が諸星に、大真面目な顔で訊ねた。雅臣は、理子のこの態度に驚かずにはいられない。
昼間、川上から個人授業について訊ねられた時にも、雅臣は驚いていた。そういう下心にある問いかけに対し、臆面も無く、相手を真っすぐに見据えて訊ねる理子を理解しがたく思う。
揶揄して訊ねているのか、それとも本当に言葉の真意を知りたくて訊ねているのか。
突っ込んで訊かれた諸星は、少し怯んでいる。
「そ、それはだな。味と言っても食べ物じゃないから、舌で感じる味覚とは違うんだ」
「じゃぁ、どんな味なんですか?どうやって感じるんですか?諸星先生は、どうなの?」
理子の立て続けの質問に、女性陣達は顔を赤らめながらも笑っていた。
男性陣もにやけている。
「どんな味と言われてもな…」
人に『どんな味がした』と訊いておきながら、自分で答えられない諸星だった。
理子は落胆したように大きく溜息をつくと、雅臣の方を振り返って言った。
「先生はどうですか?」
雅臣は絶句した。二の句が継げない。皆も驚愕の目を理子に向けていた。
雅臣は暫く考えてから、言った。
「そんな事を言われても、わからない」
「それって、まずかったって事?」
「馬鹿、そんなわけないだろう」
雅臣の言葉に、理子はにっこり笑った。
諸星は大きなため息をついた。
「はぁ~っ。参った。俺が悪かった」
熊田が呆れたような笑みを浮かべた。
「そうですね。諸星先生が悪かったですよ。あまりに執拗で」
「全くです。本人を前にして訊く事じゃないでしょうに」
斎藤の言葉に、女性陣もそうだ、そうだと同意する。
「そうは言うがな。理子には、どこか手籠めにしたくなるような魅力があるんだよ。だから、そんな女を目の前にして、ずっと我慢してきたのが気の毒だったろうと思ったし、やっと自分のものにして、ど…」
「もう、いい加減にして下さいよ。諸星先生とは言え、これ以上は嫌ですね」
雅臣は、強張ったような笑みを貼り付かせた顔で、諸星の言葉を遮った。
顔は笑っているものの、不愉快そうな空気を纏わせているのが感じられた。
「わかったよ。悪かった」
諸星は反省したように、首を少し下げた。
豪快な学年主任も、すっかり形無しな姿に理子は微笑ましさを感じるのだった。
「それにしても、こんなに際どい、下品な事を言われて、あまり気にしてないように見えるわよね」
柳沢が、不思議そうに理子を見た。
そんな彼女に理子は微笑みを返す。
「私、そういうの割と平気ないんですよね。男友達が多いせいか、中学生の時から猥談には慣れっこなんです。自分は本当は男なんじゃないかと錯覚する時もあるくらいです」
理子の言葉に雅臣が口を挟んできた。
「そんな事は無いですよ。口ではこう言ってますが。耳年増なだけです。」
「き、君は、学校では、少しも変わった素振りが無かったよね」
石坂が、やっとの事で思いを口にした。硬い表情をしている。
「そうですね。学校では努めてそうするようにしてました。それに、そうしないと流されそうだったし。だから、極力、先生を避けてました」
「だから、職員室でも、気にして無いようで気にしてたんだね」
「そうです。どうしても視界に入ってきてしまうので、困りましたね。石坂先生に指摘された時には、ドキっとしました」
「でももう、そんな日々も終わったんだね」
しみじみと、呟くような様子に、諸星が石坂の肩を叩いた。
「君も、いい加減、踏ん切りたまえ。元生徒の奥さんがいるだろう。大事にしてやらなきゃダメだ」
諸星の言葉に、石坂が睨む。
「諸星先生には言われたくないですよ。先生こそ、元生徒の奥さんがいながら、理子くんにちょっかいを出し過ぎでしょう。しかも、いやらしい言動ばかりで」
「だからそれはもう、反省している」
石坂は諸星の言葉を無視するように、理子の方へ顔を向けた。その目は優し気で寂し気でもあった。
「理子君…。君の歌声を聴かせてくれないかな」
「え?歌声?」
思いも寄らない言葉に、理子の目は大きく見開いた。
「おお、そうだ。君の歌はいい。是非、聴かせてくれよ」
諸星も同意し、他の皆が手をたたき出した。
理子は戸惑い、雅臣の方を見ると、彼は笑って頷いた。だが理子は恥ずかしがり屋で、人前で歌うのが苦手だ。文化祭でもかなり緊張して、逃げ出したい程だった。そんな理子の心中の葛藤を誰も知らない。
雅臣さえも。
これまで堂々と顔色一つ変えずに大人達と会話を交わしていた理子が、まさかそんなに恥ずかしがり屋だとは誰も思うまい。
「吉住さん。私が伴奏しましょうか?」
と、横川が言った。
「いっそ、弾き語りをしたらどうだ?俺もずっと聴いてないから聴きたいし」
雅臣がそう言いだして、余計な事を、と理子は内心で舌打ちした。
「弾き語りって?」
柳沢が不思議そうに訊ねた。
「合唱部の練習が終わると、彼女はよく一人で残って音楽準備室でピアノの弾き語りをしてたんですよ。僕はたまたまその現場にかち合ってしまって。それが縁と言うか、二人を近づけた要因の一つなんですが…」
「あら、そうだったんですか。彼女がよく残っているのは知ってましたけど。蒔田先生は隣でブラスバンドの指導をされてますものね。準備室にもよく出入りされてましたし。そういう事だったんですね」
「じゃぁ、音楽準備室で愛を育んでたのか」
「それ程でもありませんよ」
雅臣は苦笑した。
「そうですよ。言うほど、あそこでは会ってませんから。弾き語りの時は偶然です。先生は私が弾き語りを始めた時に入室してきたんですけど、私は気付かなくて。先生は人が悪いから、ドアを半開きにしたまま完全には入らずに、ずーっと、聴いてたんです。そうとは知らずに私は何曲も歌って。そうと知った時には、恥ずかしかったです、凄く」
理子が強い口調で言うと、諸星は笑った。
「歌を聴かれたくらいで、恥ずかしいのかよ、お前が」
「そうだよ。だから、いい機会だし歌ったらどうだ」
雅臣の言葉に、みんなが再び拍手した。
「じゃぁ、一曲だけですよ」
理子は赤面してそう言うと、ピアノの前に座って、「青春の影」の弾き語りを始めた。
澄んだ声が室内に響いた。声楽曲とは全く違う理子の別の魅力に、皆驚いていた。雅臣も久しぶりに聴く理子の歌声に
聴き入るのだった。
澄んで温かい歌声が心に沁みる。
歌い終わり、拍手が湧いた。
「素敵だったわ~」
柳沢の言葉に、皆が頷いた。
「私なんかより、先生の方がずっと歌が上手ですよ」
理子が笑って言ったので、雅臣は理子を睨んだ。
「ほぉ~。それは是非聴いてみたいな」
「いえいえ、人様に聴かせるようなものじゃないですよ」
「そんな、恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。上手なのに」
と、理子が笑う。自分がかつて言われた言葉だ。
そもそも、雅臣が恥ずかしがるなんて、柄じゃない。
理子は雅臣の部屋からギターを持ってきた。渡されて雅臣は閉口する。
「覚えてろよ」と、理子に言うと、仕方なくチューニングを始めた。
女性陣がその姿を見て浮足立った。
考えてみると、理子以外の人前で歌うのは学生時代以来だった。
当時は別段、恥ずかしいとも思わなかったが、職場の人達の前で歌うと言うのは、矢張り緊張するものだと改めて思うのだった。
「先生、『サボテンの花』をやりましょうよ。あの時みたいに」
理子が笑ってそう言った。その顔を見て、雅臣は微笑んで頷いた。
雅臣がカウントを取り、ギターのイントロを始めた。それに理子がピアノを合わせる。雅臣が歌いだした時、女性教師達は溜息を洩らした。
男性陣も驚きの表情だ。普段から低い美声ではあるが、歌うとその声が艶っぽくなり、とても魅力的だ。歌自体も上手い。
理子とのハーモニーも綺麗で、歌い終わった時、大きな拍手が起こったのだった。
「凄いじゃないか、二人とも。いっそ、夫婦デュオでデビューしたらどうだ?」
諸星の言葉に二人は苦笑した。
「蒔田先生は、本当に素敵な歌声ですね。ルックスも素敵だし。スカウトとか、された経験がおありなんじゃありませんか?」
横川が指摘した。
「そうですよー。スカウト、結構されてるんじゃないですか?」
斎藤も言う。
みんなが、それを問うような目で雅臣の事を見た。
「あるには、ありますが…」
雅臣の言葉に、「おおぉ~、やっぱり」と、一同、どよめいた。
「今ここにいるって事は、やっぱり断ったって事なんですよね?」
「そういう事です」
「なんだよ、勿体ないな~」
「音楽は好きですが、騒がれるのは好きじゃないですし、日本史の研究の方がもっと好きなので」
「両方やっても良かったんじゃ?最近は、そういうアーティストも増えてきてますよね」
小松が言った。
「二股かけるのは苦手なんですよ」
雅臣はそう言って笑った。小松はその笑顔に赤面した。学校では滅多に笑わない。笑いかけられたのは、きっと初めてなのだろう。
理子が諸星に、大真面目な顔で訊ねた。雅臣は、理子のこの態度に驚かずにはいられない。
昼間、川上から個人授業について訊ねられた時にも、雅臣は驚いていた。そういう下心にある問いかけに対し、臆面も無く、相手を真っすぐに見据えて訊ねる理子を理解しがたく思う。
揶揄して訊ねているのか、それとも本当に言葉の真意を知りたくて訊ねているのか。
突っ込んで訊かれた諸星は、少し怯んでいる。
「そ、それはだな。味と言っても食べ物じゃないから、舌で感じる味覚とは違うんだ」
「じゃぁ、どんな味なんですか?どうやって感じるんですか?諸星先生は、どうなの?」
理子の立て続けの質問に、女性陣達は顔を赤らめながらも笑っていた。
男性陣もにやけている。
「どんな味と言われてもな…」
人に『どんな味がした』と訊いておきながら、自分で答えられない諸星だった。
理子は落胆したように大きく溜息をつくと、雅臣の方を振り返って言った。
「先生はどうですか?」
雅臣は絶句した。二の句が継げない。皆も驚愕の目を理子に向けていた。
雅臣は暫く考えてから、言った。
「そんな事を言われても、わからない」
「それって、まずかったって事?」
「馬鹿、そんなわけないだろう」
雅臣の言葉に、理子はにっこり笑った。
諸星は大きなため息をついた。
「はぁ~っ。参った。俺が悪かった」
熊田が呆れたような笑みを浮かべた。
「そうですね。諸星先生が悪かったですよ。あまりに執拗で」
「全くです。本人を前にして訊く事じゃないでしょうに」
斎藤の言葉に、女性陣もそうだ、そうだと同意する。
「そうは言うがな。理子には、どこか手籠めにしたくなるような魅力があるんだよ。だから、そんな女を目の前にして、ずっと我慢してきたのが気の毒だったろうと思ったし、やっと自分のものにして、ど…」
「もう、いい加減にして下さいよ。諸星先生とは言え、これ以上は嫌ですね」
雅臣は、強張ったような笑みを貼り付かせた顔で、諸星の言葉を遮った。
顔は笑っているものの、不愉快そうな空気を纏わせているのが感じられた。
「わかったよ。悪かった」
諸星は反省したように、首を少し下げた。
豪快な学年主任も、すっかり形無しな姿に理子は微笑ましさを感じるのだった。
「それにしても、こんなに際どい、下品な事を言われて、あまり気にしてないように見えるわよね」
柳沢が、不思議そうに理子を見た。
そんな彼女に理子は微笑みを返す。
「私、そういうの割と平気ないんですよね。男友達が多いせいか、中学生の時から猥談には慣れっこなんです。自分は本当は男なんじゃないかと錯覚する時もあるくらいです」
理子の言葉に雅臣が口を挟んできた。
「そんな事は無いですよ。口ではこう言ってますが。耳年増なだけです。」
「き、君は、学校では、少しも変わった素振りが無かったよね」
石坂が、やっとの事で思いを口にした。硬い表情をしている。
「そうですね。学校では努めてそうするようにしてました。それに、そうしないと流されそうだったし。だから、極力、先生を避けてました」
「だから、職員室でも、気にして無いようで気にしてたんだね」
「そうです。どうしても視界に入ってきてしまうので、困りましたね。石坂先生に指摘された時には、ドキっとしました」
「でももう、そんな日々も終わったんだね」
しみじみと、呟くような様子に、諸星が石坂の肩を叩いた。
「君も、いい加減、踏ん切りたまえ。元生徒の奥さんがいるだろう。大事にしてやらなきゃダメだ」
諸星の言葉に、石坂が睨む。
「諸星先生には言われたくないですよ。先生こそ、元生徒の奥さんがいながら、理子くんにちょっかいを出し過ぎでしょう。しかも、いやらしい言動ばかりで」
「だからそれはもう、反省している」
石坂は諸星の言葉を無視するように、理子の方へ顔を向けた。その目は優し気で寂し気でもあった。
「理子君…。君の歌声を聴かせてくれないかな」
「え?歌声?」
思いも寄らない言葉に、理子の目は大きく見開いた。
「おお、そうだ。君の歌はいい。是非、聴かせてくれよ」
諸星も同意し、他の皆が手をたたき出した。
理子は戸惑い、雅臣の方を見ると、彼は笑って頷いた。だが理子は恥ずかしがり屋で、人前で歌うのが苦手だ。文化祭でもかなり緊張して、逃げ出したい程だった。そんな理子の心中の葛藤を誰も知らない。
雅臣さえも。
これまで堂々と顔色一つ変えずに大人達と会話を交わしていた理子が、まさかそんなに恥ずかしがり屋だとは誰も思うまい。
「吉住さん。私が伴奏しましょうか?」
と、横川が言った。
「いっそ、弾き語りをしたらどうだ?俺もずっと聴いてないから聴きたいし」
雅臣がそう言いだして、余計な事を、と理子は内心で舌打ちした。
「弾き語りって?」
柳沢が不思議そうに訊ねた。
「合唱部の練習が終わると、彼女はよく一人で残って音楽準備室でピアノの弾き語りをしてたんですよ。僕はたまたまその現場にかち合ってしまって。それが縁と言うか、二人を近づけた要因の一つなんですが…」
「あら、そうだったんですか。彼女がよく残っているのは知ってましたけど。蒔田先生は隣でブラスバンドの指導をされてますものね。準備室にもよく出入りされてましたし。そういう事だったんですね」
「じゃぁ、音楽準備室で愛を育んでたのか」
「それ程でもありませんよ」
雅臣は苦笑した。
「そうですよ。言うほど、あそこでは会ってませんから。弾き語りの時は偶然です。先生は私が弾き語りを始めた時に入室してきたんですけど、私は気付かなくて。先生は人が悪いから、ドアを半開きにしたまま完全には入らずに、ずーっと、聴いてたんです。そうとは知らずに私は何曲も歌って。そうと知った時には、恥ずかしかったです、凄く」
理子が強い口調で言うと、諸星は笑った。
「歌を聴かれたくらいで、恥ずかしいのかよ、お前が」
「そうだよ。だから、いい機会だし歌ったらどうだ」
雅臣の言葉に、みんなが再び拍手した。
「じゃぁ、一曲だけですよ」
理子は赤面してそう言うと、ピアノの前に座って、「青春の影」の弾き語りを始めた。
澄んだ声が室内に響いた。声楽曲とは全く違う理子の別の魅力に、皆驚いていた。雅臣も久しぶりに聴く理子の歌声に
聴き入るのだった。
澄んで温かい歌声が心に沁みる。
歌い終わり、拍手が湧いた。
「素敵だったわ~」
柳沢の言葉に、皆が頷いた。
「私なんかより、先生の方がずっと歌が上手ですよ」
理子が笑って言ったので、雅臣は理子を睨んだ。
「ほぉ~。それは是非聴いてみたいな」
「いえいえ、人様に聴かせるようなものじゃないですよ」
「そんな、恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。上手なのに」
と、理子が笑う。自分がかつて言われた言葉だ。
そもそも、雅臣が恥ずかしがるなんて、柄じゃない。
理子は雅臣の部屋からギターを持ってきた。渡されて雅臣は閉口する。
「覚えてろよ」と、理子に言うと、仕方なくチューニングを始めた。
女性陣がその姿を見て浮足立った。
考えてみると、理子以外の人前で歌うのは学生時代以来だった。
当時は別段、恥ずかしいとも思わなかったが、職場の人達の前で歌うと言うのは、矢張り緊張するものだと改めて思うのだった。
「先生、『サボテンの花』をやりましょうよ。あの時みたいに」
理子が笑ってそう言った。その顔を見て、雅臣は微笑んで頷いた。
雅臣がカウントを取り、ギターのイントロを始めた。それに理子がピアノを合わせる。雅臣が歌いだした時、女性教師達は溜息を洩らした。
男性陣も驚きの表情だ。普段から低い美声ではあるが、歌うとその声が艶っぽくなり、とても魅力的だ。歌自体も上手い。
理子とのハーモニーも綺麗で、歌い終わった時、大きな拍手が起こったのだった。
「凄いじゃないか、二人とも。いっそ、夫婦デュオでデビューしたらどうだ?」
諸星の言葉に二人は苦笑した。
「蒔田先生は、本当に素敵な歌声ですね。ルックスも素敵だし。スカウトとか、された経験がおありなんじゃありませんか?」
横川が指摘した。
「そうですよー。スカウト、結構されてるんじゃないですか?」
斎藤も言う。
みんなが、それを問うような目で雅臣の事を見た。
「あるには、ありますが…」
雅臣の言葉に、「おおぉ~、やっぱり」と、一同、どよめいた。
「今ここにいるって事は、やっぱり断ったって事なんですよね?」
「そういう事です」
「なんだよ、勿体ないな~」
「音楽は好きですが、騒がれるのは好きじゃないですし、日本史の研究の方がもっと好きなので」
「両方やっても良かったんじゃ?最近は、そういうアーティストも増えてきてますよね」
小松が言った。
「二股かけるのは苦手なんですよ」
雅臣はそう言って笑った。小松はその笑顔に赤面した。学校では滅多に笑わない。笑いかけられたのは、きっと初めてなのだろう。